03.閣は月を浮かぶるに依りて


洲浜と天の橋立を通して松琴亭を眺める








松琴亭前の白川橋
 やや唐突にわが国の庭園と建築の文化について話をはじめようなどと言うのも、日本人は古来、別荘や禅宗寺院などで池に面した建物を建てる際、水面に映る月影の観賞にことのほか拘ったからで、そこにわれわれがこのイメージに寄せる愛着 ── と言うか、それはもうほとんど執着と言ってもよいのだが ── がよく表れているからである。

 日本の建築史上、水面に映った月影の演出をもっとも意識している建造物としては、まず最初に京都の桂離宮をあげるべきだとおもう。この離宮は近年の宮元健次の研究が強調したように、もともと八条宮智仁親王により月見のための別荘として造営されたものであった。このことは、この離宮に見られるいささかモノマニアックな月へのこだわりによく表れている。離宮内には「月見台」「月見橋」「月波楼」「歩月」などと呼ばれる建物などがあり、屋内にも「歌月」の額や「月」の字の引き手、「月」の字くずしの欄間などがある。智仁親王の残した歌の中には、月を主題にしたものが多いが、離宮内で開催された月見の歌会で作られたものである。寛永元年の中秋の名月の日に開かれた歌会で、彼が作った歌を二首あげておこう。


     一枝を折る身ともかな月の中の桂の里の住居成せば

     月をこそ親しみあかぬ思ふこと言はむばかりの友と向ひて


 観月のために造営された桂離宮には、この目的のための細心の注意が随所に見られる。左画像は笑意軒前の船着き場にある三光灯籠。桂離宮内の灯籠はいずれもこのように丈が低いが、照明は最小限、足下を照らすだけ抑え、その光が上空の月の観照を妨げないように配慮したとも言われる。

 右写真は古書院の屋根の下に付いた擬宝珠。金箔が貼られており、月が出ている時は、月光を反射して遠くからでも認めることができる。夜陰の中で、複雑な構成をもった桂離宮の庭園を散策中、絶えず書院の場所を示すので、方向を見失わないですむ。



 ところで、桂離宮の古書院からは、池に向かって「月見台」と言う施設が張り出ている。手すりのないバルコニーのような外見のもので、いたって簡素だが、床になる部分が竹で葺かれているところなどは、これまで多くの人たちから美意識と洗練の極地と賞賛されてきた(正直に言うと、私にはよく分からない…。)。
 月見台はそれ自体の意匠もさることながら、その上にのぼると、桂離宮の苑地全体が見渡せる好位置にあることで特筆される。この台が観月を目的としていることは、名前からして明らかであるが、本に載っている写真などを見ると、そこからの眺めはかなり池の水面を大きくとった構図となっている。たんに月見だけが目的であればこうはならない。明らかにこの台は、正面に上る月と、池面に落ちるその月影との、ダブルイメージの観賞を目的として設えられたのである。
 なお、古典的な森蘊の研究ですでに触れられているのだが、近年、宮元健次がコンピューターをつかって解析したところ、桂離宮の書院群の方位軸、東南29度は、この離宮の創建の年(1615年)に、京都盆地で中秋の名月が姿を現わす角度に一致すると言う。してみると、中秋の名月の晩、満月はこの台の正面に上り、庭園にある池にその姿を落したこととおもわれる。

 左画像は月見台。古書院二の間の正面から、池に突き出すように設えられている。苑内の主要な景観は、ここに上ると一望できる(もちろん、観光客は上ることができない。)。

 右画像は、月見台の正面から撮影した苑内の眺め。実際に月見台に上ると、これよりもさらに多く、池面が視界に入ることになるだろう。小学館の週刊誌、『日本の庭園をゆく』は、平成17年11月に刊行された号が桂離宮を特集している。この雑誌のp22に、月見台の正面に昇った月と池に落ちたその月影の写真が載っている。



月波楼は修理中だった…。
 桂離宮にある建物で、水面に映った月影を意識したそれは月見台だけではない。いやむしろ、その極めつけと言えるのは月波楼の方である。月波楼は古書院の前方に、池を臨んで独立して営まれており、造営したのは智仁親王ではなく、その子息の智忠親王である(桂離宮は一挙に完成したものではなく、八条宮家が二代がかりで50年余りかけて造営した。)。
 月波楼と言う名は、白楽天の『西湖詩』の一節、「月点波心一顆珠」から取られているのだが、そこでは西湖の水面にポツンと点った月影が、まるで一粒の真珠のようだと称えられている(西湖は杭州郊外の湖で、月の名所)。このことからこの建物は、池に映る月影の観照を意図していたことが示唆されるのだが、じっさい、かってこの建物を訪れた烏丸光胤は、「月波楼郎といふにいたる池のおもさはるくまなくげに月に見まほしき楼なり(月波楼はその前面の池に曇りなく映る月が、現実の月と見間違うほどの建物である)。」と書き残しており、また、八条宮家7代の家仁親王が桂離宮で遊覧した際の記録、『桂離宮で遊ぶの記』にも、庭園の池や桂川で船遊びをしてから、最後に月波楼に入り、池面に落ちた月を観照する記事がある。



 笑意軒の障子の上にある6連の下地窓は、満月をかたどったものと言われている。6っの窓は、一年の中の六つの時季を表すものとして下地の組み合わせがそれぞれ異なる。  笑意軒にある手水鉢には「浮月」の銘がある。水を入れて、そこに月影を浮かべることから付けられた名だろうが、ここにも水面に映った月影への執着が感じられる。



 園林堂の雨落と飛石。

 各ページの本文の左上には、正方形が2つありますが、この飛石をイメージしたものです。深い意味はないですが。



 ところで、ここで桂離宮のことを取り上げたのも、何も月波楼や月見台を紹介するだけが目的ではない。この離宮は、水面に映った月影のイメージが、何百年もの歳月を越えて、日本民族の記憶に固く結ばれていたことを証言する文化史の重要証人なのである。

 邦人によって作られた漢詩を和詩と言うが、平安後期頃の成立とされる和詩の詩集で、『本朝無題詩』と言うものがある。そしてその中に、藤原明衡が桂別業を称えた「春日桂別業眺望」(408)と言う詩が収められている。
「春日桂別業眺望」藤原明衡

別業の勝形 俗寰と異なり
林亭に遠眺して 幽閑を得たり
閣は月を浮かぶるに依りて、あまねく水に臨み
窓は花を愛するが為に 近く山に向かふ
啼鳥聯へんたり 霞の聳ゆる処
征人絡繹す 日の斜めなる間
詩を吟じ 酒を酌み 好んで遊ぶ処
餘興未だ殫きずして 自らに還ることを忘れたり



【訳】
この別荘の素晴らしい景趣は、世俗とは異なるもので、林中の亭に居て遠望し、心静かな時を得た。館は、月を浮かべて楽しもうと言うことで、池水(或は、川)に臨んで建てられており、山花を眼前に賞美したいものだから、山の間近に窓がとってある。赤く焼けた空には(或は、春霞が立つ中で)春の鳥が鳴いて飛び、夕陽の中に旅人が往来するのが見やられる。詩を吟じ、酒を飲み、快く遊ぶこの地に、興の尽きることもなく、家に帰るのをすっかり忘れていたことだ。
『本朝無題詩』本間洋一訳
 この詩の一節に、「閣は月を浮かぶるに依りて、あまねく水に臨み(閣依浮月旁臨水)」とある。「楼閣は月を浮かべて楽しもうと言うことで、池水に臨んで建てられている。」と言う意味なので、ここから桂別業には、水面に月影を映して観賞する目的で建てられた楼閣のあったことが知れる。

 この桂別業と言うのは、平安後期頃、藤原道長や経信により造営された別荘であるが、実はその所在地は、現在の桂離宮の敷地内であった。今の書院群が建っているあの平坦で広いスペースなどは、桂別業にあった道長の館、「桂殿」の跡地なのである。だが、こうしてみるとじつに驚くべきことだが、智忠親王によって桂離宮に月波楼が建てられるのより500年以上も前、やはり同じ場所に、水面に映った月影の観賞を意図して建てられたこの楼閣があったのである。これは偶然なのか。


 桂離宮の書院群。左画像は左から新御殿・楽器の間・中書院。右画像は左が中書院、右が古書院。かって、これらの書院群の敷地には、桂別業にあった道長の館、「桂殿」が建っていた。

 葛野坐月読神社は、『日本書紀』顕宗天皇3年2月1日条に縁起がある古社である。

 桂離宮が月見のための別荘として営まれたことはすでに触れたが、この離宮のある桂地方いったいは、八条宮家が桂離宮の造営を開始した17世紀前半よりはるかに古くから、月との関係が生じていた。と言うのも、とうがい地域は『源氏物語』や『土佐日記』にも月の名所として登場するのであり、またなんと言っても、月神を祀る式内明神大社の葛野坐月読神社が近くに鎮座していることが、当地域と月との関係の尋常ではないことを感じせしめる。この神社の縁起は、『日本書紀』顕宗天皇3年2月条の記事に見られるものであり、とすれば、桂地方いったいと月との関係は、この離宮が造営されるのより約一千年以上前から開始されていたことになるのだ。さらに中国の古い伝説では、月に巨大な桂の樹が生えているとされるため、普通名詞「桂」は月の代名詞となっている。したがい、この「桂」と言う地名自体が、月を連想させずにおかない。
 だが、こうしてみると、月見のための別荘として造営された桂離宮は、月との縁が深い、こうした桂と言う土地の文脈に即して営まれていることになり、ひいては、それを造営した八条宮家二代の智仁親王と智忠親王が、そのような「場所の記憶」に敏感だったことをうかがわす。

 八条宮家初代の智仁親王が、桂離宮の敷地を手に入れたのは元和元年(1615年)のことだが、当時まだそこには、道長の時代に作られた庭園跡が残っており、智仁親王と子息の智忠親王は、これに手を加えながら現在、見られる苑地を造営したとされる。もとより彼らは、この土地が桂別業の跡地であることを知っていたのだが、それにしても、こうしたことが2人に対し、さらに強くこの土地の由緒を意識させたことは想像に難くない(※)。これらのことから建築史家のあいだでは、彼らによる桂離宮の造営には、道長の時代に貴族たちの華やかな生活の舞台となった彼の別荘を再現する意図があったと考えられているのである。そして、だとすれば、月波楼が造営されるより数百年以上も前、同じ敷地内に藤原明衡の和詩に登場する水面に映った月影の観照を意図した楼閣があったのも偶然ではなく、もとより月波楼造営には、この楼閣再現の意図がはたらいたと考えられる。






 『千載和歌集』には、藤原道長による次のような歌が収められている。

    天の川空行く月はひとつにて宿らぬ水のいかでなからん

そこでは、「天の川の懸かる空を行く月はたった1つなのに、どうして地上でその影が宿らない水はないのだろうか」と詠われているのだが、あるいは、彼がこの歌を作ったのも、この桂別業にあったと言う楼閣にのぼり、庭園の池に落ちた月影を楽しんだ時のことだったかも知れぬ。

 月波楼建造の意図がこの楼閣の再現にあったとすれば、智忠親王はこれを建てることで、500年以上前の道長が目にしたこのイメージの再現を目論んだことになる。水面に映った月影のイメージは、まさに何百年もの歳月を越えて、日本民族の記憶に固く結ばれていることになるのだ。








 桂離宮の敷地に係る「場所の記憶」は、かってそこに桂別業があったと言うだけに留まらない。『源氏物語』の「松風」には、光源氏の別荘で、「桂の院」と言う場所が出てくるのだが、この桂の院は桂別業がモデルとなっている。

 桂の院はむろん、『源氏物語』と言うフィクションに登場する場所であり、実在のものではない。だが、智仁親王は『源氏物語』から桂が登場する箇所だけ抜き書きしたものを作っていたと言われ、また、離宮内の茶室、『松琴亭』は、「松風」の「おもしろき庭のゆきのひかりにをりにあひたる手ども<中略>御琴ともどもに弾かせて遊びなどしたまふ」から名を取られている。こうしたことは彼が桂と言う土地の「場所の記憶」として、歴史上、実在した道長の桂別業だけでなく、フィクションである『源氏物語』をも参照したことをうかがわす。
2005.11.27

 外腰掛近くにある二重枡形の手水鉢と灯籠







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