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 一刀の部屋を出た秋蘭は、廊下を見渡した。少し離れた部屋の戸が閉じたので、そこへ足早に近づく。
 一度は閉じたが、秋蘭の気配を察したのか、戸が開いて詠が顔を出した。
「何? ボクに何か用?」
「ふたつ、確認したいことがあってな」
「月が寝てるんだから、手短にしてよね……ったく」
 ふてぶてしくぼやいた詠の、正面に秋蘭は立った。確かに、部屋の中の寝台では、もうひとりのメイドが寝息を立てている。自分より低いところにある目線に、だが秋蘭は、今度はあわせようとはしなかった。
「北郷殿に公孫賛を見捨てよと進言したのは、貴公か?」
 詠は、めがねの奥の眼を細め、軽く鼻を鳴らす。
「そうよ。あのままじゃ、アイツ、ひとりで出て行って、死にかねない様子だったから」
 不満そうに吐き捨てたが、その眼にはいくらか憐憫が宿っている。認めたくはないことだったが、詠にしても一刀は大事な主人だ。死なせたいとは思わなかった。
「云ってやったのよ。出陣しても、袁紹とどう戦うのかって。マトモに戦りあえば勝てるわけがない戦力差。それを覆して勝てたとしても、被害は甚大なはず。そうまでして助けたとしても、じゃぁ公孫賛はそれを喜ぶのかって」
「北郷殿は、どう応えた」
「アイツは動かなかった。それが全てよ」
 自分の発言は教えても、その時一刀がどう考え、何を云ったのかは口にしない。判断力、分析力、提示する情報の取捨選択の正確さ。いずれにおいても、この小さなメイドは超一流。
 何より気になるのは、詠が先程云い放った発言だ。翠は、曹操を許した、と。
 翠……馬超の、父・馬騰はかつて曹操の謀略で殺され、馬一族は離散した。ために、翠は旧知の北郷軍を頼り、以後北郷軍の主力として奮戦している。
 先日、華琳が道士に操られ白装束の軍団を率いたため、それを救うべく秋蘭たちは北郷軍に助力を乞うた。その見返りとして曹魏は一刀に降伏したのだが、愛紗は(もちろん)曹操を助ける義理はないと進言し、他の武将たちも助力を否定する中で、はっきり助けてやろうと発言したのが、余人ならぬ翠そのひとだった。馬騰を殺された怨みを大義のためと押し殺し、愛紗らを説得して北郷軍を動かした。
 翠がその時見せた態度に、北郷軍の中枢は、等しく敬意を払っている。だから、その話を持ち出せば、個人の怨みから袁紹を討つことは、断念せざるを得ない。
 そこまでは、いい。問題は、この発言は、秋蘭の動きをも封じられる、ということだ。馬一族への謀略を担当したのが、秋蘭に他ならないのだから。直接手を下したわけではない華琳なら、翠が華琳を許したと聞いても眉ひとつ動かさないだろうが、秋蘭は違う。秋蘭は、馬騰のことを持ち出されると、反論も抗弁もできなくなる立場にある。それこそ翠が、秋蘭を許さない限り。
 一刀たちどころか秋蘭をも黙らせ、ついでに自分が公孫賛を見捨てさせたことをも結果的に許させる。それも、たったひと言で、だ。なぜ、このような切れ者が、侍女をしている……?
「詠ちゃん……?」
 月が、寝台でもぞもぞと顔を起こした。こちらの騒ぎが聞こえたのかもしれない。
「あぁ、月。起こしちゃった? ごめんね〜」
 ころりと甘い声を出して、詠は秋蘭から視線を外した。もういいでしょ、という態度で戸に手をかける。
「待った。もうひとつ」
「……そういえば、ふたつだったわね。何よ」
 顔だけで振り返った詠に、秋蘭は殺気さえ孕んだ視線を向ける。低く声を落としたのは、寝ている少女への気遣いであって、緊張ではない。……と、思いたい。
「貴公、何者だ」
 めがねの奥の瞳が、一瞬だけ閉じられた。開いたその眼は、挑むように歪んでいて。
「我が名は、賈文和」
「っ……!?」
 夏侯淵ほどの武人が、一瞬息を呑んだ。夜、それも一刀を尋ねるということで置いてきた獲物を求め、左手が無意識に弓を探す。だが、詠はすぐに視線を秋蘭から外した。そのまま音を立てずに戸を閉じ、室内へと姿を消す。
 かつて洛陽を制し皇帝を擁した董卓軍に、そのひとありと謳われた、神策鬼謀の軍師、賈駆。曹操のみならず、そんな者まで受け入れるとは……。背筋の寒さが収まらない。軽い左手を握りしめ、秋蘭は呟いていた。
「……魏が、負けるわけだ」

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