前へ
戻る

私釈三国志 40 袁紹本初

F「はい、ひたすらお待たせしまくりました『官渡のあと』ですー。……おや?」
2人『こー来たか……』
F「うん。正直、この連載やろうと手元の史料読み返したあとで『あぁ、1回コレやらなきゃだなぁ』と痛感した」
Y「……なるほど、五文字か」
F「まぁ、今のペースだと150回くらいになりかねないんだけど……ね。さて、袁紹には極めて有名なエピソードがある。例の花嫁強奪のオハナシだけど」
A「あれか? 新婚さんのおうちに曹操とふたりで乗り込んで、花嫁さらっていこうとした」
F「それだね。ところが、植え込みでつまづいた袁紹、もう立てないと泣き言をほざく。一計を案じた曹操は、そこで『嫁泥棒はここだぞ!』と声を上げた。驚いた袁紹は弾みで立ち上がり、無事に逃げ延びたとか」
A「その嫁、どうなったんだろう」
F「どうでもいいだろ、それは。この一件から見えるのは、袁紹の性格だ。悪いことでも平気でしでかす野心はあるものの、すぐに挫折して泣き言をほざく。その割には、妙な地力がある男だな」
A「地力はさておいて……まぁ、そんなところだよな」
F「以前さらっと触れたけど、袁紹と袁術の血縁関係は微妙でね。袁術は、後漢で司空を勤めた袁逢の実子。袁紹の出自には、その兄・袁成の実子という説と、袁逢の庶子(で、袁成の養子になった)という説とがある。ところが、袁家の中心は、少なくとも董卓の専横時代には、袁紹のところに移っていたのは、史料的にも明らかだ」
Y「天下の士人は(袁紹の叔父が殺されたことに)復讐を誓い、こぞって袁紹に味方した……だったな」
F「うん。袁家にではなく、はっきり袁紹にとある。となると、袁術とは腹違いの兄弟だったという説にこそ説得力があるように思える。袁術には、袁紹のような奔放なエピソードは存在しない。後を継ぐことがないと思われていた庶子だったら、あんな性格に育てられてもおかしくはあるまい」
Y「それじゃ袁術との関係は、遠からず悪化するな。年上とはいえ自分より格下に見ていた袁紹が、袁家の中心に納まったら、名門意識が強い袁術が面白かろうはずがない」
F「まぁ、何進や董卓といった、自分たちより上位の存在……要するに敵がいる間は、対立もしなくてよかっただろうけど、それらがなくなった時、対立は表面化する」
A「洛陽から逃れたとき?」
F「だな。朝廷という権威から解放されたとき、袁紹・袁術はどんな態度をとったか。袁紹は他の皇帝を擁立することで董卓に対抗しようとした。袁術は、自ら皇帝を名乗った」
A「いずれにせよ、董卓の建てた皇帝を認めようとしなかったわけか」
F「袁紹はかろうじて、形の上だけは認めたけどね。袁術に到っては、完全に漢王朝を否定した。その辺のイデオロギー対立が、当時の中原での派閥抗争につながったのは以前見た通りだ」
A「でも、袁紹は長安にいた当時の献帝を、保護しようとしなかったよ? 沮授の進言を退けて」
F「袁紹は、董卓から漢王朝を滅ぼし帝位に就く野心を聞かされた時、剣をつかんで『天下の英雄はお前だけではないぞ』と云っているんだけど、これは果たして、字義通りにとらえていいものかと悩む」
A「……その心は?」
F「帝位につく資格があるのは誰なのか、と考えた場合、それが董卓であってもいいなら袁紹であって悪いということにはならない。そして、他にも帝位に耐えうる人物はいる。……袁紹は、そう云いたかったンではなかろうか」
Y「例の、名族支配体制か」
F「傀儡たる皇帝を擁立さえしてしまえば、あとは豪族・名族で国を動かしていけばいい、というのが袁紹一派の考えだったワケだから。その皇帝が、劉氏の種である必要はないのね。……漢王朝が滅んだ後なら」
Y「少なくとも漢王朝が滅んでいない間は、簒奪との悪名を帯びないために、劉氏の皇帝を立てておく必要があった、ということか? しかし、袁紹は献帝を積極的に廃そうとはしなかったはずだが」
F「積極的には、ね。長安で権力争いのド真ン中においておけば、死んでくれたかもしれないでしょ? 現に、李・郭の内輪揉めで、献帝の眼の前を矢が走った、なんて記述もある。そのままほっとけば死んだかもしれないけど、賈詡がいたばっかりにそうはなってくれなかった」
Y「あまつさえ、より安全な曹操の懐に、献帝の身柄は移った、と」
F「曹操は宦官の孫だからね。朝廷に寄生して甘い汁を吸う、その体質が祖父から受け継がれていたのかもしれない」
A「……云い過ぎ」
F「たはは。ところで、僕は以前さらっと云ったよね? 曹操には献帝を廃するつもりはなかった、袁紹ならまだしも……って。泰永なら、裏が読めるかな」
Y「……官渡で袁紹が勝っていたら、追い詰められた曹操軍がやったように見せかけて、献帝は殺されていた?」
F「以前、似たようなことがあっただろう。何進の死によって混乱した朝廷から、少帝と献帝(当時は協皇子)が連れ去られた事件が。あの時、皇帝一行を保護しに向かったのが曹操だと、僕が判断したのには、そんな根拠があったわけだ。曹操は、基本的には漢王室を輔弼していたから」
A「はぁー……」
F「さて、袁紹が、呂布に苦戦していた曹操に、鄴へ家族を送るよう云ってきたのは、降伏を求めてのことだった……とされている」
A「違うの?」
F「あるいは、袁紹の自己顕示だったようにも思える。官渡の戦いで、許攸は袁紹にまったく信用されず、むしろ激昂されて『本来なら殺すところだが、今回は大目に見てやる!』と云われているんだ。袁紹という男は、ムダに大物ぶっている……というか、大物としての自覚があるからそのように振舞っている。曹操に降伏を求めたのも、あるいは旧友の窮地(この時点では、献帝の身柄をおさえていない)に、本気で援助しようとしたのかもしれない」
A「ンなバカな。いくら袁紹でも、そこまでおひとよしじゃないでしょ」
F「そこで見てもらいたいのが、次の評価で」

『袁紹はただ寛容なだけです』
『他者が餓えたり凍えたりしていると手を差し伸べますが、眼に見えないことは気づきません』

F「郭嘉による袁紹評だ。郭嘉も荀ケも、一度は袁紹に仕えているから、この辺りの評価は手厳しくも真相をとらえているように思える。つまり、寛容に手を差し伸べることで、自分が大人物だと喧伝したかったのかと」
A「……おひとよしだな」
F「袁紹は英雄と呼ばれるにふさわしい男だった。ただし、同時代に董卓と曹操がいた。それが、袁紹の不幸だったのね。あのタイミングで董卓が上洛せず、あるいは曹操が自立しなかったら、袁紹が天下を盗っていた可能性は高い」
A「えーっと……その心は」
F「想像してみよう。何進が董卓を呼ばず、かつ、袁紹が少帝及び協皇子の身柄を保護できていたら。正史では、宮中の宦官殺戮に手間取っていて、董卓に皇帝一行の身柄を抑えられた。それがなく、袁紹が保護していたら?」
A「大将軍の死によって、空白となった最高権力者の地位についていた、と? そうはいかんだろう」
F「先に述べてあるよ? 少帝の身柄を押さえられれば、劉表(何進の副官)が率いていた何進の軍勢は引き継げた、と。しかも、董卓がいなければそのまま朝廷を牛耳ることも不可能ではない」
A「どうやって? 何進の参軍が権力を握ろうとすれば、何進の妹が黙ってない。盧植や丁原もどう動くか」
F「当時の袁紹には、頼れる親友がいたよ。懐妊中の(献帝の)お妃様を平気で殺せる男が」
A「……曹操か」
F「淳于瓊をはじめ『西園八校尉』は袁紹閥だ。丁原は董卓と同じコトをすればいい。呂布を使うかは判断だけど、叔父(袁成・袁逢の弟)はそれこそ相国に祭り上げて、でも実権を奪うことで無力化する。王允だけは危険だから、早い段階で除いておかねばならない。朝廷には当時、荀攸や鄭泰がいたから、代わりの文官には恵まれているし」
A「この時点では、それほどの地位にはいなかっただろ?」
F「マトモな行政手腕さえあれば地位がなくても天下を保てるのは、賈詡が実践してるぞ。むしろ怖いのは、盧植を首魁にコーソンさんや劉虞、そして劉備(+関羽・張飛)を擁する幽州連合と、おそらくは韓遂のプロデュースで結成されるであろう、董卓・馬騰・韓遂(+賈詡)の涼州連合だ」
A「でも、そこまで行くと、すでに想像というより妄想だよ。いくらなんでも、袁紹にそこまでやれる能力は……」
F「あったよ? 189年の時点で云うならたったひとつ、董卓さえいなければ」
A「董卓はいたんだよ!」
F「董卓が死んだのはその数年後だ。連載で云うならまだひとケタの頃だった。あの時、僕が覚えておいてって云ったことを、覚えてるかな」
Y「ん? ……董卓を殺したのは呂布だって、話か?」
F「何進は誰に殺されたと思う」
2人『……は?』
F「連載開始前に、正史・演義・関連書籍をさらっと読み返したんだけど、どうにもそう思えて仕方ない。なぜ何進が宦官の罠に、ああも簡単に引っかかり殺されたのか。なぜ袁紹はそれを止めなかったのか。そしてなぜ、宦官ではない者まで殺したのか。……バクチに出たのかもしれないと、僕は思う。宦官と裏で手を結んで何進を殺し、その仇討ちを名目に宦官も殺す。殺された人数が多すぎる(2000人)のは、関係者の口封じと見ていい。間接的な証左だけど、袁紹は何太后(何進の妹)や少帝(何進の甥、妹の子)を見捨てている」
A「……考えすぎ、とは云えないモノがあるな」
F「あるいは、何進の側でも、ある程度袁紹の野望を察していたのかもしれない。だからこそ、鄭泰の進言を退けてまで、董卓を呼び寄せた……のかもしれない」
A「痛いな、こりゃ……。どうにも、袁紹がそこまでやれる男とは思えないのに、それくらいやりかねないとさえ思えてきてる。論証はないのに、期待感が妄想につながりかねん」
F「あっはは。ともあれ、袁紹の野望は、それとは知らなかったものの、董卓によって阻まれた。そのため、次善の策……コーソンさんを討って河北を平定し、北方の異民族と通じてこれを傘下におさめ、ゆくゆくは黄河を渡って天下を決する、を採用する」
A「河北四州は袁家のものにはなったな、確かに」
F「ところが、ひとつ予想だにしなかったイベントが発生する。腹違いの弟で皇帝を自称した袁術が、自分に帝位を譲ると云ってきたのね。困っているヒトを助けずにはいられないは、袁術を受け入れる姿勢を示す」
A「帝位に就こうと?」
F「正直な本音として、これだけは判らん。袁術は河北にたどりつく前に野垂れ死んだから、この時袁紹がナニを企んだのか、正直に判らんとしか云えない。ところが、今度は劉備が頼ってきた」
A「これも、袁紹は受け入れた」
F「うん。ただし、袁術の時は、肉親ということもあってただの寛容さから受け入れようとしたのかもしれないけど、劉備は違う。劉備には、袁紹はある役目を期待していた可能性が高い」
A「その心は?」
F「劉虞の代わりの皇帝」
A「っ!? いや、さすがにそれはありえん! 考えすぎだろう……と、思うが……あー」
F「ありえるんだよ。ところが、官渡の序盤で劉備(の義弟)がボケを繰り返したモンだから、見捨てたのかあるいはほとぼりが冷めるまで周りの眼から逃がそうとしたのか、外地へと送り込んだ。……そのまま逃げたけど」
Y「……袁紹が壮大な政戦両略を考案していたのは、まぁいいだろう。では聞こう。なぜ、袁紹は失敗した?」
F「ひとつにおいては、曹操がいた。身長以外のあらゆる面で、袁紹を上回る曹操が。そして、曹操がいなかったとしても、天下を盗れてもその天下が長続きできなかった公算は高い」
A「その心は?」

『袁紹は、先祖が累代に積み重ねてきた地盤をもとに、議論と謙虚な態度で評判を勝ち得ました』(郭嘉)
『先祖の培ってきたものに寄りかかり、あたかも知恵者のような顔をして名声を集めています』(荀ケ)

F「要するに袁紹という男は、先祖を超えようとしなかった。先祖の築いてきたものに寄りかかり、それを利用はしても、新たに先祖を超える何かを創造できなかった。いや、唯一『四世三公』の先祖を上回る、自分の帝国を作ろうとはした。でも、それは先祖のような名族が国を動かすシステムで、そして、それを成すこともできなかった。対して曹操は、宦官の孫というレッテルをはがすために、常に先祖を超えようとしていた」
Y「追いついてそれでよしとした袁紹と、追い越してなおその先を目指した曹操との差か」
F「ひとの人生に成功か失敗かを問えるなら、こと男に関しては、父親を超えられたか否か、その答えが人生の成否とイコールだ。どれだけ金を稼ごうが、社会的な名声を得ようが、父を超えられなかった程度の人生など、男にとっては失敗以外の何ものでもない」
A「お兄ちゃん……」
F「……まぁ、本心はさておいて。鄴を攻略した曹操は、自ら袁紹の墓に詣でている。演義では、曹操は袁紹との思い出を述懐した長台詞を、涙ながらに語っている」

『昔、反董卓連合が失敗したときのことを袁紹と話しあったが、それが昨日のことのように思い出せる。それなのに、あぁ、彼はもうこの世のものではないのだな! これが泣かずにいられるか!』

F「なお、袁紹は『反董卓連合が失敗したとき』には、『河北を制し、異民族を傘下におさめ、黄河を渡って天下を決する』と述べている」
A「その通りに、やってのけたのか……。恐るべしかな、袁本初」
F「そして、正史三国志におけるこの時の記述を、あえて書き下し、引用しておく」

『曹操は袁紹の墓に詣でて、声を上げて泣き、涙を流した』

F「続きは次回の講釈で」

津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
【真・恋姫†無双】応援中!
進む
戻る