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『へぇ……おまえが天の御遣いと噂されている男か』
 珍獣でも眺めるような、あの視線。
『ええい、礼なんて云うなっ! こっぱずかしいじゃないかっ!』
 真っ赤になっていた、あの表情。
『だが……まぁなんだ。その……武運を祈っておいてやる』
 不満そうに見送ってくれた、あの態度。
『あんま無理すんなよ? 私の方は出来るだけ助けてやるからさ』
 孤立した俺を励ましてくれた、あの笑顔。
『北郷……』
 あの、声。
 ……眼を閉じれば何もかも思い出せるのに、もう伯珪さんはいない。
 どこにも、いない……
「……むぎゅ?」
 鼻をつままれた感触に、一刀は意識を取り戻した。
「閨で他の女のことを考えるのは、いかがなものかと思うが、北郷殿」
 秋蘭は、少し不満そうに鼻から指を外した。んぁ……とひと声もらして、一刀は秋蘭を抱き寄せる。
「あー……判っちゃった?」
「見れば判る。貴公は、考えていることがすぐ顔に出るからな」
 今回は、考えていることが眼から液体となって出てきていたから、なおさら判った。何気なく指先で目元を拭って、秋蘭は一刀を見つめる。
「……公孫賛殿は、そんなにいい女だったのか?」
 触れた傷跡はふさがってはいても……たぶん、深い。一刀は、少しの間だけ、眼を伏せた。
「いい女っていうか……あの頃、俺たちの軍に味方してくれたのは、伯珪さんだけだったから。頼れる姉貴分って感じで、俺も懐いちゃったんだよな」
「頼れる姉……か。粗忽な姉を持つ身としては、羨ましく思えるな」
「あはは……」
 苦笑したように笑って、一刀は腕で眼を覆った。
「伯珪さんのことは、今でも好きだけど……あまり、悲しんでもいられないだろうな。天国に逝った姉に心配かけたままじゃ、弟として申し訳ないから」
「……そうだな」
 何となく、秋蘭は一刀の気持ちが判った……ような気がした。
 天から遣わされたこの少年は、愛紗らによって祭り上げられた君主。ひとの上に立てる資質はあっても、君主たる自覚に欠けていた。王とは……君主とは何か。それを見せたのが、公孫賛だったのかもしれない。最初は、小勢だった一刀を救うことで。最期は、死ぬことで。
 ……華琳さまもそうだが、この御仁と接すると、丸くなるのかもしれない。秋蘭は思う。あの頃の公孫賛なら、自分ひとりだけでででも逃げていたはずだ。
「北郷殿」
 腕を下ろさせ、秋蘭は一刀を見据えた。涙を見ずに。
「わたしの忠義は、華琳さまに捧げている。貴公に仕えることはできぬ。……貴公の手にはもう、弓があるのだしな」
 黄忠の弓勢は夏侯淵を凌ぐ。弓が二張りあっても不都合はなかろうが、秋蘭は、己の主を華琳と定めている。
「だから、華琳さまが許されるなら、わたしは貴公のために弓を引く。華琳さまが許されるなら、わたしはこの身体で貴公に尽くす。……そして、閨においては、華琳さまよりも貴公を優先しよう」
「……秋蘭」
「華琳さまと……貴公が望むなら」
 一刀は、もう一度眼を伏せた。涙をこらえたのではなく、秋蘭がそれを望んでいると察したから。
 一刀の頬に手を添え、秋蘭は唇を重ねる。接吻など、さしたることではないと思っていたが……これは、いくらか歯がゆい。背中がくすぐったくなって、秋蘭はすぐに離れた。
 一刀の視線に、秋蘭は頬を染める。
「だが、姉とは思ってくれるなよ? 確かに、わたしは貴公より年上だが……」
 一刀の笑顔を見ておれず、秋蘭はその胸に顔を埋めた。大陸に名を馳せた、愛紗や翠が惚れ込んだのが判る……そんな、意外なまでに広い、胸元。
「嬉しいよ、秋蘭」
「……はい、ご主人様」
 何となく込みあがってきて、秋蘭は、自分でも意外なほど軽やかに、微笑んでしまった。



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