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私釈三国志 55 私釈赤壁

F「名作『蒼天航路』の第1回で、極めて興味深いモノローグが入っている」

 ――悪党と言われてきたものは、本当に悪党なのだろうか
 ――善玉と言われてきたものは、本当に善玉なのだろうか

F「『蒼天航路』は旧来の『劉備が善玉、曹操は悪党』という視点を超越し、正史をベースに新たなる曹操像、すなわち"人間・曹操"を描きあげた」
Y「厳密には『正史に準じた、まっとうな曹操像』と云うべきだがな」
F「僕の曹操評は、いずれ必ずやる『曹操孟徳』を待ってもらうことにして。というわけで、『蒼天航路』は"アジアを越えて世界にも"評価されるに到った。内容・他への影響力においては、おおよそ日本国内の三国志漫画で、唯一横山三国志以外に『蒼天航路』に比肩しうるものは存在しない」
A「大絶賛だな……」
F「……まぁ、『蒼天航路』に関してはさておいて。以前触れたが三国志を追求する際は、演義を鵜呑みにせず正史を軽んじず、だが演義を否定せず正史を信じすぎない。渡辺精一氏は三国志について、著書でこう述べている」

 (前略)正しく読解した者にだけ奥深いことを教えてくれるという「懐の深さ」がある。そして、こちらの世界のほうが、何百倍もおもしろいのである。

F「つまり、正史三国志を発展(見方によっては退化)させ三国志演義を書き上げた羅貫中が、その演義の端々に刻み込んだ『影の旋律』にこそ、『三国志』の真髄はあるという。俗に『史実三分に虚構が七分』とされる三国志演義だが、陳寿や裴松之が採用したエピソードや採用しなかった柴堆ものを織り交ぜて編集したということは、正史では語りきれなかった"真実"を内包していても、おかしくはない」
Y「つまり、正史ではなく演義にこそ真実があるエピソードもある、ということか? だが、赤壁は」
F「うん。52回で見た通り、正史における赤壁の記述は極めて少ない。まとめると『曹操は対陣したものの、疫病からマトモな戦闘ができないと判断した。ちょうど(と云うのもアレだが)火攻めにあったので、他の船も焼いて北方へ退きあげた』というところだ。被害状況と相手に違いはあるものの、おおむね演義でもこの通りの記述が成されている」
Y「その『被害状況の差』こそが、最大の問題だろうが。そもそもの議論ポイントは、赤壁の戦闘とはあったのかなかったのか、あったならそれは大戦だったのか小競りあいだったのか、だぞ」
F「そうだな。正史の記述でみるならそれほどの戦闘には見えないが、演義では最大の戦闘として扱われている。この時点で、まず『赤壁の戦いはなかった』を除外する」
2人『……異議なし』
F「ご両者、王垕が何者か判ったか?」
A「あ、うん。曹操軍の食糧係だよな?」
F「その通り。袁術攻めの最中、曹操軍は食糧不足に陥った。王垕にどうしましょうと聞かれた曹操は、まず枡を小さくして食糧を配給する。少しはごまかせたんだけど、兵士たちはそれに気づいて不満を口にする。そこで曹操は王垕を殺し『こいつが食糧を横領していたんだよ』と適正量の食糧を配給し、それが続いているうちに袁術を破った……というエピソードだけど」
A「曹操の非情さを物語るのに、欠かせないエピソードのひとつだよな。前回まで、綺麗さっぱり忘れてたけど」
F「いちおう、家族には手当てをしてるんだよ」
Y「いや、それが何でここで取り上げられる? 20年近く前だぞ、その戦闘」
F「うん、ちょっとそれは、頭の片隅に置いといて。……ついでに、もうひとつ。以前僕が述べた孫策評について、アキラ、云いたいことがあったよね?」
A「おう? お前当時、孫策の本質をエディプスコンプレックスって云ってたよな? でも語源になったオイディプスって、父親を殺して母親を娶り、子供まで生ませた男だろ?」
F「いずれも上に『それとは知らずに』ってつけるべきだけど、その通りだね」
A「じゃぁ、孫策に当てはまるか? 父親への対抗心はともかく、二橋は母親じゃないぞ」
F「家康の後家好みは有名だが……」
2人『いきなり1400年飛ぶな!』
F「聞け。当時、家を残すためには子供を作るのが必須だった(養子を迎えるという手段もあったが)。そのため、子供を産める女が重宝されたんだ。一度子供を生んだことがある女の方が、処女やオボコより重宝されたわけだな。信長の事実上の正妻(生駒の吉乃)だって出戻りだし」
A「……待て、待て待て待て。お前のいつもの病気が始まったのはいいが、正史に二橋の年齢は記述されてるのか?」
F「直接の記述はないが、その父親に関する記述はある。つまり、橋公だが」
A「フルネームすら今まで出さなかった父親のか?」
F「え、出してるよ? 橋玄さん」
A「……人物鑑定の!? おい、待て! 橋玄は霊帝時代のひとって、お前云わなかったか!?」
F「うん、云った。実際問題、そうではないって話もあるんだけど、周瑜伝で妙な記述があるんだ。孫策の台詞」

 ――橋公のふたりの娘は、美人ではあるけど、我らを婿にできたのだから喜んでいいんじゃないかな。

A「何だ、コレ!? 美人……いや、美人なのかさえ判らんぞ!?」
F「確かに年齢の明記はないが、年上なのがニュアンスとして伝わってくるだろ? それも、たぶんかなりの年上だ」
Y「いや、待て。それなら曹操には、二橋を並べる権利があるぞ。橋玄は曹操に『家族を頼む』と云ってるんだから」
F「そうなるね。ところが、孫権……というか周瑜は、そのふたりを渡すのを拒んだ。曹操にしてみれば、かつて恩人から頼まれた娘たちを保護し(て、並べ)たいという欲望もあって、荊州経由で南下したわけだけど」
A「二橋が原因かよ……?」
F「現実問題、これは余談だ。さて、以前触れた通り、赤壁小競りあい説の根拠のひとつに『主だった武将』の戦死者がない、というのが挙げられている。ただし、『主だっていない』『武将以外』には死者がいる」
A「まぁ、袁家の四将も死んでるしなぁ」
F「夏侯恩と傑はともかく、それ以外の戦死した武将には、ある程度の法則が見られる。袁紹・劉表からの降将だ」
A「例の法則か?」(←魏に降ったザコ武将は、次の出番で戦死する)
F「四将は云うに及ばず、晏明・淳于導は姓から察するに北方系だし、鐘兄弟も荊州出身だろう。無論、正史に記述はないが、ある程度は姓で判る。そして、もうひとり注目しなければならない男が、演義では赤壁の戦いの最中に命を落としている。前回さらっと触れた『ちょっと笑えないイベント』なんだけど、それも、まるで判らない理由で」
Y「誰だ?」
F「劉馥」
Y「合肥の? そりゃ、まぁ208年死亡と正史にもあるが……」
F「そこが重要なんだ。泰永、正史における劉馥の死亡シーン、正確に読み上げてみろ」
Y「……読むのか?」
A「何で躊躇う?」
Y「……建安十三年(208年)亡くなった。以上」
A「……え? そんだけ?」
F「実は、マジでそれだけなんだ。アキラ、では、演義における劉馥の死を」
A「おぅ……。えーっと、酒宴の最中、曹操が詠んだ詩にケチをつけて、手ずから殺される。翌日、息子に手厚く葬るように涙ながらに申しつけた」
F「どう思う」
Y「ふたつにひとつだな。演義の創作としてこういう死に様を劉馥にあてがったか、あるいは柴堆にそんな噂があって採用したか。俺としては前者だと云いたいところだが……息子に、手厚く葬らせた?」
F「えくせれんと♪ 気づいたな。仲達が仕官を拒んだら『首に縄つけてでも連れてこい!』と命じた曹操が、そういう扱いをしている男が他にもいるだろう」
A「王垕……! え、じゃぁ……!?」
F「死に方……というか死後の扱いが同じだということは、少なくとも羅貫中はそう考えたということだ。曹操の策で劉馥は死んだ、と。では、どんな策か」
A「また、親殺しがどうのって話じゃないよね……? 演義からは、そんな策の欠片さえ見えてこないけど」
F「震えながら警戒するな。というか、演義にははっきり書いてあるぞ。蔡瑁が叛乱した、と」
2人『……は?』
F「正史に蔡瑁の死に様は記述がない。劉jが殺されたというのは演義の創作で、実際は青州に送られて、そこで生き延びている。だが、蔡瑁のその後について、正史には記述がない」
Y「……云われてみれば確かに、蒯越は曹操の元で出世したが、蔡瑁のその後については中途半端な記述しかないな。襄陽記で『(劉gを捨て劉jを取ったことで)軽蔑されつつ出世した』とあるが」
F「襄陽記では曹操に侮蔑されながらも生き延びたことが書かれているが、そもそも魯粛が劉備を尋ねたのはなぜだったか覚えてるか? 荊州の反曹操勢力を誰かのもとに集め、コレを使って曹操軍を足止めしようと考えたからだぞ」
Y「……で、蔡瑁か」
F「正確には荊州兵の叛乱だな。魯粛……というか周瑜の煽動で、荊州の反曹操勢力が動いたことは充分考えられる。曹操軍中に蔓延した疫病は風土病だ。つまり、荊州出身者なら知っていてしかるべきだったものであり、それが軍中に広まったということは荊州の将兵が曹操に心服していなかったということを示している」
A「サボタージュさせるという、消極的な謀反か。云われてみれば、演義で蔡瑁が処刑された表向きの理由って『決戦を前に軍務を滞らせたから』だったな。……でも、そんなことできるモンか?」
F「不可能ではないと思う。何しろ、蒋幹は周瑜と同郷だ」
A「っ!? そうか、逆も考えられるか……蒋幹こそが、周瑜の密偵だった、と」
F「というか、誰もが一度は思うだろう? 曹操が、こんな策に引っかかって蔡瑁を殺すかな、と。だが、本当は周瑜の策だったなら、ありえない話ではない」
Y「……で、劉馥はどこで出る? 赤壁がどこだったのかはともかく、少なくとも合肥ではないが」
F「赤壁で一連の戦闘が行われる前に、孫権が合肥にちょっかいを出して、ところが曹操軍の援軍が来たから兵を引いた……というイベントが、正史でも演義でも書かれている。この軍勢を孫権が率いていたため、孫権は赤壁に来なかったんだけど、問題は、なぜこのタイミングで孫権が北上したか」
Y「……蔡瑁かどうかはともかく、荊州勢のサボタージュで曹操軍には疫病が広まりつつあった。その状態で、孫権本隊が到着したら、曹操軍の被害は大きくなる。そういうことか?」
F「えくせれんと。おそらくは曹操の策だ。劉馥に命じて、孫権に『さぁ、合肥に兵をお出しください。我らが先陣となり、許昌へと攻め上りましょう!』と持ちかける。真に受けた孫権は兵を出し、本性を現した劉馥と交戦。だが援軍が来たことで兵を引いた。……この時の合肥攻めについては、正史や『蒼天航路』に詳しいな」
A「でも、出す? 孫権だってバカじゃないんだよ?」
F「緒戦で敗れた曹操が、苦戦して見えたのは周知の事実だぞ。そして、それゆえに官渡では曹操の下から袁紹に寝返りの書状を送った者も少なくなかった。いずれ見るが、孫権がそれを知らなかったことはありえない。それゆえに劉馥の寝返りを信じたのではあるまいか」
Y「旧袁家の降将や荊州の将の、寝返りの密約。曹操軍中には疫病が蔓延。加えて、涼州での不穏な動き……」
F「それらの諸条件から自軍の劣勢を把握した曹操は、退却のための策を弄した。まず、目前の敵をこれ以上増やさないために、劉馥に命じて孫権の足を止める。劉馥は、汚名の代償にその家族を厚遇するとの約を得て、納得して死ぬ。それを見届けた曹操は、自軍を撤退する策を講じた」
A「……病気の将兵を船に乗せておき、火攻めにあったのをいいことに彼らを見捨て、南郡まで撤退する?」
F「赤壁における曹操軍の本当の敵は、周瑜でも劉備でもないだろう。寝返った焦触たちが、兵を率いて襲いかかってきたら、諸将こぞって曹操を逃がすべく奮戦するはず。その辺りの組みあわせは、演義での呉将を焦触たちに当てはめれば判りやすいな。実は、演義にこっそり書いてあった。夏侯恩・夏侯傑は、曹操の身辺警護だ」
A「でも、曹操は逃げ延びた……と。曹操の逃げ足が速かったのか、それとも他の要因が?」
F「ここで蔡瑁たちがもう一度じゃないかな。他の連中とは違って、積極的には曹操に叛乱しなかった蔡瑁が、曹操を救ったのかもしれない。荊州第一主義の蔡瑁なら、いくらでも逃げ道は把握していたはずだ」
Y「……何というか、凄まじいな」
F「だが、はっきり云おう。今回は全て、僕の妄想だ。探せば史料的裏づけはできるだろうけど、基本的には僕が、史料から思いついたものを並べたに過ぎない」
A「おいおいっ!?」
F「正直、赤壁に関してはいくらでも書けるな。正しい歴史がどこになるのか、僕も誰も知らないわけだから。あるいは、本当にこんなことがあったのかもしれない。もちろん、それは誰にも判らないことだけど」
2人『うーん……』
F「赤壁の戦い……三国時代最大の戦闘と称されながら、その全てを知ることは今もってできてはいない。たったひとつ云えるのは、この戦いによって曹操の天下一統は阻まれたという事実。漢土全域が一勢力によって支配されるのは、これより実に70年先となる」
A「長い……長い歴史だな」
F「続きは次回の講釈で」

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