私釈三国志 25 白馬将軍
F「えーっと、タイトルはこうだけど、ひとまず戦後処理から」
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A「劉備と曹操の動向だな」
F「徐州での戦闘を終えた曹操及び劉備軍は、陳登らに徐州を任せ、許昌に帰還する。ここで献帝に拝謁し、左将軍に任じられたんだけど、曹操はことのほか劉備を気に入ってね。劉備を高く評価したワケだけど」
A「例のアレか」
F「うん。ある雨の日に劉備を呼び出して、差し向かいで酒を酌み交わす。曹操は劉備に向かい、天下の英雄とは誰かと訊ねる。袁紹・袁術・孫策・公孫瓚・劉璋……などなどと云ってはみるけど、曹操は笑い飛ばして」
A「では英雄などがおりましょうかと反問した劉備に向かい、曹操は平然と『君と余だ』と応じる。そこまで曹操が自分を警戒していると思い知った劉備は箸を取り落とすも、ちょうど鳴った雷に驚いた振りをして卓の下に隠れた……」
F「で、関羽・張飛が踏み込んでくるワケだ。英雄は英雄を知るという意味では、名シーンのひとつに挙げていいね」
A「……お前でも、劉備は認めてるわけか」
F「さて、後日その日招かれた御礼に来た劉備を、曹操は歓待する。そこへ満寵がやってきて、シャレにならない一報をもたらした。幽州が陥落し、公孫瓚が自害した、と」
A「劉備にしてみれば、盧植門下にいた頃の兄貴分なんだよな?」
F「だね。例のアレでは、序盤にあっさり死にそうな雰囲気だけど、まぁその辺はさておいて。えーっと、今まで公孫瓚とちゃんと書いてきたけど、字がアレだから以降彼をコーソンさんと呼ぶ」
A「……何だろうね、この凄まじいまでのコミカル感は?」
F「群雄の一角として、北方で袁紹と覇を競ったコーソンさんだけど、身分だけを見るなら比べ物にならなかったね。袁家は俗に『四世三公(4代続けて三公を出した)』と称された名門だけど、公孫家は代々二千石の、郡太守相当というところだ。しかも、コーソンさんの母親は身分が低かったので、小役人レベルからの出発だった」
A「最初から、ある程度の地位があった袁紹とは、えらくスタートがかけ離れてたワケな」
F「ところがコーソンさんは、美男子で声も明瞭、頭もキレる……もとい、切れるという麒麟児だった。その太守に気に入られ、娘の婿になったのみならず、当時儒者として名声を博していた盧植のところに遊学させている」
A「……今思ったんだが、劉備とコーソンの戦術能力を比べると、盧植センセってどうだったンだ?」
F「……興味深い研究課題かもな、それは。えーっと、ともあれ遊学を終えて幽州に戻ったコーソンさんは、武人として活躍を始める。この地方は烏桓や鮮卑といった北方系異民族……いわゆる北狄と長城を挟んで接しているんだけど、黄巾の乱や董卓戦役の頃、ひたすら北方でその警戒に当たっていた。ちょっと間違えてたけど、コーソンさんは反董卓連合には参加してなかったね。この場で訂正します」
A「じゃぁ、劉備も……」
F「先に云ってあるだろ? 演義における水関の戦闘はフィクションだって。たぶん、コーソンさんの下にいたはずだよ。ともあれコーソンさんの武勇は凄まじく、烏桓を相手に戦勝を重ねる。一度など、数百の烏桓騎兵を数十騎で向こうに回して、その半ばを失うも烏桓兵を追い散らかしている。また、弓勢に長けた兵を集めて白馬に乗せ『白馬義従』と称する親衛隊を編成。烏桓では『白馬を見たら逃げろ』とまで噂したとか」
A「武田の赤備えじゃねーんだから……」
F「それに近い心理的効果はあっただろうな。ユニフォームというのは、服装を共有することで一体感を生み、モチベーションを高める手段だ。がっこうの制服は、そのがっこうに属しているという看板みたいなものだから、これとはちょっと違うんだけど。飯富虎昌はユニフォームを自軍に採用することで、その破壊力を世に知らしめた。この『白馬義従』にも、そういった狙いはあっただろうね」
A「……頼むから『私釈戦国時代』はやめろよ」
F「あっはは、しないしない。さて、黄巾の残党や烏桓の降兵を自軍に組み入れ戦力を増強しては、北狄と抗争するやり方は、効果こそあげてはいたものの、朝廷は評価しなかった。で、劉虞を幽州牧に任命して、懐柔策をはかった。説得工作で北狄を手なずけていく劉虞が、当然コーソンさんは面白くない。軍事衝突した両軍だけど、どうなったのかは以前述べた通り。かくして、幽州はコーソンさんの支配下に落ちた」
A「それにしても、雨乞っていかがなモンよ?」
F「夏の盛りだったらしいよ。そもそも生かしておくつもりはなかったワケだし。さて、ここまでさらっと書いた分では、コーソンさんは戦上手の武将に見えるだろうけど、以前(22回)で触れた通り、見るひとが見れば『河北のミニ董卓』に見える御仁だ。そして、実際僕はその意見がむしろ正しいと思っている」
A「劉備の恩人に向かって、非道いコト云うなぁ」
F「コーソンさんという人物を語るのに、欠かせないエピソードがある。その人材登用についてだけど」
A「人材? 趙雲か?」
F「いや、文官についてだ。州の役人に優秀な者がいたら、圧迫して困窮な立場に追い込んでいたんだ」
A「……何でまた?」
F「曰く、連中を取り立てて富貴にしてやっても、自分の社会的立場から当然のことだと考え、オレの優遇には感謝なんぞしないからだ、と。一方で、占い師や商人といった大金持ちと義兄弟の契りを結んでいる。社会的には底辺だった塩商人や馬泥棒と義兄弟になって、金持ち(糜竺)の妹と結婚した誰かさんと同レベルだな」
A「だから気が合うのかね?」
F「ちなみに、正史『公孫瓚伝』には、劉備との関係について言及はないぞ。また、統率力を見る場合も、実はいささか及第点とは云いがたい所業を行っている。劉虞や文官については、演義では触れられていないから知らないひとも多いだろうけど、コレについては知っているひとのが多いだろう。コーソンさんの部下が袁紹軍に攻撃されても、援軍を送らなかったんだ」
A「あぁ。演義では、撤退が遅れて城外に取り残された部隊を『他の部隊まで被害を受ける』って、城門を開けずに見殺しにしたアレか」
F「それだ。コレについてコーソンさんは『ひとりを助ければ他の部隊も援軍を当てにして奮戦しない。むしろ見殺しにすれば、他の部隊も肝に銘じるだろう』と云っている」
A「……聞いている分では、ただの外道だな。役人は困窮させ、部下は見捨て、皇族さえ手にかける」
F「義なく節なく、行く末は国家のためにならぬ、なんてフレーズがあったな。ただし、とことん強いことは確かだった。一時は袁紹をも追い詰めたその軍勢は、しかし、界橋の戦いで敗れたコーソンさんは、兵を易京まで退いて、ここに要塞を築いて立てこもった。300万石からの食糧を蓄え、持久戦に持ち込んだんだけど」
A「……なるほど、やってることが董卓だな」
F「というわけで民心を失い、劉虞の残党を吸収した袁紹によって軍事的にも追い詰められる。それでも青州に田楷が張っている間はまだ互角の戦況を維持できたんだけど、袁紹が派遣した長子・袁譚が青州を陥落すと、そこからまっすぐに下り坂を転がっていくことになる」
A「せめて劉備がいれば……というところだったのかな」
F「かもしれんな。易京へと攻め寄せた袁軍を、必死に防ぎ続ける。黒山に勢力を馳せていた張燕に援軍を求めているけど、その密書が袁紹の手に落ちたモンだから、合図の狼煙におびき出されたコーソンさんの軍勢は大敗。しかも、沮授が立てた、地下道を掘り進んで城内に兵を送り込む策が的中して、易京は陥落した」
A「白馬が飛将の後を追った……か?」
F「家族を自ら殺し、自刎したとある。黒山軍は張燕こそ脱したものの、派遣されていたコーソンさんの息子は行方不明に。田楷も戦死している。幽州は袁紹の支配下に落ちたね」
A「袁家による北方統一がなされたわけだな。曹操にしてみれば、心中穏やかならぬものだろうが」
F「もちろん、その通り。いささかどころかかなり困った事態になった……と頭を抱えた曹操のところに、さらなる報告がもたらされる。寿春におわします袁術陛下が、あろうことか北に向かったとのこと」
A「北って……袁紹と組んで、曹操領に侵攻するつもりか?」
F「曹操と組んで袁紹領へと攻めていれば、コーソンさんの余命も長引いたんだろうけど……ね。かくして曹操は、袁術迎撃のため徐州へと兵を派遣することになる。それを率いるのは、もちろん劉備そのひとであった」
A「いよっ、待ってました!」
F「続きは次回の講釈で」