水面に映った月影、或いは偉大な都市の魅惑




── イメージの考古学 ──



 イメージに惹かれる性分です。子供の頃から、写真集やポスター、映画はもちろん、雑誌や広告、図鑑類に載った写真等々、どんなイメージであれ、それを眺めるのが好きでした。逆に言えば、イメージに対してそれだけ受け身であったことになり、何か特定のイメージに囚われて、それを追っかけ回したりしたことはこれまでのところなかったです。

 ところが、昨年の秋から今年の夏にかけて、水面に映った月影のイメージに興味を持つようになり、このイメージの遺跡を訪ねていろいろな土地を旅したり、文献を渉猟したりするようになってしまいました。こんなことは初めてです。
 折から、特定のイメージを縦糸にしながら、横糸として古代史や神社や民俗学のことが絡んでくるようなものを書きたいと思っていたので、今回、この『水面に映った月影、或いは偉大な都市の魅惑』という連作エッセイを書くことにしました。

 それにしても、どうしてそんなもの、書く気になったのか。それにはだいたい次のような動機があります。
 イメージには何となく、物と比較して一時的で、もろく儚いというイメージ(イメージのイメージ≠ナす。)があります。が、いったいこのことは全てのイメージに当てはまるのでしょうか。

 昔の日本の幽霊には足がありました。では、現在みられるような足のない幽霊がいつ頃から出没するようになったかと言うと、円山応挙が足のない幽霊を幽霊画に描き、それが一般に広まってからだと言われています。

 英語のタンブリルはほんらい、農場用の馬車のことで、昔はどうと言うことのない普通の言葉でした。ところが、ディケンズがフランス革命を舞台にした『二都物語』で、ギロチンで処刑される貴族たちを乗せたタンブリルが、地響きを立てて行き交う恐ろしい幻像を登場させて以来、この言葉は囚人護送車を意味するようになっただけでなく、どことなく陰惨なイメージがこもるようになったそうです。

 この2つの例は、応挙やディケンズと言った芸術家個人の創造した強烈なイメージが、日本国民やイギリス国民の抱く、幽霊なりタンブリルなりのイメージ全体を改変し、後世にまで影響を及ぼしている、と言うケースです。応挙は江戸中期に活躍した画家であり、ディケンズが『二都物語』の連載を開始したのは1859年です。してみると、彼らの創造したイメージは、それが世に現れてから100年以上経った現在でも、彼らの属した国民全体の記憶に固く結ばれ、幾世代にも渡って存続していることになります。特定の国民の文化的記憶に刻みこまれたこのようなイメージが、何百年もの間、生命を保っているるとしたらどうなるでしょう。その場合、イメージはもろく儚いどころか、むしろ逆に、戦火や腐朽による被害を受けやすい物体よりも、はるかに永続することだってありえるはずです。


 人の一生をも越えるような長い生命を与えられたイメージ、── もしかするとその中には、古代からずっと存続しているようなものさえあるかもしれません。そして、もしも本当にそんなものがあるとすれば、文化史の中からそのようなイメージを掘り出し、検討することによって、古代人の内面生活に触れられるのではないでしょうか。土の中から出てきた土器や石器を調べることで、それを使用していた人たちの生活に精通するようになる考古学になぞらえれば、わたしがこのエッセイでやりたかった作業は、そのような「イメージの考古学」です。

 最初にも言った通り、このエッセイではこれから、水面に映った月影のイメージのことが問題にされます。私はこのイメージが、様々な迂路を経ながらも、古代から日本人の間でずっと生き続けてきたものであると考えています。まずはそのことを示す作業からはじめていきたいとおもいます。

2005.10.21
 
 






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