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私釈三国志 02 蒼天已死

F「アキラ、兵庫県にある高校野球で有名な野球場は何て云ったか知ってる?」
A「甲子園のことか?」
F「そう、それ。それが、どうして甲子園って云うかは知ってるかな」
A「は? えーっと……亀の甲より年の功?」
F「ムダにボケるね。1924年に建設されたんだけど、この年が干支(十干十二支)では甲子に相当したんだ。ために、甲子園と名づけられたというわけ」
A「へー……」
F「マジで知らなかったという様子だな。さて、コレをさかのぼること1740年、有名な台詞をのたまった御仁がいた。その名を大賢良師・張角だけど」
A「黄巾賊の首魁か。仙人だっけ?」
F「道士と云うよりは方士に近いかな。現代で云うお医者さんだけど。符術で病気を治したりして民心を集め、やがて漢に取って代わろうと画策して武力蜂起した……みたいな経緯と思われがちだけど」
A「ん? そんな具合じゃなかったか?」
F「あまり間違ってはいないんだろうけど……ね。そもそも当時の後漢皇室が、どれだけ無茶苦茶だったのかは前回述べたとおりだけど、じゃぁ民衆はどうだったと思う?」
A「……上がそんな具合じゃ、マトモな社会生活を営めた可能性は無に等しいな」
F「そういうコト。それこそ前回さらっと云ったけど、この頃の皇帝(12代霊帝)は官職を売りに出していてね。具体的な金額はさておくけど、三公の座さえ買えたらしい」
A「ぅわー……終末」
F「役職を買った連中が、何をするのかは想像がつくよね?」
A「そりゃまぁ。日本でもあったからな。地方官の役職を賄賂で得て、その出費を取り返そうと任地で重税を課すんだろ? 権力を利用して金儲けだな」
F「権力があれば何でもできると思い込むゲスって多いからねぇ。ちなみに、そーいう連中をねじ伏せる一番簡単な方法は、それを上回る権力を得ることだ。掌返して土下座してくるぞ」
A「だから、少しは危険発言を慎んでください!」
F「流す。まぁ、そんなこんなで民衆も苦しみの中で日々を過ごしていたということだ。そこへ、張角が挙兵するとの話が広まる。この辺りの感覚は餓えたことがない現代人には判りにくいかもしれないけど、明日の食を得るためなら、ひとは平気でひとを殺せるんだよ……ね」
A「……そういう発言しながら、左手の古傷を押さえるな」
F「あっはは。まぁ、歴史的に云うなら、洋の東西を問わず、民衆は餓えているときに革命を起こす。逆に、ちゃんと喰わせている政府が転覆される可能性は低いんだね。後漢王朝がどっちだったかと云うと」
A「考えるまでもないな。民は餓えていた」
F「というわけで、叛乱は起こるべくして起こりましたとさ。さっきも云ったが張角は道士より方士に近い。民間療法というか祈祷に近いもので庶民の病気を治して声望を高め、支持を集めている」
Y「祈祷で病気が治る辺りに、時代を感じずにはおれんな」
F「忘れられがちだけど、三国志は2世紀から3世紀にかけてのオハナシです。云うまでもないが、マトモな神経の持ち主なら『死ね』と云われたら親にでも反発するし、生き延びるためなら親をも捨てるものだ。政治が腐敗し救いがない一方で、民衆の傍にあって命を助けてくれるヒトがいたら、そちらになびくのは当然の帰結だろう」
Y「もう少しマシな事例は挙げられんのか?」
F「僕には不可能だってば。日に日に張角の声望が高まるにつれて、彼のもとに集まるひとも増えていった。政府があてにならないなら、あてになる誰かの下につきたいと考えるのを責めることはできないだろう。というわけで、張角の率いる民間集団は道教ベースの宗教結社・太平道へと発展していった。自分の腹心たる弟子を四方に送って布教させ、創立から十数年で数十万の信徒を得ている。場所も手広く、北は北狄臨む幽州から、南は長江臨む揚・荊州、東は海に面した青・徐州、内陸の冀・豫・兗州にも根を張っていた」
Y「漢代は13州だから、8州となると過半数か」
F「そゆこと。多くは1万から、小さくても6000から7000人の集団を"方"という単位に分け、それぞれにリーダーをおいて、張角からの指示・張角への報告が円滑に進むよう組織作りしている。184年の時点で、この"方"が36あったといい、先に挙げた八州ではほとんどすべての民衆が太平道に帰依したという」
Y「どれくらい、朝廷に不満があったのか明らかになる瞬間だな」
F「さらに、その朝廷にも太平道に与する者がいた。宦官は子孫を残せないので、儒教的に考えると存在してはならないものだ。ために、宦官への差別をしていない道教には比較的親切で、太平道に呼応する者さえ現れたワケだ」
Y「割と因果関係は明らかなんだな」
F「というわけで、前漢代から儒教にかぶれていた漢王朝に終止符を打ち、道教ベースの国を作ろうと張角は画策している。全国の"方"を一斉に挙兵させ、このうち馬元羲率いる"方"が帝都洛陽で蜂起する。朝廷の宦官がこれに呼応すれば、漢王朝を倒すのもたやすい……というわけだが」
Y「失敗したワケか」
F「実行グループに属していた唐周が、計画を朝廷に上奏してしまったンだね。失敗して処罰されるのを恐れたようだけど、ために馬元羲は捕らえられて処刑され、宮中や洛陽で太平道に通じた形跡があると断じられた者たち千人あまりも連座している」
Y「脇が甘いのか、詰めが甘いのか」
F「両方だろう。ことここに至っては張角も坐しておれず、各地のリーダーに命じて一斉蜂起させた。蜂起に加わった者は黄色い頭巾を巻いていたので黄巾と呼ばれ、後世には黄巾の乱と呼ばれることになる、後漢への叛逆劇が幕を開ける。西暦で云うなら184年2月、奇しくも甲子の年のことだった」
A「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし……ってか」
F「でも漢朝は劉邦(前漢初代皇帝)の代から火徳だから、赤天だと思うんだけどなぁ。順番としては、火の次は土だから黄天でいいんだけど。ともあれ、黄巾優勢に戦況は推移した。何しろ、宦官が皇帝に『問題ありませんよ、大丈夫』と進言して、マトモな軍勢を組織しなかったからね」
A「そりゃ進言じゃねぇ、讒言だ!」
F「ないすツッコミ。そもそも当時の宮廷に、大軍を指揮・統率できる人材がいたかと云うといくらか疑問があるし」
A「盧植は? 皇甫嵩とか朱儁もいただろうが。人ナシとは云いすぎだろ」
F「さらっと説明しておくと、盧植は劉備の師とされた人物で、後漢王朝における『掃き溜めの鶴』と称して過言ではない人物。皇甫嵩は、張角の弟ふたりを討ち取り、黄巾の乱を事実上平定した。朱儁は各地の叛乱を平定して回った、後漢末きっての勇将です。でも、実際の戦況を見るなら、挙兵から半年近くは黄巾優位だったよ」
A「いや、宦官の讒言だったろ? それこそ。賄賂を渡さなかったばかりに、盧植センセは獄につながれて前線から下げられ、そのせいで」
F「そういう見方もできるか。まぁ、中盤まで官軍……正規軍がぱっとしなかったのは事実で、そのため地方軍閥、そして義勇軍が表舞台に出るような事態になった。結果としては、この官軍苦戦こそが、後の群雄たちに道を拓いたとも云えなくはない」
A「そりゃそうか」
F「大賢良師こと張角は、この頃には天公将軍を名乗り、次弟張宝は地公将軍、三弟張梁は人公将軍を名乗っていた。政治的シンボルから軍事指導者にイメージチェンジを謀った、とも考えられるな。これに対し朝廷では、何皇后の兄・何進を大将軍に任じて洛陽近郊の防御を固め、盧植には東方の、皇甫嵩・朱儁には南方の平定を命じている。黄巾は大きく、張角自ら率いる東方軍と、波才という将が率いる南方軍とに分かれていたのね」
Y「東方が黄巾の主力なのに、官軍は南方に主力を向けたのか?」
F「魯植センセで本隊を足止めして地方軍から討っていき、包囲網を作ろうとしていた……ようにも見えるな。洛陽から南に位置する穎川へと、皇甫嵩らは攻め入った。ところが、数に劣っていたのと過分に黄巾を侮っていたせいでだろう、敗れてしまう」
Y「敗因は明らかでも、情けないのは否定できんな」
F「繰り返すが、穎川は洛陽の南にあり、ここを譲っては帝都が揺らぎかねん。さすがにそれはまずいので、朝廷も重い腰を挙げて援軍を出した。騎兵隊長の曹操が、皇甫嵩らの軍を包囲する黄巾軍に夜襲をしかけ、呼応した皇甫嵩は火を放ってこの包囲を打ち破った。ちなみにこの年、曹操は29歳、孫堅が28歳、劉備は23歳。袁紹や董卓は生年の記述がない」
A「当時、孫策は9歳、孫権は2歳……か。曹操や劉備から見ると、ホントに息子世代だな」
F「仕方ないね。さて、勝ちに乗じた皇甫嵩・朱儁は一気に進軍。穎川を奪還するとさらに南下。汝南・陳を攻略し、波才を討っている。ここで朝廷から命が下り、ふたりは別行動することになった。皇甫嵩はここから東に進み、朱儁はそのまま南方の平定に向かうことに」
Y「南というと、荊州方面か」
F「そゆこと。南陽郡まで侵攻した朱儁を相手取った趙弘が、果敢に抵抗を続けている。荊州刺史にも兵を出させて趙弘を討ったものの、代わって黄巾を率いることになった韓忠は、宛城に立てこもって朱儁を悩ませた。というか、韓忠は降伏を申し入れたンだけど、朱儁はそれをはねつけ、あくまで力攻めにこだわったのね。逃げ場をなくした韓忠は、死兵となって立ち向かう」
Y「そんなモン、マトモに相手にできんなぁ」
F「そこで動員されたのが、朱儁配下として従軍していた孫堅だった。自ら先頭に立って宛の城壁を乗り越え、黄巾を大混乱させている。さすがにコイツひとりに軍功を立てさせてはまずいと思ったのか、別のひとが『包囲を緩めて隙を見せ、賊を出陣させましょう』と進言すると、朱儁はコレを容れている。いったん宛の包囲を解いて韓忠の出撃を誘い、これを攻撃してあっさり討ち取ったンだ」
Y「堅オヤジの強さを味方も恐れたか」
F「逃れた残党は孫堅に撃破され、10月には豫州の奪還に成功したと云っていい。宛攻略の功績は、朱儁に高く評価されたようでな。えらく気に入られて、黄巾平定後のことになるが、涼州で起こった叛乱に、朱儁は自分の代わりに孫堅を派遣しているンだ。その辺りが孫堅出世の足がかりになったと考えていい」
Y「朱儁の軍功のある程度の部分は、孫堅のおかげになるのか」
F「さて、盧植率いる東方軍は、張角本軍を向こうに回して堂々と渡りあい、何度も打ち破って優位に立っていた。ところが、軍の視察に来た宦官に賄賂を渡さなかったモンだから、讒言されて召喚されている。代わってこの方面を率いることになったのが、董卓だった」
Y「何でか……とも思うが、西方異民族相手に奮闘していた経歴があるからなぁ。それを買われてか」
F「だ。ところが、董卓はほとんど功を挙げられなかった。実は、黄巾の首魁たる天公将軍・大賢良師張角が、8月に病死していたのね。総大将が死んでは……とやる気がなくなったのかもしれない。ために、敗戦を理由に解任され、代わって指揮を執ることになったのが、兗州を平定して北上してきた皇甫嵩だった」
Y「荊州から兗州だと、揚州も平らげてるな、コース的に」
F「たぶんね。黄巾は精神的主柱を失って士気が下がり、官軍は勢い込んで攻め立てる。広宗で張梁を討ち取った皇甫嵩は、張角の墓を暴くとその死体を引きずり出し、死んでいるのに斬首刑に処している。そして、張梁もろとも首級を洛陽に送りつけた」
Y「……そこまでしなきゃならんか」
F「行いとしては否定できんな。残る次弟・張宝も、勢いに乗る皇甫嵩に間もなく討ち取られたことで、黄巾は事実上壊滅している」
A「あっけないなぁ」
F「激しく燃える炎ほど早く消えるモンだよ。広宗で最後まで粘っていた連中は年明け185年まで抵抗していたが、それが降伏するまでに数十万の黄巾軍兵士が殺害されたという」
Y「そっちは……どうだろうな。そこまでしなきゃならんか」
F「殺りすぎ、という気はしなくもないな。さすがに。さて、曹操・孫堅はある程度は功績を挙げたが、董卓はそうもいかなかった。袁紹も、この頃は大将軍(何進)付きの参軍張っていたようで、目立った功績は立てていない」
A「史実の負け組は、この辺りでもうまくはやれなかったのかな」
F「地力の差が出てるようにも見えるねぇ。そして劉備は、自分でかき集めた義勇軍という名目の小部隊を率いて、各地を転戦していたけど、これまた目立った軍功はない。そもそもの経済基盤が違うから、劉備を注視するのは徐州以降で十分間にあうと思うよ」
A「演義では主役なんだけどなぁ……張角の弟だって討ち取ったのに……」
F「まぁ、演義は劉備を善玉に仕立てるために、かなり正史を変えてるからねぇ。ともあれ、かくて黄巾の乱は惜しまれつつ幕を下ろしたが、当初の目的の半分は、果たしたという見方もできる。つまり、漢王朝に取って代わろうという目的の、漢王朝を叩き潰す方は、だけど」
A「戦乱はその後も続いたからか?」
F「結果論で云うならその通り。後漢期には漢土を十三州に分割していたけど、黄巾の乱は八州に及んでいた。組織的なものこそ以後起こらなかったけど、万単位での蜂起(青州に到っては30万!)は相次いだんだね。困り果てた朝廷は、新たなる愚策を実行する。それが『州牧』の地位だ」
A「なに?」
F「当時、行政の最大単位は州だったんだけど、この事実上の長官が刺史。ところが、この刺史には軍権はなかったのね。地方で叛乱が起こっちゃまずいから、というのがその理由だったんだけど、それがために黄巾平定に時間がかかったのは、まぁ一面での事実。そこで、新たに牧の地位を設けて軍権を与えた」
A「……地方での、叛乱の許可を与えたに等しいな」
F「そゆこと。こういうものを設けるなら、中央から人材を派遣して州牧に任じ、刺史と並立させて軍権と行政権を分割すべきなのに、基本的には刺史をそのまま牧に任じたモンだから、もはや州は中央政府公認の軍閥と化したワケだ」
A「どこまでボケてんだ、漢王朝……」
F「かくして、張角の蒔いた黄色い種は、十三州各地に散らばり実をつけていく。大木になった種もあれば、立ち枯れた種もある。実はつけたものの、そこから次の種を生むことができなかった種も。でも、それはまだ先のオハナシ」
A「種はまだ、芽吹くに到らず……か?」
F「最初の発芽でさえ、5年がかりだったからねぇ。血と苦しみという肥料が足りなかったんだろうね」
A「……ぅわー、あんまりな発言」
F「うん、こっそりそう思った。ともあれ、各地で黄天は地中に潜んだ。漢王朝に取って代わろうと目論む、第二第三の張角たちは、いずれ芽吹く日に備え各地でその勢力を蓄える。そんな折、ひとつの報が大陸全土を駆け巡った。後漢王朝第12代皇帝、霊帝崩御。西暦で云うなら189年、黄巾の乱から実に5年の歳月が過ぎていた」
A「あぁ、ここでそうつながるわけか。そして、最初の種が発芽する、と。その名は?」
F「皇帝の死に揺れる大地に芽吹いた小さな小さな先鋒、それは大将軍、名を何進と云った」
A「だから、主役級の連中出せよ!」
F「続きは次回の講釈で」
A「まだ続きゃがるし……」

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