05.紙の月




 『紙の月』は映画史の話です。興味のない人は、『月影秋池に満つ』に進んで下さい。








 こうした水面に映った月影のイメージに対する日本人のこだわりはどこからきたのだろうか。


 こうしたこだわりについて宮元健次は、京都の三条万里小路にある「掬月」、慈照寺(銀閣寺)の「洗月泉」、桂離宮の「月波楼」などの例をあげたうえで次のように述べている。



 なぜこれほどまでに水面に映る月影にこだわったのだろうか。おそらく月の虚構性の強調にあったのではないか。すなわち太陽がそれ自体発光する「実体」であるのに対し、月は太陽の反射光で光る「虚構」である。そのはかなさこそ、月の魅力である。虚構である月がさらに水面に映った様に、「もののあはれ」を感じたに他ならない。

 光文社新書 『月と日本建築』p136




 月と虚構性 ──。たしかに反射光で光る月には、どことなく虚構めいたイメージが感じられなくもない。だが、例えばわが国には古来、月を詠った詩歌のたぐいがかなりたくさんあるのだが、その中で果たして、月に「虚構性」が仮託された例があったろうか。

 西欧のロマン派の時代には、月がロマン派特有の感情である「憂鬱」と結びつけられて考えられていた(「憂鬱な気分にさせる。」 ── 『紋切型辞典』フローベール)。このため、当時、流行していた文学や美術等にとって、月は欠かすことのできないアイテムであったが、そこに出てくる月はいかにも文学的な味付けを感じをさせるものである。これに対し、わが国においても古くから歌に月を詠ったものがあるが、例えば『万葉集』にあるそれから感じるのは、上代の日本人にとって月がほとんど心臓の鼓動の音のように身近な存在であったと言うことであり、その素朴な歌にポーズなどほとんど感じられない。これはロマン派の月の場合とかなり対照的である。ましてやそこに、「虚構性」の主題など、みとめられそうもない。

 『万葉集』以降で、八代集等に登場する月を詠った歌には、山の端や雲の谷間から月が現れるのを待ちわびるもの、現れた月に対する率直な共感を詠ったもの、あるいは、今、かたわらにいない伴侶や恋人をそれに託して思いやるもの、旅の空での都への望郷の念を詠ったもの等々があり、それらはいくつかのパターンに分けて分類出来そうなくらいコード化が進んでいる。だがいずれにせよ、やはりそこに「虚構性」の主題は確認できないようにおもう。

 いっぽう、文化人類学的にみると、上代の月には古い時代の自然宗教に由来するらしき禁忌や信仰があった。『竹取物語』には月を眺めるかぐや姫に対し、家人が「月の顔見るは忌むこと」と制止する箇所があり、『後撰和歌集』『源氏物語』『更級日記』等にも同様なタブーがあったことを示す箇所がある。また、これとは逆に、満ち欠けを繰り返す月には、ネフスキーや石田英一郎の研究で知られるように、不死や再生のイメージもあった。それからまた、つき≠フ古語はつく≠ナ、つく≠ニは憑く≠ナあったとみられる。つまり月には憑依するもの、ということはしばしば、狂気をもたらすもの、という観念もあった。
 さらにまた、記紀神話の月読尊には穀物神とか、海神としての著名な神格がみとめられるし、月と女性原理の間に密接な関係があるという信仰は、全世界の原始文化が共有するものなので、古代の日本にもあったとおもわれる。

 いずれにせよ、こうしてみるとわが国古代の月のイメージは必ずしも一定したものではなかったが、少なくともそこに「虚構性」が仮託されたケースはなかったのではないか。

 そうじて私は宮元氏のように、月に虚構性をみようとする立場は、以下のような理由で、わりと近代になってから発生したと考えている。古代史から話は逸脱するが、これについて触れてみたい。






  およそ私の知っている限り、文芸の世界に虚構としての月がもっとも鮮烈に登場した例は、テネシー・ウィリアムズの戯曲、『欲望という名の電車』第六場でブランチが歌う『ペーパー・ムーン』だとおもう(※1)。





たとえペーパー・ムーンでも
海は厚紙細工でも──
嘘もまことになるものよ
私を信じたら!
たとえサーカス芝居でも
どんないかさま芝居でも──
嘘もまことになるものよ
私を信じたら!
愛がなければ
安キャバレーの浮かれ歌!
愛がなければ
ゲームセンターのはやり歌!
たとえペーパー・ムーンでも
どんないかさま芝居でも──

   『欲望という名の電車』
   小田島雄志訳 新潮文庫

 



 あら筋を説明すると、『欲望という名の電車』はニューオーリンズのダウンタウンに、主人公のブランチが妹夫婦を訪ねてくる場面からはじまる。

 ブランチはもともと、アメリカ南部の大地主の娘であったが、新しい時代の波にもまれて先祖伝来の大農園を失っている。彼女の内面はもっぱら、裕福で華やかだった少女時代の夢に満たされているのだが、こうしたことは実生活への適応にとって障害となり、外部の現実と、内面における夢のギャップを埋めるために、彼女の言動には著しい虚言癖が表われている。例えば、ブランチはまだ少女だった頃、一度、結婚していたのだが、それは残酷な破局を迎えて終わっている。しかしニューオーリンズに来てからできた新しい恋人には、過酷なものであったはずのその結婚を、甘くロマンチックなものにすり替えて吹聴したりするのである。

 ブランチは自分の来訪について、故郷の街で国語の教師を務めていたが、農場を失って神経が疲れたので職を辞めた、自分には休養が必要なので、あなたたちを頼ってこうしてここに来た、などと妹夫婦に説明する。だが実際には、大農園を失ってからの彼女は、行きずりの男を手当たり次第、自分の宿へと誘い込むような生活を送っていたのであり、その行状が目に余るため宿を追い出されて、ニューオーリンズの街までやって来たのである。こうした彼女の虚言癖は、劇中のある箇所で劇的に明らかにされるが、その後、恋人を失い、対立していた妹の粗野な夫、スタンリーから暴行を受けたブランチは精神が引き裂かれて最後には破滅してしまう。

 ブランチが『ペーパー・ムーン』を歌うのは、この彼女の虚言癖が明らかにされる『欲望という名の電車』でもっとも有名なシーンである。その時、彼女は舞台の奥にあるバスルームでシャワーを浴びていると言う設定であり、上演中は直接、観客にその姿を見せない。そのシーンで舞台上にいるのは彼女の妹夫婦で、夫が同僚から聞いたブランチの風評を妻に報告する形で、彼女の虚言癖が明らかにされる。ここでは、彼女の歌う甘ったるい『ペーパー・ムーン』の歌詞と、じっさいに彼女が送っていた零落した生活を報告する夫の言葉が、「対位法のような効果」をあげ、月が虚構の同義語として鮮烈に登場する。そうして宮元氏は、このような月の虚構性を、「太陽がそれ自体発光する「実体」であるのに対し、月は太陽の反射光で光る「虚構」である。」としている訳だ。

 しかしながら、月がそれ自体で発光せず、太陽光で光るからといって、ただちに虚構性と結びつくものだろうか。およそ、よそから借りてきた光で輝く月の存在から、私が第一義的に連想するのは、虚構性と言うよりも、むしろ、受動的で自分の意志のはっきりしない態度なのである。むろん、そうした態度が虚構性と結びつくことがありえないと言い切れない。じっさい、ブランチの人生は嘘で固められた虚構のものであるとともに、受動的なものでもあった(舞台上での彼女の最後の台詞は、「私はいつも見ず知らずのかたのご親切にすがって生きてきましたの。」である。)。したがって、受動性と虚構性は『欲望という名の電車』においては、たまたま、ブランチを介して結びついている。だが、そうは言っても、自分で光を出さないと言う理由だけで、月がただちに虚構性と結び付くと言うのは、いささか論理の飛躍を感じさせないだろうか。月に虚構性が仮託されるには、反射光で光ると言うことの他に、さらなる他の契機が必要ではなかったか。

 自伝的な『ガラスの動物園』で、彼自身がモデルとなっている青年は映画館に入り浸っているが、そうじて私は『欲望という名の電車』を書いたテネシー・ウィリアムズと言う劇作家は、ハリウッドとの繋がりが非常に強かったことで特筆される人だとおもう。

 ハリウッドには、わりと早い時期から脚本家として自国の有名な文学者を使う例があり、例えば、フィッツジェラルド、フォークナー、カポーティ、ナボコフ、テリー・サザーン等は、このようなハリウッドのために仕事をした作家たちである。それらは必ずしも自作が映画化された場合だけとは限らなかった。フォークナーがホークスの『脱出』(ヘミングウェイ原作)及び『ピラミッド』、チャンドラーがヒッチコックの『見知らぬ乗客』(パトリシア・ハイスミス原作)、ブラッドベリがヒューストンの『白鯨』(メルヴィル原作)のために、それぞれ脚本を執筆したことは有名である(ただし、チャンドラーの書いた『見知らぬ乗客』の脚本はボツになった。)。また、小説家だけではなく劇作家の中にも、ヒッチコックの『疑惑の影』の脚本を手掛けたソーントン・ワイルダーのように、図抜けた仕事で記憶されている人たちがいる。

 テネシー・ウィリアムズもまた、ハリウッドの要請で自作の映画化のために脚本を提供したり、あるいは映画化を目的にオリジナル脚本を執筆した作家の1人である。だがしかし、彼の場合、自作が映画化された回数は、他の作家達と比較してきわだって多い。新潮文庫の『欲望という名の電車』にある訳者後書きを参考に、彼の作品で映画化されたもののリストを作ると以下のようになる。


ウィリアムズによる原作 映画化題名    
『ガラスの動物園』(1945) 『ガラスの動物園』(1950)
『財産没収』(1945) 『雨のニューオーリンズ』(1966)
『欲望という名の電車』(1947) 『欲望という名の電車』(1951)
『夏と煙』(1948) 『肉体のすきま風』(1961)
『ストーン夫人のローマの春』(1950)
 ※小説
『ローマの哀愁』(1961)
『バラの刺青』(1951) 『バラの刺青』(1955)
『カミノ・レアル』(1953)
『熱いトタン屋根の猫』(1955) 『熱いトタン屋根の猫』(1958)
『地獄のオルフェ』(1957) 『蛇皮の服を着た男』(1960)
『この夏突然に』(1958) 『去年の夏突然に』(1959)
『青春の甘き小鳥』(1959) 『乾いた太陽』(1962)
『イグアナの夜』(1961) 『イグアナの夜』(1964)
『牛乳列車はもう止まらない』(1963) 『夕なぎ』(1968)

 がいして私は、人がウィリアムズの戯曲について語る時、舞台上の公演とともに、映画でそれを観た記憶を語る場合が多いように感じているのだが、このリストを見ると彼の戯曲のほとんどが映画化されているので、それも当然だったとわかる。比較的多作でありながら、これほどまでにその作品の多くが映画化されている劇作家というのは、シェイクスピアを除けばウィリアムズしかいないのではないか(※2)。

 これらの映画はほとんどが当時における一流のスタッフとキャストで映画化され、『欲望という名の電車』『去年の夏突然に』『蛇皮の服を着た男』『夕なぎ』『雨のニューオーリンズ』等は、往年の映画ファンの間でそれなりに知られている。私は舞台の作品を映画化した映画が、どちらかと言うと苦手で、監督や脚本家がどんなに苦心して翻案したものでは、やはりどことなく「舞台っぽい」不自然さを感じてしまうのだが、ウィリアムズ作品の映画化は、不思議とそういう感じをあまり抱かせない(無論、上の表にある映画を全部、観て言っている訳ではないが。)。それどころか、例えば『欲望という名の電車』など、映画化によって、舞台の時にはなかった新しい生命がそこに吹き込まれているのを感じさすのである。おもうに、こうした映画との相性良さは、彼の戯曲の持つ叙情性がすぐれて映画的なものであることが大きいのではないか。例えば、『欲望という名の電車』に出てきたニュー・オーリンズのダウンタウンの路地や安アパートの内装などの美術は、いかにも映画的な魅力を感じさせるもので、映画以外の芸術では表現できない詩がある。
 だが、それにして、ウィリアムズのように映画との関係が幸福である作家と言うのは、意外と珍しい。

 最近、自作を映画化した『サイダーハウス・ルール』の脚本で、ジョン・アーヴィングがオスカーを受賞しているが、こう言うことはむしろ例外的なケースで、莫大な借金を返すためにハリウッドに身売りしたフィッツジェラルドは、マンキーウィッツと大喧嘩をしているし、チャンドラーが書いた『見知らぬ乗客』の脚本はヒッチコックから、ナボコフが書いた自作の『ロリータ』の脚本はキューブリックから、それぞれこき下ろされている。総じて、高名な作家であればあるほど、ハリウッドとの関係は不幸な結果に終わることが多く、また、作家の側でもハリウッド人種との付き合いが肌に合わないことや、ハリウッドと関わることで才能が食い尽くされることを警戒し、「映画の都」への深入りを避けているような気がする。そしてそうしたことを考えれば、ウィリアムズのように、作家としての人生を通じてほぼ途切れなく映画との関わりが続いていた人はわりと特異なのである。

 だが私は、ウィリアムズの戯曲と映画とのつながりの深さには、たんに映画化の回数が多いなどと言うことだけでは量りきれない、もっともっと深い何かを感じる。と言うのも、ウィリアムズ作品と映画とのつながりは、そうした量的な面だけでなく、質的な側面からみても注目すべきものがあるからだ。そのことがもっともよく表れているのが、実は『欲望という名の電車』である。

 そもそも、南部の富裕な地主階級出身で、感受性が豊かで美しく多情な女と言うブランチの人物像には、『風とともに去りぬ』のスカーレット・オハラを連想させずにおかないものがある。ブランチとステラと言う姉妹も、『風とともに去りぬ』のスカーレットとメラニーの2人(姉妹ではないが)から着想を得ているのではないか。だから、明らかに『欲望という名の電車』執筆にあたってウィリアムズは、この小説の影響を受けたのだ。が、『風とともに去りぬ』と言えば原作の小説と同じくらい、1939年に製作されたヴィクター・フレミング監督の映画でも有名である。今でもそうだが、ウィリアムズが『欲望という名の電車』を執筆していた当時、すでに、ハリウッドの伝説的なタイクーンであるセルズニックが社運をかけて製作したこの超大作を抜きにして、オハラのイメージを想起することは困難になっていたのではなかったか。だから、彼による『欲望という名の電車』執筆の背景には、もともと映画のイメージがあった可能性が高いのである。

 もっとも、ブランチとオハラには共通点も多いが、相違する部分も少なくない。なかんずくブランチには、オハラのもつ、あの大地に根ざした強さが欠けている。烈しく感じやすい内面が災いし、最後には精神が引き裂かれて破滅してしまう、ブランチのきわめて叙情的な人物像には、オハラの、と言うよりも、むしろヴィヴィアン・リーの面影がある。

 リーは言うまでもなく、『風とともに去りぬ』でオハラ役をつとめた女優であるが、映画化された『欲望という名の電車』でもブランチ役をつとめ、これも名演として名高い。つまり、『欲望という名の電車』と『風とともに去りぬ』は、リーを介して結ばれているのである。
 映画版『欲望という名の電車』の監督、エリア・カザンは、当初、この映画のブランチ役には、舞台でもそれをつとめたジェシカ・タンディを起用する予定であった(カザンは舞台初演の際の演出家であった。)。結局、ワーナー・ブラザース社が彼に、ブランチ役には有名女優を起用するよう通告してきため、やむなくリーがブランチ役に登板されたと言うから(※3)、映画で彼女がブランチ役を演じるようになったのは偶然だった感じもする。だが、果たしてそう言いきれるだろうか。

 私はハリウッド黄金期の女優の中では、リーにもっとも興味を感じるのだが、彼女はかって、夫だったローレンス・オリヴィエとの不和が原因で、神経性の障害を起こして入院すると言う事件を起こした。淀川長治によると、彼女の入院は衆人環視の中で救急車に担ぎ込まれると言うような状況だったらしい、── が、だとすればそれは、あまりにも『欲望という名の電車』の幕切れに似ているではないか。こうしたことは私に、ブランチの人物像の中にはスカーレット・オハラとともに、映画でオハラを演じて、役柄と俳優の個性に区別が付けられなくなる程、オハラのキャラクターと一体化してしまっているリーと言う大女優の記憶が混入していることを感じさす。『欲望という名の電車』が、『風とともに去りぬ』以外では数少ない(他は『哀愁』くらいか。)、映画でのリーの代表作となったのも、ウィリアムズがブランチと言う人物を創造した際、もともとリーの血を彼女に注いでいたのだとすれば、けだし当然である。カザンは『欲望という名の電車』の映画化以前から、ウィリアムズと親交があったが、彼がこの映画を撮る際に、ブランチ役としてリーの登板を決定する上では、こうしたことに対する何らかの洞察があったのではないのか。

 このほか、『欲望という名の電車』のブランチとステラと言う姉妹は、なんとなくロバート・アルドリッチ監督のカルト映画、『何がジェーンに起こったか?』に出てくるブランチとジェーンの姉妹を演じたジョーン・クロフォードとベティ・デイヴィスを連想させ、そこからさらに、リンゼイ・アンダーソン監督の『八月の鯨』に出てくるベティ・デイヴィスとリリアン・ギッシュの姉妹、『見えざる敵』を始めとしたD・W・グリフィス監督作品への出演によって有名な、リリアンとドロシーのギッシュ姉妹(これは本当の姉妹です。)、あるいはロバート・アルトマン監督の『クッキー・フォーチュン』におけるグレン・クローズとジュリアン・ムーアの姉妹を連想させる。ここではもちろん、そうした映画史内部への煩瑣な考証へは深入りを避けるのだが(※4)、こうしてみるとアメリカ映画史の本流には、「南部出身でどちらかが精神のバランスを崩している場合のある姉妹の系譜」と言う、いささか奇妙な流れのあることに気付かされる。そうして『欲望という名の電車』と言う戯曲作品は、あたかも初めから映画化されて、映画史に残る作品となることを運命づけられていたかのように、すぐれてそうした系譜の内部に収まるのだ。およそ、映画史との関係をこれほど深く取り結んだ戯曲と言うのは他にちょっと考えられないのではないか(※5)。

 話を「月と虚構性」にもどす。映画との繋がりが深かったテネシー・ウィリアムズの作品には、しばしば印象的な月が出てくるのだが(『ガラスの動物園』のハイヒールのような三日月=A『欲望という名の電車』は最初、『月光の下のブランチの椅子』と言う題名で書かれ始めた等々)、彼の作品の中でもとりわけ映画との関わりが著しい『欲望という名の電車』において、彼がブランチの浸かっている虚構の世界を仮託したのはペーパームーンであった。単なる月ではなく、ペラペラの材質で出来た紙細工の月であった。とすれば明らかではないか。ここで月に虚構性が仮託されるのは、たんに月が反射光で光る受動的な存在であると言うだけではなく、反射光で光るその特性に、スクリーンに画像を投影する映画システムのメタファーを見たためなのである。
 その場合、月に虚構性を見る立場は、産業革命以後、欧米で発達した大都市で生みだされるイメージが、映画によって大量に複製され、内燃機関で動く交通機関によって各地に運ばれて消費される文化状況と関係深いことになる。してみると、文化史の地平上に虚構としての月が昇るのは、早くとも19世紀末になってからなのだ。

 いっぽうこれに対し、すでに見てきたとおり、わが国では遅くとも平安期には、貴族たちの間で庭の池などに月影を映して観照することが流行していた。したがって、日本人が水面に映った月影に愛着を寄せた理由は、その虚構性の強調にあったとはおもえない。では、再度、問い直そう。わが国の文化史にみられる水面に映った月影のイメージへの偏愛は、どこにその源流を求められるのか。



          






【コラム】リー

  映画『風とともに去りぬ』の撮影は、度重なる監督の交代劇がある等、非常に難航した。しかも最初は主演女優さえ決まっておらず、このため、北軍の攻略を受けて炎上するアトランタの町を、レットがスカーレットとメラニーを乗せた馬車で脱出する前半のクライマックスは、代役を使って撮影に入ったそうである。ヴィヴィアン・リーはそのシーンの撮影の時、撮影所に見物な来ていた観客の中から発見されたと言うが、ウソのような本当のエピソードだ。

 映画『欲望という名の電車』の創造者であるカザンとウィリアムズの2人は、それぞれの自伝でヴィヴィアン・リーについての印象的な言葉を残しているので紹介しておこう。


 「フランキーの晩年の最後の日々、ヴィヴィアンはパーティを開いて、彼を招待した。
 フランキーにとっては最後の外出だった。
 ヴィヴィアンはこの晩さん会をすべて彼を中心にすえて進行させた。その直感的ともいうべき思いやりは、彼女の懐かしい思い出としていつまでも心に残るだろう。しかも彼女はそれをじつにさりげなくやってのけたのだ・・・・・・
 狂気の心理を知っている彼女には、死期の近づいているときの気持ちがわかっていたのである。
 その彼女にもまた、死期が近づいていたのだが、まだ誰もそれを知らなかった・・・・・・」
  ・『テネシー・ウィリアムズ回想録』 鳴海四郎 訳


  『欲望という名の電車』撮影の前、カザンはリーと面識がなく、撮影に入ってからも最初はあまりそりが合わなかった。しかし、


「わたしたちはだんだんお互いが好きになり始め、急速に親密の度を加えていった。仕事が終わる頃には、わたしはすっかり感嘆させられていた。彼女は才能にはさして恵まれていなかった。だが、わたしが知っているどんな女優にもまさる最高の決断力を持っていた。演技に必要だと思えば、割れたガラスの上を這うこともいとわなかったろう。」
  ・『エリア・カザン自伝』佐々田英則・村川英 訳



 リーは映画版の『欲望という名の電車』に主演後、ロンドンでもブランチ役で舞台に立っている。出演作が減った晩年にも、ウィリアムズの小説を原作にした映画『ローマの哀愁』で若い頃のウォーレン・ビーティと共演した。彼との縁が深かった女優の1人といえよう。



【コラム】ペーパームーン

  『ペーパー・ムーン』と言うと、映画好きな人は同題の映画作品を思い出すかもしれない。大恐慌時代のアメリカで、未亡人を相手に聖書を売りつける詐欺師のモーセと、ひょんなことから彼が引き取って一緒に旅することになった少女、アディーの物語で、この2人をライアンとテイタムのオニール親子が演じている(もちろん本当の親子)。テイタムはこの映画のアディー役で、1973年度のオスカー助演女優賞受賞者となった。史上最年少であったと言う。

 この映画にはジョー・デヴィッド・ブラウンという人の原作があり、原題は『Addie Play』である。題名が『ペーパームーン』となったのは、監督のピーター・ボグダノヴィッチが「何だか蛇みたいな感じのする」この題を嫌い、そうしたところで劇中に流す当時の流行曲の候補を聴いていたところ、その中に『It's Only Paper Moon』があったので、そこから題を取ったと言う。なお、アディーが遊園地へ行った時、紙で作られたハリボテの三日月に腰掛けて記念撮影をするエピソードは原作にないもので、監督によるこの題名の変更を受けて、脚本のアルヴィン・サージェントが巧みに付け加えたものらしい。

 それはともかく、『It's Only Paper Moon』は1930年代の流行歌で、『欲望という名の電車』でブランチが歌っていたのもこの曲である(映画『ペーパームーン』のオープニングには、当時の音源からこの曲が流れている。)。ボグダノヴィッチと言う監督は欧米では監督としてと同じくらい、映画史家として知られている人で、オーソン・ウェルズへのインタビュー集等、映画史関係の著書も多く、大学で教鞭をとっていたこともある。監督になったのも、撮影所で仕事をしながらコツコツと技術を身につけて監督になったと言うのではなく、映画好きのインテリがその熱がこうじて自分でも映画を撮るようになったと言うような経歴からだったらしい。とにかく、この歌が『欲望という名の電車』の劇中でブランチのを歌う歌であったことなど、そうした彼であってみれば、とうぜんに知っている訳で、この歌から自分の映画のタイトルを取るにあたっては、明らかにそうした事実に対して意識的だったとおもわれる。したがい、ここにも紙の月≠ェ映画と顕著に関わっている事例が見つかることなろう。

 なお、この曲が流行していた1930年代は、大不況があったりはしたが、ハリウッドがもっとも輝いていた黄金期であり、映画を愛する人にとっては郷愁を誘われる時代である。ボグダノヴィッチがこの時代を舞台にした映画を撮った背景には、こうしたシネフィルらしい郷愁があるのである。

 『紙の月』でもう一つ気になるのは、アンドレ・マルローの処女作が『紙の月』と言うタイトルの短編小説であることだ。後に『征服者』とか『王道』を書いた彼からは考えられない、ダダ風の作品で、次のような冒頭から、イメージの奔流が猛り狂うようにあとからあとから湧き出てきて、読者を驚かせる。

ネオンサインさながらに、黄色い月が赤、青、緑とつぎつぎに色を変えた。やがて、パーン!と音がして、ふたたびもとの黄色にもどった。鋭い音がひとつ、小さな蛙のようにそこから落ちた。すると、湖面に、光沢を放つ波紋の輪模様が限りなく広がった。
 水面に漂っていたコルク栓がびっくり箱に変わると、そこからひげもじゃのオーヴェルニュの山男が跳び出し、 ──

 『風狂王国』アンドレ・マルロー 堀田郷弘・訳 福武文庫p61

こうしたイメージの連射には、初期の時代に製作された映画を連想させずおかないものがある。この作品が発表されたのは1921年であるが、なかんずく、その3年後にルネ・クレールが監督したバレエ『休演』の幕間のための映画をはじめとする、当時のアヴァンギャルド映画の影響を強く感じる。「空想の美術館」の館長であるマルローが、若書きとは言え、『紙の月』の題名でこうした作品を書いていることは、やはり映画と紙の月≠ニのつながりを感じさせる印象的な事例である。






※1   『ペーパー・ムーン』は1930年代の流行歌で、「虹のかなたに」で知られるハロルド・アーレンの曲である。『欲望という名の電車』はこの曲を引用しているので、とうぜん、歌詞じたいはウィリアムズのものではない。原題は『It's Only Paper Moon』。 
 
※2  映画との関わりが著しい劇作家としては、他に近年のデビット・マメットやサム・シェパードの例があげられるかも知れない。だが、マメットの場合の映画とのつながりは、主として彼が映画の監督をすることにあり、また、シェパードの場合のそれは、彼が役者として映画に出演することにあるとおもう(あるいは、彼の妻がメリル・ストロープである(あった?)ことにあるとおもう)。彼らの作品自体は、ウィリアムズの場合と比較して、とくだんにストーリーや情感が映画的とは思えない。
 
※3  ブランチ役いがいの、スタンリー役のマーロン・ブランド等は、舞台とだいたい同じ配役である。
 
※4  本文で避けた映画史への考証をもしも書いたとなったら、次のようなことに触れていたとおもう ──

 『何がジェーンに起こったか?』の原作者、ヘンリー・ファレルは、フランソワ・トリュフォー監督が『アメリカの夜』の前に撮った『私のように美しい娘』の原作者で、『アメリカの夜』はリリアンとドロシーのギッシュ姉妹への献呈が冒頭にある。また、アルドリッチは、トリュフォーを始めとするヌーヴェル・ヴァーグの作家たちがとりわけ好んだアメリカの監督の1人であり、『何がジェーンに起こったか?』のジェーンは、リリアン・ギッシュと並んでサイレント期アメリカ映画の大スターだったメアリー・ピックフォードをモデルにしているが、ギッシュ姉妹もまた、子役として幼いときから舞台に立っていた点で、ブランチとジェーン姉妹のモデルとなったことを感じさす。『八月の鯨』を監督したリンゼイ・アンダーソンは、欧米では、監督と言うよりも、映画史に造詣の深い批評家として知られているらしいが、彼がこの映画でベティ・デイヴィスとリリアン・ギッシュを姉妹役で共演させるにあたっては、このような映画史的記憶への配慮があったとおもわれる等々。
 
※5  数年前に『ハリウッド的殺人事件』と言う映画が公開されていたが、そこに俳優志望の若い刑事が、映画界への足がかりをつくる目的で、自分が出演している劇に映画プロデューサーを観客として招待するエピソードがあった。そして、この劇と言うのが『欲望という名の電車』だったのである(彼はスタンリー役で出演していた。)。映画全体の筋書きとはたいして関わりのない扱われ方だったものの、このことはハリウッドにおいて現在でも、『欲望という名の電車』が映画界と関わりが強い戯曲であるとのイメージがあることを示しているようにおもう。



 お疲れ様でした。


2005.12.29






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