04.得月って何?





 平安中期の桂別業と近世初頭の桂離宮をいきなりまたいでしまったが、水面に映った月影の観照を意識した建築の系譜は、その間に挟まれた中世期においても認められる。引き続きそれを見てゆこう。

 この場合まず、とっかかりとして平安末期頃に成立した庭造りの教本で、『作庭記』の通称で知られる『前栽秘抄』の記述に触れておく。



 唐人か家にかならず楼閣あり高楼はさることにしてうちまかせては軒みしかきを楼と名つけ簷長を閣となつく楼は月をみむため閣はすゝしからむしめむかため



【訳】
 唐人の家には必ず楼閣がある。高楼はもちろんのことであるが、大方は軒の短いものを楼と名付け、簷(のき)の長いものを閣と名付ける。楼は月を見るため、閣は涼しくするためである。
『前栽秘抄』雑部 森蘊訳




 これをみると、軒の短い楼閣は「月を見むため」のものであったと言うことになっている。現在、おそらくそのような観月目的で造営された平安期の楼閣は現存しないだろうが、当時の和詩などをみると、たまに楼に登って眺めた月の出てくるものがあるので、どうやら当時、貴族の邸宅の庭などには、観月目的で造られたこのような楼閣が本当にあったらしい。桂別業を詠った和詩に登場していた、水面に映った月影を観賞するための楼閣も、そうしたものの1つであったとおもわれる。

 銀沙灘と向月台

洗月泉
 この平安期に造られた観月目的の楼閣の系譜を引いているのか、あるいは全く無関係なのかはよく分からないが、続く鎌倉期に入ると大陸からもたらされた建築様式の影響を受け、禅宗寺院などで始まった高楼建築の中に、観月を意識したものが出てくる。そして、現存するこうした月を意識した高楼建築のもっとも代表的な作例が、足利時代末に造営された慈照寺の銀閣なのである。

 慈照寺はもともと、足利義政によって造営された山荘で、寺院となったのは彼の死後である。銀閣は義政の住居と仏殿を兼ねて建てられたが、その造営の際、彼は月を非常に意識した。と言うのもたとえば、慈照寺がその懐に抱かれている正面の山は「月待山」と呼ばれており、その名前どおり義政は、この山に上る月を銀閣から待ち望んだのである。彼が月待山に上った月を詠った歌も残されている。

 また、銀閣は金閣と違い、実際に、外壁に銀箔が貼られることはなかったと言われるが、軒庇の裏にだけは銀の胡粉の痕跡が残っている。建築史家の宮元健次によれば、この胡粉は池に反射して下方から入ってくる月光を、屋内へ導入するための仕掛けであったと言う。
 それからまた、銀閣の苑内には「洗月泉」と呼ばれる小さな滝があり、この名前は、その細流と飛沫に月光が宿る様子を逆説的に表現したものだろう。
 さらに、銀閣に行ったことのある人は建物のまわりに、白い砂利を大量につかって造られた、「銀沙灘(ぎんしゃだん)」と呼ばれる波形を付けられた段や、「向月台」と呼ばれる築山が、何だか唐突な感じであることに気づいたと思う。あれは東海の海洋上にあるとされた須弥山や洋上の波を模したものらしいが、同じく宮元健次によれば、あの砂利の石は、光をよく反射する石英や斜長石なので、月光をはね返して銀閣をライトアップするねらいもあると言う(※1)。こうしてみると銀閣とその周囲の庭園は、月を非常に意識した装置となっており、その意味では桂離宮ととてもよく似ているとおもう(※2)。



銀 閣 金 閣



横浜三渓園の臨春閣
 さて、このように月を非常に意識した装置であるところの銀閣は、上の画像にあるとおり、建物の正面が庭の池と非常に近接して立地している。このことは、銀閣とはあらゆる意味で対照的とされることの多い鹿苑寺の金閣の場合も同じである。
 そうじて日本庭園の中にある建物は近くに池のあることが多いが、それにしても金閣と銀閣は近接の度合いが著しい。このことは、この2つの建物だけにかぎったことではなく、金閣・銀閣とともに、三閣≠ニ称せられる西本願寺の飛雲閣や横浜三渓園の臨春閣等の場合も同様である。ここには何らかの意図が感じられないか。

 金閣・銀閣のような高楼建築は、13世紀に入って、大陸から禅宗とともにもたらされた新しい建築様式の影響により、寺院建築が楼閣化する過程から生まれてきたものである。最初、このような楼閣化が及んでいたのは山門や法堂等だけであったが、やがて、「このような禅宗寺院の楼閣化は、さらに本堂である方丈にまで及び、<中略>建長寺では蓮春閣と並んで、ついに得月楼と呼ばれる月を意識した楼閣が生み出された。そして、こうした流れが足利将軍邸の二階建ての観音殿へ発展し、金閣や銀閣、飛雲閣といった観月目的の楼閣建築を生み出したのである。(宮元健次『月と日本建築』p78)」

 この引用文中に、建長寺の「得月楼」が出てきた。得月楼は禅宗寺院の建築が楼閣化する過程で、ついに月を意識した最初の楼閣が誕生した例として、画期的なものとされている。ところで、「得月楼」の得月≠チて、何のことだろう?

建長寺の得月楼
 建長寺に建てられた初代の得月楼は現在、残っていないが、同寺には今でも方丈に面して国定史跡となっている園池があり、この池はかってはもっと大きく、得月楼は他の建造物とともにそのまわりに建っていた。現在は池の南側に面して、平成14年に竣工した新しい「得月楼」が建っているが、この新しい得月楼もまた銀閣・金閣と同じく、庭の池にかなり近接して建っている(右の画像参照)。この新らしい得月楼はおそらく、初代得月楼の跡地に建てられたものだが、だとすれば初代のそれもまた、銀閣・金閣と同じく池に近接して建っていたとおもわれる。
 「得月」と名の付く建築物としては、岡山藩主の池田忠雄が、江戸初期に遊息所として造営した東湖園にある「得月台」の例もある。この建物は、近年、池の中に浸かったままになっていたのを引き上げ、「得月堂」と改名して復元されたと言うから、これまた池辺に近接して建っていたことは間違い(※3)。

 これらの楼に付いた「得月」という名は、中国の蘇鱗という人の詩にある「近水楼台先水得 向陽花木易逢春(水に近き楼台はまづ月を得 陽に向かえる花木はまた、春に逢ひ易き)」の一節から取られているとおもわれる。蘇鱗はあまり有名な詩人ではないらしく、複数の漢詩辞典類を調べても載っていないので、いつ頃の人なのか調べ切れていないが、15世紀に成立したとされる謡曲『芭蕉』の地謡には、この一節が引用されているため、中世期のわが国の文人たちのあいだで、この詩が知られていたのは確かである。

 この詩で言うところの「得月」とは、上空にかかっているままでは手が届かない月を、水面に映して捉えるという意味であるが、得月には類語として、他に「掬月(きくげつ)」と「捉月」もあるのでついでに説明しておこう。「掬月」は月を掬う(すくう)という意味であるが、ようするに水面に映った月影を捉える所作のことである。宋の干良史の『春山の夜月』に、「水を掬すれば月は手に在り 花を弄すれば香は衣に満つ」の一節があり、「掬月」はこの春の遊覧の情景を描いた詩から取られて成語となったらしい。京都の三条万里小路にある泉殿は、かって「掬月(きくげつ)」と命名されており、かっては観月が行われていたと言う。おそらくその際には池泉に映した月影が観賞されたことだろう。
 いっぽう、「捉月」は月を水面に映して捉えると言う意味であり、等伯が晩年に描いた絵の題名、『猿候捉月図』はその用例の1つである。この絵には、猿が水面に映った月影を捉えようとして、枝から手を伸ばしている様子が描かれていることは、すでに触れておいた。だがしかし、より一般的に「捉月」と言うと、酔ったまま水面に映った月影を抱き留めようとして溺死した李白の故事のこととなる(この伝説は後世になって作られたものらしいです。)。

 「得月」「掬月」「捉月」については、注意すべきことがある。中国には、有名な「月桂」という故事がある。月の中に巨大な桂の樹が生えており、呉剛と言う西河の仙人がそれを伐り倒そうとする姿が月面に見えると言うのだが、ここから転じて月桂は、目に見えながらも手に取ることの出来ない想いの譬えとなっている。これに対し、手が届かないはずの月を水面に映して捉えようする「得月」「掬月」「捉月」は、こうした月桂の故事に対する逆説として成立している語なのである。このことは、この連作エッセイのいちばん最後の場所で、もう一度、触れることになるとおもう。

 それはともかく、「得月」は水面に映った月影を捉えると言う意味で、「掬月」「捉月」の類語となるが、「得月」が出てきた蘇鱗の詩で注目されるのは、「水面」と「月」が、「楼」と同時に提出されていることであって、つまり「得月」とは、たんに水面に映った月影を得る(=観賞する)と言うことではなく、楼上からそれを行う含みがあるのである。してみると、建長寺や東湖園にある「得月楼」や「得月台」は、池の水面に月影を映して観照することを意識した建物だったとわかる。
 とともに、ここから、金閣や銀閣をはじめとした高楼が、極度に水辺に接近しているのもまた、同様の目的があったからと類推される。写真集に金閣二階からの眺望が載っていたが、全景にしめる池の水面の割合が大きすぎるため、庭の眺めとしてはいささか散漫なものであった。しかしこれも、この高楼が庭の水面に月影を映して観賞することを意識していたとすれば得心がゆく。ちなみに、金閣にある池の名前は「鏡湖池」である。水面に月影を映す目的から名前が付けられているのではなかったか。また、金閣の主だった足利義満は、月の夜になるとこの池に漕ぎ出て、舟上から観月をしたと伝えられている。

 いっぽう、銀閣については、銀閣の前身建物とされる「らん秀亭(「らん」は、「手」へんに「覧」)」の命名に際し足利義政が、「掬月以態芸之字、可被付」と命じた文書が残っていることが、水面に映った月影のイメージとの関連を支証する。というのも、ここで義政はらん秀亭に、「掬月」、すなわち月を掬う動きを示すような名を付けるよう命じているが、「月を掬う」はさっきも説明したとおり、水面に映った月影を捉まえる所作であり、ここから義政が、らん秀亭、ひいてはその後身の銀閣を造営する際、池に映る月影の観賞を意識していたことがはっきりするのだ。

 義政等が亡くなり、争乱の時代が始まると、わが国ではもはやこのような観月のための楼閣など作られる機会もなくなかったろうが、しかしそれは、戦国末期に思わぬ形で復活をとげている。日本城郭の東南隅にある櫓をしばしば、月見櫓という。実際には、月見をしたかどうかわからないものが多いようだが、城内の庭園に配されて月見をしたことがわかっているものもあり、秀吉が天正11年に大阪城で造営してから全国的に普及するようになった。これらの月見櫓は堀を臨んで建っているものも多く、じっさいに月見が行われたとすれば、そこから堀の水面に映った月影を覗き込む機会もあったろう。なお、石垣だけが残っている若松城の月見櫓は、滝廉太郎の『荒城の月』のモデルになっている。

 そして戦国期も終焉し、江戸幕府が開かれてからから十年と少し遅れたころになると、智仁親王によって桂離宮の造営が開始されることになる。



   



 以上、古来、日本人が水面に映った月影のイメージに寄せてきた愛着を示すために、平安期から近世初頭までにおける、このイメージと日本建築との関わりをざっと見てきたが、こうして見ると、観月を意識した古建築が、わが国で池畔などに建てられる場合、水面に映った月影の観賞を意識していたことが多かっとわかる。そこで気づくのは、総じてわが国では建築の場合に限らず、観月が水辺で行われた事例にこと欠かない、と言うことだ

大覚寺の大沢の池
枳穀邸(渉成園)の印月池
 例えば古来、わが国の権力者たちには(もともとは唐風文化の影響を受けて始まったのだろうが)、庭園にある池に舟を浮かべて、観月をおこなう風があった。有名なのは、京都の大覚寺にある大沢の池で、嵯峨天皇が舟を浮かべて月見をした場所と伝えられる(この行事は今でも毎年、中秋の名月の晩に行われており、何艘かの屋形船が池に出され、翌日の朝刊に写真が載ったりする。)。金閣の鏡湖池で足利義満が舟上から月見したことはさっき紹介したが、枳穀邸(渉成園)の印月池では、徳川家光がこれを行っている。
 また、『紫式部日記』寛弘五年(1007年)九月十六日条には、「またの夜、月いとおもしろく、ころさへをかしきに、若き人は舟にのりて遊ぶ」とあり、月夜の晩に、貴族や女房たちが土御門邸の庭にあった池で舟遊びを楽しむ印象的な情景がでてくる(同六年九月十一日条にも同じような場面がある。)。
 このように、わざわざ舟を浮かべて月見をする理由は何なのだろうか。舟に乗っていれば、月の運行に合わせて位置を変えるのに便利だが、むしろ水面に映った月影を観賞するのが目的だったのではないか。舟を浮かべて月見が行われた枳穀邸や金閣寺の池に、「印月池」「鏡湖池」という名前が付いているのも、このことを支証するようにおもわれる。

 そう言えば、13世紀半ばの作と推定されているので、紫式部の時代のものとは言えないが、国宝の『紫式部日記絵巻』には、先ほど紹介した寛弘五年九月十六日の船遊びの場面が描かれている。そこでは、舟を浮かべた池の上に大きな満月が描かれ、その下の池面は月影が映えてぼおっと明るくなっているようだ(※4)。
 ちなみに紫式部は水面に映った月影のイメージが好きな作家だった。『源氏物語』にも、「帚木」にある雨夜の品定めの段で、内裏から退出した左馬頭が、美人で才女だが浮気な女の所を訪問するとき、壊れかかった築地の間から池に落ちた月影がきらきらと輝いているのに出会う場面等、このイメージが何度かでてくる。紫式部にはこの先でもう一度、この登場してもらおう(※5)。


 話がやや横に逸れたが、この他に古来、わが国で観月が水辺で行われた事例としては、『平家物語』巻第五の「月見」の段のことをあげねばならない。この段では、福原に遷都した平家方の人たちが、月見のためにほうぼうに出かける次のような記述がある。



 やうやうあきもなかばになりゆけば、福原の新都にまします人〃、名所の月を見んとて、或いは源氏の大将(※光源氏のこと)の昔の後は野となれ山となれしのびつゝ、須磨より明石のの浦づたい、淡路のせとをしわたり、絵島が磯の月を見る。或は白良・吹上・和歌の浦・住吉・難波・高砂・尾上の月のあけぼのをながめて帰る人もあり。旧都に残る人〃は、伏見・広沢の月を見る。



 創作とは言え、『平家物語』は史実に基づいた創作である。だから、ここに見られる福原に遷都した人々が、月を見るためにわざわざ淡路島をはじめ、難波や住吉、遠くは南紀の白浜にまで出かけたという挿話は、作者が実際に見聞した話を作中で生かした感じがする。となると、ここには十数カ所の地名が登場する訳だが、いずれも平安末期頃、京阪神紀あたりで月の名所とされていた場所であったろう(じっさいこれらの場所は、今でも月の名所とされていたり、あるいは月を詠った古歌が多数、残されている場合が多い。)。そして、これらの土地はいずれも海浜や河口部、湖畔や池畔に位置しており、つまりは水辺なのである。

 大津市の園城寺(三井寺)には、琵琶湖がよく眺められる場所に、能舞台のような「観月舞台」がある。同じく石山寺には瀬田川を見下ろすようにして「月見亭」がある。

 醍醐寺三宝院の松月亭(正面奥)。醍醐寺三宝院は晩年の秀吉が再興したもので、特に庭園が名高い。松月亭は江戸末期に増築されたもので、私が行った時は池の水が干上がり、画像には水が映っていない。中央の障子の下が月見台。
京都嵐山の渡月橋
 仙洞御所の「醒花亭」、広島藩主の浅野長晟が造営した縮景園の「明月亭」などは、月見を目的にした建築物で、それぞれが庭園にある池を臨むように建てられている。とくに醍醐寺三宝院の「松月亭」には池に向かって張り出す小さな竹製の縁側があり、これは「月見台」と呼ばれている(たぶん、桂離宮の古書院にある月見台にならったものなのだろう。)。兼六園や六義園などの池には、「月見橋」や「渡月橋」という名の橋が架かっていが、そもそも景勝地などに行って、「渡月橋」「観月橋」「月見橋」「待月橋」という名前の橋に出会ったと言う経験をした人は少なくないだろう(もちろん、「渡月橋」「観月橋」のオリジナルは京都の嵐山や伏見のそれなのだろうが)。こうした事例はまだまだ他にもあり、あげはじめたらきりがない。が、いずれにせよ古来、日本では、水辺が観月のための特権的な場所とされてきたのである。

 そうして、すでに見た、銀閣や得月楼のケースなどをかんがみるに、こうしたわが国における観月と水辺の著しい結びつきは、月影を水面に映して観賞する趣味から生じたものではないかとおもうのである。

 わが国の文学中に、月の主題が多いという声はよく聞く、 ── 日本文学に触れた海外の研究者がまず最初に驚くのは、あまりにも多く、そこに月が登場することなのだそうだ。

 だがこれまで、詩歌や建築などを話題に長々と論じてきて私が言いたかったことは、わが国における月のイメージとは、月それじたいだけではなく、水面に映った月影とのダブル・イメージで提出される場合が非常に多い、と言うことなのである。

 はたして、わが国の文化的風土にこれほどまでに深く深く深く浸透した水面に映った月影のイメージの源流は、一体、どこにもとめられるのだろうか。













※1  ただし、銀沙灘・向月台は、義政によって作庭された部分と明らかに異質で、江戸後期に付け加わったものらしい。

※2  義政は将軍の権威が地に落ちていた時代に将軍となり、在位中は財政難と土一揆に悩まされた。応仁の乱の最中に息子に将軍職を譲ってからは、戦乱のさなかも銀閣にこもって遊楽にふけった。
 いっぽう、桂離宮を造営した八条宮智仁親王も、最初は子のなかった秀吉から目をかけられ、その後継者として養子にまでなりながら、秀吉に鶴松が生まれると、養子縁組を解かれ、八条宮家として独立させられた人である。しかも後に後陽成天皇が実弟の彼に皇位を譲ろうとした時も、将軍の家康が、秀吉の息のかかったことのある彼の即位に反対したため、彼の代わりに後水尾天皇が即位した等、その人生は挫折の連続だった。
 このように、生きた時代は異なっていても、政治的な野心が潰えた義政と智仁親王が、人生の残りの時間を隠棲して過ごすために造営した慈照寺と桂離宮が、いずれも月を強く意識しているのは興味深い。

※3  映画化で有名な宮尾登美子原作の『陽暉楼』の舞台となったのは、高知はりまやばし近くに実在する料亭、「得月楼」である。この料亭は最初、「陽暉楼」の名で明治三年に創業したが、同11年の中秋の名月の日に、熊本城から凱旋した将軍、谷千城の帰国祝いをかねて観月会を開催した際、谷がやはり蘇鱗の「近水楼台先得月、向陽花木易為春」の詩から「得月楼」と命名したと言う。おそらくここも、建物の近くに池があるのだろう。
 また、中国の杭州には得月楼飯店という有名なレストランがある。この飯店は繁華街のなかにあるので、近くに水辺はなさそうだが、杭州には月の名所として知られる西湖があるから、関連があるとおもわれる。

※4  「映えているようだ」と言うのは曖昧な書き方だが、月や池を表現した銀泥が剥落(あるいは酸化?)によって黒っぽくなっているので、カラー写真でもよく確認できないのである。

※5  紫式部のライバルだった清少納言が、『枕草子』で水面に映った月影のイメージに触れているのは、「【二一八】月のいと明きに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などのわれたるやうに水の散りたるこそ、をかしけれ。」だけのようだ。






2005.12.27






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