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私釈三国志 95 夷陵開戦

F「では、夏風邪も治ったところで95回を始めようと思う」
A「もーちょっと長いこと引いていれば、こっちの心身も安らいだのに……」
F「アレの娘2匹がナース服で護摩壇焚いておっては、意地でも治らねばならんわ」
A「どーしてアキラを呼ばんとですかっ!?」
F「お前まで看護婦さんになったら火にくべるぞ!? あまりやりたくはないが、こちとら日照りも呼べるンだからな」
Y「いや、外で火あぶりなんかしてたら、雨が降る前に消防車かポリ公が来るから」
F「……『私釈』するか。えーっと、劉備は馮習・張南・馬良らを従え、呉へと兵を進めた」
A「正史では、関興・張苞はいなかったワケか」
F「范彊・張達に関しても『クビ持って逃げた』くらいしか書いてないからねぇ、あの辺は完全にフィクションだよ。ところで……」
Y「逃げるな」
A「だってェ〜っ!?」
F「僕の調子が悪いと思って前回は踏みとどまったくせに、露骨な野郎だねまったく。前回僕が云った『孔明が止めなかった理由』には、ひとつ絶大な問題がある」
Y「何だ?」
F「そんなに荊州がほしいなら、劉備を行かせるだろうか、という絶大な問題だ」
A「………………………………えーっと」
Y「ごもっとも、と云うべきなのかね。確かに、劉備を行かせれば負ける可能性の方が高いからな。戦略とか政略とか以前で、そもそものミスキャストだ。アレは戦場に出るべき男ではない」
F「どうしても勝ちたかったら、劉備は後ろに引っ込んでいるのが筋だと思う。たしか田中芳樹氏の著書での指摘だったと思うが、龐統・法正が死んでから劉備は勝てなくなったンだから。それでなくても負け続きの劉備を出した理由が、僕の意見では説明がつかないンだよ」
A「そこまで云うか、お前ら!?」
Y「連年、敗戦つづきにもかかわらず、そのつど身分が上昇する奇蹟の人劉備玄徳皇叔へ。貴公の短所は、野心と能力の不均衡にあり。それを是正したく思われるなら魏に侵攻されよ。貴公は失敗を教訓として成長する最期の機会を与えられるであろう……」
A「ナニを云ってるかな、何を!?」
F「銀英伝ほとんど暗唱できるンだよ、コイツ。まぁ、田中氏の中国史観はさておき、龐統と云えば孔明に比肩される大軍師で、荊州で龐徳公・水鏡先生にも認められた傑物だった。ところが、劉備への進言の半ばは退けられ、祝宴で慎重論を唱えては遠ざけられ、挙句に別行動して流れ矢に当たるという、持て余されていたようにさえ見える最期を遂げている」
Y「体調が万全だと絶好調だな、お前」
A「羅貫中さぁーん、お願いだから反論する材料をください!」
F「死んでるから。その龐統の後任となった軍師が法正だが、劉璋・曹操と戦って蜀を事実上建国した辺りでこれまた死亡。使いこまれたのか使い捨てられたのか、優秀な男ではあったが、運にだけは恵まれなかったようでな。――ここで、馬良に注目したい」
A「ん?」
F「字を季常。眉毛に白髪が混ざっていたことで白眉の故事の語源にもなった人物だ。劉備が荊州を平定してから配下に招いたンだが、5人兄弟がみな優秀で、字に"常"を共通して使っていたことから『馬氏の五常、白眉いちばん良し』と絶賛されている」
A「……龐統・法正の後任に見こんだ、と?」
F「つーか、孔明の人材育成は基本的にOJTなんだ。問答無用で実戦に投入して、有無を云わさずに経験を積ませる。今回も、孔明や龐統には及ばなくとも徐庶には比肩しうるこの男に、戦場での軍師役をゆだねることで、後々までの布石とするつもりだったのではなかろうか」
A「でも、馬良の功績って内政官としてのものだろ? 軍事的な才能があったのか?」
F「内政官というよりは外交官だな。外交の使者に立てられることが多かったが、軍事的にどうだったのかをはかるために、今回、出したンじゃないかな」
A「戦場に出してみて、素養があるならそのまま使っていこうと思った、と?」
F「黄権が従軍しただろう? この男、地味に益州人では李厳や劉巴に次ぐ人材だった。黄権が軍師の座についてしまったら、荊州そのものを失ったことと相まって、蜀における益州人の発言力が強くなりすぎる。荊州閥をを率いる孔明としては、対抗馬を立てる必要があったワケだ。そうでなくても軍師は必要なんだから、手札でもっとも信頼のおけるカードを切ったンだろうな、と」
A「孔明じゃいかんのか? その軍師の座は」
F「孔明は、後方における行政運営権を得ていたし、張飛の死後は司隷校尉(首都防衛司令)をも兼ねている。それなのに、前線における作戦指揮権をも握ってしまったら、国王に匹敵あるいは凌駕する絶大な権力を有することになるンだ。劉備の考えている人の和とやらは、逆らう奴を追放したり投獄したりするものだというのは前回見た通り」
Y「保身に走ったワケか」
A「コラコラコラコラっ!?」
F「まるでこの意見を証明するかのように、権力欲の権化にしか見えない言動を繰り返していた孔明なのに、『後方における行政運営権』と『前線における作戦指揮権』の両者を握ったのは、劉備の死後のことであった」
Y「さすがにそこまでは云い過ぎに思えるが、歴史的な事実だしなぁ」
A「陳寿さぁーん、お願いだから反論する材料をください!」
F「だから、死んでるから。本音としては少壮気鋭の蒋琬辺りを送りたかったのかもしれんが、いかんせん彼はまだ若い。年齢を云うなら馬良も年下だが、少なくとも実績はある。ただし、この人事はあらゆる意味で孔明の読みから外れた結果になるのだが、それはまぁ先のオハナシ。ともあれ、劉備自ら東へと向かった」
A「心臓に悪いこと云わないでほしい……」
F「ときどき思うのは、悪いのは心臓じゃなくて頭じゃないかってオハナシだな。――突然ですが、ここで問題です」
A「いきなり何だ!?」
F「この頃の呉軍で、荊州における最高司令官は誰か答えなさい」
2人『……は?』
A「えーっと……? 呂蒙は関羽にちょと遅れて死んだよね。その後任が誰かってコト?」
Y「陸遜の出馬にはまだ早いと思ったが……? はて、誰かと聞かれると返事に困るな。確か、蜀と最初に戦火を交えたのは李異で、直の上司は陸遜だが」
A「……よく判りませーん」
F「アキラ、正解」
2人『は?』
F「順番に見て行こう。陸遜は、219年の関羽戦に従軍したのち、荊益州境に位置する宜都まで侵攻。李異らを率いて周辺都市を攻略し、大戦果を挙げた。そのまま"荊州の"鎮撫に当たっていたと正史にある。つまり国境地域からは退いたわけだ」
A「ふんふん」
F「ところが孫権は、この宜都を、関羽を直接捕らえた潘璋に与えている。将を亡くした甘寧の部隊もつけてな」
Y「甘寧が夷陵戦前に死んでいたのはスルーか?」
F「次回やる。一方で、呂蒙が率いていた軍勢は、本人の遺言により朱然が統率していた。これは、病床で孫権に直接『お前が治らなかったら誰に後を継がせたものか』と尋ねられて応えたものだ」
A「じゃぁ最優先されるべきじゃないか?」
F「それでいて、演義でまず迎撃を任せられる孫桓は、陸遜と共同で劉備に当たったのかそれとも別動隊だったのかよく判らん記述をされている。また、孫権の腹心中の腹心と云っていい周泰も、関羽戦ののち蜀攻略のため動いたような記述があった(詳細は不明)」
A「……えーっと」
F「さらに、220年には交州から刺史が1万の兵を率いて南荊州に赴任しているが、これも蜀軍への警戒が目的と思われる。さらにさらに瑾兄ちゃんが『呂蒙に代わって南郡太守をつとめ、公安に居をおいた』ともある。……さらっと呉書を読み返して、気になった記述だけでもこれだけあった」
A「えーっと、えーっと……!? 誰がいちばん偉いンだ!?」
F「周泰は、部下が命令に従わないのを見かねた孫権が自ら『コイツは俺の忠臣だ!』と宴席まで設けて、主将と認めさせたことがあるくらい、孫権の信任を受けている武将だ。が、その従わなかった部下のひとりが朱然。潘璋は確かに関羽を捕らえたが、実際に戦ったのは亡き呂蒙と健在の陸遜。だからと云って、孫策以来王族として扱われていた孫桓(純粋な孫一族ではない)を軽視できるはずもない」
Y「……なるほど、まるで判らんな。最高司令官が不在だったワケか」
F「あえてはっきり云おう。というわけで、李異が守っていた国境は馮習らの攻撃を支えきれず、呉軍は撤退する」
A「うん、どう見ても指揮系統の混乱が敗戦の原因だね」
F「まぁ、台詞を借りれば、孫権の気持ちと理屈は判るな。こんなひねくれた人間関係をどう整理すればいいのか、よく判らなかったンだろう。呂蒙が健在ならどうにかできただろうが、演義では全身の穴という穴から血を噴き出して死んだし、正史でも病気になって孫権の手元で死んでいる」
Y「しかし、いくら関羽に呪われたからって、全身から血を噴くなんてどんな病気だ?」
F「エボラ出血熱じゃないかな。その通りの症状で、発狂して死ぬ伝染病だけど」
A「この時代にそんなモンが発症したらとんでもないことになるよっ!」
F「いや、正史での記述を見ると、どーにも奇妙でな。宮殿の中に呂蒙を隔離すると、壁にあけた穴越しにしか様子を確認してないンだ。それでいて『葬儀は節約しろ』とか云っている。つまり、参列者は少なく抑えられた」
Y「……あんがい、感染性の病気だったのは事実じゃなかろうかな。華佗亡きとはいえ、その技術が遺されていれば、的確な処置はできても不思議じゃない」
A「まぁ、華佗センセの存在こそが、歴史的には不思議と云っていいからねェ」
F「ちなみに、エボラ出血熱の発症ルートは現在でもはっきりしない場合が多い、とは云っておく。ところで……」
A「はわわあぁーっ!」
Y「だから、逃げるな!」
F「気にせず話を進めるが、どうにも気になるのは『周泰の蜀攻略』でな」
A「また変なものに興味を持つし、この雪男は!」
Y「あ、居直った」
A「詳細が書いてないってことは、単純に失敗したって考えておけ! 曹植のときみたいに考えすぎるな! お前が考えすぎるとこっちの頭が持たん!」
F「いや、僕に云わせればお前の頭はすでに崩壊してる」
A「なんじゃとー!?」
F「関羽・曹操の死後、魏でもそうだが、蜀・呉でも主だった武将がバタバタ死んでいる。それでいて、はっきり暗殺とされている張飛を除くと、死因が記されていなかったりただ病死とだけなっている者が多い。法正、黄忠、蒋欽、甘寧……他にも、孟達の出奔や劉封の敗戦・処刑なんかもこの頃だ。これだけの面子が、夷陵の戦いに先立つ2年たらずで死んだのを、偶然と考えるのがおかしくないか?」
Y「何かあった……と?」
F「周泰を主将とする呉の軍勢による蜀侵攻。それがどんなものだったのかは判らんが、孫権は周泰を漢中太守に任じている」
A「……確かに、何かあったようにしか見えないな」
F「正直に云うが、見誤っていたかもしれん。関羽敗死は孫権による全面攻撃の第一章に過ぎず、第二章として蜀呉激突が行われていたのかもしれない。黄忠が死に甘寧が死に、結局敗れた呉軍は撤退。これを退けた劉備による第三章・蜀軍逆撃が始まった……というのが、夷陵の戦いの真相ではないのだろうか」
Y「……夷陵の戦いの序盤で、どうにも呉軍の動きが鈍かったのは認める。だが、そこまで考えるのは、いつも通り考え過ぎだろう、と思うぞ」
F「うん、確信はないンだ。今回のコレに関しては、曹植・曹彰のときとは違って、演義にまったく記されていないからね。ぶっちゃけ云ってみただけ。黄忠や甘寧といった有力な武将が、ただ死んだとしかされていないのがどうにも残念だからね」
A「気持ちと理屈は判るけど、だからってそこまで考えるのはどーかと思う……」
F「僕と同じようなことを考えたのが羅貫中だぞ? 正史でのあっさりした死に方に不満を抱いたようで、この辺りにちゃんとした死に様を用意している。ただ、周泰はお気に召さなかったようで、そーいう見せ場的な死に様を書かなかったな」
A「……記憶にないな、確かに」
F「演義では、明確な最期が記されていなかったと思う。コーエーの『三國志英傑伝』(劉備が天下統一するゲーム。ただし、黄忠・厳顔は死ぬ)では、夷陵の戦いでシャモーコとタイマン張って死ぬが」
Y「残念なのは判ったから、とりあえず話を戻さんか?」
F「あーい。劉備率いる軍勢は李異守る国境を抜き、荊州へと攻め入った。そこで孫権、ひとまず瑾兄ちゃんを蜀に送って和睦を乞うた。云うまでもないと思うが、劉備は、一顧だにせず瑾兄ちゃんを追い払った」
A「使者が諸葛瑾でなかったら死んでただろうに」
F「というわけで、蜀呉の激突は間近に迫ってきた」
Y「締めか」
F「続きは次回の講釈で」

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