前へ
戻る

私釈三国志 45 曹軍南下

F「ここで一度視線を北に戻す」
A「曹操の動向?」
F「以前見た通り、漢土十三州のうち、袁紹亡き今、八州が曹操領となった。官渡以後7年に渡って河北平定に時間と勢力を費やしていたんだけど、それは結果に結びついたと云っていい」
A「孫権・劉表・劉璋がそれぞれ一州ずつ、涼州は相変わらず馬騰と韓遂、交州は異民族が統治、だったな」
F「そうなる。厳密には、益州の北・荊州の北・幽州の隅っこには、それぞれ固有の武力集団がいるんだけど、その辺りは、この時点ではそれぞれの州の支配者に従属していると考えていいな」
A「劉備と、張魯と公孫康か」
F「張魯が益州で劉備が荊州。順番違うから。現実問題公孫康は、交州の山越同様、無視してかまわないけど……ね。えーっと、以前どっかで触れたけど、魏というのは漢朝の区分なら冀州に相当する。袁紹が善政を敷いていたことで『人口が多くて裕福、30万の軍勢とその糧食を用意できる、とってもいい土地ですよー』と云われたくらいだ」
A「……青州の黄巾賊は、100万を数えたな」
F「単純計算なら、その二州だけでも60万からの軍勢を動員できるな。そのことからも曹操は、それまで張っていた兗州牧の座を辞して、冀州牧に就任した。曹魏という表現を適用できるようになるのは、実際、西暦で云うなら205年、これ以後なんだな。連載読み返してもらえば判るけど、僕はここまでの曹操軍団をそうは呼んでいない」
A「……あー、確かに。いくらか微妙な表現はあるけど、魏とは呼んでないな」
F「以前までなら、ここで群雄の派閥関係を出すところだけど、すでにそう呼べる者が少なすぎるからなぁ。いちおうやっておくと、こんな具合になるのか」

官軍:曹操
親曹操派:劉表・劉j(蔡瑁)、馬騰
反曹操派:孫権、劉備・劉g
局外中立:韓遂・馬超、劉璋、張魯
対象外:公孫康

F「官渡の戦いで、劉表は動きこそしなかったものの、袁紹と組んでいた。また、袁紹軍の部将だった劉備をかくまったことも、曹操から見れば許しがたい挙動。それを、荊州第一主義とでも云うべき地元豪族の蔡瑁は苦々しく思っている。対して、荊州が曹操に降ったら自分はとんでもないことになる劉備は、劉gをそそのかして曹操との対決方向へ持っていこうとしていた……という具合だね」
A「馬騰と馬超(親子)の意見が違うのは、微妙なところだな」
F「状況によるものだろうな。馬騰は宮中に出入していたから、曹操軍の強さを知っている。だが、馬超は韓遂にそそのかされて、涼州で軍閥化しているから。当時は、西北の異民族相手に戦闘を繰り返していたはずだな。劉璋は益州に拠って自立し、張魯は漢中に一大宗教都市を作り上げていた。なお、公孫康は、父の代からの朝鮮半島攻略に専念しているので、とりあえず中原の争いからは除外した」
A「ナニやってンだか……」
F「残る孫権は、えーっと……建安七年だから202年かな、孫策の息子を参内させるよう求められた(孫権にはまだ子がいなかった)ものの、これを拒絶している。道教関係から絶大な支持を得ている曹操が、河北を平定したのちに向かう先は、揚州か荊州だろうと察したんだろうね。魯粛辺りの入れ知恵か、対決姿勢を示しつつある」
A「漢中に張魯が根を張っていると、益州を攻められないってことだな。で、孔明にせよ魯粛にせよ、長江以南を統一して曹操に当たれと云ってるのは変わらないわけだから、その辺の利害は一致している?」
F「究極的には主導権争いを起こすんだけど、まぁそれは先の話。さて曹操、袁家討伐を進めながらも、内政の充実に努めていた。まずは、官渡及び曹袁戦争で疲弊した河北四州をメインに、民政の安定」
A「袁家の威光をしのぶ民衆も少なくないんだろ? 河北には」
F「その通り。ために、曹操は思い切った行動に移る。河北……袁紹領の最大拠点だった鄴に、居城を移したんだね。その上で、さまざまな政令を発布して、民を慰撫しようとした」
A「献帝の在所は、許昌だろ?」
F「さすがに皇帝は動かさなかったんだけど、最高責任者自ら動いてきたことで、ある程度河北の民衆のなびいたらしいね。一方で、個人の復讐や華美な葬礼を禁止して、ムチも奮っているけど」
A「アメだけじゃないわけな」
F「次に、軍規の確立。先に見た通り、官渡集結前に袁紹と通じていた連中の書状は全て焼き捨てたものの、こちらでもアメとムチは使い分けている。夏侯惇が劉備領に攻め入って撃退されたことがある(ただし、演義とは異なり孔明出仕前)けど、夏侯惇がこれを恥じて、自ら縛され出頭したのは有名な話だろ。曹操と何かと反発することが多かった、孔子の末裔たる孔融が、(半ば、禰衡との友誼を理由に)品行よろしからぬと処刑されたのもこの頃だ。一方で、官渡で功績のあった荀ケ・荀攸・楽進・于禁・張遼、そして亡き郭嘉の功を賞している」
A「でも、夏侯惇、罰されたっけ?」
F「……それはさておいて」
A「流すかな……? やーねぇ、お兄ちゃんったら」
F「えーっと、加えて、人材の充実か。袁紹配下だった人材は、袁家滅亡後はおおむね曹操の下に流れている。看板はともかく、地盤・鞄ともに袁紹のそれを引き継いだ曹操は、人材についても袁紹から受け継いだような状態で」
A「袁紹びいきは以前聞いたけど、まだその影響が抜けてないんだな」
F「んー、曹操の……というか魏の政策に関する、袁紹の影響についてはいずれもう一度触れるけど。曹操は、袁紹の築いたものを最大限に利用することで、自身の覇業の助けにした。それは覚えておいて」
A「はぁ」
F「もっとも、曹操自身の政策に関しても、決して無視できないことをしている。その筆頭たるが、三公の廃止」
A「えーっと、司徒、司空、太尉……だっけ」
F「正解。前漢は外戚で滅び後漢は宦官で滅んだと云うけど、いずれにせよ国政の中枢にあったのに、政治を省みず自らの利益確保に終始したのがまずい。そこで、政治の主導権を三権分立(微妙に違う)させておくのではなく、宰相職を置くことで、一極化しようとしたわけで」
A「丞相、だっけ」
F「そゆこと。自ら、最高の官職につくことで、政治を主導する立場に名実ともに君臨したんだね」
Y「基本的には、何進や董卓と同じことをしたわけか。連中は、三公の上に大将軍や相国として君臨することで、国政を左右しようとしたが」
F「そのいずれも、三公(及び、それに累する者)に討たれているのを懲りたんだろうね。数年前に、外戚だけど車騎将軍がクーデターを起こしかけたわけだから」
A「警戒もするか」
F「さて、鄴に玄武池という巨大な遊水地を作った曹操は、水軍の修練にいそしんだ。南下しますよー、という意思表示だな」
A「曹操が巨大な池で水軍の修練したのは、有名な話だけど……それ、いつくらいのことなんだ?」
F「袁家滅亡の翌年だな」
A「……208年か」
F「荊州に兵を向けたのが、その年の7月なんだけど、いつくらいに玄武池ができたんだろ? あまり、長い時間はかけなかったみたいなんだけどなぁ」
Y「というか、修練なら黄河でやればいいだろ?」
F「泰永、黄河は小船でも渡れるが、長江はちゃんとした船を用意しないと渡河できない。規模と川幅を考えろ」
Y「見たことないからな、俺」
F「……それじゃ無理もないか。えーっと、というわけで曹操軍は南下を開始する。曹丕を伴って出陣した曹操だったが、向かう先の荊州から早馬の使者がもたらされた。208年8月、荊州牧劉表死去(享年66)。その後を継いだ劉jは、戦うことなく曹操に降るという」
A「……官渡までは連載30回を数えたのに、広い意味での赤壁は、それが終わって5回だぜ?」
Y「比率の配分も間違えてないか?」
F「あー……いや、実は赤壁に関しては、実に面白い記述を見つけたので。正直、早く書きたいなー、などとガラにもなくはしゃいでいまして」
Y「また何か変なもの見つけたのか、この雪男は?」
A「アキラは限りなく不安です……」
F「続きは次回の講釈で」

津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
【真・恋姫†無双】応援中!
進む
戻る