私釈三国志 80 曹操孟徳
8 抜山蓋世
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F「さて、やや深刻で面白くない方向に走っているが、曹操とは何者だったのかを見てきた」
A「むすーっ」
Y「機嫌を直せ」
F「漢王朝は曹丕に禅譲して幕を下ろしたのではない。曹操が死んだその時に、すでに終わったに等しい。正月に曹操が死に、10月に禅譲が行われるが、その間はほとんど余命に等しかったと見ていい」
Y「曹操に死によって、ひとつの時代が終わった、と?」
A「……むぅ」
F「ただし、ひとつ根本的なものを見ていなかった。今までスルーしていた、曹操の出自に関する重要なオハナシだ」
A「出自? 宦官の孫か?」
F「……ふむ。下々出身の孫堅はともかく、劉備は皇族を自称し、袁紹は四世三公(四代に渡って三公を輩出した)という家柄。対して曹操は宦官の孫で、身分としては比べ物にならない……というのが、従来からの見方であり、孔融らの主張だった。だが、彼らとお前らはひとつの歴史的事実を見落としている」
A「その心は?」
F「曹操の祖父たる宦官は、前漢建国の功臣たる曹参の子孫だぞ。父は夏侯嬰を祖とする夏侯家から養子に迎えられた。四世三公という袁家は後漢のはじめにやっと史書に現れるぽっと出の家柄。劉備に至ってはその信憑性さえ乏しい。家柄で云うなら、両者とも曹操に遠く及ばないンだよ」
A「お前、それ信じてたのか?」
F「これは歴史的事実だ。血筋についてしっかり史料が残ってるンだから」
A「千八百年前の史料なんてあてになるか!」
Y「三国志そのものを否定する発言をするな」
F「そんなこと云ったら今の天n……」
A「わぁーっ! わぁーっ! わぁーっ!」
F「……天」
A「わぁーっ! わぁーっ! わぁーっ!」
F「このように、そもそも曹操が下賤の出身であるかのような誤解が、三国志演義によって植えつけられていた。それが曹操像に対する大きな影響を与えていたのは明白なンだ」
A「ぜぇーっ、ぜぇーっ……」
Y「曹操は、家柄・人格・能力のいずれにおいても並外れた人傑だった、というわけか」
A「認めたくない……」
2人『天』
A「わぁーっ! わぁーっ! わぁーっ!」
Y「からかう格好のネタができたな」
A「『隅っこ』に向かってそーいう真似すんなっ! ばーちゃんに怒られる!」
F「はいはい、仲良くしなさいな……」
A「いつも通り原因お前だろー!?」
F「今度正史貸したげるから読んどきなさい。眼から鱗が落ちるから。さて、かつて袁紹が『河北を制し、異民族を傘下におさめ、黄河を渡って天下を決する』とのグランドプランを抱いていたのを見たが、曹操がどんな天下盗りを目指していたのか、袁紹への返事を見ておく」
――天下盗りは賢者豪傑に任せ、私はそれを道義をもって制御しよう。きっとうまくいくさ。
A「……袁紹にできたことが、曹操にできなかったワケがないわな」
F「その通り。そんな曹操について、正史に面白い記述があった。少し長いが引用したい」
曹操の人柄は軽薄で、威厳というものがなかった。音楽が何より好きで、いつも歌い手を傍らに侍らせ、昼日中から夜になるまで楽しむことが多かった。薄い絹の衣服をまとい、腰には小さな皮の袋をぶら下げ、中には小物を入れていた。時には、簡素な普段用の冠でひとに会うこともあった。ひとと談論するときは諧謔を好み、尽きぬ話には裏表がなかった。ある宴席では、上機嫌で大笑したはずみに卓の食器に頭を突っ込み、頭巾が食べ物まみれになったことがある。
F「名作『蒼天航路』が何を目指したのか、はっきり判る文章だな」
Y「(拍手)かはははっ……!」
A「……コレのどこが曹操だ?」
F「最初に聞いたことを、もう一度尋ねよう。曹操は好きか?」
A「っ……!」
Y「(ニヤリ)ここでの沈黙は、雄弁な回答に等しいぞ」
A「むぐぐぐぐぐぐっ……」
F「というわけで、長々続いた曹操に関する『私釈』、その最後を締めくくるのは、当然だが正史より、陳寿そのひとの評価を引用しておく」
天下の乱れし漢末には、各地で群雄が割拠した。その中で曹操は、もっとも精強であった袁紹を討った。韓信にも劣らぬ智謀を誇り、法家の思想をほしいままにし、才能ある者の過去(の悪行)を水に流しては官職につけては使いこなした。天子に成り代わり大事業を成し遂げたのは、ひとえにその能力あればこそ。
まさしく、時代を超えた英雄と称すべきであろう。
F「続きは次回の講釈で」