何かが川をやってくる 「二.六月の終わり(前編)」 |
愛知川の河口。琵琶湖を通して、対岸の比良山系が見える。 |
あれは数年前の今頃だったが、私はみずうみ書房の『日本伝説大系』という本で、滋賀県の愛知川流域に伝わる「長もんの泊まり」という伝説を読んでいた。以下がそれである。
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いっぽう伝説というものはもともと口承で伝えられてきたものだから、同じ伝説でも異文が生じやすい。『日本伝説大系』はある伝説を紹介する際、新たに語り直さないで、すでに書かれたテキストからの引用でそれを行っているのだが、異文がある場合はそれも含めて紹介している。「長もんの泊まり」にも異文があるので、以下にそれも引用する。ただし読者はこれらの中に、長もんが愛知川をさかのぼり、上流の萱尾(かやを・茅尾)というところにある滝まで枇杷の実を食べに行くモチーフが見られることを確認していただければ、あとは読み飛ばしてもらっても結構である。ただ、太字部分の地名だけは、これから問題となるので注意していてほしい。
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『日本伝説大系』に収められた「長もんの泊まり」とその異文は、以上が全てである。そしてそれらの中に現れた地名(大字)を拾うと、以下の通りとなる。ただし、6の愛知川は(ア)〜(ク)に登場しないが、(ア)に登場する祇園さん≠ヘ、愛知川にある八幡神社の境外社、祇園神社のことと思われるため、(ア)の納屋留さん≠フ所在が中山道の宿場町、愛知川だと判断して付け加えた。
地 名 | 所 在 | 登場した説話 | 付近に鎮座する 川桁神社の論社 |
1.萱尾(かやを、茅尾) | 東近江市萱尾町 (旧・神崎郡永源寺町大字萱尾) |
(イ)(ウ)(カ)(キ) | B.大瀧神社 |
2.小幡(小畑) | 東近江市五個荘小幡町 (旧・神崎郡五個荘町大字小幡) |
(ウ)(エ) | D.小幡神社 |
3.川南 | 東近江市川南町 (旧・神崎郡能登川町河桁御河邊神社南) |
(キ) | − |
4.阿弥陀堂 | 東近江市阿弥陀堂町 (旧・神崎郡能登川町阿弥陀堂) |
(キ) | − |
5.上西川町 | 彦根市上西川町 | (ク) | E.川桁神社 |
6.愛知川(祇園さん≠ェある) | 愛知郡愛荘町愛知川 (旧・愛知郡愛知川町愛知川) |
(ア) | F.河脇神社 |
これらの所在を地図上で確認すると、いずれも愛知川に沿って分布していることが分かる。そのうち、もっとも下流にある5の彦根市上西川町は愛知川のもっとも琵琶湖に近く、湖畔まで約1.5qの距離である(愛知川は現在、上西川町のそばを流れていないが、流路が変更されたためで、以前は付近をこの川が流れていた。上西川町が載る細長い微高地は、かっての愛知川の自然堤防であろう。)。いっぽう、いちばん上流にある1の萱尾は、かなり山深い印象をあたえる場所で、現在は永源寺ダムが造られたため水没している。
それはともかく、私は「長もんの泊まり」とその異文を読んでいて、ちょっと面白いことに気が付いた。上のリストにあげたこの伝説に登場する1〜6の土地には、近くに『延喜式』神名帳の近江国神崎郡に登載のある小社、「川桁神社」の論社が鎮座しているケースが多いのである。川桁神社は現在、所在不明とされるが、『式内社調査報告』はこの式内社の後裔社であるとの伝承が伝わる以下のA〜Fをその論社としてあげている。
神 社 名 | 所 在 | 付近にある「長もんの泊まり」 の例話・類話に登場した地名 |
A.河桁御河邊神社 | 東近江市神田町 (旧・八日市市神田町) |
− |
B.大瀧神社 | 東近江市萱尾町 (旧・神崎郡永源寺町大字萱尾) |
1.萱尾 |
C.川瀬神社 | 彦根市南川瀬馬場町 | − |
D.小幡神社 | 東近江市五個荘中町 (旧・神崎郡五個荘町大字中) |
2.小幡 |
E.川桁神社 | 彦根市甲崎町 | 5.上西川町 |
F.河脇神社 | 愛知郡愛荘町大字中宿 (旧・愛知郡愛知川町大字中宿) |
6.愛知川 |
ここで苦言を呈したいことがある。
Bの大瀧神社だが、『式内社調査報告』ではこれを犬上群多賀町大字富ノ尾にある大瀧神社のこととして、写真や住所までこの神社のものを載せている。が、文献に当たれば明らかなとおり、式内・川桁神社の伝承がある「大瀧神社」とは、多賀町のそれではなく、東近江市萱尾町にある大瀧神社のことなのである(※1)。これはちょっとまずいんじゃないだろうか。いくら名前が同じとはいえ、神社を取り違えて執筆してしまうとは悪い冗談もすぎるだろう。皇學館大學出版部は何らかの手立てをこうずべきである。
まぁ、話をもとに戻す。式内・川桁神社の論社であるA〜Fと、「長もんの泊まり」に登場する1〜6の地名の相関関係である。
まず、Bの大瀧神社は1の萱尾にある。萱尾には萱尾の滝と呼ばれる滝があり、長もんが枇杷の実を食べに川をさかのぼったというのがこれである。当社の神体はこの滝だとも言われている。
Dの小幡神社は、2の小幡の北西5〜600mのところに鎮座している(当社の鎮座地は大字「中」だが、社名は「小幡」であることも見落とせない。)。
Eの川桁神社から5の上西川町へは、南に300mも離れていない。
Fの川脇神社は、6の愛知川の北東7〜800mのところに鎮座している。
(★地名から神社までの距離は、国土地理院の地形図(1/25,000)上で印刷してある大字名の真中から、神社マークまでを測ったもの。例えば「愛知川」なら、「知」の字の中央から神社マークまで。)
しかし、こうしてみると1〜6のうち、近くに式内・川桁神社の論社が鎮座していないのは、4の川南と5の阿弥陀堂だけとなる。しかも、この2つの集落は隣同士で、いずれもすぐ横を愛知川が流れているのだが、かつての愛知川の流路はもっと東側だったらしい。というのも、現・愛知川下流域の東部には、ほぼ南北に連続する細長い微高地がみられるのだが、明らかにこれはかつてのこの川の自然堤防の痕跡であって、それを見ると当時の愛知川は現在のルートより東側を流れ、もっとダイレクトに琵琶湖に注いでいたことが分かるからである(※2)。だがその場合、この自然堤防が残る旧ルート上には式内社の論社となっているEの彦根市甲崎町の川桁神社や、式内社であるという伝承は残っていないものの、社名が川桁神社である同市出路町のやはり川桁神社という名前の神社があり、式内・川桁神社の信仰圏がもっぱらこの旧愛知川ルートに沿って展開していることを感ぜしめるのである。となると、現・愛知川ルートに沿った4と5に伝わる(キ)の伝承は、それほど古いものではないことになりそうだ。
いっぽう、逆に式内・川桁神社の論社群からみて、付近に「長もんの泊まり」に登場する地名がないのは、Aの河桁御河邊神社とCの河瀬神社である。このうち、Cの河瀬神社を式内・川桁神社に比定しているのは『近江輿地志略』などだが、この神社はふきんを愛知川が流れていない。C以外の神社はすべて近くを愛知川が流れており、式内・川桁神社にはこの川との深い関わりが感じられるのだから、それだけで当社は式内社として疑わしくなる。しかも、(というかこれを先に言うべきだったが)当社が鎮座する彦根市川瀬馬場町はかっての犬上郡の郡域に含まれるが、『延喜式』神名帳では川桁神社は神崎郡に登載にされているのだから、河瀬神社は式内・川桁神社ではありえないのである。
してみると、川桁神社の確実な論社で、かつ、ふきんに長もんの伝承に登場する土地のない神社は、Aの河桁御河邊神社だけということになり、この式内社はかなりの確率でこの伝承と関わっていることが感じられる。どうもこの長もんは当社の祭祀と密接な関わりがあったのではないか。
現在、式内・川桁神社の論社には天湯川桁命を祭神とするものが多い(各論社の祭神や由緒等はこのページの下の方に各論で紹介しておいた。)。この祭神は『古事記』の垂仁天皇段にみえる鳥取部の祖神であるが、おそらくこれは川桁神社の社名に含まれる「川桁」に着目し、上代のこの地域に鳥取部が居住し、彼らが祖神を祀ったのがこの神社であると考証した『神名帳考證』に基づくのだろう。が、むしろそうしたことよりこの長もんの伝承に注目する方が、この式内社の実像に近づく正しい方法なのではないか。
ところで、ここまで考えてきたところで私はふとあることを思い出した。以前、たまたま河桁御河邊神社を訪れたのだが、その時、この神社の拝殿の中で見かけたあるものがこの長もんの伝承と関係があるような気がしたのである 。もしもそうだとすれば、当社にもまた、他の式内・川桁神社の論社群と同じく、この長もんの伝承との関わりが感じられることになる。冒頭でも言ったとおり、当時も時期はちょうど6月の末あたりであり、愛知川を長もんがさかのぼるのと同じ頃だった。そこで河桁御河邊神社の拝殿で見かけたアレについて確かめるとともに、(川瀬神社以外の)式内・川桁神社の論社を巡る旅を思い立ち、あの年の6月最後の週末を愛知川まで出かけることにした。
この時は確か、かなり朝早く車で家を出て近江に向かい、まず最初に東近江市神郷町に鎮座している乎加(おか)神社を参拝したのだった。この神社は、川桁神社と並んで神崎郡に2社だけある式内社のもういっぽうである(ちなみに『式内社調査報告』は当社の位置を誤って、東近江市五個荘河曲町にある河曲神社のところに、地図でマークしている。)。
乎加神社
深い森の中に重厚な神明造りの社殿が建っている当社の佇まいはまことに立派だが、むしろ私が目的としていたのは社殿の西北100mほどのところにある神郷亀塚古墳であった。この古墳は近世の地誌などにも当社のことと一緒に紹介され、祭祀面でこの神社との関係を感じさせる。近年の発掘調査の結果、3世紀前半に築造された前方後方墳であると発表されたが、3世紀前半といえば卑弥呼の時代である。本当なのだろうか。いずれにせよ当社の祭祀のえん源はよほど古くまで遡る可能性があるようだ。
神郷亀塚古墳 平成12年からの発掘調査で3世紀前半に築造されたものと判明した国内最古級の前方後方墳。今後、近江の古代史を語る上でのキィワードになるだけでなく、邪馬台国論争にも一石を投じそうな発見だ。しかし、じっさいに古墳を訪れると墳丘がだいぶ畑に削られていて無惨な感じがした。
ところで調査の結果、この古墳では築造後も、3世紀後半と4世紀前半にはマツリが行われていたことがわかったという。隣接する式内社、乎加神社の祭祀は、こうしたこの古墳の被葬者に対するマツリから始まったものではないか。ちなみに当社の本殿はこの古墳から100m程度しか離れておらず、本殿の軸はこの古墳から2〜30度ほど東にずれているものの、おおむねこの古墳を背後に背負って建てられている。こうしたことも注意をひく。
画像は後方部から撮影したもの。
続いて車から自転車に乗り換えて川桁神社の論社巡りを開始する。
ちなみに私は、車の運転もできるしマイカーも持っているが、神社巡りは自転車でするのが好きである。自転車なら地形の微妙なニュアンスも伝わってくるし、車の場合は見落とすような小さな発見にも出会えるチャンスが広がるからだ。もちろん場合にもよるだろうが、今回の場合は最初から移動の手立ては自転車しか考えなかった。
話をもどす。Dの小幡神社など訪れてから、8号線の御幸橋で愛知川を渡ると、右岸上流側のたもとに祇園神社というあまり大きくない神社があった。(ア)で正体の露見した長もんが逃げ込んだという愛知川の祇園さん≠ヘこの神社だろう。
祇園神社
祇園神社から8号線を少し北上すると、旧中山道が国道から分かれて古い街道筋らしい家並みの残る箇所に入ってゆく。愛知川の宿である。Fの河脇神社は、この宿場町の北の外れに鎮座していた。あたかも、愛知川の宿は、祇園神社と河脇神社で南北から挟まれているような感じである。長もんの伝承には、長もんが宿に泊まるというモチーフが散見されるが(ア、ウ、エ)、このことは伝承の舞台となった愛知川が、中山道の宿場町と交差していることと無関係ではないだろう。
続いて、Aの河桁御河邊神社に行く。さきほど言った、以前この神社の拝殿で見かけた「アレ」とは、下の写真の絵馬である。この絵馬は珍しいこて絵の絵馬で、そのために前回の参拝の時も印象に残っていたのだが、竜が仏像のようなものを乗せ、さかまく波の上を体をくねらせて進んでいる。よく見ると、左上のところには「天像雲竜乗り」と表題もあり、何らかの説話の一場面を描いたもののようだ。わたしはこの絵馬のことを思い出したとき、これが愛知川をさかのぼる長もんの伝承と何か関係があるのではないか、と思い当たったのである。
河桁御河邊神社にあるこて絵の絵馬
参拝を済ませ、早速、社家の人を社務所の奥から呼び出してお話を伺った。あいにく宮司は留守で、応対したのは中学生くらいの女の子だったが、こちらの質問に対し、たいそう利発そうなテキパキとした返事が返ってきた。
・拝殿の中にある絵馬について、いわれなどがあれば教えてください。
愛知川畔に佇む河桁御河邊神社の森。
「いわれなどは特にないと思います。ただ、大昔からあそこにあったのは確かです。」
・伝説か何かの一場面を描いているような感じがしますが、何かご存じないでしょうか。たとえば、愛知川には長ものが上流まで川をさかのぼるという伝承があるようですが、どうでしょうか。
「特に聞いてはいないです。もしかすると宮司に聞けば何か知っているかも知れませんが、今は在宅しておりません。ただ、昔からの言い伝えに、この神社の祭神は、鶏が連れてきたという伝承はあります。社殿にもこれに因んで鶏が彫ってあります。この鶏の話は、よく聞く話です。ただ、口伝であり、古い文書などに残っている訳ではありません。」
というようなことであった。愛知川の長もんと関係があるのかないのか、今ひとつ、はっきりしなかった。
続いて八風街道をさかのぼり、永源寺町にあるBの大瀧神社をめざす。愛知川を河口からさかのぼると、永源寺地区(合併前は永源寺町だったエリア)に着くまでは、ほぼ平野部と言ってよい。それが紅葉橋を渡り、地区名ともなっている名刹、永源寺を過ぎたあたりから、付近は渓谷となり山間部のそれへと景色が変化する。この渓谷の奥には、かんがい用に造られた永源寺ダムがあり、長もんが枇杷の実を食べに愛知川をさかのぼったという萱尾の滝がダム湖に沈んでいる。
大瀧神社
梅雨時で満水位にあるらしいダム湖を横目に、湖岸道路に自転車を走らせ大瀧神社に向かう。水没した萱尾の人たちが移転した現在の萱尾集落を数百m過ぎると鳥居があった。当社はダム湖畔にあり、社地は道路より低い位置にある。スロープを下りて西日の差し込む境内に入ると、木々の緑にはまだ新緑の瑞々しさが感じられた。平野部と山間部の気温差によるものだろう。境内にあった看板を引用する。
この看板にある龍飛の神事が行われた滝が、じつに長もんがそこにある枇杷の実を食べに愛知川をさかのぼったという萱尾の滝である。この滝は当社の神体であったとも言われるが、こうしてみると「長もんの泊まり」の伝承群と式内・川桁神社との関わりは、この滝を介することでよりいっそう強く感じられるようになる。
社 歴
祭 神 角凝魂命(ツノコリダマノミコト)
天湯川桁命(アメノユカワゲタノミコト)
由 緒
当社は醍醐天皇延喜元年十二月の創立なり(社蔵文書)式内川桁神社、神崎郡二社の内の一社なりという元別当本覚寺あり。明治九年まで式内川桁神社・大瀧大明神と称えきたえしが明治十年以降専ら大瀧神社と称うる至れり。
本社は古来より信仰厚く、神崎、愛知二群の田は皆この神の治むる所なりとして一五九個村に及ぶ地方の農家の崇敬ことに厚く、湯水の神と春秋初穂を献納したることは元文元年(一七三六年江戸時代)の書類に歴史として今尚その崇敬者多し<後略>
例 祭 七月一日
特殊神事(龍飛の神事と云う)
此の神事は往古より行なはれ、例祭当日祭儀に引き続き氏子の青年によって行なはれ、神社より一町余り上流奇岩重畳せる岩上より数十尺下深淵の大瀧に飛び込み青年の体躯は勇壮で躍動せる龍神の如し、井水信仰の本源をなすものなり。
昭和四十六年愛知川ダム建設に依り尊い自然と伝統と歴史は湖底深く没す。
ここに記載して後生に伝えん。
大瀧神社
神社はもとからの鎮座地にあるのではなく、ダム建設に伴い移転したものかもしれないが、社地を見渡すと社殿の正面に当たるダム湖をのぞんだ場所に、小さな枇杷の木が1本、植えてあるのが目に付いた。愛知川をさかのぼった長もんが実を食べることができるよう、誰かがそこに植えたものと見える。その木のかたわらには大きな石があったが、あるいはこれも萱尾の滝から移してきたものかもしれない。いずれにせよ、この伝承と大瀧神社の深い繋がりを感じさせるものである。
大瀧神社からは日が落ちないうちに、と急いで道を駆け下り、彦根市出路町の川桁神社、Eの彦根市甲崎町の川桁神社を訪れ、旧愛知川の河口ふきんに当たる薩摩という小さな集落に寄ってから、愛知川の河口を見て帰宅した。ちなみにこの薩摩という地名については、上代に南九州から隼人たちがここに移住してきたため、地名転移したというような説があったと思う。(後編に続く)
薩摩のバス停
★ 本文中に登場させた川桁神社の論社群を紹介しておく。 ★
1.河桁御河邊(かわけたみかべ)神社/みかべさん
社殿
所 在 東近江市神田町381 祭 神 天湯河桁命、瀬織津比盗_、稲倉魂命 由 緒 「社蔵文書によれば、宣化天皇四年、当地の名族玉祖宿称磯戸彦連が勧請し、桓武天皇延暦三年二月初午日の神祭が、今日の例祭日となっている。天長二年には弘法大師が、十七日間仁王盤若経を読誦された。延喜式の神名帳の川桁神社が当社と言はれているのは定かでないが、この時代から神田村を神領としたと伝えている。惟喬親王の御子小椋兼賢王の崇敬厚く、社殿を築造をされたが、承安三年に兵火の為焼失した。建暦二年に神殿、拝殿、神楽殿、楼門、鐘楼等が再建されたが、これも建武の年の兵乱で悉く焼失し、今の社殿は慶長十五年に田中河内守吉久によって再建され、棟札に「江州神崎郡柿御園三河辺正一位大明神」とあり、早くから柿御園の産土神として崇敬された。
社名については、「輿地志略」に御川辺の御名は、愛知川の源、君ヶ畑に惟喬親王の宮居があったから、川の名は御川といゝ、川の辺に鎮座の故に御川辺大明神と元慶年の再建の時に号したと記されている。古くは柿御園十八ヶ村の崇敬を受け、中世以後は旧御園村全域の崇敬を集め、三川辺大明神と称したが、明治初年に今の社名となった。明治十四年郷社に列し、大正四年神饌幣帛料供進指定となる。」(『滋賀県神社誌』p 164より)
その他 「三月第三日曜日 例大祭執行 十時
一名有名な近江ハダカマツリ
渡御は神馬、神主馬の他に氏子より六人の頭人を選びそれぞれ乗馬して神輿に列する。 神輿は氏子人又崇敬者の人々等ハダカにて担ぎ一里余の道を渡御するので古来よりハダカマツリとして有名なり。」(『河桁御河邊神社のしおり』より)
2.大瀧(おおたき)神社
社頭の様子
萱尾の滝が沈んでいる永源寺ダム湖
所 在 東近江市萱尾町192 祭 神 角凝魂命、天湯川桁命 由 緒 「川桁神社、今萱尾村にあり、大瀧大明神と云ふ。山上縣伺書。按神前流るる愛知川の南淵大岩聳立る上に、桁の如く横はれる石上を水瀧して落る故に川桁の名あり、又神崎愛知二郡田に濺く水を湯用と云ふ、近隣百五十餘村の田畝、皆其水利を被るを以て民人豊熟を祈り、秋稲を神社に納むるを例とすと云り、姑附て考に備ふ。盖鳥取連の祖天湯河桁命を祀る。(参取古事記新撰姓氏録)垂仁天皇御世、皇子誉津別命八擧髭臍前に至るまで、真事とはす、高往鵠が音を聞して、始て阿藝登比し給ひき、故湯河桁命をして、其鳥を捕しめき。故其鵠を追尋て東方に這廻りて近淡海國に至り、遂に高志國に至て捕て献りき、即是也。(古事記、参取日本書紀)」(『神祇志料』より)
3.河脇(かわわき)神社
社殿
所 在 愛知郡愛荘町中宿205 祭 神 大国主命、少那彦名命 由 緒 「愛知川筋の上は御河辺、中は河脇、下は河桁の三社のうちの古社で、河脇大明神と尊称していた。明治初年現在名に改称し同九年村社に列し同四十三年神饌幣帛料供進指定となる。」(『滋賀県神社誌』p406より)
4.小幡(おばた)神社
社頭の様子
「似小戸」の霊水所 在 東近江市五個荘中町303
祭 神 【東本殿】
〔主祭神〕
武甕槌神、伊波比主命、天児屋根命、比売神、瀬織津比盗_、速開都比盗_、気吹戸主神、速佐須良比盗_
〔配祀神〕
大山咋命、市杵島姫命、白山比盗_、金刀比良大神、大物主命、藤森大神
【西本殿】
〔主祭神〕
武甕槌神、伊波比主命、天児屋根命、比売神、誉田別尊、気長足比売尊、倭建命、帯中日子命、大雀命
〔配祀神〕
津島神、大山咋命
由 緒 「四組の氏神と仰ぎ奉る大宮大明神小幡邑の氏神に坐す、惣社大明神、山王大権現の三社を奉祀する東殿と、簗瀬邑の氏神と崇め奉る若桜宮大神及び小幡八幡宮の二座を奉斎する西殿から成っている。東殿を春日大明神、西殿を小幡八幡宮と申したが、明治九年ひとしく小幡神社とされ、同四十三年官允を得て両社併合今日に至った。
その昔二月の祭礼に当りては、初午二の午両度に神輿を奉じて九郷二十余村を巡る渡御の神事いとも盛大に斎行され、その行粧の委細は記録に明らかである。
社伝によれば天長年間に春日神社を勧請して大宮が創まり惣社は祓所四柱の大神を祭神とし、日吉大神は天福年中小幡位田の地が日吉社の社領とされた神縁による御鎮座と云はれる。また西殿の若桜宮は大宮の御分霊を祀る若宮であり八幡大神をも奉鎮すると伝え創祀の伝来は様々であるが、何れも似小戸と称える霊泉の四時滾々として絶えることのない聖域である。」(『滋賀県神社誌』p372より)
その他 「境内西南宮に清冽なる泉あり「似小戸」と称す。伊邪那岐命が禊し給うた橘の小戸にも似たる故を以てなり。近江輿地志略七十 春日霊水春日神社の界内にあり甚だ以て清潔の水なり。
琵琶湖志巻十五 春日の霊水 小幡村に在り、小幡明神とて春日の神なり、この社内にあり清浄の霊水なり。
淡海国木間攫巻六 小幡大明神 生土神なり 祭神南都春日神に同躰なり、名水当社の境内にあり、春日の霊水と云い至って清潔の水なりと。」(『滋賀県神社誌』p372より)
5.川桁(かわけた)神社
社殿
所 在 彦根市出路町640 祭 神 天湯川板挙命 由 緒 「創建年代不詳。社伝によると、彦根藩主の助成により安永九年現在の地に社殿を復興した。古くは高藤大明神、河田明神と称したが、明治三十八年川桁神社と改称す。明治九年村社となり、同四十一年神饌幣帛料供進指定となる。」(『滋賀県神社誌』p77より)
その他 『式内社調査報告』では、式内社・川桁神社の論社として取り上げられていないが、参道の入り口に立つ標石には「式内 川桁神社」とあった。あるいは、当社にも式内・川桁神社の後裔社だとする伝承があったのかもしれない。
6.川桁(かわけた)神社
社殿
所 在 彦根市甲崎町139 祭 神 天湯川板挙命 由 緒 「創建年代不詳。社伝によれば、往古愛知川尻の州崎に鎮座、明治三年現在の地に奉遷。中世より高藤明神或は州崎神社と称したが、明治十一年川桁神社と改称した。明治九年村社、昭和十九年神饌幣帛料供進指定。」(『滋賀県神社誌』p79より)
※1 | 『滋賀県神社誌』や神社の境内にあった看板等々、すべての文献が東近江市萱尾町の大瀧神社を式内社の論社としている。いっぽう『式内社調査報告』が犬上郡多賀町大字富ノ尾に鎮座している大瀧神社のものとして引用した『神祇資料』や『大日本神祇志』の記述はいずれも、「川桁神社、今萱尾村にあり」、「川桁神社 今在萱尾村」となっていていて、そこで言われている「川桁神社」が萱尾町の川桁神社のことであるのは明らかである。またこのことから、『式内社調査報告』で川桁神社の項を執筆した江南洋氏が、萱尾町の大瀧神社と多賀町の同名社を取り違えていることも明らかになる。 |
※2 | 現・愛知川は中流域では流路が南から北に向かうように流れているが、愛知川町の服部町あたりで西に向きを変えはじめ、最終的に琵琶湖へ注ぐ頃には東から西に向かうまで大きく湾曲する。 愛知川下流域におけるこうした流路の変更は、平安後期の長徳二年に愛知村東部で起きた南堤の決壊によるものらしい。 |
2008.06.30
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愛知川の宿にある八幡神社で出会った石のタタキ。拝殿前のものだがちょっと面白いデザインだ。 |
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