何かが川をやってくる 「二.六月の終わり(後編)」


★「前編」の続き





 私は、この小旅行の際中、愛知川の川面を何度かのぞき込んだが、ついに川を遡上する長もんの姿を目にすることはなかった。しかしこうしてこれを書いている今、少なくともその尻尾くらいは捕まえた気分でいる。この長もんの伝承の秘密を解く鍵はいくつかあると思うが、長くなるのでその全てはとても今回のエッセイで書ききれない。だが、とりあえずその中から「川桁神社」という社名に含まれる「桁(けた)」について触れておきたい(※1)。


 式内社や国史見在社には、けた≠ニ名の付く神社がいくつかある。もっとも有名なのは能登一宮、気多大社だろうが、但馬、越中、越後、加賀、飛騨にもけた≠ニいう名の神社はある(気多、居多、気多御子、気多若宮)。また、古代地名でも但馬や遠江には気多郡や気多郷があるが、これらの神社や地名のある場所は、例外なく海か川に近い場所である。おそらくけた≠ニいう地名はそのような場所で行われた、古い時代の祭祀と何か密接な関わりがあるのだろう。これについては、中山太郎氏や折口信夫氏の古典的な研究があり、なかでも折口氏のものは、大林太良氏が『私の一宮巡詣記』の気多大社の項で長文にわたるテキストの引用を行っている、── 現在でもスタンダードな学説であると考えて良いようだ。そこで私もこれにならって、折口信夫氏による該当のテキストを引用する。



能登国一宮、気多大社
 けたとは、水の上に渡した棒で、橋の一種であるとは言へますが、橋ではないので、間のあいてゐる渡し木なのです。同時に叉、いまだにその意味を失はずに居ります。けたはまう少し形が変れば、たな ── 海岸や水中に突出したもの ── と同じ形になるのであって、ともかく、海から陸地へつなぐもので、何も土地と土地とをつなぐものではなく、それを通らねば陸地に上れない、と考えられて居りました。これがけたなので、皆水に関係のあるものなのです。湯桁なんかを考へても、叉井桁でも、水に関係のあるものだと思はれます。神は海からすぐに上るのではなく、一種の足溜りを通つて上つたらしいのです。それが、けたといふ土地が、日本の海岸地方に分布してをり、叉、古い信仰が残つてゐる理由なのです。けたといふ所は、海から陸地へ上る足溜りですから、その土地が、同時にけたと言はれます。
  ・折口信夫氏『春来る鬼』


 このように折口氏は、けた≠ニは海からやってきた神霊が地上に上陸するための足がかりであって、「海から陸地へつなぐもの」であると考えた。
飛騨の国史見在社、気多若宮神社
 このテキストだけ読むと、彼はけた≠ニは海からくる神威のためだけのものとイメージしていたようだが、じっさいにはけた≠ニいう土地や神社の分布は内陸部にも見られる。例えば、但馬国気多郡の式内社、気多神社が鎮座しているのは、円山川をさかのぼって海から20q近く入った内陸部であるし、飛騨国の国史見在社、気多若宮神社にいたっては中央高地に近い山国に鎮座している。ようするに「けた」を足がかりに来訪する神威は、かならずしも海岸線が終点なのではなく、河川があればそれを伝わって内陸部にある「けた」にまで足を延ばすのである。
 川桁神社の場合、その神霊は海からと言うより琵琶湖から来たものだが、おそらくこの神社のえん源は、こうして琵琶湖から愛知川をさかのぼって来訪する神霊=長もんを、川に「けた」をつくって迎え入れ祀ることにあったに違いない。「長もんの泊まり」の伝承群は、古代人の脳裏にあったこのような川桁神社の神霊のイメージが、半ば民話化されつつも今の時代にまで及んだもののように思われる。






   





 式内・川桁神社は比較的、論社の多い式内社である。だが、ほぼ確実に式内社ではないと言える彦根市の川瀬神社をのぞけば、それらはみな愛知川に沿って鎮座している。このうち、私がもっとも注目しているのは、いちばん上流に鎮座する大瀧神社である。すでに触れたが、この神社の近くには萱尾の滝という滝があり、地元では大滝と呼ばれていた。大瀧神社という社名もそこからきているのだろう。『近江輿地志略』によるとこの滝は「萱尾山中にあり、愛知川の源となり、巌石大石の畳みなせる体絶景なり、岩の間一町余、滝落つる所五段なり、鮎滝、中滝、なめり滝、からと滝、とぎ落し滝以上五段なり」という。今はダム湖に沈んだ神秘的なこの滝を一度は見てみたかったものだ。

 『滋賀県神社誌』(昭和62年)によれば、現在の大瀧神社は氏子数23戸、崇敬者120人となっているが、かつてのこの神社は非常に広い信仰圏をもっていた。それは愛知川のおんたくに浴する下流域全体に広がっており、このため、かつては旧神崎・愛智・蒲生の三郡にまたがるじつに159ケ村が春秋の両度に当社への初穂を献納していたという。
 それにしても、どうして当社の信仰圏は、このように愛知川の流域圏とほぼ重なるほど広がっていたのだろうか?


 当社への信仰はもっぱら、霊験あらたかな萱尾の滝をよりどころとするものであった。次のような逸話も伝わっている。

 「明治時代には10月になって稲の刈り入れが近くなると、萱尾、九居瀬の若い衆は、大滝(☆=萱尾の滝)の近くに小屋を建て、昼夜たえずこの滝を汚しにくるものを見張ったものである。それは、ここの大滝さんは非常に霊験があらたかなために、この滝を汚すと必ず川が荒れるという信仰があったためで、そのために下流の米相場師たちは、わざわざ牛の骨など隠しもってきて滝を汚し川を荒らして稲の収穫を悪くして米の相場を変えて儲けようという不心得ものがいたという。それを見張るために明治30年頃までこの月中位見張ったものである。(伝承者・辻川亀吉氏 ── 滋賀民俗学会『愛知川谷の民俗』p115より)」

 そして萱尾の滝がこんなにも神聖視されていたのは、この滝に龍神が棲まっているとされており、この龍神が愛知川の水ぜんたいを司っていると流域住民から観念されていたことによる。当社の信仰圏が下流域全体に広がっていた理由もこれである。

 「萱尾では、昔から大滝には竜神がすんでいると信じられている。そしてこの竜は蛇のようなものを想像している。そして愛知川の水をすべて司さどっていると信仰されていて毎年大滝の近くにあるビワの木に実がなる頃には、愛知川で洗いものをしたり、遊んだりすると水にはまって死ぬといわれ恐れられている。(伝承者・辻川亀吉氏 ── 滋賀民俗学会『愛知川谷の民俗』p130より)」

早春の最上川
 ここで言われている大滝(=萱尾の滝)の龍神が、「長もんの泊まり」に登場する長もんであることは言うまでもない。いっぽう、長もんが来る頃に愛知川で洗い物をすると水にはまって死ぬとか、子供が長もんの姿を見ると生き肝を取られるとかいう伝承は出羽の「鮭の大助」で、毎年10月のエビス請の日に、鮭の大助という巨大な鮭が大小幾万尾の鮭をひきつれて海から最上川を遡上し、その際、「鮭の大助、今のぼる。鮭の大助、今のぼる。」と呼ばわり、もし人がこれを聞くと即死するという伝承を連想させる。
 あるいは、『肥前国風土記』佐嘉の郡の条に、嘉瀬川の上流に世田姫という石神があり、毎年、海からワニ(鮫)が川をさかのぼってこの神のもとまで至るが、その時に海底の小魚もたくさん従ってくるといい、いっぽうでその魚を懼れかしこめば害はないが、それを捕って食べると死ぬことがある、とあるのも同断だろう。


 「長もんの泊まり」に登場する長もんは、愛知川をさかのぼるとき、べつだん、大小の小魚を引き連れていた訳ではない。しかし最近では見られなくなってしまったが(※2)、かつての琵琶湖沿岸では、梅雨が明けた頃、産卵のために魚たちが大挙して押し寄せる「魚じま」と呼ばれる現象が見られた。「魚じま」は集まってくる魚たちの魚体が水面から島のように盛り上がって見えたためこの名がついたというから、その魚群の到来はかなりすごいものだったらしい。

 この現象は自然界のリズムだけではなく、じつは人間の生産活動のそれとも密接に噛み合っていた。というのも、琵琶湖から産卵のために押し寄せる魚たちは内陸部の開田が進んでいれば、沿岸部に留まらず大小の河川をさかのぼってそこにある田にまで至ったからである。魚たちにとって水深が浅くて広闊な水田は、水温が高く、もっとも産卵に適した環境である。また田には施肥によって大量のプランクトンが発生するから、生まれたばかり稚魚の生育にとっても良かった。

 琵琶湖しゅうへんの平野部における開田は、まず水を得やすい湖岸しゅうへんから始まり、やがて河川に沿うようにして内陸部へと進んでいったと考えられている。産卵期にはいった琵琶湖の魚たちが、魚じまとなって沿岸に押しよせる現象も、こうした開田の進行とともに内陸部にも見られるようになっていたはずである。古代の琵琶湖しゅうへんにおけるこうした内陸部への魚の到来は、その地域の開田がどれだけ進んでいるかを計るメルクマールでもあったのだ。

 湖東地方の野洲川近くにある県内最大の服部遺跡では、弥生前期の水田跡が見つかっているので、琵琶湖沿岸の水稲耕作はすでにその頃からが始まっていたことになるが、そこからさらに内陸部にある下之郷遺跡からは、環濠集落の濠(あるいは堀)の中から魚を保存用に加工した時の残り滓と見られる、エラの骨や歯が大量に見つかっている。
 このことで連想されるのは、南島でもアイゴの稚魚であるスクと呼ばれる小魚が毎年、島を取り巻くリーフの内側へと大挙して押し寄せ、島民はこれを捕らえてスクガラスと呼ばれる塩辛にし保存していたという事例である。谷川健一氏の『海神の贈り物』は、こうした南島の漁民の習俗をちょっと感動的な調子でつづっている。
 スクは毎年、旧6、7月の一日前後に到来する。
 「スクがおとずれるまえは海が荒れて、夜、沖合に稲妻が走ることがよくある。そのような自然の前兆を「スク荒れ」と呼んで、漁民たちはこぞって浜を見まわり、スクを待つ。スクのおとずれるのは、たいてい夜明けの上げ潮のときで、島をとりまく珊瑚礁の暗礁(リーフ)のあたりに、数メートルの厚さにかたまったスクの大群が赤黒く見られるという。(『海神の贈物』p18)」

 島民たちはこうしたスクの到来を海神からの贈り物だと考え、それを熱望した。

 「沖縄本島の北部の漁村や周辺の島々では、スクの寄りくる日を待望し、スクの豊漁を祈願する海神祭が古くから盛大におこなわれて今日に及んでいる。海神祭はウンジャミと呼ばれているが、それはスクの種類のウンジャミと呼称がおなじである。海神祭の日取りはスクの押しよせてくる日の前後に合わせたものが多い。その祭りの儀式の中では「スクよ、寄ってこい」という祈願の言葉を発する。またスクを網ですくう所作がみられる。
 十八世紀初頭の記録には、祭りがあまりに放埒だというので琉球王府から禁止されたと記されている。それほどにスクの到来を切望する漁民の心情が、海神祭の熱狂と興奮に火をつけたのである。南島の漁民はスクを海の神の贈物として待ち受けた。そして、スクもまた漁民の期待を裏切らず、毎年旧の六、七月のついたちごろになるとならず到来した。『海神の贈物』p19〜20」

 ちなみに同じ谷川氏の『黒潮の民俗学』によれば、スクには普通のサイズの「スク」、小型の「ウンジャミ」のほか、いくぶん大きい「ティダハニスク」があり、これは沖縄本島の東にある伊計島で東の方からやってくるスクの呼び名であるという。
 そしてティダ≠ヘ太陽のことでハ≠フ羽のことであり、同書によると「太陽ののぼる水平線の彼方からやってきた小さな魚の群が浅瀬にひしめきあい、きらきらしい光景を呈しているのが、太陽の羽だという美しい形容になったとおもわれる(『黒潮の民俗学』p186)」という。
 太陽の羽≠フイメージは詩的で美しいが、しかしたんに視覚的にきらきらしいだけではなく、こここには自然界からの純粋贈与という絶対価値≠カたいのきらきらしさが感じられて感動的だ。


 それはともかく、下之郷遺跡の濠から残骸の見つかった魚たちの中には、魚じまの季節に捕獲されたものも多かったであろう。魚たちはその頃、内陸部の田圃にまでやってくるので、わざわざ琵琶湖で大がかりな漁具など用いなくても、集落ふきんの水路で手づかみして捕れたと考えられるからである。おそらく、フナやコイをはじめ、普段は琵琶湖の深いところにいて姿を現さない大型の魚類までもが水田を訪れる魚じまの季節は、琵琶湖の恵みをめいっぱい受け取る年に一度の好機として古代人の心に特権化されていたに違いない。それは南島においてスクの到来を待ちわびる漁民たちの心情に通じるものではなかったか。

 『肥前国風土記』佐嘉の郡条に登場した、ワニのさかのぼる「石神」とされる巨岩
 魚じまの見られる季節は梅雨の明ける頃だったと言われる。が、これはだいたい6月の末頃で、萱尾の滝にあった琵琶の木に、長もんが実を食べにさかのぼるのと同じ頃にあたる。南島において、海神祭の日取りがスクの押しよせてくる日の前後に合わせたものが多いことと、大瀧神社の例祭が、長もんが愛知川をさかのぼって萱尾の滝に到達する6月の終わり頃に合わせて行われることとの類似をかんあんしつつ、「鮭の大助」や『肥前国風土記』佐嘉の郡条の「世田姫」のそれをも含めて総合すると、もともと長もんは、魚じまの季節に琵琶湖の魚を引き連れて愛知川をさかのぼるとされていたのではなかったか。それが現在では伝承のその部分は脱落してしまったのである。

 南島に押し寄せたスクは島民によって、海中他界のニイラの国から訪れるものとされたとも言う。あるいは魚じまの場合も、愛知川流域で活動していた古代人の心証に同じようなものとして映ったかもしれない。湖底にある他界から年に一度、愛知川を通じて日常性を押し破って到来する聖なる威力、── そうした神威にかりそめの形姿を与えたのが、上流にある神秘な滝のところまでこの川をさかのぼる長もんだったのではないか。そこに愛知川の水を司る竜神としての神格が習合し、さらにそこから農業の守護神としてのそれが派生してくれば川桁神社の信仰が生じてくるのである。

 この長もんには何かしら懼れかしこきところがあり、川で出くわすと水死するなどと言われていたが、その反面、ひとたび愛知川の水が潤す田の広がった土地に招き入れれば稲の豊かな稔りが約束されるなどとされていたのではないか。そこは現代思想っぽく言えば、「純粋贈与の永劫回帰が大地を貫入し、その痕跡としての強度が価値増殖=田の豊穣≠ニしてそれを祝福する」というふうな思考がはたらいていたのかもしれない。
 まぁ、現代哲学はともかく、だから古代人はこの強度をもった長もんが萱尾の滝へ上る際、途中の土地にも立ち寄ってもらえるよう、各所の川畔に足がかりとなるけた≠設えて祀った。式内・川桁神社の後裔社であるという伝承が伝わる神社が、愛知川に沿っていくつも分布するようになった理由はこれなのだ。私は、その本社は萱尾の滝を神体とする最上流部の大瀧神社ではなかったかと思うが、その系列社はこうしていくつもできていた。

 おそらく式内・川桁神社の信仰は、古代にこの地域で活動していた人々が抱いたローカルなコスモス像と密接に関わっていたのだろう。それは愛知川を宇宙軸としたもので、主催者は毎年そこをさかのぼる竜神だった。

 このような信仰が始まったのはこの地域における稲作の始まりとパラレルであったろう。というのもこの竜神の原初的なイメージは、愛知川流域の開田が進み、毎年、魚じまの季節になると、琵琶湖に生息する魚たちが大挙して湖底からこの川をさかのぼり、内陸部にある田まで到達することにあったと思われるからだ。ちなみに、古墳時代の黎明期に全国でも最古級の前方後方墳、神郷亀塚古墳が築造されていたのだから、この地域における稲作の開始時期はそうとう早いものであった感じがする。
 『延喜式』神名帳の近江国神崎郡には、川桁神社と乎加神社の、たったの2社の登載しかない。が、考えてみれば愛知川の神霊である竜神を祀った前者と、当地域で最初に強い勢力をもった首長が葬られていたとみられる神郷亀塚古墳への祭祀から始まった後者の2社があれば、「祭」と「政」が揃って他の神社はいらなかったとも思える。







※1  若干の異論もあるが、式内・川桁神社はいっぱんに「かわけた神社」と訓まれている。これについて『式内社調査報告』で川桁神社の項を執筆した江南洋氏は、

「『延喜式神名考』は傍訓を「カハタナノ神社」とし、『神名帳考證』は傍訓を「カハケタ神社」としている。桁の字は音では「カウ」、訓では「ケタ」であるが、この訓みにしたがふと、『延喜式神名考』のカハタナとは訓みがたく、「カハケタジンジャ」と訓むべきだと考へられる。(『式内社調査報告』第十二巻 p200)」

としている。妥当な意見だろう。ちなみに現在の彦根市甲崎町に鎮座する川桁神社、同市出路町の川桁神社、東近江市神田町の河桁御河邊神社は、いずれも「川桁(or 河桁)」を「かわけた」と訓ませている(『滋賀県神社誌』による)

※2  滋賀県の水産試験場の技師と雑談した時に聞いた話では、魚じまはだいたい戦後数年経った頃まではまだ見られたが、その後、開発が進んだりしてなくなったという。またその方の話では魚じまはかつて琵琶湖の全域で見られた現象であり、愛知川ふきんにもあったのではないか、という話だった。ちなみに最近では湖西北部の高島町で魚じまを蘇らせるプロジェクトが進行中である。








2008.06.30





『春来る鬼』
 「折口信夫全集 第十六巻 民俗学篇2」収録
折口信夫氏
中央公論社

『日本伝説大系 第八巻 北近畿』から
 「長もんの泊まり」の項
黄地百合子氏
みずうみ書房

『式内社調査報告 第十二巻 近江国』から
 「川桁神社」の項
江南 洋氏
皇學館大學出版部
『滋賀県神社誌』
滋賀県神社庁

『海神の贈物』 谷川健一氏
小学館
『黒潮の民俗学』
 〃
筑摩書房

『愛知川谷の民俗』

滋賀民俗学会

『ビワズ通信 51』
水のめぐみ館・アクア琵琶








              




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