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 その夜。
「ふぅ……」
 今日もいちにち“孫子”の注釈をしていた華琳は、やや疲れた様子で書簡を閉じた。侍っているのは春蘭と秋蘭。季衣はすでにおねむで、桂花は席を外していた。庭の酒蔵で一刀相手にひしゃくを振り回して「請与我一起死!(訳:死ぬときは一緒よ)」とか何とかしでかしたとのこと。試飲でもしたのだろうか。
「……それで、どうやって朱里を献じてくれるのかしら? 秋蘭」
 策をもって朱里を献じる――と、秋蘭が云ってきたのは先日のこと。責めの最中だったので本気とは思えなかったが、ここ数日なにやら暗躍していたのは事実。成果は如何にと尋ねれば、主の声に、秋蘭は低く微笑んだ。
「策は弄しました。あの軍師殿の性格からして、今夜中には」
「そう。楽しみだわ」
 しかし、と不満そうにしていた春蘭が口を挟む。
「あの手紙……それほど効果があるのか? 云われた通り、近況報告と職務励行しか触れていないが」
「内容はどうでもいいのさ、姉者。要点さえ押さえてあれば、諸葛殿は釣れる」
 秋蘭が書けば確実だったかもしれないが、愛紗はあの夜以来、どうにも秋蘭に厳しい視線を向けてきている。睦言の内容までは聞かれなかっただろうが、警戒するに越したことはない。
 華琳さまはご機嫌だが、これは朱里のことだけではない。そもそも華琳は、朱里や亡き賈駆にも引けを取らない、後漢末きっての謀略家だ。策を弄するとのフレーズには、心が躍ってしまう。自分のモノがそーいう真似ができるようになるのは、喜ばしいことだった。
 こんこんこんっ
 3人(ただし5つ)の眼がそちらを向いた。
「誰? 空いてるわよ、入ってきなさい」
「失礼しますー……」
 か細い声がして、朱里が顔を出した。
「あら、朱里? 夜這いに来てくれたのかしら?」
「はひゃっ!? いえ、そんなことは……そんなことじゃ、なくてですね」
 はわわ軍師は、硬い、そして困り果てている表情で、後ろ手に戸を閉じる。室内にいた3人は、それぞれの表情で朱里を迎えた。華琳はご機嫌そうな、春蘭は不機嫌そうな表情で朱里を見つめ、そして秋蘭はと云えば、口元にうっすらと笑みを浮かべている。
 朱里は、渇く喉から言葉を搾り出す。
「この……お手紙なんですけど」
 朱里が取り出した、朱里に預けたその手紙。
「あら。何か、まずいことでも書いてあった?」
 返事をしたのは華琳だった。硬い表情のまま、朱里は続ける。
「袁紹さんが、洛陽に出没なさったんですか?」
「……あぁ、そんなこともあったかしら? 大したことじゃなかったから、気にしてなかったわ」
 とぼけた、というよりは華琳の本心だ。当時ちょっと騒ぎにはなったが、春蘭や秋蘭の動きが迅速だったため、被害は古い城がひとつ、潰れただけで済んだ。
「どうして……袁紹さんのお話を?」
「何かまずいのかしら?」
 やはり、素で「何が悪いのか判りません」という表情をすると、朱里は必死の形相を浮かべかけた。ここで、ここまで黙っていた秋蘭が、口を開く。
「例え話をしよう、諸葛殿。……仮に、華琳さまが北郷殿に討たれたとする」
「秋蘭!?」
 何も知らない春蘭が悲鳴に近い声を上げるが、秋蘭は気にせず続ける。
「華琳さまが北郷殿に討たれたとする。わたしや姉者は華琳さまの仇をとろうと、北郷軍を打ち破り、北郷殿を縄目とした。……ところが、我らの部下たる季衣が、北郷殿を逃がしたとする」
 賢明なる諸葛亮は、すでに顔色を失っていた。秋蘭は静かに、冷たい眼差しで朱里を見据える。
「我らは、季衣を許すだろうか」
「許さないわね」
 間髪入れずに華琳が応えた。事態を引っ掻き回すのは大好きなので、絶好のタイミングで口を挟んだものの、それは効果的だったようで、蒼白だった朱里の表情が、さらに血の気を失い、土気色にさえなっていた。
「ご明察。いくら季衣でも、この状況、この事態では、許すことはできません」
「はわっ……はひっ……」
「諸葛殿」
 静かに、秋蘭は告げる。
「貴公、以前袁紹一党を逃がしたことがおありだな。……それも、北郷殿の手にかかる直前に」
 朱里の小さな身体が跳ね、春蘭が身を乗り出す。さすがの華琳でさえ口をつぐんだ。黙っていた方が面白いことになりそうね、とか考えたらしい。
「はぅ……!? あれは、その……!」
「天界より来たとはいえ、北郷殿も男。女に涙を見せるような真似はすまい。ゆえに、袁紹や公孫賛のことを口に出さず、忘れたように振舞っているが……」
 あの時、地方の巡察を行っていた一刀一行をもてなそうと、寒村の村人たちは、たまたま村に潜んでいた袁紹一行を捕らえ、人肉料理に饗しようとした。それを聞いた一刀は「そんなことするなーっ!」と咎め、村人相手に説教を始める。その間に朱里は、袁紹一行の、旧知であった将軍・顔良の縛を解き、顔良は袁紹らを助けた。
 すでに袁家は滅んでいたので、積極的に北郷軍と敵対しないなら逃がしてもかまわないと判断したのだが……
「袁紹たちを討つ契機を逃したと知ったら、北郷殿はどうなさるだろうな」
 顔良の真名は、斗詩と云った。
 座り込んだ朱里は、小さな身体を震わせながら、短い悲鳴を上げ続けている。先日来、華琳たちが『一刀が袁紹に執着している』と発言しているのが本当だったなら、朱里は一刀を裏切ったに等しい。そして、朱里には本当だと信じる理由があった。
 あの日、公孫賛が死んだと聞いた時。一刀は……その責全てを負ったような、いたたまれない顔をした。
 そこから立ち直ってはくれた。そこから立ち上がってはくれた。そして、すでに大陸の半ばを擁する王者へと変貌していたことで、公孫賛のことを忘れたと思っていた。
 一刀を支えてきた朱里は、一刀がそれほど強い男ではないと、知っている。割り切れたり忘れたりできる男なら、もう少し一刀は楽になったかもしれない。だが、それができないからこそ、一刀は一刀なのだ。
 袁紹を助けたのは……間違いだったのかもしれない。朱里が逃がしたと聞けば、多分一刀なら許してくれる。だが、一刀にまたあのような顔をさせては、朱里が自分を許せない。
「……状況が、まるで判らんのだが」
「姉者は判らなくていい」
「どーいう意味だ、秋蘭!?」
「黙ってなさい、春蘭。……ねぇ、朱里?」
 華琳は、座り込んだままの朱里に、やらしく……もとい(間違ってはいないが)、優しく声をかける。
「そんなに震えてるのは、喉が渇いているからじゃない? お茶でもどうかしら」
 朱里の肩が跳ねた。先日の、華琳と桂花の痴態がはっきりと思い出される。
 だが、拒めばどうなるのかは明白だった。……秋蘭は、全てを一刀に話すだろう。
「はわ、はぅ……!?」
「秋蘭、お茶」
「御意」
 静かに、秋蘭は応えた。朱里は怯えきった仔兎のような眼で、秋蘭を見上げる。
 こんこんこんっ
「っ……!? 誰!?」
「いいところで、お邪魔させてもらってもよろしいかしら?」
 美人・美女ぞろいの北郷軍中にあって、唯一華琳の食指が動かない、その女の声がした。正直、朱里は食べ頃と云うにはやや早く、鈴々ではもっと早い。その両者とは逆に、その女はすでに華琳の守備範囲を、上に外れている。
「紫苑……」
 突然の乱入者に、華琳は舌打ちし、朱里は助かったとすがるような表情を浮かべる。完全に事態から置いてけぼりになっている春蘭はともかく、秋蘭は口元に笑みを浮かべていた。
 その笑みが気にはなったものの、紫苑は一同を見渡し、思い詰めている視線を秋蘭に向けた。
「朱里ちゃんがそういうコトをしていたのはともかく……秋蘭ちゃん、ちょっとお話聞かせていただけるかしら?」
「かまわぬが……」
 年長者に対しての礼はともかく、いささか慇懃に秋蘭は応じる。
「ただ、内容が内容ゆえに、北郷殿立会いのもとで話すというのはいかがであろうな」

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