私釈三国志 16 桃園結義
F「はい、今回は……」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「劉備だぁ〜♪」
F「……ご機嫌そうだな。今までスルーしておいたけど、さすがにこの状況では無視もできんので、一度、ここまでの劉備について書いておこうと思ってね」
A「三国志、おっお〜♪ 玄徳、おっお〜♪」
F「アキラ、それはすでに替え歌じゃなくて間違いだから。いずれタイトルに関する内部規約(漢字4文字)を超越して『曹豹血盟軍』をやろうと思ってたのに」
Y「するな」
A「ヤス、正しい! そんなモンしなくていい! つーか、時代的にはもう少しでアイツ死ぬだろ!」
F「だから早めにやるんじゃないか。ちなみに第100回についても、タイトルは5文字になると思う。どっちにするかは今のところはっきりしてないけど……ね」
A「100回も続くのかよ!?」
Y「要するに最終回だろ。だが、それならタイトルは『秋風五丈原』じゃないのか?」
F「実は、もうひとつ候補がある。たぶん、官渡のあとでなら予想がつくだろうけど、今のところはそんな感じで。つーか、お前ら玄徳嫌いなのか? ひとがせっかくやろうと思ったのに、話の腰ばかり折りよって」
A「いやぁ、大好き大好き♪ さーて、お兄ちゃんはどんな劉備を書くのかな?」
F「まず、既存の劉備像は、あくまで演義でのものに過ぎないというのを理解してもらいたい。情けなくて人のいい、温情型の君主は、以前さらっと触れたが、劉虞のイメージからのものだ。正史における劉備像は、むしろ『蒼天航路』のものがいちばん近い」
A「でも、劉備は演義の良君ぶりがむしろ固定されたイメージだろ? 街の講壇屋は、劉備が負けると泣いて悲しむのに、曹操が負けると手を叩いて喜ぶガキどもであふれていたって、有名なエピソードもあるし」
F「戦下手の善人というのは、小説としての三国志演義で植えつけられたイメージだ。これはいいな?」
A「うん?」
F「つまり、劉備が軍事的に無能であればあるほど関羽・張飛の武勇は際立ち、孔明の智謀は冴え渡る。劉備が善であればあるほど曹操の悪が目立つんだ。対比による力関係の強調だな。水滸伝でも宋江が、西遊記でも三蔵法師が、そんな『無能だけど慕われる』ヘッドとして描かれているだろう? だから、李逵や悟空が目立つわけだ」
A「……はー」
F「正直、羅貫中は凄いと認める。さて、話を戻そう。劉備は、中山靖王の末裔を称していた。要するに自分は皇族で、だからいずれ天下に号令するんだと幼少期から口にしていたらしい」
A「孫堅の孫子末裔説と並んで、かなり疑わしいよな」
F「うーん……孫堅のそれとは違って、劉備のコレについては、信憑性があるんじゃないかとむしろ見ている」
A「その心は?」
F「この中山靖王が曲者でな。父親は前漢6代の景帝なんだけど」
A「……知らない」
F「だろうな。呉楚七国の乱が起こった当時の皇帝なんだよ。諸王・諸侯の権力を削ぐことで中央集権化をはかった景帝に、諸王侯が叛乱を起こしたこの一件が、前漢王朝の屋台骨をへし折ったんだけど」
A「つまり、暗君?」
F「農業生産力の向上に重点を置いた政策を実施し、その点で評価するなら前漢時代でも屈指の名君だったと云えるけど、あまり評価は高くないな。わざわざそんなモンの末裔を名乗るのには、孫堅のように戦上手ですーと自分に箔をつける目的があったというよりは、むしろ本当のことだったからと考えるべきじゃないかと思えてね」
A「理由が消極的だな……」
F「ともあれ、劉備は黄巾討伐の義勇軍を率い、一部では名を馳せた。旗揚げに際して劉備を支えた股肱たる、関羽・張飛と、桃園で義兄弟の契りを結んだというのは有名な話だね」
A「んむ♪ 我ら三名天に誓わん、生まれた時は違えど願わくば、同年同月同日に死なん……って」
Y「正史にはないけどな」
A「ヤス、余計なツッコミいらない!」
F「……うーん」
2人『なぜそこで黙るか』
F「え? いや、思うところがあって。まぁ、官渡の前でその辺は触れる」
A「またそのパターンか……」
F「ともあれ、黄巾討伐において、それほどの重職に就けなかったのは、以前挙げた理由の通りだ。官軍にあまりダメージがなかったから、空きがなかったんだね。で、せっかく得た職も、中央からの監察官が気に入らないと殴りつけて自ら捨てる始末で」
A「演義では張飛が殴ってたけど、正史では劉備が殴るんだったよな」
F「演義の張飛はボケ担当だからね。その後、黄巾の残党討伐の功により劉虞の仲裁でその罪は許された。かくして、公孫瓚の元で袁紹と戦うようになる……と」
A「華雄や呂布との激戦は、基本的には演義のものなんだよな……」
F「そうだね。公孫瓚の配下として、袁紹と刃を交えても、呂布とは積極的に殺りあったとは思えない。まぁ、この頃にはある程度『頼れる武将』くらいの評価は得ていたようだけど」
A「正史では、それほど戦下手ではないと?」
F「相手が弱かったんじゃないかな? 現に徐州で曹操と戦ったときは、あっさり負けてるわけだし」
A「……相手が悪いか」
F「まぁ、正史でもいい男……というか侠とは書かれているようだけど、ね。当時、地元の顔役だった男が劉備を気に入らず、殺し屋を差し向けたことがあった。ところが劉備はそれを殺し屋と思わず、客としてもてなす。話し込むうちにすっかり劉備が気に入った殺し屋は、事情を打ち明けて帰ったとか」
A「仁徳だな」
F「否定できんなぁ。何しろ、公孫瓚の命で徐州の救援に向けられたときも、出れば負け続けていたのに、どうしたわけか陶謙に気に入られて兵を預けられ、豫州刺史の座まで得た始末だからな」
A「どうして陶謙は、そんなに劉備が気に入ったのかね?」
F「正直な本音としては、劉備の仁徳としか説明できないんだよなぁ。正史にもちゃんとした理由は書いてないし」
A「あ、そーなの?」
F「理由らしい理由としては、陶謙が『息子たちでは徐州を治められん! 劉備でなかったらワシ嫌じゃ!』と駄々をこねて、徐州まで譲ろうとしたイベントがあるけど。ともあれ陶謙は、劉備を気に入った。そこに尽きる」
A「理屈じゃないのね……」
F「というわけで、陶謙の死後、その遺言により徐州は劉備が治めることになった。劉備は無論お断りしたものの、孔子の子孫たる孔融に『袁術みたいな奴が徐州を治めたら、かえって民衆が憐れですじゃ』と説得され、ようやく徐州の刺史となることを承諾した」
A「ようやっと、曹操や孫堅と五分に渡りあえる立場になったわけか」
F「孫堅死んでるけどね。かくして、後の三国の一雄・劉備も、歴史の表舞台に立った。だが、これにより北方のパワーバランスが崩壊し、公孫瓚は袁紹に破れ、守勢に立たされることとなる」
A「締めに入ったな」
F「その頃、南方ではひとりの漢が気を吐き、激戦を繰り返していた。亡き孫堅の長子、名を孫策と云った」
A「つーか……今回、かなりぐだぐだだし」
F「続きは次回の講釈で」