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 ――孫子の前に兵書なく、孫子の後に兵書なし。
 人類史上“唯一”の兵法書たる“孫子”の、類まれなまでの戦略思想は歴史的にも評価が高い。ナポレオンや東郷平八郎などはこの書を愛読し、プロイセンのヴィルヘルム2世は『20年前に、この本を読んでおればなぁ……』と嘆息したという。ロシア極東軍屈指の歴史オタクと称されたフーバル・フースキー少佐は“孫子”を極めて高く評価しているひとりで『もし僕が、神あるいはそれに類する立場にあったのなら、己の身を案じて、信徒に焚書を命じたはずだ』とまで絶賛している。
 そんな“孫子”だが、その著者が定かではないことはあまり知られていない。
 “孫子”の著者は、一般には孫武とされている。しかし、その存在は長く疑問視されていた。というのも、孫武に関する記述は司馬遷の“史記”に、それもごくわずかしか存在せず、稀代の兵書の著者の名があろうことが“武”であったことから、孫武そのひとの存在を否定し、子孫の孫臏が本当の著者だ、いや伍子胥だ、范蠡だ、挙句の果てには曹操こそが"孫子"の著者だ、などとする説が出ていた。いちおうは1972年に『孫臏ではない』という結論は出ているものの、孫武についてはいまだ定説が得られていない。
 内容についても、曹操以前の“孫子”はほとんど残っておらず(無理もない。孫武の手によるものとした場合、孔子とほぼ同時代になる)、曹操が注釈を施した“魏武注孫子”しか、ほぼ現存していないのが実情だった。もちろん、ナポレオンは曹操から1600年はのちの時代の者であり、畢竟彼(ら)が手にしたのも、その“孫子”ということになる。
 この辺りの事情について、件のフースキー少佐は、興味深い記述をしている。
『“孫子”の著者が誰かという疑問は、もの凄く単純に応えられる。孫子だ。……そこで飛蝗石を握ったひと、まず手を開いてほしい。孫子とは、云うまでもなく個人名ではない。この“子”は“先生”の意なので、要するに孫先生だ。じゃぁその孫先生とは誰なのか? それは、多分考える必要はない。それが孫武であれ孫臏であれ、兵法の極意を受け継ぐ者こそが孫子である。兵聖の称号。それこそが孫子だと僕は思う。……それならば、曹操やナポレオンが孫子であっても、一向にかまわないのではなかろうか』(F・フースキー『世界奇人変人列伝』より)

「くちゅんっ」
 ……えらく可愛らしいくしゃみを聞いて、朱里は“孫子”の書簡から顔を上げた。卓の向かいに座っている華琳サマは、ばつの悪そうな表情で朱里をにらんでいて、両隣で卓を囲んでいる、桂花は見ていないふりをして書簡から顔を上げず、秋蘭は笑いを噛み殺している表情になっている。
「何かしら? 朱里」
「はうぁっ!? いえ、何も……」
 はわはわ云ーながら、朱里は視線を書簡に落とした。身長ではほぼ同じだが、気迫と戦闘力には格差がある。でも、と下げた視線を華琳に戻して、朱里は小声で。
「……ていうか、真名では呼ばないでほしいです」
「あら、いけなかったかしら? 朱里」
 からかうような口調で、華琳は繰り返した。
 真名というものは心許した相手にしか呼ばせないものなので、一刀の軍師たる朱里としては、一刀の捕虜である華琳に真名で呼ばれるのには抵抗があったが、もと覇王サマはその辺りをまるで考慮してくれない。
「はぁ……」
 北郷軍の軍師として、政戦両略を取り仕切っている朱里だが、政務の合間にお茶していたところ、華琳に捕まり“孫子”の注釈を手伝わされている。知識欲豊富な朱里にしても、高名な兵法書について論を戦わせるのは嫌いではなく、つきあってはいるのだが。
「諦めよ、諸葛殿。華琳さまは、気に入った相手には容赦をなさらん」
「むしろ光栄に思うのね、華琳さまから真名を呼ばれるのだから」
 と、左右から秋蘭と桂花が止めを刺す。はわわ軍師は溜め息ついて、表情を曇らせた。場合によっては、北郷軍が魏に敗れ、朱里も華琳の下についていたかもしれない。そう思うと……かなり、やだ。一刀以外の主人を知らない朱里にしてみれば、こういう意地悪な主に耐えられるかどうか。
 思えば、一刀は華琳にないものを全て持っている。優しさと、身長と、チ○ポだが。
「最後以外は大きなお世話よ!」
 金髪縦ロールを振り乱して、曹操サマは大声を上げられた。傍らに侍る秋蘭は、主の霍乱に驚いて。
「華琳さま? 突然、ナニを……?」
「例のロシア産雪男が命冥加な発言をしでかしたのよ! 誰がサドでチビよ、まったく!」
「否定できない気もするんですけど……割と重要なオハナシしますね? その雪男さん、どうしても一本に一度はこーいう真似をしでかさないと気が済まないのでしょうか」
「ヒッチコックを尊敬してるらしいわ。まぁ、聞こえなかったことにしておきましょう。桂花、お茶」
「はい♪」
 朱里の指摘に、我に返った華琳は桂花に声をかけた。桂花はいそいそと、嬉しそうにお茶を口に含むと、華琳と唇を重ねる。秋蘭は慣れているので気にも留めない(やや悔しそうではあったが)ものの、ノンケの朱里はそうも行かなかった。突然の接吻に、椅子から腰を浮かせて悲鳴を上げる。
「はわ……はぅぁーっ!?」
「んぶっ……」
 それに驚いた桂花が唇を離してしまい、口の端からお茶がこぼれる。
「もぅ、何よ朱里……そんな悲鳴を」
「はうぅ……いえ、驚いてしまったので……」
「桂花、拭きなさい」
「はい……♪」
 華琳の顔を濡らすお茶を舌先で舐り、桂花は幸せそうに表情を綻ばせていた。こっそり朱里に親指を立ててみせる。はわはわ怯えている朱里の、隣で秋蘭が青筋立てているのだが、華琳以外誰も気にしていなかった。
「はぁ……♪ 華琳さま、綺麗になりました」
「桂花、あなたも気をつけなさい」
「はい。もうひと口、いかがでしょうか?」
 桂花のねだるような視線に、だが華琳は視線を朱里に向ける。はわわ軍師がぶんぶんぶんぶん激しく頭を振りまくっているので、華琳は残念そうに。
「まぁ、いいわ。続きを読みましょう」
「はい……」
 そりゃぁもォ残念そうに、桂花は引き下がった。そこでようやく秋蘭も、落ちついた表情に戻る。
「はぅぁ……心臓に悪いですー……」
「そういえば、朱里?」
「ですから、真名では……何でしょうか?」
 云ってもムダだと半ば諦めて、朱里はずれた帽子の角度を直す。華琳は、面白くなさそうな表情で。
「北郷は、袁紹を探しているの?」
「ふぇ……?」
 云った方も云われた方も聞いているふたりも、へんな反応をした。朱里と桂花は「ナニを今更……?」という表情を浮かべ、華琳は朱里がそういう表情をしたのがよく判らず、唯一秋蘭が視線を細める。
 先日の一刀との会話を、閨で責められた秋蘭はついつい口にしてしまい、華琳の耳に入れてしまった。その場では「……ふん」という反応だった華琳だが、どうにも一刀のこととなると、このもと覇王は挙動不審になる。
「違うの?」
「はぁ……。すでに袁家は滅亡し、その軍勢は北郷軍に編入しましたので、積極的には気にかけていませんよ?」
「でも、公孫賛の仇でしょう? 袁紹は」
「ええと……」
 いくらか云いにくそうに、朱里は視線を下げた。
「当時の我が軍では伯珪さんの援軍には行けないと説明して、その場は納得いただけましたけど……伯珪さんが亡くなられた時は、ご主人様は、一日お部屋に閉じこもっておいででした」
「……それで?」
「今では、伯珪さんのことも袁紹さんのことも、口になさいませんね、ご主人様は」
 吹っ切れたのか、割り切ったのか。朱里は、やや硬い表情でそう云った。
「……そう」
 興味をなくした表情で、華琳は視線を書簡に戻す。
 半時もした頃に、めがねの侍女(一刀は“メイド”と呼んでいた)が呼びに来たため、朱里は政務に戻った。それを見送った秋蘭は、真剣な眼差しを華琳に向ける。
「華琳さま」
「何?」
 あのメイド服やら云うものを、秋蘭や春蘭に着せてみたいとこっそり思っている華琳は、名残惜しそうに戸口を眺めている。秋蘭は、そんな主君に視線を固定したまま。
「秋蘭無くとも天下は成り立ちましょうが、華琳さま無くしては天下は成り立ちません。どうかご自愛を」(※1)
「……わたしに意見するつもり?」
 やや視線を細くして、華琳は秋蘭を見た。普段ならいささかは恐縮する秋蘭だが、睦言(それも、男との)を話させられたため、さすがにひるまない。また、内容的にも冗談で済まされる話ではないのだ。
「北郷殿は信頼に値する御仁ですが、男の心は変わりやすいもの。華琳さまが処刑されれば、我らも生きてはおれませぬ。お供することは厭いませぬが……可能な限り、華琳さまをお守りするのが我らの務めかと」
「見上げた忠勤ね。……ま、いいわ。今日のところは、聞いておいてあげる」
「御意」
 いつぞや、酒家で交わした会話を思い出す。主に不満を云うつもりはないが……時折、忠言でも容れなくなるのが、華琳のやや難のあるところだった。それこそ、眼の前にある“孫子”の言葉が眼に入る。
 ――将聴吾計用之必勝留之 将不聴吾計用之必敗去之(我が進言を容れるならその国は勝つのだから、私は留まる。だが、我が策を容れないならその国は負けるだろうから、留まってなどやらない) “孫子”計篇より
 お互い……損な性分だな、斗詩?
「……ふむ?」
 秋蘭は、そういえば……と思い出した。酒家でその時、あの娘は興味深いことを云っていた。それは、先程の朱里の態度から察するに、多分朱里のことだろう。
「……ふむ」
「秋蘭?」
 何かを考え込んだ秋蘭に、華琳は怪訝そうな声をかけるものの、秋蘭は返事をしなかった。
「……お仕置きね」

※1 「曹操なければ天下は……」云々の台詞は、実史では曹洪が口にしたものです。

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