何かが川をやってくる 「一.天国への階段」






 建築を紹介する雑誌で、「思わず登ってみたくなるような階段」というフレーズを見かけて、感心したことがある。

 上質な空間に優美でスムーズなデザイン、── 、腕の良い建築家が設計した家にある、そんなような階段の前に立つと、無性にトントントンと登ってみたくなる。「思わず登ってみたくなるような階段」とはそうした階段を指したなかなか秀逸な言い回しである。しかし、「思わず登ってみたくなるような階段」はどうして「思わず登ってみたくなる」のか。そこにはたんにデザインの善し悪しといった以上の問題があるのかもしれない。




   




 子供の遊技のなかには、古い時代には信仰行事として行われていたものがある。ブランコ遊びもその1つだ。

 ブランコ遊びと信仰との結びつきを感じさせるもっとも古い事例は、ユーフラテス河畔にあるマリ遺跡から出土した、BC3000年代中期のブランコ遊びのために玉座に坐った女性像だろう。この像はバビロニアの豊饒の女神ニンフルサグの聖域において発見された。

 ブランコ遊びと宗教とのつながりをより強く感じさせるのは、ギリシア文化である。
 かの地からは有史以前に作られた穴の開けられた人形が多数、出土しているが、これは紐でぶら下げて揺するためのものと考えられており、マリ遺跡から出土した女性像と同じ信仰上の意義を有するらしい。

 それにしても、このようなブランコ遊びと宗教との結びつきは、どこから到来するのだろう。

 カール・ケレーニイの『ディオニューソス』によれば、アテナイ人たちによって行われるディオニューソス神とその伴侶エーリゴネーの婚姻の祭りでは、前夜祭として少女たちによるブランコ遊びの神事が行われたという。現在はベルリンの国立博物館にある古代ギリシャの黒絵のスキュフォスには、シーレーノスに押されてブランコ遊びに興じている少女が描かれているが、この神事のもようを描いたものだ。



 ニーチェが定式化した通り、理性と均衡、調和を司るアポロン神に対し、酒神であるディオニューソス神は生の陶酔的で熱狂的な面を司っている。ディオニューソス神の婚姻の前夜祭でブランコ遊びの神事がなされるのも、この遊びがディオニューソス的な高揚した生と密接に結び付いているからであろう。「ブランコ遊びは単純な身体運動であり高揚した生の喜びの表現手段であるが、それは人間の本性、というばかりか、ある程度まで動物の本性にもみられる根本的な要素の一つである。たとえば、猿たちが飽きもせずに体を揺らして遊んでいる光景を思い起こしていただきたい。これは新生児をあやす最初の遊びであって、陽気な若さのあるところなら、いたるところで見られる。(『ディオニューソス』p173〜174に引用されているFritz Boehmの『Das attische Schaukelfest』)」

 たしかにブランコを漕いでいる子供たちの表情を観察すると、どれもこれも無償の喜びに輝いている。そして、上の引用文の後でケレーニイはそれを引き取り、ブランコ遊びと祝祭のつながりについて次のように述べている。

「ブランコ遊びを行う気になりさえすれば、もう自然発生的に、また行為そのものに内在するものとして祝祭が成り立つのであり、その逆であるようなことはない。つまり普通には独立した遊びと考えられるブランコ遊びが、何らかの神話的意味を伴う祝祭にあとからつけ加えられたものでは元来なく、ブランコ遊びと祝祭は同じ神話を実現しているのである。」(『ディオニューソス』p174)」

 まわりくどい文章だが、要するにブランコ遊びは、祭礼で神事として行われようになったから二次的に祝祭的になったのではなくほんらい的に祝祭的だったというのだ。

 では何故、ブランコ遊びは祝祭的なのだろう。

「ブランコ遊びは同時にまぎれもない魔術的行為である。というのも、ブランコ遊びに興ずる者は、そのことで宙に浮いて揺れるという異常な状態、一種の忘我状態に人為的になれるからである。」(前掲書p174)」


 ここではブランコ遊びが、フワっと上昇してゆく時の独特のワクワク感によって忘我状態をもたらすため、「魔術的行為」であるとされている。そしてこうした「魔術的行為」によってそれに興ずる者は、非日常的な祝祭の時間に触れさせられるというのだ。
 たしかに子供の頃、地面を蹴ってブランコを漕ぎ始めた時に覚えた胸のすくような浮遊感には、何かしら晴れやかな祝祭的気分が潜んでいた。

 古代人がこうしたワクワク感をブランコ遊びの重要な要素と捉えていたことを示す遺物も発見されている。
 クレタ島にあるミノア文明の遺跡、ハギア・トリアダからは小宮殿に近い墓所からさまざまな遺物が発見されたが、その1つにブランコ遊びする少女を模したテラコッタがあった。このテラコッタは祭祀遺物と思われたが、少女が乗るブランコは2本の柱の間に吊されており、その上にはそれぞれ今にも飛び立とうとする鳥が表されている。ケレーニイによれば、この鳥はブランコ遊びをするときに味わう、あの胸のすくようなワクワク感の表現であるという。

 ちなみに彼は触れていないが、ブランコ遊びと祝祭のつながりを考える場合、サーカスと遊園地のことについて触れることも、的はずれではないと思う。というのも、今日でもサーカス会場のテントでは、空中ブランコが重要な演目として行われているし、遊園地で稼働するメリーゴーランドや各種のコースター類も、ある意味で「宙に浮いて揺れ」ているブランコ遊びを大がかりにしたものと考えられるからである。道化や芸人が活躍するサーカスや遊園地が、もともとは祝祭行事に起源があったのは言うまでもない。



 しかしここでの議論にとって大切なのは、さきの引用文に続けてケレーニイが付け足す次のような言葉である。

「それでもブランコ遊びにはもう一つ別の要素が含まれている。それはつまり、天空に、太陽と月に接近するという要素である。(前掲書p174)」

 この、彼が「天空に、太陽と月に接近するという要素」と述べたものが、「思わず登ってみたくなるような階段」について考える上で重要なのだ。というのもブランコ遊びは、それで遊んでいる者の身体に地上を離れ「天空に接近する」運動をもたらすが、階段もまたそれを登る者の身体に、同様のそれをもたらすからである。いや、共通項はそれだけに留まらない。誰しも何か良いことがあった時に、思わず一段とばししながらトントントンと階段を駆けあがった記憶があるだろう。そうしてそんなふうに階段を駆け上った時、子供の頃、ブランコを漕いでいるときに感じたのと同じ無償の喜びが胸の底を流れなかったか。ようするにそんなふうにして階段を登ることは、ブランコ遊びと同じく魔術的な行為であり、天空へ登るという陶酔的な生の体験なのである。

 その場合、「思わず登ってみたくなるような階段」が思わず登ってみたくなる気にさせるのは、たんにデザインが良いとかの問題ではなく、その前に立った際、「天空に接近する魔術的行為」をさせようとする祝祭の時間が流れるからではなかったか、と思い当たる。
 優れた建築家が組織した上質な空間には、しばしばハレの気配が横溢している。「思わず登ってみたくなるような階段」を思わず登らせたのは、彼の空間造形がもたらしたそのような気分だったのだ。



 いずれにせよ、ウキウキした気分で「思わず登ってみたくなるような階段」を登ることが、「天空へと接近する魔術行為」であったとすれば、「思わず登ってみたくなるような階段」は「天空に昇る階段」と同義であることになる。

【コラム】「天国への階段」雑考


 階段が天空へと接近する手段として広く認知されていることは、レッド・ツェッペリンの名曲を筆頭に、「天国への階段」という言い回しがかなり定着していることからもうかがわれる。もっとも、「天国への階段」で検索を掛けたら、『ウィキペディア』にある次のようなテキストがヒットした。


「「天国への階段」(A Matter of Life and Death) は、1946年のイギリス映画。第二次世界大戦中、飛行中に被弾し、パラシュートで降下しながら、生と死の間を体験するイギリス兵の物語。臨死体験を映画の中で扱った先駆的作品。アメリカ合衆国では「Stairway to Heaven」の題名で公開され、これがこの手のタイトルのオリジナルとなった。主演、デビィット・ニィヴン。」


 ふーんそうか、1946年に製作された映画のタイトルが嚆矢となったのか。知らなかった。しかし、図像表現としての「天国への階段」はそんな映画よりもはるかに昔からあったはずである。ちなみに1942年に製作されたエルンスト・ルビッチ監督の『天国は待ってくれる』にも、始めと終わりに天国へと通ずるゴージャスな階段が登場した。どうでも良い話だが、「天国への階段」が登場する映画の極めつけは先頃、他界した名優、丹波哲郎が監督した『大霊界』だろう。

 それはともかく、「天空への階段」の図像表現としてまず最初にあげるべきは、ピーテル・ブリューゲルの『バベルの塔』だと思う。ブリューゲルのバベルの塔は2種類あるが、いずれも螺旋状の段々になっており、明らかに階段からイメージをとられたとわかる。まさに「天国への階段」である。

 『旧約聖書』の「創世記」第11章にあるバベルの塔の伝説は、今さら説明の必要もないほど有名な物語だが、もともとはシュメール人が造ったジッグラトと呼ばれるピラミッド状の神殿建造物の記憶を反映したものと言われている。
 かつてウル遺跡からジッグラトの遺構が見つかった際、ヘルムとコルベーによって『ソロモン王の神殿と城』というタイトルでその復元案が発表された(1925年)。私はこの復元案を実見していないが、四角い螺旋状の階段型建造物がイメージされていたというから、ブリューゲルの『バベルの塔』の影響を感じさせると共に、現在、現地において復元されているウルのジッグラトとは似ても似つかないしろものらしい。

 しかし『ソロモン王の神殿と城』はル・コルビジエによるムンダネウムの美術館デザインに影響をあたえた。コルビジエによるムンダネウムの計画は結局、実現しなかったが、その構想は後に、やはり彼によってパリで計画された現代美術センターに引き継がれた。しかしこれも計画倒れに終わる。最終的に彼が、『ソロモン王の神殿と城』からインスピレーションを得て構想した一連の美術館プランを実現したのは、晩年になってから手がけた東京上野の国立西洋美術館のときである。あの美術館は「天国への階段」から発想せられたものなのだ。いっぽう、国立西洋美術館の前庭にはロダンの名作、『地獄の門』が置いてある。つまりあそこは、「天国への階段」と「地獄の門」にそれぞれに通じている場所なのだ。何だか冥府の底にあるという裁きの庭のようである。


出雲大社
 上代の日本にも「天空に昇る階段」があった。
 古代史に興味のある人なら、建設会社の大林組が発表した古代出雲大社の復元図を見たことがあるだろう。三十数階建てのビルに匹敵する三十二丈の「天下無双之大厦(てんかむそうのたいか)」。そしてそこには、社殿のかなり手前から持ち上がる壮大な階段が付いていた。私はあの復元図が与える強烈なインパクトは、高さの印象より、むしろあの階段の異常な迫力からくるものではないかと思っている。

 出土した考古資料の中には、このような梯子段のついた高殿建築の実在を示唆するものがあった。出雲に近い鳥取県淀江町に角田遺跡という遺跡がある。ここから出土した弥生期の壺型土器には、高い柱で持ち上げられた建造物とそこへ通じる長い梯子を側面から眺めた様子が線刻されており(下画像参照)、その様子は大林組が復元した古代出雲大社とそっくりである。なかんずく、その土器に描かれた梯子は、梯子とは言っても垂直に建物に登るものではなく、傾斜がつけられているので、まさに古代出雲大社の前身建物であったことを感じさす。本当に三十二丈の高さがあったかどうかは疑問がのこるし、「いくら何でもちょっと無理がないか。」と言いたいような気もするが、大林組が復元したイメージは全く荒唐無稽なものとは言えないようだ。


角田遺跡出土の土器絵画
 佐古和枝による作図。線描が薄くなっているのは、土器片の欠損部分。右端の同心円(太陽? )と船の位置関係は不確定。

★ 森浩一『古代史津々浦々』p39に載っていたものを撮影させてもらいました。


 さて、私がもし、当時の出雲大社を訪れたとする。その場合私は、社殿を正面に仰ぎ見ながら、遠くから真っ直ぐに建物へと接近してゆくだろう。そうしてあの階段の上り口まで来たら、歩みを止めず、むしろやや早足になって登ってみるに違いない、── トントントンと。文字通り「天にも昇る心地」がするに違いない。そして、そんな感じを味わわせてくれるなら、あの階段こそ、わが国における「思わず登ってみたくなるような階段」の嚆矢と呼んで差し支えないものと思っている。


 ところで上述の鳥取県淀江町の角田遺跡から出土した線刻土器だが、そこには高い柱で持ち上げられた建物とともに、そこに向かう船が描かれていた。船には4人の人物が乗り込んでおり、いずれも頭に大きな羽根飾りのようなものを付けているが、そのうち先頭と最後の2人は櫂を持って船を漕いでおり、この船が洋上を進行中であることが表現されている。
 一見してこの線刻の作者は、この船の動きを高殿へ向かうものと意識していることが明らかだが、この高殿が宗教的な施設であったとすれば、接近する船の動線と高殿についた梯子段は一本につながり、エリアーデの言う宇宙軸のようなものがそこに設定されることを思わせる。

 出雲大社では、陰暦10月11日から17日にかけて行われる神在祭の前夜祭として、10日の夜に稲佐の浜に出て神迎え祭りが行われる。
 この祭事は、海の彼方から来臨する諸神を神籬に迎えて本社に帰参し、本殿両側のいわゆる十九社に鎮めるという形をとっているが、一説によれば稲佐の浜に来訪する八百万の神々は、船に乗って到着すると言われる。その場合、もしかすると角田遺跡の線刻土器に描かれた船に乗る人物は、人ではなく、船に乗って海から訪れる何らかの神格で、出雲大社の神迎え祭と同じような神観念を表現しているのかもしれない。




   




 ところで、そのような海から来訪する神威を迎える「思わず登ってみたくなるような階段」が今でもどこかに残っていないだろうか。あったら登ってみたいものであるが、まぁ、それは無理としても、それに近い体験ができる場所がないものか。そんなことを考えて、心当たりのある場所へ行ってみた。

 静岡県熱海市上多賀字宮脇。ここに上多賀神社という神社がある。『延喜式神名帳』伊豆国田方郡に登載のある小社、「白波之彌奈阿和命神社」の有力な論社とされ、昭和33年に本殿はいごにある石群いったいを大場磐雄が発掘したところ、漢式鏡1面、素文鏡5面をはじめとした6〜7世紀代の祭祀遺物が発見されたことでも有名である。とくに漢式鏡は石群の中でも特に顕著な大石の基部から発見されたもので、この石が古代の磐座であったことを思わす。神社の北側には秀麗なフォルムをした神体山の「向山」もあり、境内には神木のケヤキの巨樹がそびえているが、この欅ふきんからも、祭祀遺物みられる素文鏡や土師器片がみつかった。

多賀神社
【祭神】伊邪那岐尊・伊邪那美尊
社頭の様子
社殿とその北に聳える
神体山の「向山」
 多賀神社しゅうへんは祭祀遺跡の宝庫である。社殿はいごの磐座や大欅の神木、そしてそこから出土した優秀な祭祀遺物の数々。社地の北には神体山の「向山」もそびえており、本文中に登場する「神の道」や「神の石」もある。

 『まつり』で大場磐雄はこうしたことを総括して次のように述べている。

「さて以上の発掘結果を整理してみよう。いったいここの祭祀はいつごろ何を対象として行われたものの跡だろうか、まず、年代は出てきた土器や鏡からみて、六世紀から七世紀におよぶものと考えられる。
 つぎに祭りの対象は? これにはいくつかの要素がある。第一は「向山」である。諸国に類例の多いこの神奈備色の山は、神の憑ります霊山として崇拝の対象となったに相違ない。第二は本殿裏の大石である。人口によって安置された石の下から数々の宝器が発見されている。おそらくこの石こそ古代人が「磐座」として、神を招き祭った霊石であったに相違ない。この石を中心としておごそかな祭儀が執行され、神に供えられた幣物類は、その下に埋納されたであろう。第三は欅の神木である。おそらくこれも神霊を招き降す霊木であって、もちろん当初のままではないから、そのひこばえであろう。<中略>そそり立つ老樹は天降ります神のよい目じるしとなったに相違ない。以上の山 ─ 石 ─ 木の自然物は、原始信仰の対象としてのマナ(霊質)をそなえている。それが合体したところに古代祭祀の遺跡が発見されているのである。問題はおのずから氷解するであろう。『まつり』p169」

 社殿背後にはご神木の大欅があり、圧倒的な存在感がある(上画像)。

 かつての発掘調査で基部から貴重な祭祀遺物が発見された石群も同じ場所に祀られている(下画像)。


 さて、この神社はバスなども通るやや広い道に面しているが、道を挟んで反対側に、下にある海から通じた細い路地がある。地元ではこの道を「神の道」と呼び、次のような伝承を伝えている。


 「昔、神様が上多賀の戸又の海岸に漂着されたとき、鈴木某が熊ヶ峠より青草を刈ってきて海岸に敷き、やがて神社のところまで案内したといい、その神様がお通りになったという道が「神の道」と呼ばれて残っている。例祭の神輿渡御には必ずこの「神の道」を通らねばならないとされていた。御浜にはかつて「神の石」と呼ばれる石があったが、割れたため、現在の石に代えられた。(『日本の神々10東海』p325〜326)」

 私は神社を参拝してから、「神の道」を下にある小さな漁港まで下りてみた。神社から漁港まで2〜300mくらいで到着する。海外沿いは国道が走っているのだが、「神の道」はその下を小さなボックス・カルバートで抜いており、ちゃんと海にまで到達できるようになっていた。また、国道に隣接した駐車場には祭礼で使う「神の石」がおもむろな感じに転がしてあった。


 今度は海から神社の方へと「神の道」を登ってみる。道の両側は民家が建て込んでおり、「神の道」はその間を縫うようにして続いている。率直に言えば、何の変哲もないごくありふれた道である。「神の道」とは言っても特別なものは全く感じられない。




「神の道」
 「神の道」を登りながら写していったもの。見れば分かる通り、全く何の変哲もない道。

 一番下の画像には、遠景に多賀神社の神木の大欅が写っている。





 ただ私は、こういう路地が好きで、旅先で雰囲気の良い路地に出会ったりすると、目的地まで遠回りになるのも厭わずに寄り道してしまうことがよくある。そうした経験から言うのだが、概して古くからある生活と秩序をにじませた良い路地というのは、下町か海に近い集落にある場合が多い(国内でも海外でも)。東京の下町にある戦前の小津安二郎の映画に出てきそうな路地なども良いし、離島の小さな漁港でたまたま出会った路地なども妙に記憶に残ったりする。

 こうした路地の魅力というのは、建築家の中にそれを研究してアーバン・デザインに活用している人もいるくらいなので、別に私だけが感じる特別なものではないが、いずれにせよ、「神の道」も海に近い場所にあって、そういう魅力的な路地の一つだと言える。

 総じて、尾道やギリシアの離島にあるそれなどを思い出してもらうと分かるが、前に海が控え背後に山が迫っている土地の集落にある路地は、階段があることが多い。「神の道」も、海に面し背後には山が迫っている土地にあるので、ところどころ階段があってもおかしくないのだが、しかしじっさいにはそれがない。この道は平面的には結構くねくね曲がっていて見通しも効かず、道幅もところどころでまちまちなのであるが、これに対し、縦断的には海岸から神社のところまでは比較的一貫して、緩やかな傾斜が持続するのである。こうしたスムーズさは、海からの祭神を迎え入れるのに全くふさわしいもののように思われる。そしてそうしたスムーズの上に、「思わず通り抜けたくなるような路地」の魅力がさらに付け加わるのだ。

 多賀神社の西側は大川という川が接している。この川はまるで「神の道」を伴走するかのようにそれと平行して流れているのだが(直接には接していないが。)、私は各地の伝承や神祇祭祀の事例などを考えるに、当社の祭神はほんらい、この川を遡って磐座のところに来訪したのではないかと思う。その場合おそらく、祭神が「神の道」を通って海から遷座してきたという伝承は、「思わず通り抜けたくなるような路地」の魅力に、神が自発的、かつ、スムーズにそこを通過すると観相して付け加わった、新しい伝承だと思うのである。もっとも、海から来た祭神が、地上に上陸してから抵抗なく路地に吸い込まれ、ゆるやかなスロープをすすーっと登って磐座のところまで到達する、という思いつきには、神威に対して丁寧であった古い時代の細やかな神経を感じるが。

 こうした「神の道」の機制は、角田遺跡から出土した土器に描かれていた、海から到着する船とそこに控えている高殿の「思わず登ってみたくなるような階段」の取り合わせと通ずるものを感じる。そんなことを考えながらこの道を上ると、このありふれた路地が、なかな玄妙な空間であるように感じられた。人を魅了する路地や階段による空間造形は日本だけのものではないが、わが国では人だけではなく、神もまたそうした空間に惹き付けられたのだ。


 大川。右側の樹木があるのが多賀神社の境内。















2007.02.11



主な参考文献

『ディオニューソス』
カール・ケレーニイ/
 岡田素之訳
白水社

『まつり』
大場磐雄 学生社

『式内社調査報告』第十巻から
 「白浪之彌奈阿和命神社」の項
伊藤勇人
皇學館大學出版部

『日本の神々10東海』から
 「多賀神社・下多賀神社」の項
木村 博
白水社

『古代史津々浦々』
森 浩一
小学館



       










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