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私釈三国志 10 地方群雄

A「ふっかぁーつっ!」
F「はい、来たねー。もっとも、アキラがいない間に董卓死んだりいろいろあったけど」
A「初日5分で予約したコトに比べれば、そんなモン大したことじゃないだろ?」
F「はい、そこから先は口にしちゃダメ!」
A「で、今回は? タイトルからでは、何があるのかよく判らんが」
F「反董卓連合が解散し、群雄は己の拠点に戻って、その戦力充実に努めた。今回は、その辺りについて」
A「董卓死後の、群雄の情勢な。誰からだ?」
F「さらっとしか名が挙がっていなかった、劉氏3名からだな。まずは劉焉。この男、息子が劉備に国を奪われた関係で、どうにも無能との印象が強いけど、実際はそれなりの謀略家でね。朝廷に働きかけて、州牧の地位を創設させたのが、実はこのひと」
A「諸悪の根源か」
F「それは張角……つーか霊帝。しかも、自ら志願して益州牧となっている。云うまでもないだろうけど、益州は後に劉備が蜀を建てる地で、さらに劉邦が漢中送り(左遷の語源)にあった地でもある」
A「……ンなトコに劉氏送っていいのかよ」
F「よくないよなぁ……。そもそも『清廉な重臣を選んで州牧に任じよう!』と自分で云っておいて、宮廷に仕えていた董扶の『益州に天子の気がある』との予言を信じて、自分が益州入りするンだから、割と欲ボケたおじいちゃんとの印象が拭えない」
Y「劉焉に対する印象って『よく知らない』が本音じゃないか?」
A「演義だと、幽州を治めていたけど黄巾に悩まされ、劉備たちのおかげで何とかなったってところだけど」
F「んー、当時の益州でも、黄巾を称する連中がのさばっていたのは事実だな。実際には益州までは黄巾が広まった事実はないンだけど、世直しと称して多勢をはびこらせる連中が自ら黄巾と名乗った、というところなんだが」
A「よくあるオハナシだよな。自らの行いを正当化するために、長いものに巻かれようとする」
F「問題は、これが上手く行ったことでな。首魁は馬相と云うンだが、綿竹で挙兵すると過酷な苦役に耐えていた民衆数千が集まった。コレを動員して県令を殺したら、一万を超える数が糾合してしまう。馬相は雒城を突破し益州刺史を殺害するという、どっかで聞いたコースで快進撃を続けた」
Y「コレ、何年の話だ?」
F「188年。羊飼い上がりの後続は75年後になる。馬相軍の勢いは一ヶ月でみっつの郡を攻略したほどで、董扶の予言が的中したのか何なのか、調子に乗って皇帝を名乗ってしまう」
A「何者なんだ? 董扶って」
F「もともと政治学を学んでいたンだが、吉凶予言の奥義も修得していてな。167年の日食について、当時帝位にあった桓帝から諮問を受けても、朝廷に出るのを拒んでいる。この年に桓帝が崩御した辺り、考えがあってのことだったンだが、以後、三度の招聘と二度の推挙をことごとく拒んで、霊帝の代で何進に推挙されようやく中央に入った」
Y「188年ってことは、何進はまだ健在だな」
F「ところが、劉焉の益州入りに同道している。以前触れたが、霊帝が崩御するのは189年、つまりその翌年でな。やはりそれを察していたのだろう。益州にいた董扶はそのまま官職を去り、82歳で大往生を遂げている」
A「……なんか、演義にもってこいな仙人じゃね」
F「俗人だから。話を戻すが、馬相は皇帝を名乗ったのがまずかったようで、南蛮に程近い郡で抵抗していた官軍の賈龍と戦い、あっさり敗死している。その辺りが落ちついてから、賈龍に迎えを受けてようやっと益州入りできた劉焉は、ひとまず寛容な政治を行い民心をつかんだ」
A「ひとまず?」
F「そもそも劉焉が益州入りしたのは、この地に独立して勢力を広げるためだ。ために、益州と長安を結ぶ要地の漢中に張魯を派遣すると現地を攻略させ、その上で北方との連絡・交通を遮断させている。また、現地の豪族を殺して兵を吸収し、"東州兵"を名乗らせた。露骨な独立宣言ともとれる動きを見せたンだ」
A「どっかで聞いたな……」
F「軍事力としては、この後、赤壁前後まで益州が独立を維持していたことを考えてくれれば、納得してくれると思うけど。もちろん地元の皆さんは黙っておらず、賈龍の上役にあたる任岐が劉焉を攻撃したけど、あっさり返り討ちにあう。賈龍も劉焉に味方した羌族に殺され、劉焉の益州支配は確立された」
A「けっこうえげつない真似するじゃねーよ」
F「ところが、ミスも犯している。さっきも云ったが、張魯が漢中に入っていた。道教集団『五斗米道』の三代教祖なんだが、当時は益州に拠点を置いていたンだ。ところが、張魯の母親というのが年齢を感じさせない若々しいヒトで、おまけにシャーマンとしての術にも通じていた。ために、劉焉の家に出入りしていた」
Y「この男、どうにもそっち系に弱いらしいな」
F「うん、オカルト趣味があったみたいなんだ。張魯が漢中に差し向けられたのもその辺りがコネになったンだが、そんな劉焉に愛想尽かして、漢中(益州北部)の攻略命令を受けたのをいいことに、漢中に拠点を定めた。きちんと朝廷から官職さえ得て、事実上の独立国を築き、劉焉に対抗したんだね。この抗争は、ずいぶんと続くことになる」
A「それが原因で、後に劉備入蜀を招くわけか……」
F「まぁ、そこまで話を進めるのはさすがに先走りすぎなので、ここではその程度にしておこう。ちなみに、韓遂や馬騰と共同で長安に出兵したけど、李傕(リカク)たちの守りは堅く、抜けなかったことを付け加えておく」
A「さすがは、董卓が鍛えた精鋭たちか。次はどっちだ?」
F「幽州牧の劉虞だね。この御仁は、日本の読者にはあまり馴染みがないというのが一般的な評価だけど」
A「んー……そうだよなぁ。何した奴か、俺よく判らんし。何でだ?」
F「偉大なる横山(光輝)氏の三国志に、登場しなかったのが最大の原因だろうな。まぁ、コーエーのゲームでも、最近の作品からしか出てきてないから、知名度が低いのはある程度止むを得ないんだよね……きちんとした関連書籍読んでるなら、話は別だけど」
A「お前は読んでたわけな」
Y「よく見ておけ、アキラ。コレが、幼い頃から三国志を読んでいたバカの、成れの果てだ。うちは手遅れだが、お前の子供にはこんな未来を見させるなよ」
F「……云いたい放題云っとるな、お前ら。えーっと、以前さらっと云ったけど、劉虞は幽州で、公孫瓚と並んで勢力を誇っていたような状態でね。演義において劉備が、幽州を統治していた劉焉の下で働いていたのは、この男がモデルになっている」
A「公孫瓚と云やぁ、袁紹とも四つに組んだ序盤の群雄の一角だが……劉虞も戦上手なのか? それとも、劉焉みたいな謀略家か?」
F「いや、どちらでもない。多分、演義の劉備の、モデルになった男だ。戦場での駆け引きも謀略の才もないが、どうにも人望だけは篤くて、豪族や群雄や異民族からも慕われていた。えーっと……187年か、その辺が評価されるイベントが起こっている」
Y「劉焉入蜀の前年か」
F「うん。それより少し前になる185年、公孫瓚は張温の命で、烏桓騎兵三千を動員して西に向かおうとしていた。ところが、黄巾の乱の余波になるが、漢土の混乱と弱体化を見ていた烏桓の大人丘力居が、漢人の張純と組んで挙兵したンだ。張純は自ら王を名乗って幽州各地を荒らし回り、烏桓が呼応して青・徐・冀州を席巻する」
A「一大兵乱だな……」
F「烏桓のみならず漢人も加わって、十万あまりの勢力になっている。公孫瓚は例の騎兵を引き連れて張純らと戦い、勝利は得たものの鎮圧には至らなかった。そこで187年、朝廷は劉虞を幽州刺史に任じて、事態の収拾に当たらせることにした。異民族に恩恵を与え、信望を得ている……と評価されていたのが人選の理由だ」
A「もともと評判が高かった、と」
F「うむ。何しろ劉虞が来たと聞いた途端、丘力居はあっさり帰順を決めたくらいだ。そんなものは、何年も戦っていた公孫瓚にしてみれば、面白かろうはずがない。丘力居からの使者が通る道に兵を伏せ、殺してしまう」
Y「烏桓との共存ではなく、討伐して名を挙げたいと考えての暴挙か」
F「暴挙だな。公孫瓚の手の者に使者が殺された、と知った丘力居は、わざわざ間道を使って、改めて劉虞に帰順を申し入れている。張純は部下に殺され、東北部の叛乱劇はこうして平定された」
A「武でも智でもなく魅力型か……まぁ、君主としては問題ないのかな」
F「うむ。そのため、袁紹や韓馥といった群雄はとてつもないことを考える。董卓の遷都強行によって、献帝は長安に連れ去られてしまった。そこで袁紹は、あろうことかこの劉虞を、皇帝に祭り上げようとした」
A「げっ……!?」
Y「策としては悪くないだろうな。董卓が献帝を使って長安でやっていることを、袁紹も劉虞を使って鄴でやるだけという見方もできる。東西に皇帝が並び立つわけか」
F「結論を云ってしまえば、劉虞本人が固辞したので、これは実現しなかったんだけどね。実現していたら、極めて面白いことになった気もしなくはないけど、ともあれ。地盤が幽州だけに、公孫瓚と激突するのは止むを得ない話でね。劉虞は公孫瓚と戦ったものの、戦上手で知られた公孫瓚には敵しえず、ついには捕らえられる」
A「あらら……一巻の終わりか?」
F「ところが、何を思ったか公孫瓚、意味不明のことを云い出した。劉虞を市中引き回しにした後で、おもむろに『突然ではあるがコレよりオレ的雨乞タイムに突入する!』と、劉虞に雨を降らせるように命じたのね」
A「ナニ考えてやがる、白馬将軍!?」
F「オレが聞きてェ……。コレ、実際にあったエピソードらしいんだけど、ね」
A「お前が劉虞なら、そのまま降らせて助命されたような気もするんだが……マジなのか?」
F「演義に採用されたエピソードを思うと、多分、降ってもそのまま殺されたと思うよ? でも、劉虞には雨乞の心得なんてなかったから、結局そのまま公孫瓚に処刑されてしまう。享年不明」
A「何で、こんな茶目っ気たっぷりの兄ちゃんが、演義ではカットされてるんだか……」
F「まったくだ。さて、3番手は荊州牧・劉表。この男も、今ひとつ文弱の印象があるけど、実際はそうでもなくて」
A「いや、劉表は文弱だろ? 領土的野心がなかったおかげで、荊州は中原の争いに巻き込まれずに済んだわけで」
Y「清流派や孔明みたいな流民のよりどころになったよな」
F「以前、さらっと云ったのを覚えてるか? 参軍は董卓の死後、何進の副官と戦って死んでる、と」
A「あれ……? その参軍が孫堅ってことは……え?」
F「劉表はその頃、何進の副官みたいな座にあったのね。ところが荊州牧が孫堅に殺されたモンだから、朝廷の混乱に乗じるような形で、劉表は長安を脱出し、荊州に向かった」
A「意外と頭は切れるな……要領はいいのか」
F「まぁ、政治的手腕では文句のない奴だったからねぇ。ところが、当時親分、即ち董卓がすでに死んでいたモンだから、マトモな戦力を動員できなかった。どうしたものかと途方に暮れた劉表は、蒯良・蒯越兄弟、蔡瑁といった荊州の実力者を招いて相談してみる」
A「蒯兄弟と云えば、"ひきぬきメモリアル"こと曹操が『荊州より嬉しい♪』と喜んだ人材だよな」
F「その綽名やめろ。まぁ、それだけに頭も切れる。後に孫堅を謀殺する蒯越は、荊州に割拠する勢力を吸収する策を献じた。勢力のヘッドを呼び出しては問答無用で殺し、その兵を自軍に組み込んでしまえ、と」
A「……それほどの男だったか、蒯越」
F「この策に従い劉表は、実際に55もの勢力を罠にかけて潰し、その兵を自軍に編成し、袁術や孫堅の影響下にあった太守たちを追放・処刑していったとさ」
A「何つーか……どうしてこれで荊州が、曹操を経て劉備のものになったのか、まるで判らん展開だな」
F「実は、毎度おなじみ鄭泰が、この頃袁術の元にいたのは以前さらっと触れた通りだけど、この一連のどさくさで死亡している。惜しいヒトを亡くしましたねっ!」
A「死んでいいよ! 惜しくないよ! つーか、しっかり殺しとけ董卓!」
F「そこまで嫌わんでもええやん……。えーっと、というわけで、今回は劉氏3名についてまとめました。微妙に年代が飛んでいたりしますが、その辺はご容赦を」
A「まとまってない気もするが……」
F「続きは次回の講釈で」
A「次は何だよ!?」

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