02.水面に映った月影について




 水面に映った月影といえば、私は子供の頃に聞いた次のような怪談を思い出す。あやかしの出ると言う噂の堀端に、ある夜、一人の武士が妖怪退治に出かける。ところが、着いてみると空に月が2っ出ているではないか。はっとしてよく見ると、1っは堀の水面に月影を映しているが、もう1っにはそれがない。影の無い方の月に向かって斬りつけると、断末魔の叫びがきこえて、そこに一匹の大むじなが死んでいた、と言うのである。

 話はいきなり余談めいてしまうが、ひところ、全集が刊行されて再評価の動きがあった香山滋(『ゴジラ』の原作者)には、『月ぞ悪魔』と言う幻想奇譚の傑作があった。コンスタンチノープルを舞台に、邪悪な魔女によって肉体に悲しい宿命を負わされた女と、パリで事業に失敗し尾羽うちからして流れ着いた男による悲恋の物語なのだが、彼らの恋愛は、この魔都の上空に月が2つかかると言う超常現象が起きるのをきっかけに始まる。ところで、月が2つ出たとき、主人公はその驚きを次のように述べている。「そのときです。部屋の中がいっそう明るくなったような気がしましたので、何げなく窓から空を見て私はぎょっとしました。月が二つ並んでているではありませんか!? 酔ったな、私は眼を据え直しました。矢張り、月は二つ並んでこうこうと輝きボスポロスの海に映るその光影もちゃんと二つ、さざなみに乗って銀波にさゆらいでいます。」

 ここで面白いのは、酔いのせいで月が二つに見えたのではないことを強調するため、主人公が、「私は眼を据え直しました。矢張り、月は二つ並んでこうこうと輝き…」と言うだけでなく、「ボスポロスの海に映るその光影もちゃんと二つ、さざなみに乗って銀波にさゆらいでいます。」と述懐していることである。
 この後者の情景描写は、何となく余計な感じがしないでもない ── この描写が加わったせいで、文章の歯切れが悪くなってきている。だから、あえて香山がこの部分を書いたのも何らかの意図があってそうしたこととおもわれるが、おそらく彼は「月が両方とも水面に月影を映していた」と書くことが、「2つの月は両方とも実体であり、いっぽうが錯視なのではなかった」ことの説明になると考えたのではなかろうか。
 もし、香山がそう考えたのだとすれば、それはたぶん、上の怪談を知っていたからだろう。何てことのない情景描写に見えて、じつはこの部分、この日本の怪談を知らないと書くことのできない箇所なのである。逆に、欧米人がここを読んでも、たんなるビザールな情景描写が出てきたとおもうだけで、その深い意味にまではおもい至らないに相違ない。

 もっとも、この、月に化けた妖怪が水面に月影を落とさなかったので、正体が露見してしまったと言うのと似たような話は、西洋の怪談中にも見られる。ロマン・ポランスキーが監督した『吸血鬼』と言う映画に、吸血鬼たちの舞踏会に潜入した人間達が、鏡に姿が映ってしまったことから正体がバレて、吸血鬼から追いかけられる、と言うシーンがあった(近年の某作には、このシーンからパクられた場面があった。)。吸血鬼は鏡に映らないと言うことが、もともとヨーロッパのヴァンパイア伝説のなかにあったことなのか、それとも、後世の誰かが発想したものなのかはよく分からない。だがいずれにせよ、ここに見られる「妖魔は鏡に映らない」と言う思想も、ひとたび、わが国の怪談の風土に移されると、水面に映った月影のイメージをまとうようになるのである。

 水面に映った月影 ── いったい、われわれ日本人にとってこのイメージは、あたかも長年使い慣れて手になじんだ器のように、親密な愛着を感じさせるものではなかったろうか。

 そしてそのような愛着を感じるとき、われわれは、このイメージに対してどこか懐かしいような感じを抱いている。じっさいに、わが国の文化史の中を探ると、かなり古い時代から水面に映った月影のイメージが登場してきていることに気づかされる。少しそれを見てゆこう。

 日本人と水面に映った月影と言うと、私はまず、ニコライ・ネフスキーが夜のバイカルで出会ったあの日本人のことを思い出す。
 彼のことは、『月と不死』冒頭に出てくるのだが、それによるとネフスキーは、シベリア鉄道に乗って見事な満月が照り輝くバイカルを通過する旅次、列車のプラットフォーム上でこの男と出会った。その男は、月の見事な光景に魅了されてそこを立ち去れないでいたのだが、しばらく無言のままネフスキーとその情景に見とれた後、男の方から振り向いて次のように話しかけてきた。このような月を眺めた場合、「夥しくわき出てくる感情でたましひは独り、満たされるものです。貴方も感ぜないわけにはゆきますまい。私達日本人は非常に月を愛します。今日のような景色に接すると、詩が自然に口に浮かびます。」── おもわず、この男が話すうわずった口調が耳によみがえりそうになるではないか。
 だが、『月と不死』によれば、その夜の月はたんに見事であったと言うだけではなく、バイカル湖と周辺の山々を隈無く照らし、湖面にもその姿を映していたと言うのである。いったい、ここにも水面に映った月影のイメージはさりげなく姿を見せていたのだ。

 ところでこの日本人は、上の言葉を述べた後で、今しがた作ったばかりと言う短歌を2〜3首、ネフスキーに聞かせている。『月と不死』にはそれがどのような歌であったかまでの報告はないが、あるいはバイカル湖に映った月影を主題にしたものもあったかもしれない。
 と言うのも、総じてわが国の詩歌のたぐいには、古くから水面に映った月影を詠んだものが多く、しかもその中には秀歌が多いのである。ためしに八代集から、目に留まったものを拾ってみたのだが、かなりの数になってしまった。



『古今和歌集』

大空の月のひかりしきよければ 影みし水ぞまづこほりける(よみ人しらず)

ふたつなき物と思ひしを 水底に山のはならでいづる月かげ(紀貫之)


『後撰和歌集』

秋の池の月のうへこぐ船なれば桂の枝に棹やさはらむ(小野美材)

秋の海にうつれる月をたちかえり波はあらへど色もかはらず(藤原深養父)

吹く風にまかする船や秋の夜の月のうへより今日は漕ぐらむ(よみ人しらず)


『拾遺和歌集』

水のおもに照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のもなかなりける(源順)

秋の月浪の底にぞいでにける待つらむ山のかひやなからむ(能宣)

久かたのあまつ空なる月なれどいづれの水に影やどるらむ(躬恒)

みなそこに宿る月だに浮べるをしづむや何のみくづなるらむ(左大将濟時)

水のおもに月の沈むを見ざりせばわれ独とや思ひはてまし(式部大輔文時)

秋の夜の月みるとのみおきゐつつ今宵もねでや我は帰らむ(平兼盛)

水の面に宿れる月ののどけきは並み居て人の寝ぬ夜なればか(源順)

手にむすぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ(紀貫之)


『後拾遺和歌集』

岩間より流るる水ははやけれどうつれる月のかげぞのどけき(後冷泉天皇)

夏の夜の月はほどなくいりぬともやどれる水に影はとめなん(土御門右大臣)

にごりなく千世をかぞへてすむ水に光りをそふる秋の夜の月(平兼盛)

池水はあまの川にやかよふらん空なる月のそこにみゆるは(懐圓法師)

水草ゐしおぼろの清水底すみて心に月の影はうかぶや(素意法師)

程へてや月もうかばん大原やおぼろの清水すむなばかりに(良暹法師)

もちながらち代を巡らんさか月の清き光りはさしもかけなん(藤原為頼朝臣)

常ならぬ我身は水の月なれば世にすみとげん事もおぼえず(少弁)


『金葉和歌集』

池水に今宵の月をうつしもて心のまゝにわがものと見る(院御製)

照る月の岩間の水にやどらずば玉ゐる数いかで知らまし(大納言経信)

雲の浪かゝらぬさ夜の月影をきよたき川にやどしてぞ見る(前斎院六条)

照る月の光さえ行く宿なれば秋の水にもつらゝゐにけり(皇后宮摂津)

蘆根はひかつみも繁き沼水にわりなくやどる夜半の月かな(攝政左大臣)

三笠山峯よりいずる月影はさほの河瀬のこほりなりけり(大納言経信)

有明の月も清水にやどりけり今宵は越えじ逢坂の関(藤原範永朝臣)

我こそはあかしのせとに旅寝せめ同じ水にも宿る月かな(春宮大夫公實)

水清みやどれる秋の月さへや千代まで君とすまんとすらん(源順)


『詩華和歌集』

秋山の清水は汲まじにごりなばやどれる月の曇りもぞする(藤原忠兼)

池水にやどれる月はそれながらながむる人のかげぞかはれる(小一條院御製)


『千載和歌集』

さらぬだにひかり涼しき夏の夜の月を清水に宿してぞ見る(顕昭法師)

あすも来ん野路の玉川萩こえて色なる波に月やどりけり(源俊頼朝臣)

いしばしる水の白玉かず見えて清滝川に澄める月かげ(皇太后宮大夫俊成)

遠ざかる音はせねども月清みこほりと見ゆる志賀の浦波(大宰大弐重家)

ながめやる心のはてぞなかりける明石の沖に澄める月かげ(俊恵法師)

石間ゆくみたらし川の音さえて月やむすばぬこほりなるらん(藤原公時朝臣)

月かげは消えぬこほりと見えながらさざ波寄する志賀の唐崎(藤原顕家朝臣)

浅茅原葉末にむすぶ露ごとにひかりを分けてやどる月かげ(藤原親盛)

照る月の旅寝のとこやしもとゆふ葛城山の谷川の水(源俊頼朝臣)

澄む水にさやけき影のうつればやこよひの月の名にながるらん(大宮右大臣)

蘆鴨のすだく入江の月かげはこほりぞ波の数にくだくる(前左衛門督公光)

夜をかさねむすぶこほりのしたにさへ心ふかくもすめる月かな(平実重)

いづくにか月はひかりをとゞむらんやどりし水もこほりゐにけり(左大弁親宗)

月のすむ空には雲もなかりけり映りし水はこほりへだてて(道因法師)

さゞ波や国つみ神の浦さびて古き都に月ひとりすむ(藤原道長)

天の川空行く月はひとつにて宿らぬ水のいかでなからん(藤原道長)

筏おろす清滝川にすむ月はさをにさはらぬこほりなりけり(俊恵法師)

さもこそは影とゞむべき夜ならねど跡なき水に宿る月かな(藤原家基)

真菅生ふる山した水に宿る夜は月さへ草のいほりをぞさす(法眼長真)

澄めば見ゆ濁れば隠る定めなきこの身や水にやどる月かげ(宮内卿永範)

み草のみ茂き濁りと見しかどもさても月澄む江にこそありけれ(右京大夫季能)

貴船川玉ちる瀬々の岩波にこほりをくだく秋の夜の月(皇太后宮大夫俊成)

いつとなく鷲の高嶺に澄む月のひかりをやどす志賀の唐崎(法橋性憲)

石清水きよき流れの絶えせねばやどる月さへくまなかりける(能蓮法師)


『新古今和歌集』

真菰かる淀の沢水ふかけれどそこまで月のかげはすみけり(前中納言匡房)

清見がた月はつれなき天の戸を待たでもしらむ波の上かな(権大納言通光)

鳰のうみや月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えたり(藤原家隆朝臣)

曇なく千年にすめる水の面にやどれる月の影ものどけし(紫式部)

石川やせみの小河の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ(鴨長明)

月さゆるみたらし川に影見えて氷に摺れるやまあゐの袖(藤原俊成)



をとめらが泳ぎし後の遠浅に浮環のごとき月浮び出でぬ(『落合直文集』)

月も水底に旅空がある(種田山頭火)




 しばしば「花の歌人」と呼ばれる西行だが、『山家集』に目を通せば、どれだけ月を多く詠った歌人であるかに驚かされる。根っからの自然詩人である彼が、旅の空のおりおりに作った歌には、夜露に点る月光や海や池に映った月影を主題としたものも多く、このイメージが彼のお気に入りであったことをうかがわす。以下、『山家集』から。




夕立のはるれば月ぞやどりける玉ゆりすうる蓮のうき葉に(夏歌)

かげさえて月しも殊にすみぬれば夏の池にもつららゐにけり(夏歌)

むすびあぐる泉にすめる月かげは手にもとられぬ鏡なりけり(夏歌)

むすぶ手に涼しきかげをそふるかな清水にやどる夏の夜の月(夏歌)

清見潟おきの岩こすしら波に光をかはす秋の夜の月(秋歌)

雲消ゆる那智の高嶺に月たけて光をぬける瀧のしら糸(秋歌)

水なくて氷りぞしたるかつまたの池あらたむる秋の夜の月(秋歌)

みさびゐぬ池のおもての清ければ宿れる月もめやすかりけり(秋歌)

難波がた月の光にうらさえて波のおもてに氷をぞしく(秋歌)

露ながらこぼさで折らむ月影にこ萩がえだの松虫のこゑ(秋歌)

夕露の玉しく小田の稲むしろかへす穂末に月ぞ宿れる(秋歌)

汲みてこそ心すむらめ賤の女がいただく水にやどる月影(秋歌)

波にやどる月を汀にゆりよせて鏡にかくるすみよしの岸(秋歌)

月すみてなぎたる海のおもてかな雲の波さへ立ちもかからで(秋歌)

水の面にやどる月さへ入りぬるは波の底にも山やあるらむ(秋歌)

浅茅はら葉ずゑの露の玉ごとに光つらぬる秋のよの月(秋歌)

月さゆる明石のせとに風吹けば氷の上にたたむしら波(秋歌)

月さゆる明石のせとに風吹けば氷の上にたたむしら波(秋歌)

光をばくもらぬ月ぞみがきける稲葉にかかるあさひこの玉(秋歌)

あらし吹く嶺の木の間を分けきつつ谷の清水にやどる月かげ(秋歌)

濁るべき岩井の水にあらねども汲まばやどれる月やさわがむ(秋歌)

伊勢嶋や月の光のさひが浦は明石には似ぬかげぞすみける(秋歌)

いけ水に底きよくすむ月かげは波に氷を敷きわたすかな(秋歌)

はなれたるしらゝの浜の沖の石をくだかで洗ふ月の白波(秋歌)

こよひはと所えがほにすむ月の光もてなす菊の白露(秋歌)

千鳥なく絵島の浦にすむ月を波にうつして見る今宵かな(冬歌)

岩にせくあか井の水のわりなきは心すめともやどる月かな(独旅歌)

いほりさす草の枕にともなひてささの露にも宿る月かな(独旅歌)

梢なる月もあはれを思あべし光に具して露のこぼるる(独旅歌)

行末の名にや流れむ常よりも月すみわたる白川の水(雑歌)

これや見し昔住みけむ跡ならむよもぎが露に月のやどれる(雑歌)

月やどる波のかひにはよるぞなきあけて二見をみるここちして(聞書集)

夜みすがら明石の浦のなみのうへにかげたたみおく秋の夜の月(聞書集)

難波江の岸に磯馴れてはふ松をおとせであらふ月のしら波(聞書集)

いかなれば空なるかげはひとつにてよろずの水に月宿るらむ(残集)

よそふなる月のみかほを宿す池に所を得ても咲くはちすかな(補遺)



 西行が花の歌人であったとすれば、


 あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月


と詠った明恵上人は、「月の歌人」である。『明恵上人歌集』にも、水面に映った月影を詠ったものが3首あったので引いておこう。



上見房行弁と申す人よみてつかはせる


なさけある人の心は清滝の 水にうつれる月かとぞ見る



清滝にうつろふ月も心ある 君に見えてぞかげもすゝ゛しき



幾夜の行ひし侍らむと、手を清めむがために手水桶のもとに行くに、
いと少なくなれる桶の水に月のうつりたるを見てよめる

夜のうちに汲みほす水にあへなくも いつまでとてか宿る月かげ

世の中のせめてはかなきためにしにや 月さへかりの宿りにぞすむ



 こうした、わが国の詩歌における水面に映った月影の系譜は、中世以降も絶え間なく続き、それは例えば、美空ひばりの『りんご追分』や最近では柴咲コウの『いくつかの空』のような歌謡曲の歌詞にまで及んでいる。

 ちなみに、歌語で「月波」「金波」「月の氷」「月の鏡」と言えば、月の光が水にうつってきらめくさま、あるいは月を写す水の面を指示するものであるが、このような歌語が成立していると言うことじたい、このイメージが和歌において特権的な主題であることを示しているようにおもう。なお、「月の氷」と「月の鏡」は歌語から出て、広く一般に使われる成語にもなっている(『広辞苑』にも載っている。)。




 いっぽう、わが国のテキストにあって、水面に映った月影のイメージが登場するのは、何も詩歌ばかりとは限らない。道元の『正法眼蔵』には、悟りを得ることを水面に月影が映ることに喩えた美しい断章がある。やや長い引用になるが全文を紹介しよう。
 
 
 人が悟りを得るのは、水に月が宿るようなものである。そのとき、月は濡れもしない、水が壊れることもない。それは広く大きな光りではあるが、ほんの少しの水にも宿り、月のすべては天のすべては草の露に宿り、一滴の水にも宿る。悟りが人を壊さないのは、月影が水を穿つことのないようなものである。一滴の水に天月のすべてが覆い妨げられることなく宿るようなものである。水に映る影の深さは天の高さと等しい。時間の長さと短さは、無量の時も一瞬の時も時であり、それは大きな水と小さな水のようなものだと考え、大きな水には大きな月と広い空が映り、小さな水には小さな月と狭い空が映るようなものだと、努めて会得しなければならない。

『現代文訳 正法眼蔵1』道元 石井恭二訳 河出文庫p25〜26


 総じて日本の禅宗と言うのは(日本の禅宗だけかどうか確かめたわけではないが)、なぜか水面に映った月影のイメージを好むようである。と言うのも例えば、有名な公案(=禅宗寺院などで参禅者に悟りを開かせる手段として出される課題)には、「水面に映った月影を掬え」と言うのがあるし、また、── これは後ほど、詳しく触れることになるのだが ── 禅宗寺院には庭園に面した楼閣などに、池に写る月影の観照を意図した例が多く見られる。それからまた、禅画にも水面に映った月影のイメージの描かれる例は多い(長谷川等伯の『猿猴捉月図』等)。『維摩経』の十喩には、「此身如水中月」とあるので、道元じしんがこのテキストを書いたときは、そこから着想を受けたのかもしれないが、『正法眼蔵』にあるこのテキストは、こうした禅宗と水面に映った月影のイメージとにつながりを作る上で嚆矢となったものとおもわれる。

 それにしても悟りについて語るとき、ここまでそれを水面に映った月影のイメージに仮託した宗教家が世界の他の国にいたためしがあったろうか。




 いっぽう、民俗学の分野からは、水面に映った月影のフォークロアが報告されている。松前健の『月と水』から事例を引用すると、神奈川県足柄郡三保村(現・山北町)には、二十三夜待ち行事に関連した次のような俗信がある。すなわち、子供の欲しい女性は、11月のこの日、夕方から屋根棟に登って、水をいっぱい入れた大きな茶碗を盆に載せ、頭でささえながら、月の出を待って祈ると願がかなうと言う。また鹿児島市には、旧暦6月16日に、16歳の男女がタライに水を入れ、月を映して拝む。これを「オタツマツ」と言う。松前はこれらの事例に触れて、「恐らく、その二例とも、その水面に映る月影が人間の生命と結びついていると言う信仰なのだろう。」と述べている。私は、足柄郡の方の事例には、月神と神に仕える巫女との、古い神婚儀礼の記憶が混入しているとおもうのだが、こうした水面に映った月影と上代の神婚儀礼のつながりについては、いずれまた触れることになろう。
 なお京都の鞍馬寺には五月満月(うえさく)祭りと言うものもある。文字通り、五月の満月の日に、本堂の前に霊水を満たした銅器を据え、満月の光りを受ける。その霊水は御利益があると言われ、信者に分与される。

 はたまた、われわれ日本人は花鳥風月を愛し、自然観賞を好んだ民族であるが、その中でも月を観賞する場合には、それを水面に映して観賞する場合がよくあった。謡曲『松風』には「さし来る潮を汲み分けて、見れば月こそ桶にあれ」の一節があり、芭蕉の句には「名月や池をめぐりて夜もすがら」がある。昔っから日本人は、風流を求めて、水をはった盆に浮かばせたり池面に映し込んだりして月を楽しんできたのだ。

わが家の水盤に映った中秋の名月

 さらにこうした月の観賞と言うことで言うなら、わが国には昔から、月を観賞するための特権的な場所と言うものがあって、そうした月の名所においても、ことに水面に映った月影が美しいとされた場合が多いのである。例えば、信州更級の姨捨山は、古くから月の名所とされ、『古今和歌集』の頃から、幾度となく月が詠われてきた場所だが、これなども刈り取りの終わった棚田の一枚一枚に中秋の名月が月影をやどす「田毎の月」が絶景とされるのである。
 京都市右京区の嵯峨野にある広沢池は、平安時代の月の名所で、当時、作られたマイナーな和詩などには、この池に映る月影を詠ったものがかなり多く残されている。現在はやや離れたところに移転しているが、当時、この池のほとりには寛朝が開基した遍照寺と言う寺院があり、その境内で八月十五夜に詩会が開かれたことが『続文粋』に残る詩会の序から判明している。この池で作られた和詩は、「遍照寺」の「遍く照らす」にひっかけて池面を照らす月影を詠い込むことが紋切り型だった。また、和歌にも広沢池におちた月影を詠ったものが多く残されており、こうしてみるとこの池は、月の名所と言うより、池に映った月影の名所だったのである。

 そう言えば、あれは『一休さん』だったと記憶しているのだが、あのテレビアニメの中に確かこんなシーンがあった。何か悲しいことのあった一休さんが、夜の川辺で物思いにふけっている。空には満月が出て、円い月影を川面に落としているのだが、一休さんがその水面の月影めがけてぼんやりと石を投げ込むと、月影はゆらゆらと揺れてから、一休さんのお母さんの顔になって再び像を結ぶ。そしてその顔が、「一休や…」と彼を励ますのである。
 こう言う昔見たアニメや映画の記憶と言うのは、当てにならないことが多いのだが、もしも本当にこの通りだったすれば、なかなかスゴイ発想だったとおもう。少なくとも、欧米人にはちょっとおもいつけない種類のものではないか。

 ちなみに、かく言う私の個人的な記憶の中でも、これまでに出会ったもっとも印象的な月の情景は、水面に映った月影を伴うものであった。それはまだ学生の頃、敦賀から小樽へ向かうフェリーが金華山沖を通過する際、甲板上から見たもので、その夜、ほとんど雲のない空に上った満月が、日本海にチラチラと月影を落としながら、異様に明るく照り輝いていたのである。もっとも、その光景は思わず息をのむ見事さではあったが、何だか落ち着かない気持ちになった私は、逃げるようにして船室に引っ込み、そこにいた友人たちにも、今、外で見てきたばかりことについては何も言わなかったのだが。

 いずれにせよ、こうしてみるとわれわれの文化的記憶に蓄積された月のイメージは、水面に映った月影を伴う場合が非常に多い。控えめに言っても、日本人は古来、かなりこのイメージを愛好してきた民族であると言えるのではなかろうか。




 もっとも、だからと言って、「世界のあらゆる民族の中で、水面に映った月影のイメージを愛好したのは日本人だけであった。」とか、「水面に映った月影を愛好したから、われわれ日本人は特別に詩的な感受性に恵まれた民族である。」とか、そんなことを言うつもりはない。諸国の文化を見渡しても、水面に映った月影のイメージは、さまざまなジャンルにおいてよういに見つかる。例えば、中国では白楽天をはじめ、多くの詩人たちが水面に映った月影を詩にしているし、だいたい、李白の最期にまつわる伝説 ── 水面に映った月影を抱き留めようとして溺死した ── が生じてからは、このイメージは彼らの間でいささか神話性を帯びたものになったと言えよう。
 ちなみに、これは後でまた詳しく触れるが、日本人がこれほどまでに水面に映った月影のイメージを愛好するようになったのも、唐詩を中心とした漢詩文化の影響によるものであった可能性が高いのである。

 西洋の詩人達の間でも、水面に映った月影のイメージはしばしば特権的なものであった。月を愛し27歳で夭折したジュール・ラフォルグには、「僕は広場の泉に水の輪をつくる月の道楽者にすぎない。」と言う言葉を残している。ここには、一種、東洋的とさえ言えそうな諦念と、自然に対する観相的な態度が感じられて興味深い。

 鎌倉の東慶寺にある水月観音は、岩上に座って、斜め下方の水面上にある月を眺めやっており、南禅寺金地院にある長谷川等伯の水墨画、『猿猴捉月図』は、樹上から猿が水面に映った月影を捉えようと池面に手を伸ばす様子が描かれている。しかしこれらの仏像や絵画の主題は、わが国の仏師や画家が創案したものではなく、先ほど触れた『維摩経』の十喩や、中国の「月桂」や「捉月」の故事からとられたものだろう。
 ちなみに、『維摩経』はほとんど漢籍でしか伝わらないそうだが、原典はサンスクリット語で執筆されたものであり、水面に映った月影のイメージが、アーリア系の民族によって古くから愛好されてきたものであることを示している。

 ワーグナーの『トリスタン』には月の出ている海辺が登場するが、『ローエングリン』には月の出ている湖が登場した。月の湖の場面はベルクのオペラにもある。ベートーベンの作品27の2のピアノ・ソナタは『月光』のタイトルで知られるが、この題名は作曲者じしんが付けたものではなく、ある音楽評論家が第一楽章を評して、「ルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう…」と述べたことから付いたと言われる。ウォルター・スコットの『湖の女』には、カトリン湖に浮かぶ島の城館に泊まった騎士が、その日出会ったの女への想いを醒まそうと月夜の戸外へ出る場面をはじめ、湖に落ちた月影の登場する印象的なシーンが何度か出てくる。あまり好きではないが、シュトルムの『みずうみ』の主人公は、月夜の晩に湖に泳ぎ出て、湖上に咲いた睡蓮の花を捉えようとして果たせなかった。
 ワーグナーのパトロンだったバイエルン公国のフリードリッヒ二世は、アポリネールの『月の王』と言う短編小説で、題名そのままの呼び名で登場する。フリードリッヒ二世=狂王フリードリッヒと言えば、彼が謎めいた死を迎えたのもやはりどこかの湖畔であったはずである(ちなみに、「luna/月」の副詞形、「lunatic」には、「狂気の」の意味もある。)。どうもアングロ・サクソン系のロマン派たちとって湖と言うのは、水面に月影を映すための特権的な装置だったらしい。

 洋画・邦画を問わず、映画に月の場面は多いが、ことに日本映画で月が登場するシーンは、水辺であると言う設定がなぜか多い気がする。当然、そのようなシーンには水面に映った月影のイメージが付き物だが(最近では『ローレライ』が、月光に照らされた洋上を航行する潜水艦のショットを、さりげなく登場させていた。)、しかし私は、寡聞にして、日本映画で水面に映った月影のイメージが出てくる場面の「きわめつけ」と言うのを聞いたことがない。
 これに対し、外国の映画にはそれがあるのであって、スペインで製作された『ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ監督)で、アナ・トレントがジェイムズ・ホエイルの映画から抜け出してきたフランケンシュタインと川辺で出会うシーンがそれなのである。
 そういえば、スティーヴン・スピルバーグ監督作品(下のコラム参照。)などを製作するマルチメディア・スタジオ、ドリーム・ワークスのイメージ・フィルムにも水面に映った月影が出てくる(三日月に腰掛けた少年が、月の映った水面に釣り糸を投げ込むやつ)。

 こうした例はまだ探せばいくらでも見つかることだろう。総じて、水面に映った月影のイメージと言うのは日本いがいの諸国の文化にもよく登場していたことになり、このイメージを愛好したのがわれわれだけだったと言えないのはもちろん、ましてや、このイメージを愛好したからと言って、われわれ日本人が特別に詩的な感受性に恵まれているとか、とくべつに繊細であるとか言うこともできないだろう。だが、だとしてみても、われわれが水面に映った月影のイメージをとても愛好してきたと言う事実じたいは変更できない。わが国で造営された庭園と建築の文化を見ながら、その検証を続けてみたい。
2005.11.10


          







【コラム】まるでワーグナーのような

 『オールウェイズ』をご存じか?

 ドリーム・ワークスにかこつけてスピルバーグの名前を出したのも、実はこの映画の話をしたかったからに他ならない。『オールウェイズ』は1989年に製作されたアメリカ映画で、監督はスティーヴン・スピルバーグである。

 スピルバーグが監督したとなると大ヒットしたような感じがするが、実はこの映画、公開当時はあまり評判が良くなかった。と言うか、今でも普通は、彼の失敗作とみなされている(淀川長治と黒沢清はどっかでほめていたが)。
 評判が良くなかった理由は色々考えられるのだが、その1つは晩年のオードリー・ヘップバーンを出してしまったことにあった。映画は、山火事を消す消防飛行機のパイロットの物語である。ところが主人公は、映画が始まって30分くらいすると、事故で死んでしまう。死んだ彼が死後の世界をさまよっていると、ヘップバーン扮する天使(?)に出会い、彼女のサジェッションで、残してきた恋人や仲間たちを幽霊として見守り、必要ならば助けてやる、と言うラヴ・ストーリーである。

 ヘップバーンが登場するシーンは2回ぐらいあったが、それを見たほとんどの人たちは、「彼女は歳を取るのが下手だ。」と痛感したに違いない。と言うのも、そこでスクリーンに登場したヘップバーンからは、『ローマの休日』(1953年)でグレゴリー・ペックと共演したときの、あの気品や可憐さが失われていたからだ。『ニキータ』(1990年)に老ジャンヌ・モローが出ていたが、スピルバーグもヘップバーンではなく、トリュフォーへのオマージュを込めて、モローを出すべきだったとおもう。

 それはともかく、確かにあまりいい出来映えではないかも知れないが、私は『オールウェイズ』が好きなのである。スピルバーグが80年代に撮った映画の中では、『ET』や『インディ・ジョーンズ』シリーズよりもだんぜんこれが好きで、初めて見たときは、失敗作だと聞かされていたものだから、「何これ、結構いいじゃん。」と意外な感じがしたものだ。最近もまた、DVDが安かったから、買ってきて何度か見直しているのだが、再見した印象も良かった。演出はスピルバーグにしては、何故かたどたどしい感じの部分が多いのだが、役者の演技などは上々で、とくにホリー・ハンターはいいと思う。彼女が料理をする珍妙なシーンは抱腹絶倒だ。

 が、この映画で一番いいのは自然である。総じて、スピルバーグの映画に出てくる自然と言うのはつまらない。『インディ・ジョーンズ』シリーズに出てくるジャングルを思い出して欲しい。こういう冒険映画に出てくるジャングル、しかもその中には財宝が隠された古代の遺跡が眠っている ── となれば、子供の頃に想像した探検旅行に出てくるような、わくわくさせる密林でなければならないはずだろう。が、『レイダース 失われたアーク』冒頭のジャングルなんて、日本のその辺にある雑木林とたいして変わらない感じがする。ジャングルだけ比較するならば、『プレデター』の方が上である。
 それから、スピルバーグと言う人は海が好きで、ほとんどの彼の映画には海が出てくる気がするが、それがまた実につまらなくて、魅力のない海なのである。例えば、木下恵介監督の『二十四の瞳』に出てきた海と比べれば、『アミスタッド』の海などは本当につまらない。『オールウェイズ』は彼の映画としては例外的に海が出てこないが、かえって、それが幸いしているのかもしれない。

 もっとも、もしかしたら、彼の海をけなすと、「『ジョーズ』の海は? あれは良かったじゃない?」と言う人が出てくるかもしれないので、あえて言っとこう。確かに、『ジョーズ』の海は良かった。特に、鮫の視点で海水浴客の下半身が並んでいる海中をすり抜けるショットや、海面すれすれにキャメラを据えた犠牲者のショットなどはすごく良かった。だが、あれは海ではない、プールの延長なのである。ウソだと思う人は、『A.I.』や『マイノリティ・レポート』を見るがよい。ただちに、納得されるはずだ。

 まぁ、そんなことで、スピルバーグと言う優れた監督も、自然にキャメラを向けると生彩を欠いてしまうことが多いのだが、それもこと『オールウェイズ』に関しては当てはまらないのである。見ている途中、「え、これがスピルバーグ?」と思ってしまうほど、そこに出てきた自然には生命感と迫力があった。ただし、『オールウェイズ』の自然は、やや特殊である。例えばこんななのだ、── 湖水と大河、針葉樹の大森林、靄に差し込む朝の光線、天空を焦がす火炎の柱、湖面に落ちる月影、とつじょ雲と雲の間に生じる回廊、そう言ったものが『オールウェイズ』の自然だ。
 そしてそれはまるでワーグナーの楽劇の世界のようではないか。じっさい、『オールウェイズ』の世界は、驚くほど『指輪』の舞台を連想させる。あるいは、ここにこそ、スピルバーグの可能性の中心があるのかもしれない。『シンドラーのリスト』を撮り、彼自身もユダヤ系であると言うこの監督を、いつかバイロイトが舞台監督として呼び寄せたらどうだろう。スピルバーグのバイロイト。スピルバーグのワーグナー。今でもある種の負のイメージを負わされているワーグナーと彼の母国にとって、この組み合わせの実現は、天からの授かり物であろう。スティーヴンよ、『宇宙戦争』なんか撮ってないで、バイロイトへ行け、バイロイトへ。

H17.09.05







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