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私釈三国志 79 黄天當起

A「……何でいまさらこのタイトルなんだ? 約80回はともかく、40年近く経ってるが」
F「それは後のお楽しみだ。えーっと、前回ついに曹操が死んだので、曹操陣営では後継者を立てる必要があった。その辺の事情について面白い分析があって」

 ……魏王曹操の息子たちである。無条件で優先される長子の曹昂や、曹操自身も後継者と目していたとされる天才児の曹冲(注1)という2人の有力者が早世しただけに、残った兄弟間での後継者争いは熾烈であった。最終的に勝ち残ったのは(中略)曹丕であったが、武人としては非凡な能力を有した曹彰、芸術的才能は父曹操をも凌いだ曹植の2人は、万能型であったとは言うもののこれといって突出した才能を持たない曹丕にとっては恐るべき存在であった。
 (中略)兄弟中の最優位者の立場を手に入れた曹丕は、同母弟である曹彰、曹植を排斥するのである。特に最も対抗馬として最も有力であった(注2)曹植に対しては文帝崩御後に即位した明帝曹叡の代に至っても陰湿な報復が繰り返され、結局曹植は憂いの中で没することになるのである。

注1 原文ママ。正しくは曹沖。
注2 原文ママ。文脈から云って二番めの「最も」は不要。

(株式会社エクシード・プレス『プロの発想法でつくる! ゲームキャラクター』P130〜131より抜粋して引用。注は引用者。また、原文にはところどころ太字があったが略)

A「……どっかで見たな」
F「実は以前、表現を『私釈』に合うように改めて引用している。68回でのことだが」
A「いや、うちじゃなくてよそのサイトで。……どこだったかな?」
F「そーなの? まぁ、この一文は曹操の後継者問題を、簡潔に表しているからねぇ。やや正確とはいいがたいけど」
A「その心は?」
F「実話だけど、世界史上もっとも多くの子孫を遺した男として知られる大ハーン・チンギスには、多くの男児がいたものの後継者候補と挙げられたのは正妻の産んだ4人だけだった。日本でも、兄がいたのにその生母の身分が低かったから、織田信秀は三男(信長)を後継に定めている。近代以前では、母親の身分は後継問題で大きく影響するンだ」
A「はー……しかし、肝心の曹丕と曹植は」
F「これが厄介なことに同腹なんだ。ために、曹操の家臣団が曹丕派と曹植派に分かれて、結局賈詡の助言が決め手で、曹丕が後継者となったというのは68回で見た通り。だが、38・39回で見た通り、曹丕という男は曹操の息子とは思えないくらい性格が悪い。長じていれば曹操軍団にとって有力な武将だった張繍を自殺に追い込んだ(正史の注にもそう書かれている)ことでも、その辺は証明されている」
A「いや、曹操の息子って時点で、すでに性格がいいとは思えないから。……ってコトは」
F「他の後継者候補たちも、どうにも曹丕の罠にはめられていたのではないかと思われる史料があってな」
Y「どっかの家は、親子だけじゃなくて兄弟でも仲が悪いからなぁ」
F「まず、曹丕の直の弟の曹彰。曹操からその武勇を認められた息子なんだが、長安にいたこの息子を、洛陽にいた曹操は病の床に就くと早馬で呼びつけた。間にあわなかったンだけど、なぜ呼ばれたのかについて本人は『オレを呼んだのは、曹植を後継者とする(ので、それを補佐させる)つもりだったのだ』と発言している」
A「兄を弟の補佐につけるのか?」
F「実例もある。袁紹は後継者とした三男を補佐するよう、長男・次男に命じているンだ。ために袁家は滅んだに等しく、云われた曹植も『袁家がどうなったのかご存じないのか?』といさめているが」
A「ふむ……。でも、曹操が死んだとたんンなこと云ってる奴がいたら、曹丕は面白くないだろうな」
F「そうだろうな。曹操の死から4年後、曹丕のもとを訪れたところ病気になって、そのまま死んでる。その息子は減封と国替えを繰り返されたと史書にある。『諸侯は彼の性格を恐れ、その領国を慌てて通り過ぎた』とも」
A「……ぅわ」
F「曹植は後回しにして、その下の弟の曹熊は『早くに亡くなった』としかない。これなんかは露骨に怪しいだろ」
A「じゃぁ、それこそ早死にした曹昂(長男。曹丕とは腹違い)は?」
F「状況証拠でいいか? 曹丕は、張繍(主犯)を自殺に追い込んだ割には、計画犯の賈詡を極めて重用している。三公の一隅たる太尉(軍事大臣)に任命しているくらいだけど、かつて曹操が(演義でのオハナシだが)龐統をどうすると云ったのかを考えると、この厚遇ぶりには裏があるように思える」
A「……曹操と曹昂が死ねば自分が当時の曹操軍団を率いることができると考え、張繍と裏取引をした?」
F「可能性はある……くらいの疑念だが。実は、この説にはひとつ、絶大なまでの問題があって」
A「その心は?」
F「その当時、曹丕は数えでも11歳なんだ。兄や親を殺そうとか考えられる年齢だろうか」
A「その年でそんなモン考えるのお前くらいだよ!」
F「違いない。えーっと、ここまでで名の上がったもうひとり、天才児こと曹沖もあらゆる意味で怪しい。曹沖というよりはケ哀王沖と呼んだ方が、日本では知られているかもしれんけど」
A「あ、昔教科書で見たな。孫権から届いたゾウの重さをはかったり、鞍をネズミにかじられた倉庫係を助けたり」
F「うむ。幼いながらも機略に長け、数十人を救ったと正史にある。曹操はこの天才児に後を継がせたいと考えていたのに、208年病を得て13歳で死んだという」
A「どう怪しいンだ?」
F「ひどく悲しんでいる曹操に、曹丕が慰めの言葉をかけると『これはワシにとっては大きな悲しみじゃが、お前たちにとっては大きな幸いじゃ』と応えたとか。また、曹丕は常々『曹昂が生きていても限界があったろうが、曹沖が生きていたら天下は僕のものにはならなかっただろうな』と云っていたらしい」
A「……確かに、何かありそうだな」
F「さっきも云ったが曹沖が死んだのは208年。この年曹操は、スーパードクター華佗を獄死させているンだけど、そのあとに曹沖が死んだモンだから『あぁ、華佗を殺したせいでこの子を死なせてしまった……!』と後悔する発言をしている。つまり、華佗が生きていれば曹沖は生きながらえていたことになる」
Y「まぁ、正史でも華佗は神医ぶりを遺憾なく発揮してるからな」
F「その華佗を獄につないでいるのを咎めたのが余人ならぬ荀ケで、正史華佗伝のラストにはなぜか曹植の著作が長々と引用されている。陳寿も裴松之も、その辺について僕と同じ考えを抱いていたようでな」
A「……荀ケが曹植派だったって話か」
F「そんな曹植が、曹丕からどれだけ追い詰められ冷遇されていたのかは、世人の知る通りだ。曹植が皇帝になっていたら宰相になったことが疑う余地のない楊修や、その他取り巻きも処刑される。本人も殺されかけたものの母の執り成しで一命を取り留めたが、地方に回されては国替えされ、結局失意のうちに死んでいる」
A「でもよ、ここまでの兄弟4人同様、曹丕が手を回したって証拠はないンだろ?」
F「いや、曹植だけは曹丕に貶められて失墜したと、裴松之ははっきり書き残してる」
A「その心は?」
F「関羽の猛攻で曹仁が苦しんでいたころ、曹操は、救援部隊の指揮を曹植に執らせようとした。これは、いつぞやの袁紹と同じような考えだったと思われる。つまり、可愛がっている息子に武功を立てさせたいという親心……ただし、袁紹は『可愛がっている息子が動けないので、兵を出さなかった』という形だが、で」
A「あぁ、いつか云ってたな。酔っ払っていて使いものにならなかったってアレか。しかし、それが何だ?」
F「この時酔わせたのが曹丕なんだ。無理矢理べろべろになるまで呑ませたンだとか」
A「何やってンだ、この息子は!?」
F「実際、名作『蒼天航路』を引き出すまでもなく、曹操の死後、各地で武将たちが相次いで死んでるンだけど、どうにも怪しいと思えるのが多くて……列挙するか」

・明らかに曹丕から冷遇された面子(の一部。没年順)
 于禁:関羽の死後、呉に身柄を囚われていたが孫権の計らいで帰国。曹操の墓を参拝したところ、壁に自分が関羽に命乞いしている絵を描かれていたのを見て病に陥り、そのまま死去(221年)。
 曹洪:曹丕と仲が悪かったため処刑されかけたが、妃の執り成しで免職にとどまる。復権できたのは明帝の時代。
・疑わしい最期を遂げた面子(同上)
 荀攸:死後(214年?)、その謀略十二篇の編纂を託された鍾繇は16年かかっても実現できず、結局鍾繇の死によって歴史から失われた。曹丕(ないし息子)の手が回っていた可能性がある。
 夏侯惇:曹丕の即位後大将軍に任じられるも、数ヶ月後に死去(220年)。毒殺の疑いあり。
 曹仁:各地を転戦して功績を上げ、大司馬となるも223年死去。見るからに過労死であろう。
・怪しくはない面子(同上)
 李典:36歳の若さで亡くなる(216年?)
 楽進:戦功をたてるも218年死去。
 韓浩:曹操に先んじて死去(没年不明)。
 程c:免職されていたものの曹丕の即位後復権。宰相に任じられるはずだったが、直前に死去(220年)。
 張既:十年以上涼州を守り抜いて、223年死去。

F「一部、としたのは今まで『私釈』で挙げた面子に限るからなんだが、それを列挙しただけでもこの通り、曹操時代の面子はほぼ片付いた状態だ。怪しくはないとした面子にしても、疑えば疑えるな。程cなんかは特に」
A「いや……一覧にされると凄いな、バタバタと死んでるわ」
F「そんなこんなで、兄弟家臣を犠牲にし、ついに曹丕は献帝の禅譲を受け皇帝に即位する。劉邦による漢王朝成立から四百年、黄巾の乱からは35年もの歳月が流れていた」
A「張角の目指した漢王朝打倒は、実行者を変えてようやく実現した、と?」
F「ところで、と云おうか。実行者が変わったのか判らん事態が発生するンだ。黄巾の蒔いた黄色い種が、血と苦しみの肥料を吸い上げて、ついに大木と成り果てたように思える事態がな」
A「(ごくっ)……その心は?」
F「西暦220年、曹丕は皇帝に即位し、国号を魏と定め、亡き曹操を武帝と諡した。そして改元した魏最初の元号は、あろうことか、黄初といった」
A「……見事に、黄色い花が咲きましたね」
F「続きは次回の講釈で」
Y「いよいよ……だな」

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