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私釈三国志 63 合肥激闘 〜遼来々〜

F「とゆーわけで、長々お休みいただきました『私釈三国志』、再開ですー」
Y「ツッコミは控えるとして。再開初回は?」
F「はい、前回からがらっと所を変えて、孫権と曹操の抗争について」
A「劉備へのフォローは!?」
F「本音としては……というか本来なら、今回のタイトルは『遼来々』にすべきなんだけど、いつも通り内部規約があってねぇ。まぁ、それはさておき。時間は少し戻って、孫権が合肥に攻め入った辺り」
A「がるるーっ……。赤壁の、翌年だったっけ」
F「いや、いちおう208年年内だ。赤壁の帰趨がはっきりしたから、先に劉馥にしてやられていた孫権が改めて兵を出した……というところでな」
Y「当時曹操の本軍は中原に引き揚げていて、曹仁率いる荊州方面軍は周瑜相手に奮戦していたな」
F「当の周瑜が乱箭で負傷するほどの、だな。それだけに、この局面での曹操軍には合肥に兵を送る余裕は……なかったワケではない」
Y「あったンだろ?」
F「うむ、多少ならね。それでも現場に兵は少なく劉馥も亡い。ために、合肥城を包囲した呉軍はある程度優勢だったンだけど、年の明けたある日、城に入ろうとこそこそしていた使者を捕らえると、援軍のお知らせを携えていた」
Y「兵数は?」
F「4万」
Y「赤壁の呉軍兵数に匹敵する人数か」
F「さすがにそれを相手にするのは無理無茶無謀という奴だ、と孫権でも判断できた。まぁ、孫権でなくても判断するだろうが、というわけで孫権は合肥から撤退している」
Y「逃げるのは……判断としては間違いではないか、さすがに。孫権がどれだけの兵を率いていたのか判ったモンじゃないが、確かに4万を相手にするのは、無理無茶無謀は事故のもとって奴だな」
F「交通標語でこの戦局に相応しいのは『確かめてからの救急車』だな、むしろ」
Y「……援軍、どれくらい来たンだ?」
F「1000。劣勢と踏んだ蒋済がしかけた謀略だったンだね。あっさりひっかかったからいいようなものの、孫権が踏みとどまっていたら大変なことになっていた公算は否定できない」
Y「その意味では、孫権の決断力が悪い方向に働いたのか」
F「のちのちの燕王騒動同様、孫権が自分で決めるとろくなことにならん気もする。それはともかく、数年後の212年。今度は曹操が呉領の濡須へと兵を進めた。以前さらっと触れた『赤壁の遺恨晴らすべしと40万の兵を動かそうと』した戦闘だね。出陣前にとんでもない事態が発生していたものの、かまわずに兵を進めたところ、孫権はしっかり戦闘準備を整えていた」
Y「珍しく、かね」
F「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っぱねて、三日月形の土塁を作り上げていた」
Y「さすがは野郎、というところか」
F「呂蒙なら逆櫓でも用意しそうだな。これに安心した孫権は、自ら7万の兵を率いると、大船に悠然と鎮座している。それを見た曹操曰く『あんな息子がいればなぁ……劉表の息子どもなんて、ブタか犬じゃないか』と」
Y「器量で云うなら曹丕が孫権に譲ることはないだろうが、劉gや劉jでは及ばんのは明らかだな」
A「……云い過ぎと云えないものがあるな」
F「しかし、曹操は劉gと面識あったのかね? ともあれ、これまた以前挙げた『別の水戦場』ってのが、実際この戦闘でな。孫権が自ら偵察に出たところ、曹操軍は孫権の乗船と知るや矢を射かけた。側面に大量の矢を浴びた船は傾いてしまう。そこで方向転換して、反対側にも同じだけの矢を浴びるとバランスが取れたので、改めて撤退した……というオハナシ」
Y「笑いごとだよなぁ」
F「初回から順番には『私釈』を読んでいないヒトには『何で火矢じゃなかったンだろうな』という泰永の疑問への答えが出せると思う。えーっと……51回か。当時云ったが、コレは213年のこと。年明けまで戦っていたものの、曹操ははかばかしい戦果を挙げることができなかった」
Y「これまた珍しく、と云うべきか」
F「だな。演義では、その原因を『攻めると決めてから時間がたったせいで、孫権に戦支度の時間を与えたのが失敗でしたな』と程cに云わせている。事実、呂蒙が防御陣地を築いたせいで、建業北の水路から呉に攻め入るのは難しくなっていた。あまりの苦戦に曹操は、天に輝くふたつの太陽に、新たに長江からもうひとつ太陽が飛び出してきて、自軍の陣地に落ちてくる夢まで見た」
A「いずれ、天下が三分するという暗示だな」
F「そんなところだろうね。どうしたものかと軍師ズにはかってみるけど、ここは退くべきとか戦闘を続けるべきとか意見が交わされ、なかなか結論が出ない」
Y「さすがに、曹操も年だな。独力で董卓に追いすがった決断力も、衰えを見せたか」
F「戦前に決断力の根源を失ったのが原因だと思うんだけどなぁ。そんな悩める老いたウェルテルに、孫権から書状が届いた。そこには『お互い漢王朝の家臣なんだから、戦争ばかり繰り返すのはよそうぜ? 早く兵を退かんと赤壁の二の舞だぞ』と、以前の書状(『曹公のために孫権に与うる書を作る』58回参照)を意識している内容が書かれていた」
A「云うねぇ。……どーしたの、ヤス。真顔で」
Y「……コレ、か?」
F「コレ、だと僕は見ている。以前触れた、孫権が曹操への手切れを決断した原因。孫権は、割とヒトをひとと思わん性質があってな。宮廷に出仕していた当時、曹操に可愛がられていたとはいえ内心がどうだったのか……といえば、身分や年齢を考えると反抗はできないものの面白くはなかったと見ていい。ところが、確かに丞相たる曹操と破虜将軍の弟では、確かに身分には差異があるが、いずれも漢王朝の家臣であることは違わない」
A「……皇帝は偉いが、お前は偉くない、と云いたかったわけかな? 孫権は」
F「というわけで、孫権は曹操に牙を剥くようになった、と。Q.E.D」
A「いや、証明……できたのか?」
F「まぁ、渡りに船だったのは事実だ。孫権から書状で兵を退いたわけだから、曹操の面目も保てる、という次第だ」
Y「調子が戻ってきたのかね」
F「孫権がなかなかに頭の切れる男だというのを認めるのはやぶさかではないが、ここでも目立ったのは、やはり曹操の器の大きさだった。戦況が膠着し、このまま戦っても旨みがないと判断するや、せっかく動員した40万の軍もあっさり撤退させているンだから」
Y「実質的にも負けてはいないが、あくまで孫権からの講和に応えた……という形式を演出したワケか」
F「ただし、問題の書状の裏には、孫権の本音も書いてあった。正確には、書いた墨のあとが」

 ――足下不死 孤不得安(アンタが生きてると、こっちが困る:早く死んでくれ)

A「あららら……こりゃまた」
F「曹操は『あやつはワシに嘘をつかん!』と大笑して、手紙を持ってきた使者に手厚い褒賞を与え、ようやく兵を退きあげたとある。退くならちゃんと全軍引き揚げるのが礼儀で、合肥に残す兵を除く大部分はしっかり引き揚げている。曹操の威信は保たれたことになる」
Y「先の孫権よろしく、援軍に怯えて退いたワケじゃないからな」
F「まぁな。さて、それからまた数年が流れて215年。合肥の守将を張っていた張遼から、孫権に挑発じみた挑戦状が届いた。これに激怒した孫権は大軍を率いて合肥へと赴いている」
A「10万からの軍勢だったよな」
F「正史でも、そうは書いてあるな。孫呉全域からかき集めたのか、それともお約束の白髪千丈か。ただし、張遼の側の兵力7000は妥当なラインと思われる」
A「10倍以上か……」
F「しかも、当時曹操の本軍は、漢中の張魯を討つべく出陣して、馬超と戦っている真っ最中だった。コレに危機感を抱いた劉備が、孫権と講和して合肥に兵を出させたンだけど、孫権が劉備の信に応えたというより、劉備を利用しようという姿勢がありありだな」
Y「孫権の即位が楽しみだな」
A「……どんな根拠を挙げてくるのやら」
F「さすがの曹操軍でも、15倍近い軍勢が相手では震え上がったような状態でねー。諸将、戦うことを躊躇うんだけど、曹操は『孫権が来たらコレを開け』と命令書を残していた。ツラ衝きあわせてそれを開くと『張遼と李典は討って出て戦え。楽進は城に居残り、絶対戦っちゃダメ!』と書いてある」
A「……組みあわせとしては、李典と楽進は逆にすべきだと思うんだがな」
F「楽進は、張遼や于禁・張郃・徐晃と並び称される、魏の五将軍のひとりだね。兵卒からの叩き上げだけど、呂布や袁紹らの軍勢を向こうに回して、一歩も退かなかったいぶし銀だ。片や李典は文官肌の知将で、曹操の命で諸地域の統治に回されたり、演義では夏侯惇や曹仁の参謀として孔明と戦ったりしている」
Y「確かに、守りは李典のが適任に聞こえるな」
F「いや、李典は李典で指揮能力にも優れていてね。袁尚攻めのある日、李典が兵糧を船で輸送していると、水路を断たれるアクシデントが発生した。でも李典は慌てず『あんな連中にオレが負けるかい!』と、独断(曹操からは『船が通れないなら陸路で運べ』と云われていた)でその軍勢を攻撃して打ち破り、制河権を確保している」
A「なかなか、渋いことするな」
F「ともあれ、張遼・楽進・李典はお互いに仲が悪かったんだけど、張遼が『曹操サマは外征していて、この地は我々が引き受けたんだぞ! 討って出て戦うのが武将だろうが!』と発破をかけると、李典が『お前なんか信用できんが、国家のために従うぞ!』と出陣に合意した。ちなみに、正史では、この時楽進は何と云ったのかは、正史にもない」
A「そんなに張遼が嫌いなのか? 李典は」
F「ここまで云わんでもよかろうに、とは思うな。かくして張遼は選りすぐりの精兵を率い、翌日、孫権の軍勢へと斬り込んだ。わずか800の歩兵は孫軍10万を引き裂き、孫呉の兵はどうしていいのか判らずに逃げ惑う。戦闘を駆ける張遼は、大声で『張遼ですよー!』と叫びながら、孫権に肉迫しでかしたとか」
A「……蒼天航路でやってたな、そういえば」
F「慌てた孫権は小高い丘に登って守りを固める。張遼は降りて来いと怒鳴り散らすけど、数が少ないのに気づいた孫権は、包囲して押し潰そうと兵を動かした。張遼はひるまず縦横無尽に駆け回り、囲みを破って脱出する」
Y「呉軍、弱っ!」
F「でも、張遼はここでミスをしでかした。脱出できたのは数十名だけで、残りは呉軍の中において来ちゃったのね」
A「おいおい」
F「呉軍の中から『ワシらは見殺しか、コラーっ!』と聞こえたモンだから、張遼は慌てて引き返し、囲みを破って兵士たちを回収した。もはや呉軍は道を開けて、あえてぶつかろうとする輩はいなかったとか。明け方から始まった死闘は昼には終わり、出鼻をくじいた張遼は、安心して城にこもったという」
A「凄ェな、おい……」
F「その後孫権は、十日あまり合肥城を包囲したけど攻略できず、ついには兵を退いた。張遼は討って出て追撃し、もう少しで孫権を捕らえるところまで追いつめている」
A「……あれ? 李典は?」
F「どう動いたのか明記はないんだけど、たぶん、張遼が暴れてる隙に近郊に隠れて、呉軍の補給線を衝いていたんだと思う。でなきゃ、援軍が来ない城を十日で諦めるような真似はしないだろうから」
Y「張遼がそんなに怖かったのかもしれんがな」
F「今度こそ救急車を警戒したのかねェ。かくて呉に張遼の名は鳴り響き、夜泣きする子供でも『張遼が来るよ』と云われると泣きやんだという」
Y「遼来々、か」
F「ところで、コレについては夏侯淵にも似たようなエピソードがあってな。馬超の乱・続く隴右の叛乱を叩き潰したことで、羌・氐といった西北域の異民族は『夏侯淵を差し向けるぞ』との脅し文句に屈することになった、とあるンだ」
Y「なまはげが東にも西にも」
F「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはまだ先のオハナシ」
Y「どこまで先を見ているのやら……」
F「続きは次回の講釈で」

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