私釈三国志 39 郭嘉病没
F「三国志においていちばん顔のいい武将……というと、顔良を思い浮かべる奴はいないと思う」
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A「誰が思うか!」
F「周瑜や曹植(曹操の息子のひとり)が首位争いだろうけど、馬超もいいとこ行くだろう。西域人とのクォーターだけど、容貌には秀でていたみたいだから。……ただ、その分気位高くて使いにくかっただろうけど」
Y「蜀の連中って、クセのある奴多いからな」
F「そんな馬超が并州戦線に加わってきたのは、ちょっとした事情がある。以前、馬騰と韓遂が仲違いして、曹操の仲裁で事なきを得たのは云ったけど、その流れで馬騰は朝廷に出仕した」
A「留守は馬超が預かったような状態か」
F「実質的には韓遂が取り仕切っていたんだろうな。西涼は涼州だけど、それに面した司隷を、当時治めていたのが鍾繇。曹操はこの男に西域の全権を委ねていて、鍾繇はその期待によく応え、官渡の戦いに際して軍馬二千頭を送ってきていた」
A「なかなかの手腕だな」
F「こういう地味な文官がいるかいないかで、勢力の伸張度合は変わってくるからなぁ。さて、并州を治める高幹は、匈奴の呼廚泉に援軍を求めた。呼廚泉はナニを思ったのか出陣し、高幹と併せて数万からの兵力をもって曹操に対抗する姿勢を見せる。さらに高幹は、韓遂とも組むに到った」
A「北方大同盟か……」
F「しかし、西域には曹操の息のがかかっていたような状態でね。曹操は張既を派遣して韓遂たちを説得し、高幹との密約を破棄させた。そして、自身の潔白を証明するために、馬騰は息子に出陣を命じる」
A「それが、人もあろうか錦馬超、と」
F「この年、22歳だったという。西涼騎兵を率いて匈奴軍と激突。その陣営を斬り拓いていく姿は、亡き呂布もかくやという勇姿であった。さしもの匈奴兵もこれには震え上がり、呼廚泉は降伏。高幹も逃亡した」
A「あっけないというか、情けないというか……袁術もそうだが、袁家って非道いな」
F「関羽といい、この時代の曹操軍には、のちの劉備を支える武将が出入していたことになるけど、まぁそれはさておいて、残るは幽州ただひとつ。幽州を治める次男は、これまで局外を保っていたのに、袁尚にけしかけられるまま曹操に宣戦。ところが、幽州はこの判断を支持せず、張燕をはじめとする豪族が曹操に流れた」
A「まだ生きてたのか、山賊!?」
F「もはや漢土に袁家の居場所はないのかとさえ思わせる凋落ぶりだった。それでもくじけない袁尚は、万里の長城さえ乗り越えて、烏桓の地へと逃れる」
A「天下のためにくじけてやれ!」
F「いや、まったく。さすがに長城を超えるのはいかがなものか……と、曹操の家臣団も進言するけど、ただひとり郭嘉は進軍を主張。ついに、曹操軍は長城の外へと軍を進めた」
A「何でまた、勧めるかな、郭嘉は……」
F「えーっと、郭嘉、字を奉孝。荀ケの推挙で曹操に仕えた軍師だけど、その戦略顔は確かで、呂布を討つまでは劉備を利用し、討ってからは劉備を危険視している。また、孫策が軽挙して暗殺されるのではないかと早くから見ていた」
A「……ひょっとして?」
F「かもな……あるいは、容疑者の世話さえしていたのかもしれない。この件については、ちょっと興味深いモノがあるけど、赤壁が終わってからになる。ただし、行いはずいぶんいい加減だったらしくて、品行方正で知られた陳羣からはずいぶんと非難されている。もちろん、そんなの気にする郭嘉じゃないんだけど」
Y「行いが正しくなくても、能力さえあれば使うのが曹操だからな」
F「基本的には劉備もそうだけど……ね。そもそも長期に渡る河北遠征で、後方が不安になっていたのね。おりしも劉表のところに、劉備が逃げ込んだ後だったから。荊州の兵を劉備が自在に使っていたら、許昌がどうなるか、という主張には曹操としても考え込む余地があった。事実、劉備は曹操のいない間に許昌を攻めようと、劉表に進言している」
A「でも、劉表は出兵しなかった?」
F「繰り返すけど、基本的には、劉表は州外に出兵しないからね。もっとも、後で劉備に『おヌシの云う通りにしておればよかったのぅ……』と後悔しているけど」
A「何歳だ?」
F「それはともかく、曹操軍の主力が烏桓に向かったので、機を見た高幹は挙兵。鄴へと攻め込んだものの、今度は呼廚泉も兵を出さなかったモンだから、攻め落とすことができず、逃亡。しかし荊州には行けず、中途で死亡した」
A「……やっぱり情けねェ」
F「さて、烏桓はもともと袁紹と誼を結んでいて、コーソンさん討伐においても騎兵を派遣して協力したとか。そのため、袁尚一行を単于・蹋頓は快く受け入れて、曹操と戦う姿勢を示した」
A「かなり脅威だろ、それは……。馬超は?」
F「さすがにここまではつきあいきれんだろうね。騎兵を中心に遠征していた曹操軍は、烏桓軍と激突。激戦の末烏桓軍は敗れ、蹋頓は張遼に斬られている」
A「今度こそ袁尚は?」
F「まだまだしぶといな。遼東の公孫氏のところに逃げ込んだ」
A「倭国まで逃げるつもりじゃなかろうな!?」
F「えーっと、遼東王こと公孫度は204年に死去(烏桓攻めは207年)。後を継いだのは公孫康(息子)だ。さすがに状況が判っていた公孫康は、頼ってきた袁尚一行を斬り捨てて、その首級を曹操に献上した」
A「……やっと終わったか」
F「袁家滅亡まで、官渡の戦いから実に7年が経過していた。長い戦いに疲れたのか、郭嘉は許昌に戻ることかなわず河北で病没する。享年38」
A「惜しい軍師を……かな?」
F「そうだな。そもそも曹操は、当初戯志才という軍師を擁していたんだけど、このひとが早世したモンだから、曹操は嘆いて他の軍師を探すよう荀ケに命じた。そして荀ケが推挙したのが郭嘉だったんだけど、郭嘉は曹操をいたく気に入って『あぁ、このひとこそ我が主君だ!』と喜んだとか」
A「戯志才?」
F「演義には出てないし、正史にも記述がほとんどないから、知らないひとのが多いかな。以後郭嘉は、曹操がもっとも信頼する相談役として、天下に謀略を運らせ続けた」
A「河北と引き換えに、郭嘉を失ったわけか」
F「袁家を滅ぼした曹操は、大量の文書を入手した。官渡以前には、もし曹操が負けた場合に備えて、袁紹に書状を送っていた家臣も少なくなかったんだね。そんなモノを見られたら家臣としてはたまったモンじゃなかったんだけど、曹操はそれを見ることなく焼き捨てている」
A「はぁ」
F「品行方正でなかったとしても、曹操の家臣は務まるとの意思表示だろうね」
A「……亡くしたものは大きかったようだな」
F「意外でもないけど、袁紹の政策は河北四州にあまねく広まっていて、南皮の民衆は曹操に従うのをよしとせず、山に逃れて殺されたとか。また、官渡で曹操は食糧不足を訴えていたけど、沮授や田豊が進言したように持久戦になれば袁紹が勝っていたほどの膨大な食糧が袁紹軍にはあった。袁紹は、一代の英雄だった。それと引き換えに死んだと思えば、郭嘉も浮かばれるような気もしなくはない」
A「しっくりこないな」
F「ところで、前回に引き続いて曹丕の悪事について述べておく」
A「……今度はナニをしでかした? あのボン」
F「河北平定が成ったのち、曹丕はとある酒宴で『ひとの息子を殺しておいてそのひとに平然と仕えている、恥知らずがここにいる』と云い出した。もちろん、張繍をあてこすっているんだけど」
A「ぅわ……性格悪い」
F「そんなことをねちねちねちねちねちねちねちねち云われ続けたモンだから、それを苦にした張繍は自殺したとか。のちに魏で叛乱が起こって、張繍の息子はそれに加わったんだけど、それを鎮圧したのが曹丕だった。曹操の息子とは思えない性格の悪さだな」
A「いや、父親も負けてないと思うが……」
F「続きは次回の講釈で」