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私釈三国志 67 儒仏道教

F「梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……」
Y「いきなり水滸伝をはじめるな」
F「いや、今回のことに関連した、少し真面目なオハナシ。この董平、実は数多の綽名を持つ」
Y「双鎗将、じゃなかったか?」
F「それとは別に英雄双鎗将、風流万戸侯、一撞直(コレは大宋宣和遺事)などとも呼ばれていてな。登場が後半だからちょっと出番はアレだが、インパクトはある」
Y「風流って……城主の娘に色目使っていたものの相手にされなかったから、攻め入ってきた梁山泊に降って城主を殺し、その娘を奪った野郎のナニが風流なんだ?」
F「武においては綽名に恥じず鉄作りの双鎗を両手で操り、詩歌や礼節にも通じ、儒教・仏教・道教の三教にも秀でるというツワモノだぞ。スペックはかなり高いんだ」
A「……つまんないぞ〜。水滸伝はいいから三国志はじめろ〜」
F「あー、悪い悪い。まぁ、というわけで。中国では、宗教といえば儒教・仏教・道教の三教を云う。今回はコラムということで、この辺りについて触れておこうかと」
A「三蔵法師って三国時代のひとだっけ?」
F「陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じている坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも三蔵っているんだよ」
A「あ、そーなんだ」
F「知らなかったのかよ……? えーっと、流れで仏教についてもう少し。中国にインドから仏教が伝来したのは後漢朝2代(明帝)の頃で、三国時代をさかのぼること百数十年。演義成立の頃(元末明初)にはすでに(それこそ玄奘らの影響で)民間まで仏教は普及していたけど、三国時代ではそんなに普及していない。以前見た通り、呉にあったとされる甘露寺だって、唐代の建立だし」
Y「皇帝は、どう接したんだ?」
F「現実問題として、ほとんど相手にしなかったらしい。というのも、仏教には現世利益がない……それを捨てろというのが教義の最たるものだからな。仏教にはどんな利益があるのか、と聞かれて坊主は返事ができなかったとか」
A「ダメじゃん」
F「ただし、影響力そのものは大きかった。というのも、仏教伝来以前の中国の土着宗教には、教団という概念がなかった。……まぁ、これは考えてみれば当然のことでな。世を捨てて仙人になろうというのが道教の最終目的なんだから、徒党を組むはずがない。儒教は、礼と徳を追求するのが教義だから、集まれば仲違いをはじめる……他者の礼を批判し自分の徳を喧伝するためにな。唯一マトモな教団じみたものを形成していたのが墨家だけど、残念ながら始皇帝の頃には、すでに墨家そのものがなくなっていた」
Y「それはそれでどーいうコトやらって思うが」
F「儒教徒の陰謀と見ていいがな。軍政によれば……いや、今は三国志の話だから、とりあえずさておこう。仏教における"教団"の概念を、道教が取り入れたんだね。つまり、宗教的権威を中心とした集団を作ることで、国家以外の団体組織を形成する、というやり方だ」
Y「それが、黄巾党を経て五斗米道を興すに到った、と」
F「歴史的に云うなら、仏教伝来は一大イベントだな。……さて、坑儒のお時間だが」
2人『待て!』
F「あぁ、済まん。少し本性が出てきてるな。儒教語り始めると、そー簡単には止まらんぞ、オレは……くっくっく」
A「ぅわぁ、ダークサイド!? ヤス、何とかして!」
Y「マジで待て、幸市。確かにお前の儒教論は極めて興味深い。だが、それを語る場は他にもあるだろう。今は三国志について、三国時代での儒教についてで我慢しろ」
A「えーっと、三国時代の儒教っていうと……孔融だっけ」
F「……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑されている」
Y「(ぼそぼそ)……静かに乗ってきたのは何となく怖い」
A「(ぼそぼそ)確かに……」
F「ちなみに、孔融が逮捕されたときにふたりの息子は、双六(当時はギャンブルの一種だった)に興じていて立ち上がりもせず、それを咎められると『巣が壊されたのに卵が割れないなんてことがあるかい』と相手にもしなかったとか。孔融本人の処刑の理由は、みんなの奇人・禰衡と組んで『災害に遭ったとき、親が役立たずなら見捨てて他人を活かせ』という天道にも叛く発言をしたから、とされている」
A「どんな儒者だ!?」
Y「孔子二十代で、儒教はそこまで腐っていたのかよ……」
F「そのまま腐り果ててくれればオレが苦労することはなかったんだがなぁ……。孔融は嫡流ではなかったので、処刑されても孔子の流れは途絶えなかった」
A「……頼むから、腕の傷から手ェ離せ」
F「本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に渡って儒教を事実上の国教に定めていた」
Y「千年後に……何が起こった?」
F「蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送り込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えていない」
Y「影響力が低下したわけか」
F「それが原因と断言するが、中国で(表立っての)食人がなくなったのが元代だというのは以前述べた通りだ。……あ。今思い出したが、曹操の若かりし日に、済南の邪宗を禁止したことがあったんだけど」
Y「黄巾の残党から『同志』呼ばわりされたアレか」(第11回参照)
F「正史の記述(演義にはこのエピソードはない)を読み返すと、この"邪宗"、どうにも仏教に見えるんだよ」
A「は? そーなの?」
F「記述そのものが少ないから、こっちは断言できないけど、小乗仏教の祭祀に似た記述があってな。百年後くらいに仏教と道教が宗論を交わしてる(道教が負けた)んだけど、この頃からすでに、仏教と道教はいくらか仲違いしていたのかもしれない。道教が、仏教を弾圧した曹操を『同志』と呼んだように」
Y「(ぼそぼそ)機嫌がなおってきたな」
A「(ぼそぼそ)今のうちに締めに入りたいところなんだけど……」
F「さて、道教……つーか、五斗米道教団。太平道の流れを汲むこの教団が、劉焉から独立して漢中に一大フロンティアを築き上げていたのは先に述べた。コレが、曹操と戦火を交える」
A「国力の格差が凄まじいだろうに」
F「まぁな。緒戦で迎撃に出た弟を失った張魯は、馬超に同行しなかった龐徳を出して曹操軍を防ごうとする。もちろん"引き抜きメモリアル"曹操は龐徳をほしがって、諸将にタイマンを挑ませ、疲れさせて捕らえようとするんだけど、張郃・夏侯淵・徐晃に許褚まで出しても龐徳は怯まず、その全てを退ける始末だ」
Y「……バケモノか?」
F「どうしても龐徳がほしくなった曹操は、賈詡の言を容れ策を弄した。楊松に賄賂を贈って張魯と龐徳を仲違いさせ、龐徳を追いつめる」
A「漢中に残ってた方だね」
F「手柄を立てられなければ帰ってくるなと責められた龐徳は、曹操の首級を狙い攻め入るものの、ついに捕らえられ、降伏した。コレに困り果てた張魯は、ついに漢中の城を捨てる決意を固めたものの、城内の倉庫は『コレはもともと国家のものだしなぁ』と、鍵だけかけて持ち出さず、城を出て……楊松に裏切られ、追いつめられて降伏した」
A「あっけないというか、何というか……。で、曹操は"同志"をどう扱った?」
F「もちろん粗略には扱わず、張魯と配下の諸将を併せて官位につけ、漢中を平定した。その統治手腕を高く評価したわけだな。……たったひとり、楊松だけは処刑したけど」
A「まぁ、そいつだけは斬らんと納まらんだろうな」
F「というわけで漢中を制した曹操に、従軍していた仲達が『この際です、蜀も攻略しましょう。劉備が民心を得ていない、今こそが攻め時ですよ』とけしかけてきた。それに応えて、曹操曰く――」

 ――「人苦不知足」既得隴、復望蜀耶(欲望ってのはきりがねェな、漢中を得て蜀までほしいのか?)

F「兵を休ませなければ、と曹操は蜀への出兵論を退けた。……まぁ、致命的な判断ミスだな」
Y「否定はしないな」
A「負けないもん! その時点で攻めてこられても、劉備は負けなかったもん!」
F「続きは次回の講釈で」
Y「(ぼそぼそ)……何とかごまかせたな」
A「(ぼそぼそ)心臓に悪い……」

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