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私釈三国志 01 後漢王朝

F「というわけで、とーとつではあるがこれより三国志について語りに入る!」
A「久しぶりに帰ってきたら、何だかアホなことを始めたな」
F「何しろ教科書より先に三国志読み始めていたからな(実話)。定期的に三国志分を補充しないと、禁断症状が起きるんだよ! 具体的には三国志しくなってしまう!」
A「新潟弁はよく判らんけど『三国志しい』なんて形容詞は知らん!」
F「考えるな、感じろ! さて、スルーして話を進めるが、アキラくん、三国志とは何か」
A「高句麗・百済・新羅の抗争?」
F「0点やろう。そりゃ三国史記だ(実在)」
A「点数もらえてねーし」
F「三国志とは、漢のロマンである! 劉備と孔明、曹操と関羽、孫策と周瑜の物語! 乱世に生を享けた群雄たちが繰り広げる権謀術数のドラマ! そこには人類史の縮図が断固として存在するのだ!」
A「……意見そのものはこの際スルーするけど、組みあわせそれでいいの?」
F「羅貫中が許さずともオレが許す。というわけで、これより三国志について語りに入る。準備はいいか地雄星!」
Y「諦めろ、アキラ。コイツの病気を治せる医者はいない」
A「バカにつける薬はないもんな……」

F「さて、歴史的に云うなら三国時代の発生は必然だった」
A「いきなり核心に入るな! ていうか、お前が好きなだけだろうが! 必然で戦争が起こってたまるか!」
F「んー、この辺の感情はアキラには判りにくいかもだねぇ。アキラ、放伐論て知ってる?」
京都生まれの大阪育ち「詳しくは知らんけど、君主が代替わりするって思想だろ?」
F「そういうコト。具体例を挙げるなら、後醍醐が任に堪えられないなら『その座』から放逐してもいいし、豊臣が衰えたなら徳川が取って代わってもかまわないという発想だね」
A「だから、過激すぎる発言すんなっ!」
F「儒教の害悪ってその辺りに原因があるからねぇ。ともあれ、世界史的に云うなら、いくら自称とはいえ2600年も続く王朝があるのがおかしい。漢土では、紀元前から『どれ、アイツに取って代わってやろう』『オレも皇帝になりたいだけだ』と、権力者に叛逆するのが流行していた。それに成功した場合、皇帝の座が入れ替わるわけだ。なお、今挙げた台詞を口にした両名は、いずれも失敗組だが」
A「……逆に、中国史における歴代王朝の初代皇帝は、いずれも成功組だった、と?」
F「えくせれんと♪ 察しが早いね、アキラにしては。元のフビライと清のヌルハチ以外は、基本的には時の皇帝に叛逆して、それに成功した面子だと思っていいよ。この両名は漢民族じゃないから『叛逆』とは云えない。他にも何名か違うのもいるけど、その辺の詳細はさておいて」
A「でもそいつらだと、叛逆じゃなくても『侵略』だろ?」
F「それは否定しないな。でも、放伐論を唱えることで叛逆を正当化できるのが、漢土における君主交代のシステムなんだよ。というわけで、侵略者でも皇帝にはなれるんだね。では、ここで問題。アキラがたとえば項羽の立場なら、秦にどう『叛逆』した?」
A「項羽かよ!? 三国志どーしたよ!? 400年前やぞ!」
F「モデルケースとしては、一番判りやすいんだよ。さあさぁ」
A「ったく……。つーか、正史に準じていいんじゃないのか? 始皇帝が死んで皇室が混乱してるところに、敵将及び敵兵を含む、虐げられていた面子を結集して、多方面から攻撃する」
F「そうだね。権力者の代替わりで生じる空白期間につけいるのは、政略の基本だ。虐げられていた面子、この場合は秦以外の国の軍勢だけど、それを結集し、最終的には項羽と劉邦の二軍団で秦を滅ぼした、と」
A「問題はないだろ?」
F「うん、実際にはもう少しうまくできる策もあるけど、それで合格点」
A「じゃぁ、後漢朝への叛逆なら?」
F「先を急ぐな。この問題のポイントは、政略的な条件、つまり『いつ叛逆するのか』というタイミングの見極めにある。実働段階……つまり、戦略レベルでの問題はさておいて」
A「王朝の混乱期?」
F「というか、弱体期だね。始皇帝・胡亥・子嬰と、代を重ねるごとに秦の皇帝は質が落ちていった(ただし、胡亥と子嬰に関しては、子嬰のが上との評価もある)。最高権力者が年若いだけでも、ある意味弱体したと云えるけど、後漢はコレがあまりにも顕著でねぇ」
A「その心は?」
F「ちょっとまとめてみた」



F「後漢の初代皇帝、世に云う光武帝劉秀だけど、このひとが即位したのが31歳のとき、在位は30年以上」
A「ふんふん」
F「以後、後漢王朝十三代の皇帝で、三十代で即位した者及び三十年皇帝の座にあった者は、存在しない」
A「……は?」
F「三十代で即位したのが、光武帝以外いないんだ。2代明帝が29歳で即位してるけど、実は二十代での即位も彼ひとり。あとは全員十代それ以下。ちなみに5代に至っては、生後100日での即位だ」
A「おいおい、若すぎるだろ!?」
F「その上、長続きしないのがこの王朝の非道いところでね……。20年以上在位したのが、光武帝以後、12代の霊帝までいない。ほとんどが十数年で死んでいる。死因はさておくけど1年足らずで死んだ皇帝が、5代を含めて3人もいるくらいだから、皇帝の若年齢化及び早世の程が判ろう?」
A「……ぅわー、コレじゃマトモな組織が保てるワケねーな」
F「そゆこと。それ以前で、皇帝がおこちゃまではマトモに政治なんてできるはずがない。そこで台頭してきたのが」
A「宦官?」
F「いや、外戚だ。用語を解説しておくと、宦官というのはイチモツを去勢された官僚で、後宮の管理をしていた。皇帝の妻妾に手を出さないようにと確保された面子だけど、妻妾を通じて権力を握り、政治に口出しする……というパターンがある。対する外戚は、皇帝の妻の一族で、皇子から見ればおじいちゃんとかそういう連中だな。妻の父が権力を握る、というのもある種のパターンだ」
Y「悪い意味でパターン化してるからなぁ」
F「コレが実際、後漢ともうひとつにとって害悪を成したんだけど、まぁそれは先の楽しみということで。皇帝が幼いということは、当然後宮も振るわない。宦官が口出しするのが、性的にできなくなったわけだ。そのため、皇帝の母親(の親・家族)が政治に口出しするようになった」
A「ママの云うことが聞けないって云うの!? みたいな感じか」
F「その母親には『親の云うことが聞けんのか!』とお声がかかるわけだ。やっとれんな、儒教は」
A「お前が13代のどっかにまぎれてたら『聞けるかババァ!』で済ませてたんだろうけどなぁ……あれ?」
F「ん?」
A「ひぃ、ふぅ……なぁ、後漢の皇帝って14代じゃないか?」
F「えくせれんと♪ いいところに気づいたね、アキラ。実は、14代の献帝は在位31年で後漢朝第2位だったりする」
A「いるんじゃねーかっ!」
F「まぁ、その御仁の話はさておいて。話を戻すけど、皇帝が年若いから外戚が幅を利かせるというのが200年近く続いたせいで、後漢王朝は弱体化していた。しかも、実子が途絶えたから遠縁の子を連れてきたところ、その子がとんでもないアホで、官職を売って金儲けを始める。おまけにこの時期、外戚と宦官の主導権争いが激化して、宦官が久しぶりに主導権を握るという変事が発生。要するに、皇室は弱体化の極みにあったと云っていい」
A「叛逆の下地が、脈々と整ったワケだな。勝算はさておいても、確かにタイミングそのものはばっちりか」
F「そういうコト。ここで叛逆しなかったら、いつするのかというくらい、ばっちりに。そのため、ひとりの……もとい、その弟ふたりを含めて、3人の男が立ち上がった。これじゃダメだ、世直ししよう、と」
A「ようやく主役のおでましか! あの漢なくして三国志は語れんからな! さぁ、その名は!」
F「漢王朝に取って代わるべく、自らを黄天と称したその漢、名を大賢良師、張角と云った」
A「って、そこから始まるのかよっ!?」
F「続きは次回の講釈で」
A「しかも続くのかよ!?」

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