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私釈三国志 04 献帝即位

F「えーっと、ちょっと間が開きましたが第4回」
A「1月26日までに、何回やるつもりだ?」
F「何のお話かはさておいて。前回は、何進と宦官が事実上共倒れして、袁紹率いる軍勢が宮廷を一時的ながらも掌握するという事態に陥ったところまで述べた」
A「袁紹が野心家なら、そのまま皇帝の身柄を押さえて、天下に号令していただろうな」
F「野心は間違いなくあっただろうけど、そうはならなかった。原因は到って単純で、何進を討ち取ったものの袁紹に攻められた宦官の一部が、13代皇帝・少帝とその腹違いの弟・協を連れて宮廷を脱したんだね」
A「袁紹の失態だな。曹操なら、そんなことにはならなかっただろうに」
F「当時の曹操には、それほどの発言力も兵力もなかったみたいだからね。袁紹の下にいたと見ていい。で、問題の皇帝一行の身柄を保護したのが、宦官討伐のために何進に召された、西方一帯に勢力を広げていた董卓で」
A「肝心の戦闘には間にあわなかったのに、最大の戦果を握ったわけか。運のいい奴だな……」
F「董卓の運がよかったのか、袁紹の運が悪かったのか、それは微妙なラインだけど、ひとつ云えるのは漢王朝は運が悪かった、ということだ。この辺りは演義に詳しいな。少帝と協を拾った董卓は、何で皇帝がこちらにおられるのかと事態の説明を求めるものの、少帝は董卓と、董卓率いる軍勢に震え上がって声も出せない。対照的に協(当時9歳)は、毅然とした様子で、宦官が何進を謀殺したことから宮廷が動乱したと述べる。この利発さに感心した董卓は、少帝を廃して協を立てようと思い浮かべた……とある」
A「少帝がアホで、協が利発だった……からって、廃位はできんだろう? 西域から来た武骨者に、宮廷を牛耳るような政治力はあるまい。それができるだけの大兵力を、董卓は率いてきたのか?」
F「おおよそ3000と史書にはある。だが、ということを考えてみよう。協を帝位につけるには、宮廷を動かすよりもっと単純な方法があるだろう?」
A「……その場で、少帝と宦官たちを殺し、協のみを生かしておく、か? だが、協が利発なら、そんな企てに乗るとは思えんぞ。そもそも袁紹の手の者だって、捜しに来ているだろうし」
F「そういうコト。正直な本音を口にするけど、実は、どうして『この時点』で、董卓が少帝を殺さなかったのか、それが今ひとつ判らないんだね。宦官に少帝が殺されました、ワタシが駆けつけたときには協殿下しか……とか何とか云えば、疑われはしてもごまかせたかもしれない。また、この後の行動を見れば、董卓が少帝を殺しても、決しておかしくはないのが判る。少帝が生き残ったのは多分、協の利発さと、たぶん駆けつけた『手の者』のおかげだと思う」
A「自分で云っといてアレだが、誰が来たんだ? 3000とはいえ西涼騎兵と董卓の威圧に負けず、なおこの状況に落ちついて対処できるなんて、そんな奴が袁紹の下にいたなら、袁紹は天下を盗れた気がするが」
F「実際に駆けつけたのは閔貢という官僚なんだけど……当時はいたでしょ。万単位の重騎兵でもびくともしない精神力と、あらゆる状況にも対応できる処理能力を備えた、優秀すぎる『能臣』が」
A「……あぁ、いたな」
F「ともあれ、董卓という餓狼を宮廷に招き入れるという最悪に近い結末で、この宮廷騒動は幕を閉じた。死者は、宦官と間違われて殺されたものが大半だったものの、実に2000を数えたという」
A「こーいう場合のお約束なら、董卓と袁紹が、新しい対立を巻き起こしそうなモンだが」
F「ところが、残念ながらこの時点では、両者ともそれほどの実力はなかった。まず袁紹だけど、そもそも大将軍・何進の配下だったことから、当時それほどの権力を持っていなかったと見ていい。それに、叔父が宮廷の要職にあったことからも、年若い彼が強く出ることは難しかったようでね。せめて皇帝の身柄を押さえられれば、何進の軍勢は引き継げたかもしれないけど、大将軍直轄部隊は、何進の副官が率いることになったようだ」
A「じゃぁ董卓は?」
F「こちらは純粋な兵力不足。以前述べた通り、董卓は黄巾との戦闘では、負けて解任されている。後に涼州の叛乱鎮圧に差し向けられたときも、結果を出せず中央から援軍を請うている。その時の参軍に到っては『アイツを生かしておいては軍規が保てません!』と主将に進言したくらいだ。異民族相手の戦闘では功績を挙げていたんだけど、相手が漢民族になるとどうにもうまくやれないみたいでね」
A「何でそんな奴が、辺境とはいえ一軍を率いていられたんだよ……?」
F「涼州での叛乱鎮圧が終わってからも、帰還命令を無視して現地に駐留していたんだ。霊帝の死の前には并州牧にさえ納まっているけど……率いてきた兵力が3000では、いかんともしがたいってところで」
A「……あぁ、兵力は足りないんだったな。で、董卓どーしたの?」
F「まずやったのは小細工。連れてきた兵の大半を、夜のうちに城外に出して、朝になったら堂々と入城させる。これで民衆は『おや、また西涼兵が……』と思い込んだとか。ちなみにこの策は、マガジンだかチャンピオンだかでやっていた三国志ものの漫画では、馬糞で見破られると断言されている」
A「やってたのか、そんなモン?」
F「どっちだったかなぁ。ともあれ、それとは別に董卓の弟が、何進の弟を殺してその部隊と何進の部隊を吸収した」
A「おいおい、何でそんなことに?」
F「何進の弟は、兄に似ず宮廷の秩序を守ろうとして、宦官に通じていたのね。ために、兵たちは何進の死をこの弟のせいだと考えていた。董卓の弟はそこに眼をつけ巧みに煽動し、何進の弟を殺害。何進の死によって頼りない副官が率いていた、その直属の兵と併せて、董卓の軍勢に組み入れた、と」
A「……どっちも弟はできがいいな」
F「うちのとは大違いだねぇ……。ともあれ、コレで充分と断じた董卓は、まず袁紹の叔父に話を持ちかける。三公の一角・司徒を経て太傅の地位にあった人物だけど、実はこのひとが、最初に董卓を将軍に任じた張本人で」
A「そいつが諸悪の根源か。ところで、司徒とか太傅ってどんな役職だ?」
F「司徒は事実上の宰相。残るふたつの、司空は行政の責任者、太尉は軍事大臣(序列としては大将軍の下になる)ってところかな。太傅は三公の上に置かれた名誉職で、年少の皇帝の教育係だね。ちなみに、当時の司空は張温、司徒は王允という。さて、袁家は四代に渡って三公を出したことで名門とされていたけど、董卓がこの御仁に相談したということは、若手武将として名を馳せていた袁紹を、自軍に招きたいという意思表示とも見れなくもない」
A「ふむ。で、何て応えたの、袁家?」
F「どうも叔父は賛成したらしい。でも、袁紹は賛成しておいて、自分の拠点に逃げ帰っているけど」
A「いかにも袁紹らしい……」
F「……まぁ、それについてはノーコメント。太傅の賛成が得られたなら、と董卓は、群臣に少帝の廃立と協の即位を持ちかける。この時点では早まったと評価せざるを得ない。大半が反対に回った」
A「でも、そこで納まる董卓ではない、と?」
F「その通り。董卓が眼をつけたのは、執金吾(首都防衛担当者)の丁原だった。当然ながら質・量を兼ね備える、この男の軍を吸収しようと企み、副将を抱きこんで彼を殺害。もはや洛陽に、董軍に比肩しうる軍勢は存在しなくなった」
A「そりゃ、大将軍直轄部隊から首都防衛隊まで吸収すれば、ほとんどからっぽになるわな」
F「かくして、董卓の専横の下地は整った。改めて群臣に廃立を持ちかけるが、もはや反対する者はおらず……」
A「……いや、待て? 問題の皇后はどうした? 何進の妹」
F「あー、それがどうにも不明。何進の死後、何太后がどうしていたのかって記録はほとんど残ってなくて。兄ふたりを失って、意気消沈したのかもしれない。とりあえずなりを潜めていて、廃立に際してもほとんど口出ししなかった気配だ。まして、少帝本人の意思なんて求められようはずもない。かくして、13代少帝は廃された」
A「無残だな……何進か袁紹がもう少し注意深かったら、帝位にいられたかもしれんのに」
F「とりあえず、袁紹は何進の妹も甥も見捨てた、これを覚えておいて。後々で重要なポイントになるから。そして、第二皇子だった協が新たに立てられ、献帝と号されることになる。この年、わずか9歳……まぁ、後漢では9歳なんて珍しい数字じゃないけど。後漢最後の皇帝は、こうして即位した」
A「可哀想だな」
F「実際に可哀想なのは、廃された弁とその母だぞ。もはや用済みとばかりに、少帝と何太后は、董卓の手の者に毒殺されている。何進が死ぬ直前に官を辞した鄭泰という官僚がいて、このひとは宦官撲滅に関して『董卓だけは呼んではいけません!』と進言したんだけど、その見識が正しかったのが証明されたようなかたちだね」
A「あらら……」
F「在位年数・死亡時の年齢は、いずれも光武帝に次いで後漢朝2位。だが、その人生の悲惨さは、おおよそ他の皇帝たちとは比べ物にならないほどのものだったと察せられる。後漢最後の皇帝の、長い人生がここに始まる」
A「締めに入ったか」
F「続きは次回の講釈で」
A「次回は誰がメインだ、おい!?」

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