私釈三国志 22 偽帝袁術
F「連載も20回を超えると、どうにも『オレ、何でこんなこと書いたんだろう』とか『あー、このネタ解消してなかったなぁ』というのが目立つね」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「まぁ、だろうな。そもそもが、思いつきで始めた企画なんだし」
F「だな。さて、以前さらっと触れた通り、袁術と袁紹の血縁関係は、今ひとつ判りにくい。その辺りに、袁術という男の本質は見えているんだけど、実はそこにこそ三国志の深淵はある」
A「……袁術にか?」
F「正確には袁術に"も"かな。まぁ、詳しくは20年後になるかな」
A「壮大すぎるぜ、歴史スペクタクル……」
F「ハリウッドも真っ青だな。ともあれ、西暦で云えば197年。袁術は寿春を都とし、皇帝を自称した」
A「どうかと思うがなぁ。許昌にいるとはいえ、まだ後漢の皇帝は存命だろ?」
Y「以前袁紹が、劉虞を立てて董卓に対抗したようなモンか?」
F「実際、袁術のこの即位には、いくらか深い考えがあるとされる。うまく話が挙がってくれて助かったけど、袁紹の劉虞擁立にも、関連していることだ」
A「その心は?」
F「董卓の死によって、漢王朝は事実上崩壊した。現実的には、黄巾の乱で滅んでいたと見てもいい。そんな時代に群雄となった者たちは、後漢王朝に対し、いかなる態度を持って接するべきか迫られることになった……と、三上修平氏編著『三国志vs三国演義(コーエー出版)』にある」
A「後漢王朝に……?」
F「劉氏の皇帝権力に対し、どのように接するかだな。三上氏は袁術・袁紹・曹操の三派に、当時中原にあった群雄を区分した。つまり、劉氏による皇帝権力の世襲を否定し、新たな国を興す革命路線(袁術)と、劉氏の権力を棚上げして、名族による支配を行う改革派路線(袁紹)、そして、あくまで劉氏を擁する保守的な路線(曹操)、とに」
A「……あ、その分類って」
F「うん。僕は13回と20回で、その時点での群雄の派閥関係を整理したけど、基本的にはそれに準じている。ただし、三上氏のそれとは違い、公孫瓚の派閥を新たに立てているけど」
A「どう……見ればいいんだ?」
F「もう一度出そうか」
官軍:曹操・馬騰:袁紹と冷戦、袁術と敵対
袁紹派:袁紹・劉表・張繍:曹操と冷戦、袁術・公孫瓚と敵対
袁術派:袁術・孫策・呂布:曹操・袁紹と敵対、公孫瓚とは友好
公孫瓚派:公孫瓚:袁紹と敵対、袁術と友好(袁紹と戦い、弱体化している)
独立勢力:劉璋・張魯・韓遂・公孫度
F「まずは曹操。彼は献帝を擁し官軍の地位に納まった。これにより、他の勢力を『逆賊である!』と非難する権限を有したわけだけど、劉姓の皇帝を輔弼する朝臣の地位に甘んじた、本質的には保守派だということ」
A「……この時点では、曹操が保守派の筆頭か?」
F「うん。ために、韓遂と仲違いしたのを曹操の仲裁で和睦し、朝廷に出仕することになった馬騰が下にいる」
A「これはかなり意外かも……」
F「また、劉氏権力を傀儡として、名族による支配体制の確立を目指した袁紹には、劉姓の有力者が近づいた。劉表がその代表だけど、皇帝に祭り上げようとした劉虞や、後に頼ってくる劉備との関係も注目すべきだ」
Y「袁紹の場合はさらに、目指す体制の構造上、曹操との関係もある程度のレベルを維持する必要があるわけだな?」
F「その通り。以前さらっと触れた、袁紹は曹操に、献帝の身柄を自領近くに移すよう要求したのは、実際注目すべきエピソードなんだ。ただし、裏を返すと『皇帝に祭り上げ』られる劉姓の者さえいればそれでいいので、この時点ではすでに、官軍との同盟に積極的ではなくなっている」
A「劉虞ではできなかった、皇帝擁立の適材者か。そんなのがいるのかねぇ」
F「それはともかく、この両者は性質上、袁術との関係が悪化するのは判ってもらえると思う。袁術派……すなわち、劉氏の世はすでに終わっているから、新たな王朝を建てようと目論んだ一党だ。そう聞けば、孫氏が二代に渡って袁術に仕えたり、張邈・楊奉そして呂布が袁術を頼った理由が判ると思う。いずれも、頼るべき主筋を持たない(もしくは失った)成り上がり者だ」
A「……董卓が死んだことで主を失った連中は、まず官軍となり、権力を失って袁術を頼った、と」
F「この時代の同盟関係に関して、この見方を当てはめると、意外なくらいすっきり理解できるんだね」
A「確かに意外だが……じゃぁ、公孫瓚は何だ?」
F「三上氏はこの御仁を袁術閥に組み込んでいるけど、僕はそう見ていない。思想的には呂布や孫策同様、袁術に近かっただろうけど、この両者と異なる点がひとつあった」
A「根拠地の場所か? 袁術領からは遠すぎるからな」
F「幽州は北京、揚州は南京と考えてもらってかまわないけど、そうじゃない。違う点は、公孫瓚が自前の勢力を築きえたということだ。一時期には袁紹とも互角以上に渡りあい、界橋の戦闘では敗れたものの、袁紹に死を覚悟させている。つまり、袁術に頼らなくても自立できる勢力、だ」
A「えーっと……?」
Y「要するに、自分も皇帝になれる男、だな?」
F「えくせれんと♪ 話が早くていいな。ちなみに、前述の三上氏は公孫瓚をして『河北のミニ董卓』とまで評している。ただし、上の派閥関係をもう一度確認してくれ。放浪中の劉備はいないけど、興味深いことが見えるだろ?」
A「……えーっと……?」
Y「公孫瓚は弱体化、独立勢力はいずれも涼・益州に遼東のような、辺境に所在していることか?」
F「その通り。この時代、中原から河北・江東に至るまでの群雄・勢力は、その悉くが、いずれかの派閥に組み入れられることになっていたワケだ。それも、大が小を喰う形で。袁紹が公孫瓚と戦い続けたのには、戦略上の目的(公孫度を除く、事実上の北方統一)だけではなく、政略上の理由もあったんだね」
A「袁術の皇帝即位って……ただのおちゃらけじゃなかったのか……?」
F「眼からウロコが落ちるだろう。ただし、残念ながら袁術陛下は、董卓と同じ過ちを犯しあそばれた。誰からも認められなかったんだね」
A「董卓の権力が認められなかったのは、悪逆を尽くしたからだろ?」
F「いや、董卓のものとされる悪逆は、実際、長安に遷都したあとのが多い。遷都そのものを罪とするなら、それに反論する術はないけど。住民の強制移住なんて孫権がざらにやったし、皇帝の廃立(殺害はともかく)にしても、権威・権力もなしに皇帝になった袁術や孫権に比べればまだマシだ」
A「……孫権に恨みでもあるのか?」
F「董卓が諸侯から認められなかった理由は、董卓本人が名族でも外戚でもなかった、その一点に尽きる。ために、董卓がごとき蛮人の下につくを潔しとしなかった連中が、喬瑁の檄に応じ兵を挙げたワケだ。袁術陛下に関しては、袁紹がいた。それが理由であり、そしてそれだけが理由だった」
A「お前の袁紹びいきには、ほとほと呆れが入るんだが……」
F「いや、そうだと見ていいよ? 同姓であり、朝廷に仕えては『西園八校尉』に任じられ、その名声は反董卓連合のトップに推戴されるほどだ。正史では『天下はみな袁紹に味方した』とさえある。袁家嫡流に生まれながら、袁氏のトップに立てなかった。それが袁術の不幸だったんだね」
A「……そー聞くと、まぁ説得力はあるのか」
F「かくして、天下は地味に動乱の時代を迎える。黄巾の乱から13年。だが漢土にバラ撒かれた黄色い種は、次々とその芽を出し、大輪の花を咲かせ始めていた……」
A「シリアス続くと頭が疲れるよぅ」
F「続きは次回の講釈で」