私釈三国志 71 西蜀軍団
F「楊修の死によって、演義での漢中争奪戦は幕を閉じる。即ち、劉備軍の大勝利によって」
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A「わーいっ!」
F「喜んだのはいいとして、ここで一度、劉備軍団についてまとめておこうかと思う」
Y「なぜ、このタイミングで?」
F「漢中を得たことにより、劉備の勢力範囲が荊州・益州に及んだから。はっきり云うが、劉備・劉禅を通じて、いわゆる『蜀』の領土は、この時点で最大領域に達している。つまり、このあとは下り坂になるわけだ」
A「……劉備嫌いのお前がここ数回、どーして劉備寄りのオハナシをしていたのかと思っていたが、持ち上げて落とすハラだったわけかい」
F「いや、意外に思うかもしれんが、劉備そのものを嫌ってるわけじゃないぞ? その辺はいずれやる『劉備玄徳』で……以下同文。さて、さっき云った通り、この時代の劉備の勢力範囲は南荊州の西側から、漢中を得たことで益州全域に及んだ。益州が心服したとは云いがたいが」
A「そうやって聞くと、関羽に任せた領土はそんなに広くないワケか?」
F「荊州でも長江から北は、ほぼ曹操領だったからな。それを牽制するために、益州の北東部・新城郡に孟達を配置したンだけど、その辺の事情は後で触れる。一方の益州はと見れば、州都たる成都を本拠地に定め、劉備自ら乗り込んで統治に当たっている辺り、それほど心服していなかったのが判る」
A「そうか? 暗愚で知られた劉璋が離れたなら、民衆は喝采しそうなモンだが」
F「仮にも父の代から20年、益州に君臨していた州牧だぞ。それを武力で打ち破れば、反発もするだろう。さらに劉備はボケをしでかして、成都入城に際して兵士に『略奪し放題だぞー!』と云ってしまった。3年の戦闘で、そうでもしなければマトモに戦闘できないくらいまで、士気が落ちていたわけだが」
A「異議あり! 当時の軍隊では略奪は当然のこととして行われていました! 孫権なんか自国の領民からもしてたって記述がどっかにあったぞ!」
Y「弁護人、出典は正確に。さらに云うが、曹操は『麦を踏んだら死刑!』と自分で出した布告に自分で違反したから『死ぬ!』とわめき、首の代わりに前髪を斬り落としたぞ」
F「軍令がしっかりしてる軍隊としてない軍隊の違いだな。話を戻すが、そんなワケで、劉備はもちろん張飛・趙雲も手元から離すわけにはいかなかった。というわけで、対北最前線の漢中には、新進気鋭の魏延が配置される」
A「当初、群臣は張飛が派遣されると思っていたけど、この突然の抜擢にはみんな驚いたんだよな。でも本人は胸を張って『もし曹操が兵を率いて来たら劉備様に救援を求めますが、配下の武将なら百万の兵でも防いでみせましょう!』と豪語して、さらに度肝を抜いたとか」
F「よろしい。……さて、ここで久しぶりの派閥整理をやっておこう。この時点での劉備軍は、こんな具合になる」
黄巾・徐州・放浪時代からの配下:関羽・張飛・簡雍・糜芳・趙雲・劉封
荊州で配下に加わった者たち:孔明・馬良・伊籍・黄忠・魏延(龐統)
益州を売った者たち:法正・孟達(張松)
益州で配下に加わった者たち:黄権・劉巴・呉懿・厳顔・李厳・馬超(呉蘭・雷銅)
F「カッコ内は故人」
A「益州勢をふたつに分けたのは?」
F「戦前に加わったのと、戦中・戦後に加わったのでは、劉備に対する意識が違うのは明白だろう。それに、法正たちに対する黄権たちの態度がどんなものだったか、想像はつかないか?」
Y「確かに、仲は悪そうだな」
F「いちばんのカタブツは劉巴だがな。関羽が益州にいない状態では、劉備に次ぐナンバー2と云っていい張飛(この頃の孔明がそれほどの重役ではないのは前述の通り)が、名士たる劉巴に誼を結ぼうと訊ねてきたのを『兵卒上がりと馴れあえるか!』と口も利かなかったくらいだ」
A「殺されなかった?」
F「重役だぞ? 孔明・法正・伊籍らとともに、新しい蜀の法律『蜀科』を編纂したほどの。張飛が目上の者にはへいこらしていたのは有名だろう。成都攻略時の略奪品を兵士たちから国庫に取り戻せたのは、この男ひとりの功績だし」
A「ナニをしたのさ……? 略奪品を返せ、なんて云ったら叛乱が起こるだろう」
F「ほとんど価値のない貨幣を鋳造して買い戻したんだよ。そうすれば、材料費以外は元手もかからないからね」
A「……何で、これほどの能臣を擁していながら、劉璋は負けたのやら」
F「使いこなせなかったから、だってば。本題に入るが、上の派閥をよく見ると、興味深いものが見えてくる」
A「え? えーっと……軍事面では古参が、政治面では新参者が重用されている辺り?」
F「いや、簡雍や糜竺もそれなりの地位についていたぞ? まぁ、立場としては法正のが上にいたが、アレは軍事・政治両面の最高権力者みたいなモンだったからなぁ」
A「……いいのか、そんなモンがいて」
F「法正については面白い分析があるが、それについては何回か先で触れる。劉備が漢中王に即位した翌年に死んでいるのは覚えておいて。各派閥の戦場指揮官という純粋な意味での武将が、どういう配置か確認してみろ」
A「えーっと……関羽は荊州に留まっていて、張飛は成都の東、趙雲は成都かな」
Y「黄忠もだな。魏延・孟達はさっき見た通りで、馬超は……漢中の西」
F「この時点での劉備勢力には、前線と呼べるものが3箇所……見方によっては4箇所だが、あった。そのうち、曹操領・孫権領の両者に面した荊州には、事実上の大将軍(役職は前将軍)たる関羽を配置し、部下には糜芳や士仁(傅士仁は演義での名)らの武官と、趙累や馬良といった荊州出身の文官をつけている」
A「この方面を重視しているのが判るな」
F「残る2箇所は、漢中と新城。つまり、益州の北と北東部だけど、ここを守っているのが前述通り、魏延と孟達」
Y「荊州勢と益州勢の、武官のエースだな」
A「いや……魏延はともかく、孟達ってそんなに強いか? この連載だけ読んでたら、確かに強いように見えるけど」
F「演義だけ読んでいたらただの売国奴に見えるけど、実際孟達は、俗に五虎将と呼ばれる武将たちの後釜として、魏延とともに期待されていた勇将だぞ。だからこそ劉備は、戦場に出しては重要な任務を与えたり、養子の劉封を預けて新城を任せたりしたわけだから。漢中と荊州の中間に位置する新城の守りが、どれほど重要か判らんのか?」
A「うわ……いつも通りのマイナー武将擁護かと思ったら、いつも通りの反論できない屁理屈で来やがった」
Y「残る一箇所ってのは?」
F「涼州方面だ(漢中・新城は司隷に面する)。秦嶺山脈があるから山越えでは攻めてこないだろうけど、別して無視できない箇所でな。ちなみに、そこには馬超が配されている」
Y「……4箇所の前線全てに、各派の領袖ないしそれに近い武将を配置したのか。それなら、漢中に張飛が配置されなかった理由も判るな。全体のバランスのためだ」
A「でも、それなら呉懿や厳顔は? 益州の武官が軽視されてないか?」
F「まず呉懿だけど、このヒトは劉璋の伯父(兄の妻の兄)にあたり、益州でも重きを置かれていた。劉備にとってもそういう武将は、手元に置いておく必要があったことは想像に難くない」
Y「まだ統治体制が確立されていなかったワケだからな」
F「そして厳顔……と、呉蘭や雷銅、死んだ張任もだが、この連中は東州兵だったと見ていい。つまり、劉焉の入蜀に尽力したものの、その後行いが驕って、民衆から敵視された連中だ。それを保護していたのが劉焉・劉璋父子だったから、劉備の侵攻に立ちはだかり、そして死んでいった」
A「……厳顔の最期は、演義にはないけど」
F「正史にもないな。例の台詞はあるけど、老将との記述もない。だけど、たぶん、この頃のごたごたに紛れて死んでいるはずだよ。それがどんな死に方だったのかは、ちょっと考えたくないけど」
Y「まっとうには死ねなかったと見ていいだろうな。劉備の支配権を確立するために、残る東州兵もろとも、全ての罪を背負わされて処刑された可能性もある」
F「文官についても何回か先でやるけど、武官団の配置に劉備は気を遣わねばならなかったわけだ。家臣たちにしてみれば、劉備に天下を盗らせるために戦うより、他派閥の連中より自分たちを上にしたい(社会人としては当然と云っていい)野望がある。劉璋時代にそれが表面化したのが、法正・孟達・そして亡き張松による劉備動員だったわけだな」
A「いかにして家臣を使いこなすか、だな……。さすがは、人の和の劉備」
F「そんな劉備ではあるけど、孔明たち群臣が言上してきた、漢中王への即位は渋った。自分たちが戦ってきたのは漢王朝復興のためなのに、そんな自分が王位に就いてどーする、と。何も判っちゃいない張飛は『兄貴は皇族なんだから、漢中王どころか皇帝になってもおかしくねぇぜ!』と云い出す始末で」
Y「水滸伝で李逵は『兄貴は大皇帝、俺たちは小皇帝になろうぜ!』とはしゃいだが」
F「それに応えた孔明の説得が、三国志演義第73回に記されている。書き下すとこんな台詞だが」
――我ら家臣一同が命を賭けて殿にお仕えしてきたのは、殿が王となり我らも富貴に預かるためですよ!
「四海才コ之士、捨死亡生而事其上者、皆欲攀龍附鳳、建立功名也」
F「この台詞には劉備も心動かされ、漢中王に即位した」
Y「……孔明の云っていい台詞じゃないようで、アキラが真っ白になってるンだが」
F「続きは次回の講釈で」