私釈三国志 05 暴虐無双
F「さて、前回は早足で霊帝・何進死後の混乱から、董卓が抜き出た経緯をさらっとなぞった」
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A「少帝が廃されて殺され、献帝が即位するまで……だな」
F「です。まぁ、董卓の暴虐がそれで納まるなら苦労はないね。もちろんそれで納まるはずがない。董卓が重ねた暴虐の数々を列挙していくだけで規定分量を超えるような気がするので、ここでは代表的なものを挙げるだけにする」
A「規定があったのか?」
F「内部規定だけど。まずひとつめ。司空・張温の殺害だ」
A「は? 行政の責任者だろ? それでなくても董卓本人のせいで、宮廷から国家に到るまで混乱してる真っ最中に、どうしてそんな重臣の首を切る?」
F「いや、国の混乱はどちらかというと張角のせいというか後漢王朝の自業自得だけど、それはさておいて。前回さらっと述べた『涼州の叛乱』で、現地に送り込まれた援軍、というか正規軍を指揮していたのが、このひと張温で」
A「何で? 張温、文官だろ?」
F「まぁ、戦場では参軍が実務を執っていたと見ていいけど。この時、その参軍が『アイツを殺せ!』と息巻いたのは前回述べた通り。ために、董卓は張温を逆恨みしていたんだね。だから、宮廷の実験を握った董卓は、数年越しに恨みを果たした。張温は、袁術に通じているとされて鞭で打ち殺され、その首は酒宴でさらされたという」
A「……執念深いな。つーか、その参軍はいいのか? 殺さなくて」
F「霊帝の死の時点で、すでに宮廷から逃れていた。手が届かなかったと云ってしまえばそれまでなんだけど、とりあえず董卓の死後、何進の副官と戦って死んでる」
A「死後とはいえ、間接的に恨みは晴らしたわけか」
F「逆恨みなんだけどなぁ……。また、漢王朝では400年近く前に、高祖劉邦を支えた三傑のひとり蕭何と、蕭何の後任たる曹参しか就任しなかった『相国』の座に就いている」
A「どんな役職よ?」
F「大将軍ならぬ大宰相、かな? 云うまでもないと思うけど、劉邦はアホで、政治なんてまるで判らなかった。そのアホさ加減を補うために『漢王朝の統治者』としてこの『相国』の座はできたと僕は見ている。何しろ、劉邦から後の漢朝皇帝は、この役職を必要としなかった。また、春秋戦国時代では、相国(各国にいた)が君主の座を脅かすことが多々あった。その座に自分から就いたということは、つまり『漢は俺のモンじゃ!』と云いたかったように思える」
A「非道いな、確かに……」
F「それを象徴するエピソードもあってね。皇帝の前に武器を持ち込んではいけないのは知ってるよね? 始皇帝暗殺を決行した荊軻に、兵士は近づくことができなくて、侍医が薬箱を投げつけてひるませた、という事例もある(斬ったのは始皇帝本人)。当然、この頃も武器を持って参内しちゃいけなかったんだけど、董卓は平然と帯剣していた」
A「あぁ、あったな。お前だけは武器を持っていろ、お前が特別だということを周囲に知らしめるために……って」
F「君主にしてみれば、自分を害する手段を持ち込ませないのは初歩の自衛だからね。武器を持っていい、というのは最高の信頼の象徴だけど、董卓のは皇帝の都合を考えていないものだ。ある日官僚が事務の仕事で董卓邸を訪れた――もちろん、帯剣していた――ところ、『相国の前で剣を持つとは何事だ!』と斬り捨てたとか」
A「……とんでもねー奴だな、やっぱり。どうしてほっとくかな、周りは」
F「宮廷に関して云えば、やはり董卓の軍事力を恐れて、だろうね。少なくとも洛陽周辺に、董卓を討てる勢力は存在していなかった。袁紹や曹操と云った若手は宮廷から消え、老臣は自分の不甲斐なさを嘆きながら留まる。もちろん、そういう消極的な連中だけではないけど」
A「強気な連中もいたわけか」
F「漢王朝に忠誠を誓う者も、自分の命と財産が惜しいだけの者も、董卓がいない方がいいと思っていたからね。ただし、実際に害する行動に出た者は驚くほどに少ない」
A「……まぁ、勝てんわな」
F「うん。前回ではさらっと流したけど、丁原から引き抜いた副官、即ち、三国時代最強の軍神・呂布そのひとがボディガードとして張っていたから、誰も手出しできなかったわけだ。演義では、司徒・王允の屋敷に集まって董卓殺害の策を練っていたところ、曹操が七星の宝剣を借り受けて『コレでグサリとしてくるぜ、へっへっへ……』と申し出たけど、まぁ、コレはフィクションだね」
A「どこの危ない兄ちゃんだ!?」
F「ネタはさておき。内部では誰も期待できないということで、洛陽の外に勇気ある者はいた。人格者として評判だった東郡太守の喬瑁が、董卓が暴威を振るっていることに激昂し、三公より密詔を賜ったと虚言したんだ。この役割は、演義では曹操が務めたんだけど……ね」
A「その辺りも脚色されたわけか」
F「うん。後の世の勝ち組が、歴史を作るわけだから無理もないけど……ね。それはともかく。董卓討つべしと群雄に呼びかけ、自らも兵を挙げた。曹操や袁紹、袁術をはじめとする、各地の諸侯もこれに乗り次々と集結。ここに、俗に云う『反董卓連合』が結成された。連合の盟主には、家格・人望・実績などから袁紹が就任」
A「おー(ぱちぱちぱち)」
F「ただし、その前途には暗雲が立ち込める。以前さらっと述べた袁紹の叔父は、少しでも後漢王朝を永らえさせようと、洛陽に留まっていたんだけど……袁紹が盟主になったことで、董卓に処刑されたのね。それ以外の加盟諸侯の、洛陽に留まっていた親族も、もちろん同じように処刑された」
A「あー……そりゃ、仕方ないか」
F「また、当時宮廷にいた官僚が『反董卓連合など烏合の衆。盟主の袁紹は坊ちゃん育ちのロクデナシ、実際の戦場を知らぬ儒者や議論だけを好む儒者の集まりに過ぎません。将才の持ち主は諸侯におらんし、いたとしても身分がどうの爵位がこうのと難癖つけて、結局は仲間割れして空中分解するでしょうよ』と、長台詞……もとい、進言している」
A「何者だ、その官僚は!? 完全に、連合の欠点と未来を見抜いてるじゃないか! 賈詡か!?」
F「名前は鄭泰って云うんだけど、恐ろしいまでの見識だよね」
A「……宮廷に戻ってたのか?」
F「召しだされたみたいでねぇ……。結果論から云うなら鄭泰のこの見識は、極めて正確だったと云える。事実、その通りに連合は解散するわけだし。また、反董卓連合には、劉表・劉焉が加盟しなかったのを挙げておかねばならない」
A「いや、劉表はともかく劉焉は無茶だろ? 高齢だし、そもそも領土が洛陽から離れすぎてる」
F「距離を云うなら馬騰や孫堅はどうなる? あちらもずいぶん遠いはずだぞ。まぁ、年齢はさておくけど……194年に没してるからなぁ。ともあれ、劉姓があまり積極的には董卓に敵対しようとしなかったのは、注目すべき事態だろう。漢王朝をすでに見限っていたのかね?」
A「取って代わるつもりもなかっただろうしなぁ……。劉備くらいか?」
F「この時期の劉備は、事実上公孫瓚の配下だったからねぇ。小隊長レベルの兵力しか備えていなかっただろうから、群雄の数に入れるべきではないと思う」
A「まだ、勢力としては小さかったか」
F「というか、直前まで放浪していたんじゃないかな? 黄巾討伐の功績で、地方の領主に納まったはいいけど、中央からの監察官に賄賂を贈らず、そいつを木に縛りつけて鞭で打ち、そのまま出奔した後だから」
A「あー……それ、正史でもやってたんだ?」
F「うん。ただし、演義とは違って、張飛ではなく劉備が自ら鞭打ってる。その後も相次いだ黄巾の残党討伐で功績を挙げて、皇族に連なる幽州の実力者・劉虞の仲介で罪そのものは許されたけど」
A「実力の格差は如何ともしがたいか……その劉虞は?」
F「やっぱり、積極的に董卓討つべしと唱えた形跡はないようだなぁ。このひとが問題になるのは、むしろ董卓戦後なので、その頃また話をするとして。ちなみに、一度として幽州を治めたことがない劉焉が、演義では幽州の太守として劉備を使役していたけど、実際は劉備が、上記の件で、一時期劉虞の下にいたことが元ネタだと思われる。演義には、劉虞ほとんど出ないからね」
A「脇役の扱い、非道いな……正史でも演義でも」
F「違いない。かくして、打算と成り行きで集結した反董卓連合軍は、洛陽めがけて兵を進める。先鋒の名誉に預かったのは、長沙太守・孫堅。黄巾平定で名を上げた勇将だ」
A「おー、主役級の連中がそろいぶみ〜! やっぱり、三国志は華やかな合戦がメインだよなっ!」
F「そっちのが喜ばれるのは判ってるけど、あまりそーいう方面には走りたくないのが本心かなぁ。戦争シーンメインにするには、どうしても演義に頼らざるを得ないし」
A「こればっかりは仕方ないんじゃないか?」
F「かもね。えーっと、というわけで、次回はちょっと毛色が変わったものになると思います」
A「正史準拠からいよいよ踏み外すわけか」
F「続きは次回の講釈で」