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私釈三国志 92 陳思王植

F「はいっ、では『私釈三国志』は本筋に戻らせていただきます。今回、自分を追い詰めるために100回までのタイトルを公開しちゃいましたが、変更することもあるのでその際はご容赦を」
A「現に、すでに予告と変わってるしなぁ」
F「我ながら情けない……。でも、以前さらっと書いた通り、今回は、曹操の死による影響でっす。主に悪いサイドでの」
Y「曹操が死んでよかったことなんぞ、歴史的にはないだろうが」
A「……云うなぁ」
F「否定はしないな……少なくとも積極的には。ともあれ。国王が亡くなった場合、後継者が事前に決められていてもある程度の争いは起こる。偉大なる袁紹は後継を三男の袁尚とし、劉表は二男の劉jに後を継がせようとした。ために、袁家は長男と三男で仲違いして外敵の介入を招き、荊州は劉備と蔡瑁の権力争いの末劉氏の手から離れた」
A「いずれも、事実上曹操の手に落ちた、と。でも、曹操の死後はそうならなかったンだよな? 珍しく」
F「うーん……」
2人『だから、なぜここで悩むか!?』
F「いや、正史文帝紀(曹丕伝)に『6月26日、南方征伐に出発』とあって」
A「南方? 呉だろ」
F「呉書をさらっと読み返したンだけど、この時期に魏と兵火を交えたとは、どこにも書いてないンだよ」
A「じゃぁ蜀か?」
F「致命的なことを云おう。この『南方征伐』は10日かからずに終了している。翌7月の6日には、曹丕は『家臣一同はその職務に応じた進言を行うように』との布令を出しているンだ。まさか戦闘中にンなことを云うとは思えん」
Y「10日で呉や蜀まで往復するのは、物理的に不可能だな」
F「この頃の曹丕の行動は、どうしたわけか正史に日付入りで記されている。20日には曹操の生まれ故郷に入って、地元の老人から住民から集めて大宴会を催す、というどっかで見たようなことをやっていて、征伐云々については、これ以後も一切触れられていないンだ。ただ『6月26日、南方征伐に出発』としかない。誰を、どうやって、兵力規模、戦闘経過、結果……何ひとつ記述はない。前後の文章から察するに10日足らずで終わったことと、南に向かったということしか」
A「……そんなに注目すべきことなのか? 書かれていないってことは、どっかの地方反乱を軽々平定した、みたいなイベントかもしれんぞ」
F「まぁ、な……。それはともかく。曹丕という男は、どうにも誤解を受けている。一般的には才知あふれる曹植を妬んで、ひたすらいぢめ抜いたと思われているが……」
A「違うとでも?」
F「とんでもない、とはっきり云おう。曹丕は曹植に厳しかったのではなく、誰にでも厳しい」
A「それじゃもっとダメだろ!」
F「いや、曹丕という君主を評価する際、この一点は極めて大きな意味を持つ。曹丕は曹植だけではなく全ての弟たち(兄はすでに全滅)を冷遇し、皇后を殺し、気にいらん家臣も殺した。弟に嫉妬したケツの穴のちーちゃい男、みたいな評価は思わしくない」
Y「あぁ。君主になってはならなかった男、という評価こそが望ましいだろうな」
F「この野郎。ただし、そんな曹丕がいちばん熱を上げていたのが曹植だったのは歴史的な事実だ。ちょっと追求してみる。221年(曹操の死・曹丕の即位の翌年)、曹植は讒言により捕えられたが、母親(以前見た通り、両者は同腹)への配慮から、侯に格下げとしてとどめた。演義で『七歩の詩』を詠んだのはこの時だな」


兄「お前は素行が悪いから、とりあえず処刑しようと思う。だが弟よ、お前は常日頃から『俺が口を開けばそれが文章になるのさ』とうそぶいていたが、それは本当か? 本当だったら命は助けてやる」
弟「では、何かお題をいただきましょうか」
兄「ん? んー……(ちらっ)あ、あの絵にしよう」
 二匹の牛が土垣の下で争い、一方が井戸に落ちて死んでいる絵
兄「ただし、牛とか垣とか争とかの字は使うなよ。七歩あるく間に作ってみろ」
弟「あわてない、慌てない……」

 兩肉齊道行 頭上帶凹骨 ――同じ道行く肉といえども、その形は異なる
 相遇凷山下 欻起相搪突  ――どちらかが死なねばならんなら、死ぬまでぶつかりあうだろう
 二敵不倶剛 一肉臥土窟 ――強い者は生き、弱い者は死ぬ
 非是力不如 盛氣不泄畢 ――だが、強さとは何で決まる? 権威でなど決められるものか

兄「……よく考えてみたら、七歩だなんて生ぬるいな。今すぐ作れ。即座に」
弟「では、何かお題をいただきましょうか」
兄「ふむ……僕とお前は兄弟だ。兄弟を題としろ。もちろん、兄も弟も使ってはならん」

 煮豆燃豆萁  豆在釜中泣
 本是同根生 相煎何太急!

兄「……もういい。殺さんから消えろ」


F「この『豆を煮るにまめがらを燃やし……』云々は、曹植が詠んだとされる詩の中ではいちばん有名なものでな」
A「僕たちは兄弟なのに、どうして争わねばならんのですか……ってか」
F「つまり、豆は曹植でまめがらは曹丕。お前なんか中身のない抜けがらじゃ、と云っているに等しい」
A「……えーっと、こっちには書き下し文つけてないけど、あえてつけるなら?」
F「んー……『空虚なお前に火がついて俺を苦しめる。泣きたいなぁ。父も母も同じなのに、そうまで急いで始末したいのか!』だろうか」
A「何か余裕綽々なんですけど……」
F「実際、煮るのと煎るのとではずいぶん違うンだが……アキラ?」
Y「お前がヒトを煮るの何のと云ってるから、いつものがくぶるを始めたじゃないか……まったく」
F「今回のは食人とは関係ないぞ。純粋な、釜茹でか火焙りかってオハナシだ。後世の作りごとにしては、ずいぶんと事態の本質をとらえているように思えるな」
Y「……おい、待て? 作りごとってなんだ?」
F「ん? この『まめがら』の詩は、実際には曹植の作ではないというのが有力だぞ。何しろ、実際に曹植が詠んだものに比べると、あまりにもレベルが低い」
Y「そーだったのか」
F「後に謝霊運(南北朝期の詩人)が『天下の才を一石とするなら、曹植はその八斗を得ていた』と評している。これが、詩人同士の過大評価なのか、いつもの判官贔屓なのか、それとも事実なのか……は、この場では避ける」
A「がくがくぶるぶるがくがくぶるぶる……」
F「とりあえず曹植だが、曹操存命当時は平原侯を経て臨葘侯、曹操の死の翌年から安郷侯、鄄城侯、雍丘王(この頃、曹丕死亡)、浚儀王、雍丘王(再封)、東阿王、陳王……と変転の日々を送っている。また、ただあちこちに回されるだけではなく、11年で3度都を変えさせられ、ひとつところにとどまって、その地に結びつくのを禁じられていた。魏の皇室がどれだけこの男を冷遇していたのか判るモンだな」
Y「地名だけ挙げられてもよく判らんが、皇族に対する扱いじゃないのは判るな」
F「さて、曹丕が腹心と恃んだ重臣のひとりに陳羣がいる。三国志に登場する中で、武将ではなく文官の身でありながら、まっとうな教科書にも載っていることがあるという稀有な人材だが」
Y「九品官人法、だったな。どんなモンかは記憶にないが」
F「科挙の前身だ」
A「ふーうっ……マサ君の弟に云わせると『中国三大奇習のひとつにして三大害悪の筆頭たる』科挙の、か?」
F「89回で見た通り、当時役人になるには、地方から推薦を受けるかコネに頼るか、だった。このうちの地方推薦を、科挙に対して選挙と称する。その地方にとって都合のいい者を"選"んで"挙"げる、からだ。これだと、どうしても人員に地方の都合が入ってしまう。それでは中央集権化の目的からは好ましくない、としたのが陳羣だ」
Y「念のため。そういう現代的な用語は、正史の記述にはないので」
F「というか、ちくま文庫は九品官人法に関する記述を放棄してるけどな。陳羣伝の注釈に『この本を読んでネ♪』とだけ書いて、どーいうものかは全く触れていない」
Y「よく持ってたよな、お前」
A「持っとンかい!?」
F「単純に云えば、もともとは地方から推薦された人物を取り立てていたけど、中央から任命された中正官による評価を採用の基準に切り変えたものでな」
A「ふん、ふん」
F「まず、官位を九段階に分ける(九品)。才能ある人物を『最終的にはこれくらいまで昇進できるだろう』という目安で評価し、そこから四品低いところで登用する。二品まで上がれるとみなされたなら六品で、という具合だな(一品というのはまずいなかったとされている)。官位を明確に序列化し、それに応じた人材登用・活用を推進する制度、だったワケだ」
A「……それ、結果的に変化はあるのか? 中正官とやらが地方に都合の悪い人材を任用するはずないだろう」
F「いいところに注目したな。地方で選挙の権限を持っていたものと中正官は、ほぼ同じ人物だったとされる。ために、魏を経て興った晋代では、中正官の権限を弱める法改正も行われている。これが究極的には科挙につながるワケだ」
A「失策かな」
F「んー……この法の目的は、おおよそ官位の九品化にあったのではなかろうか」
A「官位を序列するのが目的だったと?」
F「曹丕は『宦官はこのラインから上の官位についてはいけません!』との布告も出しているンだ。権威と権力を明確に序列・組織化した上で、宦官を政治の中枢から遠ざける措置とした、という側面があって」
Y「九品官人法と宦官の高位就任阻害には、関連があったと」
F「前漢は外戚で滅び、後漢は宦官で滅んだ。もちろん、宦官によって滅ぼされたンじゃない。後漢を滅ぼしたのは霊帝か黄巾、でなきゃ曹操だ。宦官のせいで国家権力がボロボロになり、そのせいで滅んだ。それを傍で(笑って)見ていた曹丕が、宦官の専横を許すはずがないだろう」
Y「……さすがは曹操の子、というところか」
F「まぁ、このザル法が結果として失敗だったのは否定しえない所なんだけど……ね。ところで、司馬孚という男がいる。司馬の姓と叔達の字で判るように、仲達の弟だが」
A「例の『司馬の八達』(司馬懿の兄弟、みな優秀)のひとりか」
F「実際には晋朝成立後まで生きていたこの男だが、なぜか、曹操の死後、曹丕によって殺害されたという民間伝承がある」

 曹操は臨終に際して、司馬孚を御前に呼んだ。
「こんなこともあろうかと、ワシは72の墓を用意しておいた。ワシが死んだら、その中のひとつにワシを葬れ。どれに納めたのかはお前の胸の内に秘めておき、たとえ曹丕にでも話すでないぞ」
 司馬孚がかしこまって平伏すると、曹操は表情をやわらげる。
「ところで、ワシも還暦まで生きた。あまりおおげさな葬儀は好ましくないが、ひとりくらいなら赤い服を着ていてもいいだろう。他の者には白を着せ、お前は赤い服を着て葬儀を取り仕切ってくれ」
 また平伏した司馬孚に、曹丕へ直筆の書簡を届けるよう云いつけ、曹操は床に就いた。
 それから数日して曹操は亡くなり、司馬孚は云われたように、曹操の遺骸を誰にも判らぬようひとつの墓に納めた。その上で、赤い服に着替えて葬儀を取り仕切る。
 そこへ曹丕がやってきて、問答無用で司馬孚を斬り捨てた。これには仲達、驚いて声を上げる。
「若様、弟が何をしたというのです」
「いや、父から『司馬孚は謀反人だから斬れ』との書簡が届いてな」
 見せられた書簡はまさしく曹操の手によるものだった。
 かくして、本物の曹操の墓はどこなのか、誰にも判らなくなったという。

F「生前は天を欺き漢を絶ち、死後は人を欺きて疑を設く……と兪応符が詠んでいるが、そんなエピソードがなぜかある」
A「(誰だよ……)墓はともかく、アイツ、強いのか?」
F「ん? 曹丕は兵法家だぞ」
A「ひょうほう?」
F「あぁ。各地の剣術を学んで洛陽の剣がいちばんだと判断し、霊帝時代に名を馳せた剣士の弟子から剣を学んでいる。劉勲らの諸将と酒を呑んでいた時に、ケ展という武技・格闘に通じた武将と剣について口論になってな。酔ったケ展と手合わせすると、三度、サトウキビの棒(酔い醒ましにかじっていた、真剣の代わり)でケ展の腕を打った。周りから爆笑が起こると、キレたケ展は突きの構えを見せる」
Y「剣道では『危険だから』という本末転倒の理由で、中学生以下では禁止されている技だな」
F「それと見切った曹丕は、サトウキビの棒でケ展の額を切った。呆然とする一同に『名医は弟子に、もともと学んでいた技術を捨てさせることから始めるそうだ』と鼻で笑ったとか。ケ展そのひとがこのエピソードにしか見えないのでどれほどのものかは判断しかねるが、曹丕の個人的武勇はそれなりのものだぞ」
A「意外だ……」
F「話は変わるが、項伯を覚えてるか?」
Y「ん? 項羽の伯父か? なぜか横山光輝の『項羽と劉邦』では、項羽の軍師みたいに扱われていた」
F「そういう記述を史記で見た覚えはないが、書いていないのは、僕が云った『項燕の息子なんだから、項伯にもある程度の武技はある』も同じ。ただし、僕の意見はある程度の説得力はある」
A「自分で云うなよ。否定はしないけど」
F「曹丕はさっき見た通り。曹彰の武勇は確認するまでもないだろう。――では、曹植はどうだっただろう」
A「……ごくり、と思わず息を呑んだ」
Y「きょうは反応してないと思ったら、お前、さっきコイツが『ところで』を出したのに気づいてだろ。えーっと……11作合計242、つまり平均22だな。最大がTの42だから、9作平均にしたらさらに下がるぞ。ちなみに最低はXの10」
A「兵士より弱いンじゃないか……?」
F「劉禅よりはマシだろう。アレは\で武力2だったはずだ。ちなみに11での能力値は、統率・武力・知力・政治の順にサン。冗談みたいなホントの話はともかく、曹操はこのポエットを意外なことに戦争にも従軍させている。また、孫権征伐においては都の守備をゆだね、曹仁が関羽に苦しめられていた時には救援軍を率いさせようとしたこともある」
Y「流れたがな。……だが、云われてみればそんな気もしてくるな。遷都さえ考えた局面で、何の武功もない者に救援軍を任せるような真似はできんだろう」
F「僕なら泰永を出す場面だぞ。関羽の北上は、一歩間違えば魏の心胆を寒からしめていた。そんな場面で、軍事的に無能な息子を出すだろうか。また、曹操がいち時期とはいえ後継者に考えていた男が、本当に軍事的には無能だったのだろうか」
A「いや、でも、曹植は詩人で、そんな奴に軍を率いるなんて……」
F「朝衡という日本人がいるが、彼は唐に仕え安史の乱にかかわり、戦後は辺境で総督を務めている。日本名は阿倍仲麻呂だ」
Y「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも」
A「百人一首ー!?」
F「というかアキラ、お前根っこを忘れてないか。曹操の職業は?」
A「…………………………国王でなかったら、ポエットですね」
F「詩人だから戦争ができない、というのは曹操の存在を否定しているに等しい。あるいは……とは思えんか」
Y「……6月26日に征伐の兵を向けられたのは、曹植ではなかったのか、ということか」
A「でも、そんなっ……あ?」
Y「どした」
A「……いや、今回のタイトル。どーして『曹植子建』じゃないンだろうって思ってたけど……」
Y「……陳は、魏の南にあったが」
F「さっき見た通り、曹植が陳王の座にあったのは後年だぞ。臨葘なら向かうべきは東だ。南に向かったら曹彰の任地(兗州)につくぞ」
A「……いや、そっちの方が説得力あるンじゃね? やっぱりポエットの曹植が反乱起こして、でも10日かからずに攻略されたと考えるよりは、戦上手な武人の曹彰こそが叛逆したって考える方が」
Y「確かにな。曹操が死んだと聞いたら軍勢を率いて乗り込んできて『玉璽はどこだー!』を叫んだろ?」
F「豆を煮るにまめがらを燃やし、豆は釜の中で泣く
A「……え?」
F「なぜ『同じ親から生まれたきょうだい』が、争わねばならんのだろう
Y「――骨もおらずに喰うは徳川、か?」
F「燃やされるまめがらにも云い分はあるだろうな。豆は煮て喰われるが、まめがらだって灰になるンだ。正史・民間伝承を徹底的に研究した羅貫中は、陳寿でもただひと言しか残せなかった、曹丕即位後の『反乱』がどれほどの悲劇だったのか、へたな詩に託したのではなかろうか。曹丕はきょうだい・皇族を冷遇する政策を貫いた。その先鞭となるかのように、曹彰は曹操の死から数年して死去。曹植や曹彰の子は、減封と国替えを繰り返され、失地回復することなく世を去っている」
A「……いや、正史にたったひと言しか書かれていないことをネタに、よくそこまで思いつけるな、お前」
F「曹丕・曹彰・曹植のきょうだい関係・人格を考えると、どうにもこれくらいやっていたように思えるンだ。興味深い事実がある。前漢は外戚で滅び、後漢は宦官で滅んだ。では、魏は?」
A「え? っと……」
F「魏は、皇族で滅んだ。もちろん、皇族のせいで滅んだという意味だが」
Y「結論が早すぎんか? 魏の滅亡まで、まだ40年以上あるが」
F「詳細は先送りにするが、繰り返してはおく。魏は皇族で滅んだ、と」
A「うーん……」
F「ところで」
Y「2回め!?」
A「がくぶるよぉーいっ!」
F「だから、いい加減になさい! まったく……。曹丕が皇帝に即位すると、当然だが皇后が立てられた。袁煕(袁紹の次男)の妻だった甄氏なる女性だ。曹植が、兄嫁たるこの女性に横恋慕していたという風聞は根強い」
A「あぁ、『蒼天航路』でもヤってた……つーか、ヤりかけてたな」
F「どうしてヒトのものをほしがるのか僕には判らんが、曹植は、甄氏の死の翌年、洛水のほとりで伝説の女神の白昼夢を見て『洛神の賦』を詠んでいる」

 ――帰り道、俺は洛水でひとりの麗人を見た。
 「あの美人は何者だろう」
 その姿は軽やかでたおやか。風に舞う粉雪のように白く輝き、昇る陽のように紅い。
 肉づきはそれほどでもないし身長も高くはない。だが、そのなで肩と腰つきはどうだ。
 派手な化粧などしていないが、あの豊かな黒髪と眉はどうだ。
 薄衣のみをまとった、この世のものとは思えぬ艶やかさ……。
 その美しさに惹かれた俺は、彼女に心を伝えた。
 彼女は、俺に応えてくれた。
 だが、ヒトと神の隔たりは俺たちを分かち、住む世界の違いを思い知らせる。
 「愛の言葉は語れませんが、あなたのことはいつまでも想っています」
 そう云い遺し、消えた。
 再び女神が現れまいかと、帰ることさえ忘れて探したが、いつの間にか朝になっていた。
 帰ろうと……思っても、どうしても、俺は動くことができなかった。

A「純愛……かな」
Y「ハナから不倫だ。何が純愛か」
A「乙女心ってモンが判んないかな、ヤスには!?」
F「続きは次回の講釈で」
A「だから、収拾しろよ!」

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