私釈三国志 44 三顧之礼
Y「だから」
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F「もうしませんと云いたいところだけど、最低でももう1回はしないといかんからなぁ……」
A「まぁ、中盤最大のイベントだからな♪ 偉大なる劉備玄徳と優秀すぎる大軍師の邂逅!」
Y「……何とか云え」
F「ふぁいっ!(かぁーんっ)」
A「正史・演義問わず、三国志後半において孔明が主役であることは否定できんだろうが! その孔明のデビューが、あっさりと流されていいはずなかろう! 三顧の礼は中盤最大のイベントなの!」
Y「忘れてるだろうが、俺が前々回で口を出した辺りからは、全て演義でのエピソードだぞ。正史には、徐庶(単福)や水鏡関連のイベントは発生していない。孔明においても推して知るべしだ」
A「これを読んで泣かねば男じゃないとまで絶賛された出師の表で『劉備様は我が家を三度訪問されました』って書いてある! その息子に向かって嘘書くわけないでしょ! ヤス、チ○ポついてるの!?」
Y「お前よりでかいのがついてる。そも、孔明が当時でも有数の賢人だったことは否定しない。だが、だったらその賢人が、20も年上のそれも皇族を、わざわざあばら家に赴くのを是とするか?」
A「それを敢えてやったのが、劉備の偉さなの! そして、それをやらねばならなかったほど、孔明は偉大なの!」
Y「その頃の孔明は二十そこらの若造だぞ。そんなモンに頭下げて仕官を乞うては、劉備の格も下がる」
A「むぅーっ!」
Y「ふぅ……」
F「(かんかんかん)はい、そこまでー。いやぁ、劉備びいきとアンチ劉備とがいると、話が弾むね」
2人『収拾しろ!』
F「云いたいことは大体出たと思う。えーっと、2回前に泰永が『この辺り』とか云った辺りからは、ほとんど全部が演義におけるエピソードになります」
Y「当然だ。徐庶は劉備配下ではほとんどことを成していない」
F「正史でも、その徐庶が、劉備の下にいた頃(去るのは長坂坡のとき)に孔明を推挙しているんだね。"臥龍"と称される、荊州最高の賢者という触れ込みで。ただし『ただ、アイツ、プライド高いっスからねー。将軍が自分で行かねーとダメかもっスよぉ』とも云っている」
A「そのキャラから離れない? でも、水鏡センセも云ってるよな。孔明は、自分を管仲・楽毅になぞらえておるが、そんなのとんでもない。むしろ、周の太公望・漢の張良と比べた方がよい、と」
Y「演義では、な」
F「まぁ、確かに……。えーっと、さっきアキラが云った通り、劉備は孔明の庵を三度に渡って訪ね、自分に仕官するよう求めたとされる。ここから『三顧の礼』という故事が生まれたくらい、有名なエピソードなんだけど、これが実際にあったのかというと疑問視されている」
A「むぅーっ……」
F「正論なんだよ。負け続きとはいえ劉備は、黄巾の乱から戦い続けてきた歴戦の勇者だぞ? それも、豫州牧にして皇叔とも称された貴人。20も年下の孔明の庵を、果たして三度も訪ねるのか。また、稀代の教養人(実践が伴わないので知識ではない)の孔明が、それをよしとするか」
Y「当然だ。いくら人材不足とはいえ、わざわざあばら家の若造を自ら、それも三度も訪ねるのは、劉備の名をおとしめる結果にしかならんはずだぞ」
A「だから、やったからこそ劉備は偉いの! だからこそ孔明は、それに応えたんだよ!」
Y「あー、うるさい。で? お前はどう思ってるんだ、幸市。三顧の礼はあったのか、なかったのか?」
F「実は、あったんじゃないかと思ってる」
A「よしゃー♪」
Y「は? お前がか……? えーっと、その心は?」
F「そこで取り出しましたるは、プレジデント社発行の経済誌『プレジデント』の94年10月号」
A「……お兄ちゃん、当時幾つ?」
F「今も昔も同い年だろ。そこに、興味深い記述があった。水鏡センセが荊州に来た当初、劉表は召し抱えようと訪ねたものの、その本質を見抜けずに『何だ、あのはおはお野郎は?』とあざけった世説新語の記事が掲載されているのね」
Y「中学そこらから、そんな雑誌買ってた辺り、親が捨てる気持ちが判った気がする……。だが、それなら問題ないだろ? 正史に記述はないが、年寄りなんだし」
A「……怒られますよ? ナイスミドルです」
Y「ロリっ娘孔明の真似はいらん。つーか、ナイスミドル? 何をアホなことを」
F「いや、例の牧童がはっきり云ってるんだ。水鏡先生は龐徳公より10歳年少、龐統より5歳上、と。要するに174年生まれ。劉備よりは13歳年少で、驚くべきか瑾兄ちゃんと同い年だ」
Y「諸葛瑾と? えーっと……いや、待て。それ、演義の話だろうが」
F「正史でも、"臥龍"・"鳳雛"そして"水鏡"の名付け親が龐徳公だと、はっきり書いてあるぞ。それを察するに、この数字、意外と妥当なラインじゃないかと思えないか?」
Y「……やばい、反論できん。というか、龐徳公との年齢差は、さらに大きくてもおかしくない」
F「というわけで、32歳年少の水鏡先生を、皇族にして大将軍の副官たる荊州牧(劉表)が自ら訪ねてるのを考えると、劉備が孔明訪ねてもおかしくないよなぁ……と、僕は思ってたんだね。当時から」
Y「……今まで一度も聞いたことなかったぞ、そんな話」
A「アキラも。えーっと……ていうことは、他の州はさておいて荊州には、在野の賢者を自ら訪ねる習慣があった、みたいな見方もできるよね」
F「うん、僕としてはそう思っていたんだね。劉表は龐徳公をも訪ねているから。以前云ったけど、袁紹が何進を殺したのではないかという疑いを抱いたのは、この連載を始める前に関連史料を読み返していたときだ。でも、三顧の礼に関しては、13年前から、ずっとそう思っていた。……あった、と」
A「いやぁ、お兄ちゃんが同志だったとはアキラ感激〜♪」
F「ただし、劉備には劉備の打算があったと見ていい」
2人『……ん?』
F「孔明に関しては、かなり有名なフレーズがあるよね? 例のヨメに関してだけど」
Y「孔明の嫁取り真似するな、承さんところのブスつかむ、か?」
A「美人だったって説もあるよ?」
F「麒麟も老いては駄馬にも劣る」
A「……月英さん、年は幾つだよ」
F「どうだろ? 息子が生まれたのは、孔明が46の時だったはずだけど」
A「だったら、トウが立ってたからブスだと思われてたって理屈には無理があるからな!?」
F「それはともかく。問題の『承さん』こと黄承彦は、荊州の実力者・蔡瑁の姻族なんだ。姉は龐徳公の息子に嫁ぎ、弟の均クンは襄陽の大豪族・習氏から妻を娶っている」
A「……随分な名士だな」
F「かつて劉備が呂布を受け入れたのは、董卓を殺した勇者を配下に招くことで己の名声とする目的があった。むしろ売りの劉備は、皇族ではあっても絶対的なまでに名声が欠けていたのね。それだけに、荊州の名士・名族に婚姻関係で深く喰いこんでいる孔明という男は、喉から手が出るほどほしい人材だったのは疑う余地がない」
A「見方を変えると……孔明は、君主が三度に渡って自ら赴かなければならないほどの、価値があったと?」
F「そういう見方もできるだろ?」
A「やはし、孔明が偉大だったと認めるワケですねっ♪」
Y「納得いかん……」
F「はいはい、仲良くなさい。ところで、云いたくてひたすらうずうずしていたコトを云ってもいいでしょうか」
Y「何だ? これ以上劉備びいきの発言するなら、俺としても態度改めるが」
F「いやいや、そうではない。泰永なら、むしろ喜ぶんじゃないかと思う発言だ」
2人『その心は?』
F「実は、正史では、水鏡先生と孔明との間に、師弟関係は確認できない。面識はあっただろうけど、水鏡センセに弟子入りしていたのは、むしろ龐統の方のようで」
A「なんですってー!?」
Y「よしゃー」
F「ともあれ、劉備の訪問に応じ、孔明はその庵より世に出でる。沼の底に臥せし龍が、風を得て空へと昇る日が来たのであった。水鏡先生は云う。臥龍、主を得るとも、惜しむらくは時を得ず……好、好と」
Y「……見方によっては、劉備に否定的とも取れる発言だな」
F「続きは次回の講釈で」