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私釈三国志 38 曹袁戦争(後編)

F「この状況になってしまえば、曹操と袁譚の同盟にはもはや価値がなくなっているのは判ると思う」
Y「まぁ、な」
F「実際のところ、鄴の攻略に半年もかかったのは曹操にとっても計算外だったンではなかろうか。204年の8月までに、曹操は鄴に釘付け、袁尚はその曹操の相手をして打ち破られ……と、袁譚を止める者が相食みあっていたンだ。それだけに、袁譚はここぞとばかりに反撃に転じている」
Y「というと」
F「青州から冀州東部を攻略し、袁尚の領土を奪っているンだ。さらに中山に攻め入ると袁尚をも打ち破り、破られた袁尚は幽州(次男領)に逃げ込んでいる」
Y「立場が逆転したのはいいが、露骨な火事場泥棒じゃないか」
F「ために、曹操は手を切った。書簡を送って袁譚の違約をとがめた……とあり、領土に関する取引があったのが推測される。ンで、縁組で迎えていた袁譚の娘を送り返すと、袁譚領となった冀州東部へと攻め入っている」
Y「あちら立てればこちらが立たず、こちら立てればあちらが立たず、両方立てれば身がもたず、だな」
F「こうなるのを予測していた袁譚は、ある程度の手を打っていた。袁尚が平原から兵を退いた……えーっと、203年の春か。この時に、袁尚の下から曹操に寝返った呂曠・呂翔兄弟に、袁譚も将軍の印綬を送っている。いつか曹操と戦う時に、内応してくれるのを期待して、だな」
Y「抜けめないな」
F「かくて平原の東・龍湊に布陣した袁譚に、曹操の軍勢は向かった。……のだが、ここで誰も予測しなかった事態が発生する。出陣しなかった袁譚が、何を思ったか夜の間に龍湊から逃走。南皮に逃げ込んでしまったンだ」
Y「何しに来たンだ?」
F「本気で判らん。平原に入城した曹操は、とりあえず追うのはやめて周辺各地を平定して回った。これが204年12月のこと。その間も、袁譚が手を出した気配はないので、どうも怖気づいたようでな」
Y「ダメだろ、この長男」
F「年の改まった205年、ついに曹操は南皮攻略に乗り出している。先に攻略した鄴に比べれば小さい城で、審配ほどの武将もすでに亡い……と、高を括っていたンだろう。過分に油断があったようで、攻め入った曹操軍は、またしても手痛い反撃を受けている」
Y「袁譚の指揮能力は、割と低くないようだな」
F「それもあるかなぁ。以前見たが、青州に田楷が張っている間は、コーソンさんは袁紹と互角の抗争を続けていられた。ところが、袁紹が袁譚を青州に送ると、北は田楷を打ち破り、東は孔融を蹴散らし……と、武威を示したのが正史の注に引かれているンだ。その武勲に民衆は喜んで、彼を主と仰いだ、とある」
Y「それなりの武将だな」
F「ところが、行いはほめられたモンじゃない。小人を近づけて甘言を好み、淫蕩に溺れて庶民の生活を顧みなかった……ともあってな。心根の貧しい連中を側近にしては、心根の正しい王修は位につけても実権は与えない。妻の弟に軍を与えても、その弟が街中を荒らし、城外の作物を奪って回るくらいだ」
Y「どこの董卓だ?」
F「いや、董卓どころじゃないことを企んだのは、曰く『出ると負け軍師』こと郭図だ。演義での話になるが、将の質では敵わないのだから……と、百姓や民衆に武器を持たせると、曹操軍に向かわせたンだ」
Y「……それじゃ曹操では勝てんな。曹操の基本政略は『民衆には優しく、敵には厳しく』だから」
F「うむ。この民兵に……なんか、竹槍持っていそうな気もするけど、曹操は手痛い反撃を受け、いったんは兵を退くべきか、とさえ考えた。それを留めたのが、精鋭騎兵隊・虎豹騎を率いる曹純(曹仁の弟)だった。敵地深くに侵入しながら退却しては、軍の威光が失われる、と反撃を勧めているンだ」
Y「抵抗が激しい場合は距離を取るのも策だと思うが」
F「『敵は勝利して慢心し、味方は敗北で気を引き締めているのだから』と、敗戦の原因を正確に看破していてな。再度戦えば必ず勝てる、とけしかけたンだ。そう云われては退くワケにもいかない。兵を返した曹操は自ら陣鼓を打ち鳴らし、勢いづいた曹操軍は袁譚の軍勢を撃破。袁譚の首級は曹純が挙げている」
Y「郭図は、乱戦の中で討ち死にだったか」
F「演義だと楽進に討ち取られているが、正史では誰にという記述はなかったな、確か。南皮城に一番乗りしたのは楽進だが……ともあれ、南皮も陥落。袁譚の妻子は処刑され、分裂した袁家のうち、片方がもう滅んだ状態になる」
A「袁紹がどれほどのものかはともかく、息子どもの情けなさが際立つな……」
F「やはり、官渡で沮授と田豊を失ったのが響いているンだ。後継者争いに加わることなく大局から政戦両略を論じられるのは、袁家にはこのふたりしかいない。沮授の智略は荀ケや郭嘉に劣るものではないし、袁紹への上奏文の内容からして田豊は袁家の倉庫番、ぶっちゃけると宰相的役割にあった公算が高い」
Y「経済力や生産性について言及していたか」
F「コーソンさんを討ったあとに従軍した形跡がないのと、他の面子に比べて年長だったのがうかがえる記述がある。断言はできんが、袁紹一党の宰相的役割にあったのが誰か……と考えると、田豊じゃなかったかと思えてな。いや、名前からじゃないンだが」
Y「洒落じゃ笑いごとにもならんがな」
F「ところで、と云おう。袁家に殉じた者は少なくない。沮授や審配の最期は見た通りだし、討ち取られた袁譚についても見逃せないイベントが起こっている。演義では、南皮の北門にさらされた袁譚の首級を『コレ見て泣いたら死刑!』と布告していたが、正史ではそこまではしていない」
Y「曹操だからなぁ」
F「そこへ駈け込んで来たのが王修だった。南皮に食糧を届ける役割があって城外に出ていて、南皮落城に間にあわなかったこのヒトは、曹操のところに駆け込んで『主の死に泣いて何が悪いのですか!』と抗弁し、袁譚の遺体を葬りたいと申し出た。聞き届けていただけるなら一族皆殺しになってもかまわない、と」
Y「……たいしたモンだ」
F「袁譚を葬るのと、泣いたのも許された王修は、魏に仕えて昇進することになる……のは別のオハナシ。曹操は郭嘉の進言を容れて、鄴に戻ると『袁家に与していた諸君も、わたしのところに来てもらいたい。ともに新しい時代を作ろうじゃないか』との布告を出している」
Y「袁家を取り込もうと考えて、だな」
F「それに応じた中に、焦触・張南がいた。もともと幽州に張っていた次男の配下だったのに、袁尚とそりが合わなかったようで、反目の末に寝返ったンだ」
Y「おいおい」
F「いちおうは列侯に叙して遇したが、結局寝返らなかった呂曠・呂翔兄弟と併せて、この連中がどうなったのかは赤壁の辺りのオハナシになる。ともあれ、鄴陥落に震え上がった高幹が、并州を挙げて曹操に降伏していたので、袁家に残るは次男治める幽州、それもわずかな部分のみ……と思われた。ところが、幽州まで曹操の手に落ちたようなモンだから、高幹の立場はちとまずいことになる」
Y「袁家に連なる者を高位につけておけるものか、と疑うワケか」
F「あながち被害妄想でもないンだよ。それだけに、そのまま并州を任されていた高幹は動いた。北の方・匈奴に援軍を頼み、曹操に叛したンだ。単于・呼廚泉は求めに応じ、南へと兵を差し向けてくる。まさか北狄まで絡んでくるとは思わなかった曹操だけど、西域より切り札を投入してこれに当てた」
A「西から?」
F「司隷に留まっていた鍾繇が派遣してきたその軍勢、率いるのは名高き錦馬超、そのひとであった」
A「何でここで馬超!?」
F「続きは次回の講釈で」

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