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私釈三国志 07 長安遷都

F「アキラ、日本の首都ってどこか知ってる?」
A「不本意ながら東京だろ」
F「実はそうではないという意見もある。1868年に明治天皇は、京都から東京に移っているんだけど、この際『遷都』と云わなかったことから、日本の首都はまだ京都だという見方もあるんだ。そも、日本には首都そのものを定める法律が存在しないしね」
A「はぁー。そーいえばひいばーちゃんが、生前『天皇はお出かけしてる』って云ってたけど、そういうコトか?」
F「だね。一般的に首都とは、その国の統治機関がある都市を指す。話を後漢に戻すと、前漢では長安だった首都が、光武帝によって洛陽に移された。以来170年近く、後漢の首都は洛陽にあったことになる」
A「今、何年の話をしてるんだっけ?」
F「西暦で云うなら190年。反董卓連合の結成が4月のことだったから、それからあまり時間はたってないはず」
A「でも董卓は、連合の侵攻を恐れて、長安に遷都すると云い出した? そこまで恐れる必要あったのか? いくら虎牢関を抜かれたからって、洛陽の守りも薄くはないだろ」
F「実際、董卓も弱気になっていたことは否めない。李傕(……あ、字が出ない。訓読みでは『リカク』さん)を遣わして孫堅と婚姻を結び、コレを取り込もうとしたんだけど、孫堅は『ブタの娘なんぞいるか、ほしいのは董卓の首だ!』と豪語して、これを突っぱねている」
A「そこまで嫌わなくてもいいんじゃないかと思うんだがなぁ」
F「だね。董卓にしてみれば、自分の本拠地たる涼州に程近い長安の方が、洛陽より心理的にも軍事的にも、何かとやりやすい。実際、多分アイツがいちばんの原因だと僕は見てるんだけど、それは後で触れる。ともあれ、前漢200年の都だったとはいえ、前漢滅亡と新の戦乱で荒廃していた長安に遷都するとなると、とんでもない手間隙が……」
A「……ん? ちょっとストップ。新って?」
F「あぁ、失敬。前漢と後漢の間には、15年ほどだけど新という時代があったの。さっきも云ったけど、長安は前漢の都だから、当然新軍……叛乱軍は、そこを攻める。光武帝が洛陽に遷都したのは、そのせいもあるね」
A「で、その新を叩き潰したのが光武帝、と。よし、おーらい」
F「はい。実際に遷都にかかった費用は、当然民衆から絞り上げた。富豪層に、反董卓連合に内通していると冤罪をかけて、財産を没収して殺す。また、後漢王朝歴代皇帝の墳墓を掘り返し、副葬品を強奪した。そうやって資金をかき集めた董卓は、百万と云われた民衆を長安に移動させる」
A「とんでもないことしでかすな、まったく」
F「ちなみに、先に『毒殺された』と云ってあるけど、少帝が殺されたのは、この頃だ。遷都に前後して、母后もろとも後腐れがないようにと処分された」
A「……それはそれで驚いたな。まだ息があったのか」
F「おおむね千年の後に、日本で似たようなことがあったね。治承・寿永の乱……俗に云う源平合戦の時代に、木曾義仲の攻勢を恐れた平清盛が、平安京から福原に遷都したんだけど」
A「アレは、確か半年足らずで平安京に戻ってたよな」
F「民衆もそう思ったね。董卓の非道がそんなに長続きしないだろうと、1年くらいで洛陽に帰れると楽観していた。でも、董卓はその予想をも上回る。洛陽に火を放ったんだね」
A「遷都というより廃都だな……」
F「えくせれんと♪ アキラ、その表現ナイス。かくして、帰る場所も金もなくした民衆は、董軍の兵士にせっつかれるまま長安への長い道程を歩かされた。その行程は一ヶ月にも及んだという」
A「反董卓連合は、何してたんだよ?」
F「というか……実際にやる気があったのって、そんなに数がいないのは先に述べてある通りでね。焼け野原になったものの洛陽を占領した時点で、もう戦争する気をなくしてしまった。最先鋒たる孫堅は、むしろ洛陽復興に尽力すべしと云い出し、袁紹・袁術も長安攻撃はいかがなものかと二の足を踏む。埒が明かんとキレた曹操は、自軍(五千足らず)だけで、董卓追撃を敢行する始末。すでにこの時点で、反董卓連合は瓦解していたと云っていい」
A「例の鄭泰の発言が、的を得ていたワケか。で、曹操は」
F「うん、董軍の後方を守っていた徐栄に敗れている。さて、ここでふたつ疑問を提示しよう。なぜ曹操は、そんな無茶な追撃を敢行したのか。そして、なぜ生き残ったのか」
A「ん? 2番めって、そんなに問題か?」
F「まぁ、順番にね。曹操が、この時自軍だけでも追撃し、一敗地にまみれたのには、やはり計算があったとされている。一見無謀なこの追撃によって、曹操は勇気ある名将との評判を勝ち得たのね」
A「実を捨て名を取った、か?」
F「そんな感じだね。で、この時曹操を迎え撃ったのは徐栄だけど、2番めの疑問は、なぜこの時、ここに呂布がいなかったのか、ということで」
A「……云われてみればその通りだな? 呂布がその軍を率いてさえいれば、曹操の息の根はここで止まっていた可能性は高いぞ? 何してたんだ、アイツ」
F「多分、先鋒として長安に乗り込んで、防御を固めていた」
A「何で? 俺が董卓なら、そんな無駄な使い方はしないぞ。最強の武将は防御に回すってのは、お前の持論だろ」
F「うん、僕の持論だね。だから、僕が董卓の立場にあったなら、呂布は長安に派遣していた」
A「誰への守備だよ、誰への? この状態で長安に攻め込んでくる敵なんて、どこにいる?」
F「西涼の馬騰」
A「……意外な男が、そういえばいたな」
F「うん。西域で異民族戦役のエキスパートだった董卓なら、似たような立場にあった馬騰の性格と軍事力は理解できていたはずだ。馬騰は後に、劉備たちとともに曹操暗殺に抱きこまれるほどの勤皇家。董卓に対していい感情を抱いていた可能性はないに等しい。また、馬騰軍の軍事力は、後の曹操を翻弄したほどのものだった。いずれも演義での話ではあるけど、馬騰とは、そこまで重視されるべき群雄だったというのは事実だ」
A「だから、董卓は長安に遷都した、と? 馬騰という男を恐れるあまり?」
F「それについては20年後、面白いイベントが発生する。楽しみにしておくといい。ともあれ、だから僕は、董卓は洛陽を捨てて長安に走り、呂布はその先鋒となっていたから曹操の追撃を迎撃しなかったと見ている」
A「うーん……どーにも信憑性には欠けるような」
F「まぁ、長安に遷都したのは歴史的事実だ。董卓は、近郊に砦を築いて防御を固め、30年分の食糧を備蓄したと豪語。守りを固めて難局を乗り切ろうと画策したわけだね。判断としては、まぁ悪くないとは思う」
A「現に、反董卓連合は事実上崩壊していたわけだからな。東からの脅威はほとんど防いだ以上、あとは西から……要するに馬騰を防ぐ戦力を維持していればよかった、と」
F「そうだね。長安で守りを固められては、攻めるに攻められない……と、袁紹は連合の解散を宣言。参加諸侯は自分の国元に帰って、疲弊した国力を回復しようと画策した。曹操や孫堅、袁術や公孫瓚も撤退した」
A「一将功ならずして、あとに残ったのは焼け野原か。あまりにも侘しすぎる現実だな」
F「そうだね。かくして、いよいよ天下は麻のごとく乱れていく。群雄割拠の時代が幕を開けた」
A「民衆にしてみりゃ、えらい迷惑だろうな……」
F「続きは次回の講釈で」
A「今回、あっさり終わりすぎ!」

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