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私釈三国志 52 赤壁小戦

F「さて、もちろん前回は丸ごと演義でのオハナシだったわけだけど」
A「おいおい、小戦って……赤壁は三国志屈指の大イベントだろーが。天下統一を目論む曹操の野望を、孔明と周瑜の両軍師が打ち破り、ここに真の三国時代が幕を開けるという」
F「演義では、と云うべきだろうな。何しろ、正史での記述はあまりにも少ない。意外に思うかもしれないけど、そもそも赤壁の戦いがどこで行われたのか、正確な場所さえ判ってないんだから」
A「ふっ……それについては、さすがのアキラで対策くらいは講じてある。まずはお兄ちゃんの意見を聞きましょう」
F「えーっと、一般的に古戦場として知られている長江中流域だけど、この辺りの地層からは炭化層が出てこないとのこと。つまり、大規模な火事は起こっていないことになる。また、大戦とされているにもかかわらず、曹操・孫権そして劉備のいずれの軍においても、『主だった武将』の戦死者がない」
Y「架空の戦闘だったという説は根強いな」
A「んふふ。ふたりとも、大事なことを忘れてるねー? そもそも正史は、魏を正統な王朝として編纂されたんだぞ」
Y「云われなくても判ってるぞ、それくらい」
A「だったら、その魏王朝の創始者たる曹操の負け戦を、大々的に書くわけがないだろうが! 上手くごまかして、小規模な戦闘しかなかった、みたいな記述で済ませるわ! だから、正史に記述がないのじゃ!」
Y「炭化層は」
A「純粋に、場所が違うというのはどう? 正確な場所は判ってないんだから」
Y「むっ……」
A「あるいは、流されたなんてオチもあるかも。何しろ1800年前なんだから、当時と今とでは長江の流れている場所が違っていても少しもおかしくないでしょうが」
F「ふむ……長江の流れについては、確かにそうかもしれん。僕も、例の古戦場については、ホントにあんな場所で戦闘があったのかは疑問視していた。炭化層については、僕としても反論はしかねる」
Y「幸市。お前、袁紹が死んでからこっち、演義寄りだぞ」
F「いや、ここからは本領発揮だ。ただしアキラ、正史の記述については、キミ露骨に考え違いしてる。たとえ正統な王朝であっても、負けたなら負けたとはっきり書くのが、正しい歴史家の態度だ」
A「自分の主の業績を悪く書く歴史家がいるか? そんなモンいたら解雇されるか、悪けりゃ殺されるぞ? そこまでして正しい歴史を書き残す奴が官職には少なかったから、野人の歴史が生まれたわけで……」
F「見てないなら『ぶり〜ど!』の攻略の、裏ページを見てみろ。その辺りについて実体験交えて書いてあるから。簡単にまとめると、殺されてでも正しい歴史を書くのが、歴史家として正しい態度なんだ。そもそも、正史には実際に曹操の負け戦について触れてあるだろうが」
Y「生涯勝率8割だったか」
A「うぐっ……」
F「歴史家が敬意を払うべきは歴史かでなけりゃ神であって、現世における上位人におもねり、事実を歪曲するがごとき悪しき蛮行は許されるべきではない。正直に云うが、僕が司馬遷を高くは評価していないのはその辺が原因だぞ。全身くまなく儒教に凝り固まったあの男は、歴史を……つーか歴史書を、儒教的正義感で構成しようとしたんだから」
A「まぁ、司馬遷が儒者だったことは否定しないけど……」
F「……話が逸れたな。というか、曹操が実際に負けたから正史にそれを書けないと云うなら、徐州での大殺戮や長坂坡での虐殺をこそ、陳寿は隠すべきだったんじゃないか? 僕でなくても、マトモな神経の持ち主なら、負け戦よりむしろそっちをこそ恥じるだろう」
A「……それは、まぁ、その通りか」
F「というわけで、大敗だったから正史に書けなかった、というのは論理として成立しない。反論は?」
A「……できねーけど。じゃぁ、正史に書いてあるからって、それが全部正しいってのか?」
F「それはさすがに云わないけど……ね。演義を鵜呑みにせず正史を軽んじず、だが演義を否定せず正史を信じすぎない。それが正しい態度だと、僕は信じる。……ひとまず、正史における赤壁に関する記述を、列挙してみる」

魏書武帝紀(曹操伝)「曹操は赤壁に来て劉備と対陣したものの、緒戦では敗れた。その頃疫病まで起こり兵士が多数死んだので、仕方なく軍を退きあげた」
蜀書先主伝(劉備伝)「曹操と赤壁で戦って、大勝! 曹操軍の船を焼いて、南郡にまで迫った。曹操軍は、軍中に疫病が起こって兵士が多数死んだので、退きあげた」
蜀書諸葛亮伝「曹操は赤壁で負けて、軍を退いた」
呉書呉主伝(孫権伝)「周瑜と程普を派遣して劉備を援護させ、赤壁で曹操軍を徹底的に打ち破った。曹操は生き残った船を焼いて退きあげたものの、飢えと病で兵の多くが死んだ」
呉書周瑜伝「劉備と共同で、赤壁で曹操軍と戦火を交えた。すでに疫病が蔓延していたため緒戦で敗れた曹操軍は、長江の北岸に陣を構える。持久戦は不利なので、黄蓋の献策を容れ、船に油を積み突っ込ませた。強風にあおられて曹操軍は炎上し、焼け死んだり溺れ死ぬ者多数。曹操は退却し、追い討ちを受けたので曹仁を江陵に残して退きあげた」
呉書黄蓋伝「周瑜の配下として赤壁で曹操軍を押しとどめ、火攻めの計略を進言した。戦闘中流れ矢に当たって長江に落ちたものの、引き上げられても顔を知る者がなく、便所に放置される」

F「関係者6名については、こんな具合。周瑜のそれが一番詳細なので、注目すべきだと思うけど」
Y「……おい、待て。改めてまとめると『劉備が曹操と戦い、これを打ち破った』みたいな記述になってるぞ。戦ったのは主に周瑜の軍勢で、劉備はその後ろで進むも退くもできる態勢になっていたんじゃなかったか?」
F「えーっと、その辺についての反論……あった。先主伝の注に、劉備がそういう態勢になっていたという記述があるんだけど、『劉備は、滅亡の危機に瀕してひとの援助を受けたからには、後方でのほほんとしているはずがない。その辺りのことは、呉のひとたちが一方的に云っているに違いない』とツッコミが入ってる」
Y「正史が劉備を賛美するな」
A「……お兄ちゃん」
Y「恋する乙女色に染めた瞳で、ナニを云い出すつもりだ、お前も?」
A「アキラ、前言を悉く翻します! なるほど、お兄ちゃんは正しかった! 正史ブラボー!」
Y「そこでお前も寝返るな!」
A「やかましい! 正史ということは書いてあるのはおおむね真実なの! 歴史書に嘘書くバカがいるか!」
Y「バカはお前だ!」
F「恐るべしだよ、正史三国志……。よくよく読んでみると、劉備が曹操と戦ったように書いてある。確かに、周瑜率いる孫権軍の援護は受けたものの、戦ったのも勝ったのも劉備だって書いてあるンだモンなぁ」
Y「ええぃ、俺だけでも本筋を貫いてくれる。だが、疫病が起こっていたのは事実だな? 発生したタイミングはともかくそれが原因で、緒戦に敗れた曹操は、長江の北岸に陣を構える。そこで黄蓋の計略によって火攻めに遭い、やむなく曹操は退きあげた……ってところか」
F「全体の流れとしてはそんな感じ。……ただし、ここで官渡のことを思い出してもらいたい」
Y「ナニを云い出す、お前は?」
F「聞け。袁紹軍70万に対して曹操軍1万、というのが一般的な官渡での戦力比だけど、そうではないということはすでに触れた通りだ。では、曹操軍100万に孫権(周瑜)軍10万に劉備軍1万、という赤壁の戦力比にも、疑問を提示する余地はある。赤壁での曹操軍は、多く見ても20万というところではなかったかとされているんだね」
Y「妥当なラインだと思うが」
F「対して、この頃の孫権軍では、動員できる兵力は多く見ても5万が限界だったはず。孫権が大軍を動員できるようになるのは、荊州を占領してからだ。となると、徐州への抑えを抜くと、赤壁に向けえたのは3万がいいところでな」
A「……え?」
F「思い出したな。この頃の劉備軍は、劉gや江夏・江陵・夏口などの兵をかき集めて、3万近くに膨れ上がっていたことを。後ろでのほほん、どころではない。ほぼ同数の、文字通りの共同軍足りえたんだから」
Y「ぅわっ……演義での数字だと思って、ほとんど聞き流してたのに」
A「正史は素晴らしいね、お兄ちゃん!」
F「ともあれ、交えられた緒戦において、曹操軍は敗北する。北方の兵が、長江流域の気候や水戦に慣れていなかったのが原因と見られるが、曹操軍は北岸へと兵を退き、ここに陣を構えた。赤壁の戦いは、長期戦の様相を見せる」
Y「とーとつに締めに入ったな」
F「続きは次回の講釈で」

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