01.最初の出会い |
月瀬の大神神社 |
私が、水面に映った月影のイメージに興味をもったきっかけは、奈良県月ヶ瀬村(当時)に鎮座する大神(おおが)神社を訪れたことであった。
大神神社の石祠(覆屋の中に納まっている)
「祭神 月読尊」
月ヶ瀬村は奈良県北部の山村で、奈良市東方の山中にある(月ヶ瀬村は平成17年4月、奈良市に編入された。)。この神社は同村の月瀬と言う集落に鎮座し、創祀年代・由緒等は不明であるものの、伝承によれば、大和国一宮である桜井市の大神神社を勧請したと言う。
が、この伝承は本当だろうか。
と言うのも桜井市の大神神社は、記紀にもあるとおり祭神として大物主神を祀っているのだが、月ヶ瀬村の大神神社の祭神は月読尊なのである。およそ、「みわ(大神、三輪、美和、神等々)」と言う名の神社は全国に分布しており、その中には式内社も少なくないのであるが、祭神はまず例外なく大物主命であり、控えめに言っても、月読尊を祀る大神神社と言うのは、かなりまれなケースのようにおもわれる。
この月ヶ瀬村の大神神社が、他の「みわ神社」と比較して奇異に感じられる点は祭神だけではない。
総じて、桜井市の大神神社をはじめとする各地の「みわ神社」は、農耕神を祀る神社である。現在でも、全国の「みわ神社」周辺には、低い山に囲われた平野部に田の広がるのどかな情景の見られることが多く、しかもしばしば、付近には条里制の遺構が見られ、「みわ神社」を奉斎した古代氏族、三輪氏によって、鎮座地周辺の開発が古くから進められていたことを感じさす。
いっぽう、月ヶ瀬村の大神神社はと言うと、当社が鎮座しているのはそういう農耕に適するような平野部のまったくない地勢の場所なのである。当社のある月瀬をはじめとして、月ヶ瀬村全域は傾斜のきついV字谷に立地しており、その様子は、他の「みわ神社」が鎮座する地域で見かけるような牧歌的情景とかけはなれている。したがい、どうも当該大神神社は、各地の「みわ神社」のような農耕神を祀った神社とはおもえない。
このように考えてくると、月ヶ瀬村の大神神社は、伝承と異なり、どうも桜井市の大神神社とは別系統の神社である感じがしてくる。当社の西方には双見山と言う山がある(あった)。どうやらこの山は当社の神体山だったらしいのだが(下の『大神神社と双見山』参照)、このように山を祀ることからの連想で、まずは社名が附会によって「大神神社」となり、さらにそこから「桜井市の大神神社を勧請した。」と言う伝承が後付けされたのではなかったか。
以下、月ヶ瀬村の大神神社は、桜井市の大神神社とは別系統の祭祀を源流とした神社であるとして論を進める。
月ヶ瀬村の大神神社が、桜井市の大神神社とは別系統であるとしたら、その祭祀の源流はどこにもとめられるのか。その手かがりは、当社の祭神が月読尊であることにあるとおもう。そうして、当社の祭神が月読尊であることは、鎮座地の「月瀬」と言う地名と関係がありそうだ、── そんなふうに考えて『月ヶ瀬村史』を調べると、次のようにあった。「いにしえの人たちは、満月が川面に映え、川瀬で乱れきらめくその素朴な美しさを愛好し、この里の名を月瀬にしたと伝えられる。(P891)」(※)
だが、この地名起源も釈然としない。と言うのも、川さえ流れていれば、満月が川面に映る場所など、どこを探してもあるはずなのに、どうして月瀬のいにしえ人は、ことさらにその光景に強い感情を抱き、地名にまでその様をうたったのか、 ── そうした問いには、これからおいおい答えてゆくことになるが、私が水面に映った月影のイメージに何か特別なものを感じたのは、この『月ヶ瀬村史』の記事が最初だった。
【コラム】大神神社と双見山 |
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月瀬の大神神社を訪れた参拝者は、このページのいちばん上にある画像に写った石段を登って参拝する。通常なら、この石段を登り切った正面に当社の社殿があると予想されるだろう。ところが、石段を上った正面にある小屋は納札所か何かで、社殿ではないのである。当社の社殿は石段を登った右側にあり、このため参拝者は、登ってから一度、右に向かって直角に向き直らなければならない。あまりこういう平面プランをした神社と言うのは他に無いような感じがするが、ではどうして、このようなプランが生じたのだろう。 まず、何らかの地形的な理由があってそうなったことが考えられる。ところが、納札所の小屋は、画像を見れば分かる通りそれなりに大きい(石段の上の、木と木の間から顔を覗かせている小屋)。いっぽう、当社の本殿は上の方にある画像を見れば分かるとおり、それほど大きくはない石祠なのである。してみれば、やろうとおもえば最初からこの小屋のある場所に本殿を建てることができたはずで、つまり、地形上の制約からこうした変則的なプランが生じたとは考えずらいことになる。 次に信仰上の理由を検討する。桜井市の大神神社は、拝殿だけで本殿がない。背後の三輪山が神体なので本殿を設ける必要がないのである。総じて、各地の「みわ神社」においても、山を神体として祀っているケースは多いが、その場合、本殿がある場合でも、だいたい背後に神体山がくるような向きで社殿が建っている(ただし、神体山の山頂をピタリと指し示す、と言う程、厳密でもないのだが)。こうしたことは、山を祀っていた時代の名残をおもわせるもので、してみると、月瀬の大神神社においても社殿の背後を探せば、神体山らしき山が見つかるかもしれない。 そう思って、『月ヶ瀬村史』を調べると、当社の社地から谷をはさんで西方には、双見山と言う山があり、その山の山頂には、「弁天さんの森」「天神さんの森」と呼ばれる森があって、天満天神社、双見神社、金刀比羅神社の3社が鎮座している、とあった。こうしたことは、じゅうぶんにこの双見山が神体山であったことを思わすものである。 |
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つぎに、この双見山が大神神社の社殿背後辺りに位置しているかどうかだが、一応、大神神社の社殿は東南東(120〜130゜)を向いている。いっぽう、双見山もだいたいその背後に来るような感じがする
── 「来るような感じがする」と言う曖昧な書き方しかできないのも、現地に行って驚いたのだが、双見山は現在、県の山崩れ対策事業により頂上付近が等高線に沿って水平にカットされてしまっているのだ。おそらく、この工事に伴い、山頂にあったと言う「弁天の森」や「天神の森」も消滅したろう。天満天神社以下の3社はげんざい、新しく造られた駐車場(山頂をカットして生じた平坦地部分を利用したもの)の一画にかためて遷座されてあった。 とはいえ、『月ヶ瀬村史』によると、双見山の山頂にあった神社群は、そこへ登る道が急峻で参拝に苦労したため、大神神社の境内に遙拝所を設けて拝せるようにしたとある。現在でも当社の境内の西隅には、ここに書かれている遙拝所らしきものがあったので、大神神社の境内から双見山を拝する信仰のあったのは事実だ。こうしたことは、大神神社じたいもほんらい、この山を神体として祀る神社であった可能性を感じさす。 その場合、次のようなことが考えられる。当社は桜井市の大神神社と同じく、もともとは常設の社殿がなく、神体山の双見山を拝する拝所として出発した自然信仰の神社であった。それが、社殿が設けられるようになった後世になってからも、山を拝していた頃の記憶が抜けきらず、背後に双見山を背負うかたちの、現在みられる社殿の向きが採用され、ここから、あの変則的なプランが生じた。 当社の文献上の初見は、『大和志』にある「月瀬村坐神祠」であり、本殿の石祠は様式上、室町期の作例とされる。なお、社殿左手には、石垣に開口部が設けてあり、中には湧水があった。こうした湧水の存在は、神体山を祀る神社ではよく認められるが、祭祀遺跡かもしれない。 |
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[天満天神社] 祭神 菅原道真。森の東側から石段を設け東面に祀られている。梅栽培の隆盛と烏梅販出の安全を守るために、北野天満宮から分祠したとされている。この天満天神社は五月川の渓谷を経て尾山の天満宮と相対し、向い天神とも呼ばれている。 [双見神社] 祭神 市杵島姫命。地元の人たちは「弁天さん」と呼び崇敬している。祠は森の中央より西側寄りに広島県の厳島神社の方に向かい、天満天神社とは背を向け合うようにして祀られている。社祠は石造で村内の他の石造社祠と比べるととくに大きい。 [金刀比羅神社] 祭神 大物主神。天満天神社と厳島神社は森の中に社祠があるが当社は森を背にその南端に祀られている。 ・『月ケ瀬村史』P1206〜1207 |
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※ | 月ヶ瀬は、古くは月ノ瀬とも称していたが、明治以降は月瀬となり、ついで、昭和43年の村条例によって月ヶ瀬村になった。現在では、平成17年に奈良市に編入されている。 角川の地名辞書には、「この地より東下の梅渓と五月川せせらぎの面にうつる月影の美は正に月と瀬の風情」と言われたことにちなんだとあった。月ヶ瀬村はかって、梅花や月の景色を愛好する文人墨客が訪れる名所であったが、角川の方に引かれた流麗な文章は、そんな文人たちの誰かが言い残したものだろう。『月ケ瀬村史』にあるものの方が、明らかに素朴なので、より古いものと言う感じがする。 |
2005.08.28
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