私釈三国志 19 徐州政権
F「えーっと……? アレは死んで、コレは……あー、あのイベントあるから、まだか」
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A「……何だ? この人名録」
F「この連載始まって以来の、登場した面々。三国時代に限っても、前回までで118人の名を挙げていたんだね」
A「へー……なぁ、閔貢とか袁逢って誰?」
F「連載を読み直せ。えーっと、というわけで、今までで名が挙がったものの、その後のフォローがなかった面子について、ちょっとまとめますね。閔貢の最期は正史にはないので、多分遷都騒動に前後して死んでいると思われる。盧植は192年、皇甫嵩・朱儁は195年にそれぞれ死亡。袁逢・袁成は、年代的には霊帝の頃のひとだ。曹徳は徐州で殺されたと見ていい。呂伯奢と劉繇については、ちょっと思うところがあって、あとでその最期について触れる。徳王こと厳白虎は、孫策に攻められ落ち延びるものの、死亡。こんなところかな」
A「いや、まとめて云われても……ねぇ?」
F「んー、まぁ読み返したときでないと判らないかもしれないな。今までその消息を明らかにしていなくて、今名が挙がらなかった面子は、基本的に生きてると思ってください。では、今回の本題に入りまーす」
A「つーか、むしろこっちから聞くけど、お前劉備嫌いか? 連載始まってこっち、どうにも冷遇されてるけど」
F「ん? いや、むしろ正当に……というか正確に評価してるだけだぞ? 劉焉や公孫度について、あまりやってないのと一緒で。徐州を得たとはいえ、この時代の劉備は、群雄とはいえまだ弱小勢力だった」
A「むぐぅ」
F「ために、劉備は徐州を拠点に、人材を集め兵を募るようになる。もともと劉備は旗揚げ当時から、文官が小粒だったと酷評されているからな」
A「簡雍だっけ」
F「劉備軍団の初代参謀ね。簡雍は劉備と同郷で、当時、橋の下でわらじやむしろを売っていた劉備からよくわらじを買っていたため、旗揚げに際して部隊の宰領の全権を任せられたとか」
A「とんでもない懐の深さですね!?」
F「実際、簡雍は劉備から極めて深い信頼を受けていてね。後に配下に加わる孔明にさえ、でかい態度で接していたとか。ほとんど、曹操軍団の荀ケみたいな立場にあったような人物だ」
A「意外と、扱い大きいのか」
F「その簡雍と並ぶ文官三羽烏が、糜竺と孫乾だね。陶謙に仕えていた商人上がりの富豪たる糜竺は、同じく陶謙の家臣だった陳珪・陳登親子とともに、劉備に徐州を継がせている。で、豫州刺史に任じられた頃に登用したのが孫乾で」
A「陳親子って、あとで呂布相手に謀略戦を展開する連中だったっけ?」
F「うん、地元の有力者だね。陳珪がご意見番というか後見人みたいな立場で劉備を支え、副司令官簡雍、財政面では糜竺、行政で陳登、作戦参謀孫乾というところか。また、豫州時代に陳羣というのを幕下に招いているけど、このひとはほとんど為すことなく野に下るので、この時点では考えなくていい」
A「ふーん。でも……やっぱり、曹軍の文官連中と比べると見劣りするよな。武官でも、関張以外は糜芳くらいしかいないわけだし」
F「そっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったところだけど……」
A「孫軍よりはまだマシとはいえ、曹軍の夏侯惇・夏侯淵、袁軍の顔良・文醜、呂軍の張遼・高順といった連中と比べると……あぁっ、見劣りしない!? 二枚看板としてはむしろ理想か!? つーか、誰かおらんのか孫軍!?」
F「確かに、孫軍の太史慈・周泰に比べればマシだろうけど……ね」
A「……そのレベルか」
F「レベルの高さを喜ぶよりは、層の薄さを嘆くべきじゃないかな? 曹軍の武官の質と量は以前触れた通りだし、袁軍には顔文の他にも麹義・張郃・高覧といった勇将がそろっている。呂軍にも侯成・魏続・宋憲、孫軍にも黄蓋・淩操……などなど」
A「質はともかく、量はいるな、呂も孫も」
F「ところが、劉備の下には、さっき見た糜芳・曹豹や、豫州時代に加わった陳到がいたくらいで、二の句が今ひとつなんだよね。この、人材の層の薄さが、常に劉備を苦しめることになるんだけど」
A「陳到……? 知らんな。何者だ?」
F「あぁ、演義には出ないし、正史の一部にしか記述がないから、知らないヒトのが多いわな。この男に関しては、40年後にならないとイベントに絡んでこないのが悲しいところで」
A「……歴史って」
F「ところが、その人材が向こうから、それこそネギ背負ってやってきた。兗州で曹操に敗れた呂布一党が、劉備を頼って徐州に流れ込んできたんだね」
A「それを受け入れるんだよな、劉備?」
F「うん、劉備は、陳珪たちの評価はともかく、君主としての評価はそれほど高くなかった。特に、つい最近まで公孫瓚配下のいち武将に過ぎなかったワケだから、名声というのが致命的に欠けていたんだね。だから、袁紹が使いこなせず、董卓が持て余した呂布を使いこなせれば、劉備という男の株も上がるというもの」
A「つー次第で、小沛に呂布を受け入れた、と」
F「判断そのものは、この時点では間違ってはいない。呂布は計算高いけど獰猛な漢なので、それを使いこなせれば嫌でも名は上がる。劉備がそれを従えたと聞いた曹操が、許昌で歯ぎしりしたとか」
A「手をこまねいていただけか?」
F「策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ばしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせている」
A「外交政策に専念していたわけか。そこで、劉備に密使を送るワケな? 正式に徐州を与えるから、呂布を殺せと」
F「義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いた次善の策が、駆虎呑狼の計で」
A「劉備に袁術討伐を命じ、徐州を空けさせる。それをみたら呂布が兵を挙げるだろう……という策か。そっちは上手くいったよな?」
F「うーん」
A「悩むかよ!?」
F「というか、この辺の記述は正史にはないからなぁ。劉備が南の袁術に兵を向けたのは確かだけど、それが曹操の策だったかというと疑問が残る。むしろ、劉備の領土欲だったんじゃないかと」
A「劉備が善人だという演義の思い込みは、捨てるんだったな。で?」
F「うん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留守に残して出陣する」
A「ふむふむ」
F「というわけで、陳宮がまたよからぬ企みを思いついた」
A「……ここで『というわけで』って云うのはいかがなものかな」
F「呂布は裏切る。ただそれだけのことだよ?」
A「まぁ……『呂布の離(自然なこと)』とか『呂布の理(無茶苦茶)』とかいう言葉もあるしなぁ」
F「かくして、劉備のもとひと時の平和を得たと思われた徐州に、再び大乱の兆しが現れる。五原の孤将もてその乱を引き起こさんとしたその男、名を曹豹と云った」
A「おいっ!?」
F「続きは次回の講釈で」