私釈三国志 73 交州平定
F「さて、今回は交州について」
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A「最南端の州か。呉の支配下に落ちてたンだっけ?」
F「210年に、すでに孫権に降伏してた。ちょっと数字の把握がずれてたよ……。もう少し持ちこたえてたような気がしてたンだけどなぁ。えーっと、順序立ててみていこう。交州いうのは、漢代での最南端の州だ。揚州・荊州・益州の南に面する、現在の香港辺りからヴェトナムの北部地域までを指す」
A「厳密に云うと、中国じゃないワケか」
F「んー、現在の中国ではないな。ただ、後漢最強の名将たる馬援(馬超のご先祖サマ)が、有名なチュン姉妹を討伐してコーチンシナ(交趾)を攻略してるから、当時は漢に組み入れられていたと見ていい」
Y「武力鎮圧か?」
F「さっきも云ったが後漢最強だ。雲台二十八将と世に云うが、それら二十八人の上にいるわけだから。それなりの戦術指揮能力を有していたチュン姉妹を追い詰め、姉妹は手に手を取って川に飛び込んだとか」
Y「漢民族からすればそうなるンだろうが、現地人からすれば侵略だろ?」
F「そうなる。交州には漢民族でない民族が多く居住していた。俗に山越と呼ばれる異民族がその中心だな」
A「ヴェトナム系?」
F「どうだろ? 春秋時代の越の子孫とも云われてるけど。現実的な問題として、揚州南部の会稽郡では、城市以外は漢民族の統治区域が存在していなかったとさえ云われている。王朗が太守として派遣されていたけど、あっさり孫策に負けたのは、その程度の戦力しかなかったのが原因なんだね」
A「で、今度は孫策が、その山越の民と対峙することになった?」
F「そゆこと。孫策は会稽に本拠地を置いて、周辺の山越を平定しながらも各地に兵を出していたわけだ。その山越討伐事業は、当然孫権にも受け継がれて、呉の諸将は異民族討伐に駆り出されることになる」
Y「討伐される謂れはなさそうだがなぁ」
F「異民族相手に実戦形式……というか、実戦での軍事演習をしていた状態なんだよ。孫策は孫堅に従って戦場に出たこともあるけど、孫権は当時まだ幼かった。配下の諸将に関しても、孫堅・孫策時代からの武将を孫権があまり重視していなかったのは再三云っている通り」
A「周泰辺りは信頼してなかったか?」
F「その辺りについてはいずれ見るが、孫権は、孫策より自分を重視していた者は取り立てたけど、孫策をこそ重視していた連中は使い捨てにしていた節がある。……まぁ、詳しくは孫権即位の頃に語るが」
A「……楽しみなのかそうでないのか、自分でもよく判らん」
F「話を戻すが、正史の呉書を見ていると、呉の武将が山越討伐をライフワークとしていたのが見て取れる。さっきも云った軍事演習がメインのようだけど、側面として、人狩りの目的もあったようで」
A「人狩り!?」
Y「喰うのか?」
F「あー、怯えないように。山越の居住区を平定しては、強そうな連中は軍に編入して、弱い者や女子供は戸籍に編入することで人口を増やしていったンだ。陸遜は丹楊の山越を平定して数万からの兵を得たというから、呉は、兵力の供給源として山越の民衆そのものを略奪していたンだね」
Y「えげつないな……」
F「まぁ、それでも足りなかったみたいで、遠征先の占領地から住民を強制移住させる真似は晩年まで続けていたンだけど。ちなみに、演義には登場しない賀斉という勇将がいる。孫策時代から仕えていた山越討伐のエキスパートで、揚州の各地を平定して周り、呉の治安維持と兵力確保に貢献していた。三国時代以後、山越はほとんど見られなくなるけど、ほとんどこの男に滅ぼされたような状態だね」
A「……何でそんな勇将を出さないかな、演義に」
F「さて、交州の王とでも称すべき男がいる。名を士燮と云うが」
Y「初登場か?」
F「だったと思う。出した記憶ないから。交趾の太守だったンだけど、董卓が宮廷を牛耳っていた頃に交州刺史が山越に殺されてね。そこで士燮は、自分の一族を交州各地の拠点の太守に据えてくれれば、交州は治めますよーと上表した。当時、宮廷はとても交州まで手を回す余裕がなかったので『判った、お前に任せる』とばかりに丸投げしたのね」
A「情けねェ……」
F「ところが、士燮はうまくやる。豊富な学識と温厚な人柄で行政にも通じていたから、交趾を中心に交州は、以後20年に渡って安定を保っていた。各地の戦乱が原因で宮廷が貧窮し、各地からの朝貢が途絶えがちだったけど、交州からの貢物は毎年欠かさず届けられていたので、宮廷は士燮に、刺史を差し置いて、事実上の自治権を認めていたンだね」
Y「ほとんど人事権がないがしろにされていたに等しいな」
F「実力という裏づけがあったからねぇ。劉表が自分の配下を交州に送ろうとしたことがあったけど、宮廷は『交州は士燮に任せなさいっ!』と詔さえ出したくらいだから」
A「……とんでもねェ」
F「ところが西暦で210年、孫権から使者を送られると、どうしたワケか士燮ときたら、あっさり降伏してしまった。以後、交州は孫権の支配下に落ちる」
A「何であっさりと!?」
F「正直、よく判らない事態なんだよね、コレは……。先に事態の推移を見てしまうと、降服した後も士燮は地位を保ちえた。20年に渡って交州に君臨していた士燮を、さしもの孫権でも切れなかったらしい。士燮や弟たちを加官さえして遇したとのこと」
Y「異民族の中で君臨していた男なら、そう邪険には扱えんだろうな」
F「加えて、士燮は交州で産出される珍品や、南海交易で得た財宝を孫権に献上していたのね。この思わぬ収入に、孫権は気を良くしたらしい」
A「……確か、孫権から曹操に、ゾウが贈られたこともあったよな?」
F「いいところに注目したな。たぶんインドゾウだと思うが、孫権から曹操のところに贈られたことがある。間違いなく、士燮が出所だろうな。……何しろこの男は、益州の豪族・雍闓を口説いて、呉に臣従させたくらいだから。ヴェトナム・インドシナ方面とも交易していた形跡がある」
Y「だから、何で士燮は孫権ごときに降った? 益州にも通じていたなら、降服する必要はなかろうに」
F「……実は、原因じみたオハナシが正史にはある。もっとも、演義に士燮は出ないが」
A「何だ?」
F「士燮が病死した3日後、仙人が現れてな」
A「だから、仙人ネタやめようぜ?」
F「聞け。士燮の死体に丸薬と水を含ませると、頭を持ってぶんぶん振りまわした。しばらくすると士燮は息を吹き返し、4日後には元の身体に戻ったという」
A「……で?」
Y「ひょっとして麻沸散か?」
F「えくせれんと。たぶん『病死』からして、孫権の謀略だったンだろう。麻沸散を飲まされて仮死状態に陥った士燮を、仙人を装った孫権の死者が生き返らせた。死の淵を彷徨った士燮たちのところに、さて孫権から使者が来た。……どうなる?」
A「……降伏したくもなるか」
F「いずれ見るが、孫権の敵は不思議と『病死』することがある。これが何を意味するのかは……孫権即位の頃に見ることにして。かくして、交州は孫権の支配下に落ちたが、山越の民は相変わらず孫権に反抗的だった」
A「賀斉や士燮をもってしてもか?」
F「残念ながら、ね。丹楊の山越に至っては、曹操からの誘いに乗って、陸遜に平定されるまで孫権に反抗し続けた。懐にドスを打ち込まれている状態の孫権は、ある程度の戦力を向けざるをえず、結局、外に全力を向けることができなかったわけだ」
A「凄まじいまでの内憂だな……」
F「そんな山越の民について、孫権は『コレがなければ北に討って出られるンだが……』と発言している。どれだけ孫権の足を引っ張っていたのか、想像に難くないな」
Y「異民族対策は歴代王朝の頭を悩ませていたが、おおむね北方か西方だったよな?」
F「南方系異民族も、悩みの種だったワケだ。ちなみに、後の王朝は根本的な対策を講じている。つまり、交州や益州の南方を国土から手放すことで『アレは外国だから知らん』と突っぱねるンだが」
A「……解決か? 逃避にしか思えんのだが」
Y「まぁ、ヴェトナムやビルマまで中国に加えるのが、そもそもどうかと思うしなぁ」
A「でも、一度手に入れた領土を手放すのは……」
Y「それを云うなら、もともとが侵略だろうが。統治権があったかどうかを先に論ずるべきだ」
F「続きは次回の講釈で」
2人『スルーしないで収拾しろ!』