05.月影秋池に満つ




 それにしても、こうした水面に映った月影のイメージに対する日本人のこだわりはどこからきたものだろうか。おそらく、その答えの1つは、漢詩文化の中からもたらされた、と言うものだとおもう。

吉野、宮滝近辺を流れる吉野川
 現存する、わが国でもっとも古い水面に映った月影のイメージが登場するテキストは『万葉集』にある、作者の分からない次の歌である。

   落ちたぎち流るる水の岩に触れ淀める淀に月の影見ゆ
     ・『万葉集』(1718/1714)


この歌は「吉野の離宮に幸す時の歌二首」とあるうちの一首で、作者は持統天皇の吉野行幸に同行した者とされるので、作られたのは7世紀末から8世紀初頭にかけてであったことになる。とにかく、このように今に残るわが国でもっとも古い、水面に映った月影のイメージの登場するテキストは和歌なのであるが、しかし、だからと言ってこの歌が漢詩からの発想をまったく含まないかと言うと、そうは言い切れない。
 と言うのも、そもそも、例えば藤原不比等の『吉野に遊ぶ』や藤原宇合の『吉野川に遊ぶ』など、吉野を題材にした古い和詩(=邦人が作った漢詩)には中国の故事を詠み込んだものが多いからで、これは、奇岩の間を縫って吉野川が流れるどくとくの景観等から吉野が、中国の古典に登場する勝地に見立てられ、古くから神仙世界めいた文学境とされていたためである。不比等の『吉野に遊ぶ』を引用する。






 『吉野に遊ぶ』(32) 藤原不比等

    夏身 夏色古り
    秋津 秋気新たなり
    昔 汾后に同じく
    今 吉賓を見る
    霊仙 鶴に駕して去り
    星客 査に乗りて逡る
    清性 流水をくみ
    素心 静仁を開く

  夏身(※)の地は夏景色も深まり
  秋津の辺りは秋の気配が立っている
  昔、堯皇帝が汾の地に籠もられたように
  今、そのような地によき人を迎えている
  鶴に乗ってこの地から去った人や
  筏に乗って星に行った人も帰ってくるだろう
  清を好む性格は清らかな水を汲み
  まじり気のない心性は山の情趣に浸っている
  
   ※現在の菜摘の地

 ・『懐風藻』講談社学術文庫
  現代語訳は、同書にある江口孝夫のもの




この不比等の 『吉野に遊ぶ』が、「落ちたぎち流るる ── 」の歌の作者と同じく、持統帝の吉野行幸に同行した際、作られたとすれば、両者はだいたい同時期に成立したことになる。この詩には、汾后や張騫の故事が登場しており、このことは吉野を題材にした古い和詩に、中国の故事を詠ったものが多いと言ったことを例証する。してみれば、吉野には当時すでに、「中国の古典に登場するような勝地に見立てられる神仙境」と言うイメージが成立していたことになるが、その場合、「落ちたぎち流るる ── 」の歌にみられる岩やそこにくだけ落ちる水流、淀に映った月影と言った、いかにも神仙世界を思わすイメージも、漢詩にあるそれからの影響が全くなかったとは言い切れなくなるのだ。






 私が、この「落ちたぎち流るる ── 」の歌が漢詩にあるイメージから影響を受けた可能性にこだわるのは、続く奈良朝の時代において、水面に映った月影のイメージが登場するのは、歌よりも漢詩であるケースが多いからである。

 前記、「落ちたぎち流るる ── 」に続いて、『万葉集』のなかで水面に映った月影のイメージが出てくる歌は、風流士のもつ酒坏に影を落とす三笠山の月を詠った次の歌である(なお、私が探した範囲では、『万葉集』に収められた歌で、水面に映った月影のイメージが出てくるのは、この風流士の歌と、上の「落ちたぎち流るる ── 」のそれだけであった。)。

   春日にある御笠の山に月の舟出づ 
           風流士の飲む酒坏に影に見えつつ
              ・『万葉集』(1299/1295)  


 ところが、この歌の題材は実はオリジナルではない。と言うのも、文武天皇が残した和詩に、次の『月を詠う』と言うものがあるからだ。




 『月を詠う』(15) 文武天皇

    月舟 霧渚に移り
    楓しゅう 霞浜に泛ぶ
    台上に澄み流るる耀
    酒中に沈み去る輪
    水下りて斜陰 砕け
    樹 落ちて秋光 新なり
    ひとり星間の鏡を以て
    また還って雲漢の津に浮かぶ


  月の舟は霧のたなびく渚にかかり
  桂の楫は霞のおおう浜辺に浮かんでいる
  宴台の上を月光が照らし
  杯の中に月影が沈んでいる
  流れの上の月の光はちぢに
  木の葉も散りすいていちだんと秋らしい
  夜空の月は星の間にあって鏡のようであり
  それがまた天の川原の渡しに浮かんでいる

 ・『懐風藻』講談社学術文庫
  現代語訳は、同書にある江口孝夫のもの




 月影の落ちた酒杯を傾ける風流士の歌が、平城京への遷都後に作られたものであるとすれば、前後関係で言うとこの文武帝の和詩は、風流士の歌より先に作られたことになる。「月の舟」や「酒杯に落ちた月影」というイメージが両者に共通することをみれば、風流士の歌の作者が、この文武帝の和詩を知っていて、そこから影響を受けていることは間違いない。してみると、この歌に見られる水面に映った月影のイメージは、漢詩的なそれから発想されたことになる。






 『万葉集』以降は唐風文化の隆盛に伴い、朝廷における公式行事で漢詩文が隆盛するようになる。こうした文化状況を背景に、この時代に邦人が作った漢詩は、主として平安朝に作られた勅撰詩集 ── 『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』『扶桑集』『本朝麗藻』『本朝無題詩』 ── や、その他の私撰詩集等に残されているが、その数だけでも膨大である。予想通り、そこに収められた詩には、水面に映った月影のイメージが出てくるものが多いのだが、正直に言って私は、この和詩と言う日本人が外国語である漢語を用いて詩作する奇形的なジャンルにどうもなじめないでいる。したがって、ここはそうした水面に映った月影のイメージが登場する和詩の数々を、いちいち取り上げて羅列するのは差し控え、この傾向を象徴する出来事として、『日本紀略』延喜九年(909)閏八月十五日条の記事を紹介するだけに留めておきたい。この記事によると、延喜九年のこの日、宇多法皇が亭子院に文人を召して詩会を開き、「月影秋池に満つ」の題で漢詩を競作させたのだ。
 (ちなみに、この記事はわが国でもっとも古い月見の記録とされる。だが、そこで作詩の課題とされたのは「月影秋池に満つ」、 ── 秋の池面に映った月影であった。つまり、日本最古の月見の記録は、月じたいではなく、水面に映った月影が観賞されたことになっているのだ。)

 岩波文庫の『王朝漢詩選』(小島憲之編)には、古代から平安末までに作られた膨大な和詩の中から、名作のみ170首を精選したものだが、その中に、この時に作られた藤原淳茂のそれが選ばれているので、引用しておこう。




 『月影秋池に満つ』(134) 藤原淳茂

    碧浪金波 三五の初、
    秋風計会して 空虚に似たり。
    自ら疑ふ 荷葉凝霜 早きかと、
    人は疑ふ 蘆花過雨に餘れるかと。
    岸白くして 還りて松上の鶴に迷ひ、
    潭融りて 藻中の魚を算へつべし。
    瑶池は 便ち是尋常の号、
    此の夜の清明 玉も如じ。


 十五夜のはじめのその暮れがた池の面に青色の波や金色の波を起こし、秋の風が計算をたてるかのようにはからって池は曇りなき大空のように月が冴えわたる。
 月の光の美しさ!蓮の葉に早くも白い霜が置くのではないかとみずから思うほどだ、また水べの白いあしの花が通り過ぎた雨の後にまだ散り残っているのかと人の言うほどだ。
 月の光のあかるさ!池の岸は白くみえかえって池畔の松の上に棲む白鶴かと見まちがえるほどだ、月下の池の淵は澄みとおってみえ水藻にひそむ魚の数もかぞえられるほどだ。
 崑崙山にある美しい瑶池といっても月に照らされたこの池にくらべるとやはり平凡というべきであって、今宵の清く明らかな光は美しい玉さえも及ばないほどだ。

 ・『王朝漢詩選』小島憲之編 岩波文庫
  現代語訳は、同書の編者のもの




同書に見える注によれば「秋池」は唐詩によくみえる語で、李白の『秋池』(後集巻十)などの例があると言う。それにしても、当時いかにわが国の宮廷文化が漢詩文化の影響をつよく受けていたとは言え、唐詩によく見える「秋池」が、わが国の文化的風土に移植され和様化すると「月影秋池に満つ」となるのは、いかにも日本人的な発想である感じがする。それはほとんど、「ヴァンパイアは鏡に映らない」が、わが国の怪談の風土に移されると、水面に映った月影のイメージを身にまとい、「月に化けたむじなが、水面に月影を落とさなかった」となったのと等価な現象ではなかろうか。

 いっぽう、このような漢詩文が隆盛していた期間、和歌の方は「色好みの家に埋もれ木の人知れぬ事となりて、まめなる所には、花すゝき穂にいだすべき事にもあらず」と言うことで、公式行事が行われるハレの場からは追放され、影の存在となっていた。こうした状況が打開され、和歌の復権のメルクマールとなったのは、延喜5年(905)に編集が開始された『古今和歌集』の成立である。この延喜5年と言う年は、「月影秋池に満つ」の詩会が開かれた4年前にあたるが、撰者の紀貫之らはこの歌集の完成に約10年間かけているので、この詩会はほぼその中間に開催されたことになる。

 私が確認した限り、『古今和歌集』で水面に映った月影のイメージが出てくる歌は、316と881の2首だけである(同歌集に収録された全歌は1111首)。和詩においては、『月影秋池に満つ』の題で詩会まで開催されているのと比較し、これはいかにも量が少ない。してみると、『古今和歌集』以前の時代、詩歌においては、量においても質においても、このイメージを詠っていたのは圧倒的に漢詩だったこととなる。当時、とかく和歌が抑圧されていた事情があったことをかんあんしてもなお、この印象は崩せないのではないか。としてみると、古来、日本文化に顕著だった、水面に映った月影のイメージへのこだわりは、唐詩を主とした漢詩文化の影響にその震源があったと断定できそうな感じがしてくる。





 だが、果たしてそうなのか?

 たしかに水面に映った月影のイメージにとって漢詩文化は、わが国の文人に、このイメージを文学的に取り扱う機会を増加させ、その定着を助長する役割を果たすことがあったかも知れぬ。だがしかし、そのいっぽうでしょせんわが国における漢詩の文化とは、中国文化の亜流のものではなかったか。むろん、例えば『源氏物語』や『枕草子』等を見れば、平安後期の文人が、大陸の漢詩文によく通じ、高い観賞能力を有していたことは間違いない。その受容レベルは、かなり高度なものであった。しかし、奈良〜平安朝における中国文化への憧憬からうまれたこれらの漢詩群は現在、一部の研究者を除けば、和歌と比較してほとんど観賞されていないのではないか。これには、漢字による表現が難しいとかの理由も考えられるだろうが、やはりその根本的な原因は、和製漢詩がよその国に育った文化を無理矢理、わが国の土壌に持ち込んで成立したものであり、日本の風土から素のまま生れて育ったものではない、と言うことが大きいとおもう。いずれにせよ、もしも水面に映った月影のイメージが、ずっと漢詩文化の中だけに留まっていたとすれば、このイメージもまた、とうに廃れていたか、少なくとも、こうも広くそれがわれわれの文化全般に浸透することはなかったとおもう。だが、実際にはこれまで示してきた通り、わが国の文化史を見渡せば、水面に映った月影のイメージは、古くから詩歌、絵画、建築、庭園等々、さまざまなジャンルにわたってかくべつな愛好を受けてきたのである。

 してみれば、このイメージが漢詩文化の影響を受けて、発想に広がりを見せるようになった可能性はあるものの、ここまで日本人から愛好されるようになったのは、やはりわが国独自の起源があったからのような感じられてならない。少なくも、その発想の起源が漢文化的なそれに求められるとはおもえない。

 ああしかし、ではその起源はどこに求められるだろう。




          






【コラム】月影の酒杯







2006.01.07






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