私釈三国志 68 後継問題
F「さて、前回は悩める子供たちに気を遣って、本調子は出せなかったけど」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「……聞こえていやがった」
Y「幸市の聴力は、一般的な体育館程度なら全ての会話を聞き分けるぞ。学生時代はそれでずいぶん助かったモンだ」
A「……どうすれば、この連中に勝てるのだらう」
Y「圧倒的な戦力で正面から叩き潰すのがベストだが」
A「それが用意できるなら苦労はないンですがねーっ!?」
F「はいはい、仲良くしなさいなアンタたち。かくして、曹操は漢中を平定したんだけど、翌年に魏王に列せられている。これ以後……厳密には3年前には呼べる状態になっていたんだけど、曹魏という表現が利用可能になるわけだ」
A「3年前? えーっと……213年か」
F「そう。その年に、曹操は魏公に推挙されているんだ。ただし、63回で触れた『とんでもない事態』が、その前に起こっている。即ち、曹操軍団の事実上の副司令官だった、荀ケの死だ」
A「その時点で1回を設けて触れろよ、そーゆう重大イベントは! 張任について騙ってる場合じゃないだろ!」
F「魏公就任問題よりは、曹操の後継問題で触れた方が、お話の流れとしてはいいんだよ。いちおう、その辺は計算して書いてるんでね。……さらっと流してきたイベントを含めて、状況を再確認しよう。曹操は献帝を保護し、漢王朝の代弁者としての地位に君臨した。これを独裁と見るか代理統治と見るか、即ち曹操評は後に1回を設ける」
A「問題の『曹操孟徳』で、だな」
F「そゆこと。そんなこんなで212年。群臣が、曹操を公に推挙しようと云いだした。後に孔明が、劉備に向かって『我々家臣一同が殿にお仕えしてきたのは、殿が王となり我らも富貴に預かるためですよ!』と云っているけど……」
A「云うかーっ!」
F「まぁ、そういうオハナシだね。これには荀攸なんかも賛成したんだけど、肝心の荀ケが『漢王朝の再興が目的だったのに、それを脅かすような地位についてどうしますか!』と反対した」
A「……で、曹操は荀ケに空の器を贈った。贈物が空でした、と云ったら不敬罪に問われる。といって『けっこうなものを頂きました』とか云ったら、曹操から『空箱にナニを云うか!』と云ってくる。もちろん、礼を云わないわけにはいかない。いずれにせよ荀ケは罪に問われる……というシナリオで、結局服毒自殺するんだよな」
F「反対したのは事実だけど、服毒したかは正史に明言はないな(注にはある)。というわけで荀ケを失った曹操は、失意のままに孫権と対陣し、苦戦したのは当時見た通り。魏公就任も翌年になってしまった」
Y「曹操寄りか曹操嫌いかが、はっきり判る議論だな」
A「曹操が殺したわけじゃないとでも、云いたいのか?」
F「というか、荀ケが魏公推挙に反対したモンだから、そのせいで殺されたと思われている節があってね。荀ケがナニを考えて反対したのかを追及していくと、興味深いものが見えてくる……と渡辺氏は述べている」
A「……その心は?」
F「曹操が魏公に推挙されたら、その時点で後継指名がなされてしまう。荀ケはそれを先延ばししたかったので、時間稼ぎのために魏公就任に反対した、という説だ」
A「あぁ……前に聞いたな。曹操の後継者は曹丕か曹植のいずれかで、家臣は両派に分かれて争っていた。で、荀ケは曹植の側に立っていた、とか、お前云ってたけど」
F「正史荀ケ伝には、曹丕が荀ケに礼を曲げて接していたことや、荀ケの息子が荀ケの死後、曹植に接近したことが触れられている。また、演義での話になるが、曹植の腹心中の腹心たる楊修が、曹操に無礼な振る舞いをしでかした張松をかばったとき、荀ケはそれに同調しているんだ。その辺の記述から察するに、間違いはないと思う」
A「んーむ……。で、後継指名を遅らせようとしたのは、やっぱり曹植が有利とは云えなかったからか」
F「曹操にはかなり多くの男児がいたんだけど、無条件で優先される長子・曹昂は早くに戦死し、曹操自身が後継者と見込んでいた天才児・曹沖は12歳で死んでいる。というわけで、曹丕と曹植が後継者候補に挙がっていて、やはり曹丕が有利だった。何しろ、曹植は素行が悪くて、詩才はあっても曹操からはあまり評価されず、一度など(とんでもない理由で)出陣前に酔っ払っていて『……お前、もう帰れ』と曹操に呆れられたことさえある」
A「そんな奴がどうして後継者になれるんだ?」
F「劉備が君主になれたのと、似たような理由だと思うぞ。上に立つものはそれほど切れ者である必要はない。もちろん曹操のような天才でも問題はないが、劉備のように無能で、でもそれを補って余りある仁徳でトップに立てる者もいるんだ。何でもこなすトップと信じて任せてくれるトップの、どちらがいいのかは一概には決められんぞ」
A「……つまり、楊修は孔明みたいなタイプだったワケか」
F「ところが、肝心の曹植が、何進や劉表に近いタイプだったから、悲劇は起こったわけだ。ちなみに、惜しまれて死んだ我らが鄭泰は、何進をして『お仕えしにくい主人です』と云っている」
A「世界中探しても、禰衡や鄭泰を惜しんでるのはお前くらいだと思うが……でも、曹操の後継者指名って、213年の時点じゃなかったんじゃないか?」
F「うん、これについては原因を断言してもいいけど、荀ケの死がショックだったんだろうね。魏公に昇っても、後継者を指名することはなかった。……ところが216年、今度は魏王に推挙される。劉氏にあらぬ者を王としてはならない、という劉邦以来の原則を曲げて、だ」
A「何でまた……」
F「いや、215年に、献帝は伏皇后の父に『曹操討つべし』との密書を送ろうとしたんだけど、それが曹操にバレてね。というわけで、伏皇后やその父・一族郎党が処刑されているの(ただし、正史では父が死んだのは209年)」
A「前に、同じイベントなかった?」
F「あぁ、20年くらい前にあったね」
A「あれ……えーっと、董承の乱ってそんなになるっけ?」
F「いや、荀攸だ。長安で董卓を暗殺しようとして失敗したことがあっただろ」
Y「……また、懐かしいイベントを挙げてきたな、この雪男は」
F「正直、この時期に荀攸が死んでいるのは無視できない。演義では、魏王になるのを反対して、曹操から『荀ケのことを忘れたか?』と云われて憤死してるけど、現実問題荀攸は、それで死ぬようなタマじゃない。憤死するくらいなら、かつて董卓にやったように叛乱でも起こすだろう」
A「荀攸の死と伏皇后の乱には、何らかの関係がある……と?」
F「問題の父親が、荀ケと親交があったらしいのね」
A「……シャレになってねぇな」
F「さて、渡辺氏の分析によれば、荀ケは曹植派、荀攸は曹丕派だった。そして、裴松之が『こんな野郎は程cとでも同じ巻に入れりゃいいんだ!』と罵倒している賈詡が、この二荀と同じ巻に伝を立てられているんだけど……」
――裴松之が評するように、賈詡の伝記を別の巻に編成すると、「後継者争い」という「影の旋律」が浮かび上がらなくなってしまう。「後継者争い」の決め手は賈詡であったのだから。したがって、陳寿が、曹植を推す荀ケ、曹丕を推す荀攸、両者による後継者争いに決着をつけた賈詡の三人を一巻に抱き合わせたことには、この「旋律」を浮かび上がらせようとの意図があったのである。(廣済堂出版『三国志謎とき101話』P157より抜粋)
F「曹操から、後継者をどうしたものかと問われた賈詡は、すぐには返事をしなかった」
「……おい、賈詡?」
「は? ……はぁ、何ですかのぅ〜?」
「何ですかって……お前、聞いてた?」
「……申し訳ありませんのぅ〜。考え事をしておりまして、聞いておりませんでしたのじゃ〜」
「お前なぁ! オレの後継者を決める大事な席で、いったいナニを考えてた!?」
「昔のことを思い出しておりました。袁紹・劉表父子のことでございます」
F「かくして、後継は曹丕に決定した」
A「……でも、肝心の長男殺したのって、賈詡だったよな」
F「……」
Y「……」
A「……」
F「続きは次回の講釈で」
A「あ、ごまかした!」