私釈三国志 38 曹袁戦争(前編)
F「完全に、ペース配分を見誤っていたとしか云いようがないな」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「官渡が終わるまでに、演義の回数の2倍だモンな」
F「まだ終わってないから。いちおう袁紹編が終わってからはハイペースで進むようになる。……ならんと終わらん」
A「最初から計画的にしていればよかったのに。で?」
F「えーっと、まずは田豊。獄中にいた田豊は、獄吏から官渡での敗戦を聞き、天を仰いだ。曰く『殿が勝ったなら私は許されただろうが、負けたからには私は生き延びられまい』と。事実、逢紀から『田豊が敗戦を嘲笑っております』と云われた袁紹は、田豊の処刑を命じた」
A「あらら……」
F「渡河に遅れて捕虜となった沮授は、曹操に説得されたものの、袁紹への忠義を選んで、結局処刑された。一方で、張郃・高覧は曹操に受け入れられて、一軍を預かることになる。この辺り、反応に差が出たな」
A「武官は降伏した、みたいなところか?」
F「というか、このふたりの部隊が裏切ったのが敗因だと、郭図は主張したからねぇ。張郃としても、自分の意見を邪魔したに等しい郭図がいる河北には、もういたくなかったのかもしれない。曹操は張郃の降伏を『韓信が項羽を捨てたように、君の判断は後世において評価されるだろう』と述べている」
A「高覧は?」
F「実は、この後正史には記述がない。いちおう、演義では劉辟と戦って死んでるんだけど」
A「またそのパターンか?」
F「曹操軍に降ったザコ武将は、次の出番で戦死する……という法則をどっかで見たな。魏続・宋憲や長坂坡での趙雲の活躍を見るに、云いえて妙とは思うが」
A「いいけどよ……」
F「とりあえず、人物中心に見ていこう。袁紹は、官渡での敗戦から動揺した冀州の諸城を平定すると、再び曹操と雌雄を決そうと兵を挙げる。再び激突した両軍だけど、程cの謀略が炸裂した」
A「……また程cってことは、えげつない策だよな?」
F「いや、コレはかなり爽快。名づけて十面埋伏というこの策は、まず、許褚率いる騎兵隊が袁紹軍に突っ込んでから退却し、追ってくる袁紹軍を細く長く引き延ばす。曹操の本陣まで駆け戻ってきた許褚隊と併せて、本陣が戦闘を開始すると、後方から夏侯惇・曹洪の部隊が袁紹軍を襲った。背後から襲われて、袁紹はいくらか警戒して撤退を命令」
A「ちょっと弱気じゃないか?」
F「官渡での敗戦が響いてるな。ところが、体勢が崩れた袁紹軍めがけ、今度は張遼・張郃が襲いかかる。痛撃を受けた袁紹軍、さらに撤退するんだけど、今度は李典・徐晃が。これには袁紹軍、浮き足立って逃げ惑うんだけど、さらに于禁・楽進が斬り込んでくる」
A「袋叩きだな……」
F「完全に混乱して壊走する袁紹軍に、止めとばかりに夏侯淵・高覧が突っ込んできた。兵の大半を失った袁紹は何とか逃げ切るけど、その中途で血を吐いたという。敗戦のショックからか、そのまま病を得て、世を去った」
A「あっさり殺すな!」
F「追悼セレモニーはやるから、その辺は流してくれ」
A「それもするな!」
F「ええい、やかましい。以前さらっと触れた通り、袁紹は自分の後継者に三男の袁尚を期待していた。ところが、嫡流であることを主張して、長男の袁譚を推す者もいる。ないがしろにされた次男こそいい面の皮だが、袁紹勢力は事実上二分したに等しい」
A「次男って……」
F「河北四州を袁紹が支配していたのはいいよな? これらひとつずつに、息子3人と甥っ子の高幹を刺史として送り込んでいたんだ。本拠地たる冀州は、実際袁尚に任せていて」
A「えーっと、袁譚は青州だったよな」
F「そういうこと。袁紹の最終的な官職は、以前云った通り大将軍、ついでに冀州牧。その座が、審配と逢紀のゴリ押しで袁尚のモノになったんだね。当然袁譚は不満たらたらで、あってはならない選択をしている。つまり、曹操に接近したんだけど」
A「おいおい……それは許されない選択だろ」
F「曹操にしても、袁家が内輪もめしてくれれば望ましいんだけど、この前に河北は黎陽に兵を出して、手痛い反撃を受けているんだね。ために、むしろ積極的に介入する方向に踏み入ったと見ていい」
A「具体的には?」
F「さきの黎陽の戦いでは、袁尚が袁譚に命じて迎撃させているんだ。しかも、袁譚からの援軍要請を袁尚が無視したモンだから、監軍としてつけられていた袁尚派有力者の逢紀が袁譚に殺されている。その怒りたるは想像に難くない」
A「……だな」
F「具体的には……えーっと、203年の春だが、再び黎陽に兵を出して袁尚・袁譚連合軍を打ち破った曹操は、袁家の本城・鄴(冀州)城下まで迫っている。ところが郭嘉が『攻め続ければ袁家は結束し、放置すれば互いに争うでしょう』と進言したので、いったんは許昌に引き揚げた」
Y「するとすかさず?」
F「内輪揉めを始めるンだ。追撃しようという袁譚の意見を袁尚が退けたのみならず、憤慨する袁譚に配下の辛評が『殿が外に出されたのは、審配の画策ですぞ』とけしかけた(ただし、事実だが)モンだから、鄴の門外で袁譚・袁尚の軍で戦闘が発生している。負けたのは袁譚で、南皮に逃れ、夏になってからは南皮にも攻め込まれて、平原まで追い詰められた」
Y「昔劉備が治めてた地か。ずいぶんと落ちぶれたなぁ」
F「ここで袁譚、辛評の弟・辛毗(……あ、IEだと字が出ない。シンピ)を曹操のもとに送って援助を求めた。この頃曹操は荊州との州境近くにいたンだけど、許攸の『この同士討ちにつけいるべきです』との進言に乗って、兵を北に差し向けた。曹操が黎陽まで来たと聞くと、袁尚は平原の囲みを解いて撤退している」
Y「それでも、父の名を汚すほどの愚かさではないな」
F「かくて曹操は、辛毗(シンピ)を経て辛評を通じ、袁譚を援助する。自分の息子に袁譚の娘を娶せて友好関係を築く一方、水路を整備し北へ食糧を輸送できるよう準備を整えた」
A「さすがに頭は切れるな」
F「ただし、いくらか手違いもあった。辛毗(シンピ)が曹操の元に留め置かれたモンだから、それを理由に袁譚は、辛評に疑いの眼を向けられるようになった。袁譚も曹操を露骨に信用していなかったのね。これを悔やんだ辛評ははかなく死亡している」
A「また審配かよ」
F「年が改まった204年。袁尚が、袁譚を討つべく南皮に向けて兵を挙げると、曹操も自ら北上して鄴へと攻め上った」
A「矢面に立ってどうする!?」
F「虎穴に入らずんば虎児を得ずと云うぞ。血を流してこそ戦果も得られるのじゃ。曹操は、袁尚が鄴を審配に委ねて出陣している隙を狙ったけど、一方で袁尚も、鄴城と審配なら曹操をも防げると見込んでいたと云える」
Y「抵抗激しかったからなぁ」
F「見てきたような反応だな、オイ。さすがに大都市だけあって防御が堅いンだ。最初に動いたのはたぶん曹操で、審配とともに城代を命じられた蘇由が、曹操に内応しようとして市街戦にまで発展している。袁尚の腹心のひとりを相手にちゃんとした戦闘まで起こしている辺り、鄴内部でも袁家を見限る動きは少なくなかったようでな」
Y「だが、失敗していたな」
F「うん、敗れた蘇由は曹操のもとに逃げ込んでいる。そこで曹操は、地下道を掘るというよく聞く手段を用いたものの、よく聞くだけに対抗策も万全だった。審配は城内に塹壕を掘って、それを防いでいる」
Y「お約束の手段だな」
F「さっきの蘇由が曹操に寝返ろうとしたのは、たぶん内応の誘いを受けてそれに乗ったからだと思うンだけど、またも曹操は策を用いた。非常用通路を守っていた武将を寝返らせて、そこから300の兵を城内に侵入させたのね。すると審配それを見つけて、城壁の上から岩を転がし通路をふさいでしまった。これにより、中に入った300の兵は全滅してしまう」
Y「何と云うか、さすがに城代に残されただけはあるな。曹操を相手に一歩も退かないどころか、押されてはいるが劣勢ではない」
F「そう、むしろ審配優勢とも云える戦況だった。それだけに、やや増長したのかもしれない。曹操が鄴城の周囲四十里に渡って堀を掘るのを『あんな浅い堀、越えるのは苦もない』と笑って妨害しなかったンだ」
Y「敵を侮るのは露骨な死亡フラグだが」
F「審配やっちまったワケだ。兵が出ないと見てとるや、曹操は徹夜の突貫工事を命じ、深さ・広さをいずれも二丈だから……えーっと、5メートルくらいまで掘り込んだ。全長は四十里で約17キロだから、それをひと晩でやらせた辺り、曹操軍の組織力たるは尋常ではない」
Y「さすがと云えばそれまでだが、そんな台詞じゃ済ませられんな」
F「かくて水責めが決行された。黄河の支流が注ぎ込まれ、鄴城は孤立してしまう。触れていなかったけど、審配の抵抗が激しかったモンだから搦め手から攻めようと、曹洪に城攻めの指揮を執らせ、曹操本人が周辺地域の平定に向かっている」
Y「城を包囲していても油断はしなかったというべきか、そのまま攻めても埒が明かないと弱音を抱いたと云うべきか」
F「……どんなモンだろうな、それは。まず、鄴への補給線を断つべく、西の毛城という中継基地を攻略。続いて東へと向かうとかつての趙の都・邯鄲を攻め落とした。大都市と云っていい拠点が陥落したモンだから、易陽・渉といった周辺地域も相次いで降伏。鄴は戦略的にはすでに孤立していたことになる」
Y「さらに水責めで戦術的にも孤立させた、か」
F「さすがは曹操、というところだ。これにより鄴城内では過半数が餓死した……とある。さすがにこの段階では袁尚も戻らざるを得ず、1万からの兵を率いて馳せ参じ、狼煙を上げて審配に到着を知らせる。それを確認した審配は、袁尚に呼応して内外から包囲陣を突破しようと目論んだ」
Y「妥当な判断だ」
F「だが、相手は曹操だという一点が、判断の念頭から欠けていたように思える。曹操は、水と兵に囲まれ士気もおぼつかない審配の軍を鎧袖一触で叩き潰すと、反転して袁尚の軍に向かった。これまた打ち破られた袁尚は川沿いに逃げ、曹操は追う。包囲されかかったモンだから袁尚は震えあがり、陳琳を送って降伏を申し入れるけど、曹操はコレをはねつけた」
Y「この段階で降伏しても受け入れられるワケがなかろうが」
F「まったくだ。何とか撤退して陣容を整えようとはしたンだけど、亡き顔良の副将だった馬延が曹操に降ったために、袁尚軍は総崩れ。本人は何とか中山(地名)に逃れたものの、武器や食糧といった軍需物資のみならず、印綬や節鉞、衣服や食器まで曹操の手に落ちている」
Y「どこまで慌てて逃げたンだか」
F「それを鄴城内に示し……たぶん『袁尚は完全に打ち破った! もう救援など来ないぞ!』と勧告したンだろう。城内は大混乱に陥っている。それでも袁尚の首級がなければ『袁尚様はまだ死んでおらん! 必ず助けは来る!』と云えるけど、その気になる者は少なかったようでな。東門を守っていた審配の甥(兄の子)が、門を開けて曹操軍を城内に導き入れてしまった。2月に始まった鄴攻略戦は、8月ついに決着する」
Y「割と長引いたな」
F「それでも審配は果敢に抵抗し、その壮烈な気迫は最後まで続き、捕らえられてなお袁尚への忠義を貫いたその姿勢には感嘆の声をもらさぬ者はなかった……と正史にある」
Y「……感心すべきか」
F「が、実は『感嘆の声をもらさぬ者』がひとりいた。曹操軍が入ってくると、鄴城内に残っていた辛評の家族が『お前らのせいでこんなことになったンだ!』と審配に処刑されてしまったンだ。兄の家族を殺されては辛毗(シンピ)が収まるはずがなく、審配を処刑している。敵だけでなく味方へのフォローも忘れないのが、曹操のひと遣いのうまさだと思う」
Y「上げまくっておいてあっさり落とすな」
F「一方の陳琳(そのまま捕らえられていたらしい)とは、曹操自ら面白いやり取りをしている。官渡直前に檄文(曰く『腐れチ×ポの残りカス』呼ばわり)を書いた陳琳は、恥じることなく『引き絞った矢を、射ぬわけにはいきませんでした』と応えている。この応えに気をよくした曹操は、陳琳を殺すことなく家臣に加えた」
A「そりゃまた、気前のいいことで」
F「ところで、官渡の勝敗を握った、許攸。こいつもこの頃死んでいてね」
Y「……思えばこの頃からちゃんと『ところで』をやっていたか」
A「何事だ? 戦死ではないだろうけど」
F「うん、違う。官渡で曹操を勝たせたのは自分だと、かなり傲慢に振舞っていたのね。鄴攻略でさらに態度がでかくなって『オレがおらねば、曹操は鄴に入ることもできなかったんだぞ!』と云ってしまった。さすがに軍規を保つために、生かしておけないと処刑されている」
A「あらら……袁紹の下に集まった連中、ほとんど死んだり寝返ったりだな」
F「だね。ちなみに、曹操軍で最大の戦利品を獲たのは、従軍していた曹操の息子・曹丕だ。袁紹の屋敷にまっすぐ乗り込んだ曹丕は、袁紹の次男の妻で美貌名高き甄氏を奪っている。それを聞いた曹操は『あやつめ、わしが狙っておったのに』とのたまったとか」
A「ダメだろ、この親子……」
F「後編に続く」