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私釈三国志 17 江東騒乱

F「さて、お次は孫策」
A「孫堅の長男だな。袁術の下に就いてたんだよな?」
F「だね。孫堅が死んだことで孫家を背負うことになった孫策だけど、当時18歳。自立するにはいささか無理がある年齢だった。ために、孫家の兵は、従兄の孫賁に率いられて袁術の元に逃げ込み、他の部隊に再編された」
A「一軍の後継者から、一部隊長に格下げか。あっさり没落したな」
F「もちろん、袁術に兵を返してくれるよう求めるけど、袁術としてはあまり孫策を重用できない事情があった」
A「ん?」
F「揚州の北には徐州があったんだけど、そこの陶謙が孫策を毛嫌いしていてね。曹操は、独立したとはいえ袁紹派の最有力群雄だった。曹操と軍事衝突しながら、公孫瓚派の陶謙まで敵に回す度胸はなかっただろうね」
A「その辺の枢軸、まだ影響してたんだな……」
F「そこで袁術、丹楊に行くよう孫策に勧めた。孫策の叔父に当たる呉景が太守を張っていたこの地は、正史でも『丹楊精兵』というフレーズを多用されるほど、勇猛堅実な兵の産地として有名だったのね。徐栄に敗れた曹操が募ったのや、劉備が陶謙から与えられたのが、丹楊兵だったと云われている。劉備が与えられた兵を率いていたのが曹豹だったことを考えると、どうにもこの男も、丹楊出身だった可能性がある」
A「へー? 俺、そんなの聞いたことなかったけどなぁ」
F「そぉ? 陶謙自身が丹楊の出自だったから、後々劉備が大変なことになるんだけど、それをさておいても、丹楊兵の精強さを物語るエピソードには事欠かないぞ? たとえば曹操なんかは、せっかく集めた丹楊兵が叛乱を起こして、曹操自ら剣を振るって切り抜けなければならない事態に追い込まれている」
A「待てやオラっ!」
F「孫策の募兵も推して知るべしだな。呉景の元で集めた数百からの兵は、山越の民に襲われて全滅したという」
A「ホントにそれで精兵か!?」
F「あるいは袁術の謀略だったんじゃないかという気もしなくはないけど……ね」
A「……ふむ?」
F「ただし、この後もう一度孫策に泣きつかれて、千からの兵を返したことを考えると、どうにも違うような気がしなくはない。確証はないね」
A「袁術は、孫策を評価していなかったと?」
F「いや、評価そのものは高かったね。その千の兵で奮闘する孫策は、袁術軍でも評判を得て、袁術は『我が子に伯符(孫策の字)ほどの器量があれば、思い残すことはないのになぁ……』とぼやいたそうだから」
A「でも、冷遇されてなかったか?」
F「というか、ていのいいパシリにされてたね。袁術と対立した地方を攻め落とせば、そこの太守にしてやるよん、とそそのかして攻略させておきながら、部下の劉勲を太守に据える、ということをしでかしていた」
A「子供に冷たいな、袁術……」
F「そんなこんなでフラストレーションがたまっていた孫策だけど、ある日チャンスが訪れる。朝廷から揚州刺史に任じられた劉繇が、孫賁・呉景の在所を攻略したんだね。そこで孫策、劉繇を討って江東を平定したいと袁術に進言したところ、袁術はこれを受け入れた」
A「まぁ、やらせることそのものは間違いではないか」
F「もちろん、それが為されたら、孫策から江東を取り上げるつもりだったんだろうけど、ね。ところが、この頃から孫策の人生は勢いを増していく」
A「劉繇が弱くて、それを平定できたからか?」
F「いや、江東平定に乗り出した孫策のところに、盟友が馳せ参じたんだ。美周郎こと、周瑜そのひとだね」
A「そうか、美周郎がいたか! 天才軍師が孫策のところに……!」
F「演義のせいで孔明の引き立て役の感が拭えない周瑜だけど、その才を否定はしないだろう。孫堅が黄巾討伐に出向いている頃に知りあったこの両者は、兄弟同然のおつきあいをしていて、俗に『断金の交わり』と呼ばれる関係になったという。つまり『鉄をも断つほどの強い絆』だけど」
A「要するに、アキラとお兄ちゃんの関係ね!?」
F「露骨に安っぽく聞こえたのは、オレの気のせいか? 後に、名士・橋公の娘で絶世の美女と称された大橋・小橋の姉妹を妻に迎え、本当の義兄弟になっている」
A「腹心中の腹心って奴だな」
F「うむ。周瑜を得た孫策は百戦百勝。江東で快進撃を続け、劉繇軍を完膚なきまでに打ち破っている。太史慈とタイマン張って気に入り、劉繇敗走後も踏みとどまって戦い続けたこの男を配下に招いたのもこの頃だな」
A「タイマン、張ったのか?」
F「正史にもそんな記述があってな。どうにも、実際にあったらしい。他に、淩操や蒋欽、周泰といった江東の豪傑たちが傘下に入っている」
A「加えて、孫堅時代からの程普や黄蓋か。武官は充実したな」
F「文官もいるぞ。高名な『江東の二張』こと張昭・張紘が、孫策の陣営に加わっている。張昭は、以前陶謙からの任官要請を拒否して投獄された前科の持ち主で、その陶謙への恨みから孫策の元に走ったと見ていい。内政・政略のエキスパートだ。対する張紘は、曹操にも認められたほどの知恵者で、後に南京となる建業を建てたことで有名だな」
A「人材が続々と集結したわけだな。……で、何で前回、劉備の時にこーいうコーナーなかったわけ?」
F「劉備の元に人材が集まったわけじゃないからなぁ。この辺はいずれ触れるけど、劉備は徐州の統治に失敗したと断言できるんだよ。まぁ、さておいて。江東……揚州における支配権を確立した孫策は、孫賁・呉景をもとの任地に太守として送り、また周瑜を丹楊に送って当地を厳重に固めさせた。そして、呉や会稽の攻略に乗り出す」
A「呉と云えば、東呉の徳王こと厳白虎だな?」
F「たいそうな綽名だけど、独立勢力としてはどうだったのかなぁ。万余の勢力を有していたというけど、孫策に攻められて、さらに南に逃げたとか。山越の出身だったという説もあるな」
A「で、会稽の太守が王朗か」
F「朝廷から太守に任じられたのに、孫賊ごときに城を渡せるか! と突っぱねて、戦って負けた男だね。捕らえられても降伏しなかったけど、その態度に感服した孫策は、殺すことなく解き放っている」
A「なかなか粋なことするな」
F「かくして、江東は孫策によって平定された。その戦上手ぶりから、民衆は、かつて楚の地から天下を盗った、偉大なる項羽になぞらえて、彼を"小覇王"と綽名したという」
Y「項羽って、劉邦に負けて、死体をバラバラに切り刻まれた阿呆だろ?」
F「……そっちまで書かにゃならんかなぁ。司馬遷は、その『史記』において、始皇帝の『秦本紀』と劉邦の『高祖本紀』の間に、ちゃんと『項羽本紀』を置いているんだよ。南京に留学してたとき、古い年表を見たんだけど、そこには秦と前漢の間にしっかり楚が入ってたね」
A「だから、そーいうのを回る時は俺も連れてけって云っただろ!」
F「江東における孫策の覇権確立を、袁術は苦々しく思っていた。すでにその力関係は逆転しつつあったと云って過言ではない。小覇王の覇業は、ここに始まる」
Y「先は短いけどな」
A「ヤス、それは云わない約束よ!」
F「続きは次回の講釈で」

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