は じ め に   

 これは私の偏愛する『宝剣子狐丸』という伝承です。



 昔、布留にひとりの若者があった。父の病気平癒を祈って、毎月信貴山へ裸足参りをしていた。すると、いつも途中で休む竜田の茶店の女に恋慕された。男は、妻のある身なので、女をさけて逃げて帰った。女は男の後を追った。大和郡山市八条町(旧生駒郡平畑村八条)の菅田神社まで逃げ延び、社の後ろの松の木によじ登った。松は一夜に大木となって、若者を隠した。女は木の下の水に映った男の影をみて、身投げしたものと思い、その身も身投げして死んだ。
 それから後、その水に大蛇が住み、田畑を荒らし、嫁入りの花嫁を取ったりして、大いに地方の人を苦しめた。
 ここにまた、布留郷にひとりの婦人があった。寒中に菅田の森を通ると、一匹の小狐が子を抱えながら、乳がなくて困っているのに会った。婦人を狐をあわれんで、その後、毎夜そこに通って小狐に乳を授けてやった。狐はその謝礼として一口の劍を婦人に贈った。これは、狐が刀鍛冶の弟子に化けて、向槌を打って作ったものであった。後に小狐丸といわれるのはこれである。
 婦人は、狐の助力により、この小狐丸を揮って、かの大蛇を退治した。そして、その劍を郷社の布留明神に献上した。布留明神とは、今の石上神宮である。
 菅田神社の、若者が隠れた松は、一夜の松と呼ばれ、今は幹ばかり残っている。大蛇が花嫁を取ったところは「なしが辻」」といい、今も嫁入りの行列はいっさい通らない。布留郷の婦人が、小狐丸を石上に持参の途中、三島の庄屋敷の東、ウバガイデ(姥が堰)で、血のりを荒い清めたという。その地は今、天理教本部の東門前にあたり、暗渠となっているから、見られない。
 小狐丸は、今も石上の神宝の中にある。維新前に古墳の盗掘が流行したころ、この劍を持って行くと、たたりがないといわれ、一時盗賊の手に入って魔除けに使われていた。その後、ある殿様の手に入ったが、これは尋常のものではないというので、基の石上にかえった。その後また盗難にあったことがあるけども、今はまたもとに帰っている。
 この劍を抜くと、小狐の走る姿が現れるということである。
・『大和の伝説』奈良県童話連盟修/高田十郎編、大和史蹟研究会、P85〜86



 一読して分かる通り、この伝承はかなり複雑な構成をしており、もともとは別々であった複数の説話が寄せ集められて出来たような感じを与えます。じっさいここには、「小鍛治」や「安珍清姫」から取られたモチーフが指摘できるので、そのような感じは的はずれではありません。しかしながら、いっぽうで私が引かれるのは、そこに菅田神社と石上神宮という、2つの式内社の名前が見出せることです。特に前者は、上代に金属器の製作に従事した菅田首という古代氏族が氏神を祀った社ではなかったか、と言われます。そのような神社の名前が登場する伝承に、「小鍛治」からの附会とは言え、こうして子狐が相槌を打つという鍛治のモチーフが見られるのははたして偶然なのでしょうか。

 ここではこれから、そうした問題に取り組みながら、鍛治というこの魅力的な主題についての考えを深めていきたいと思います。ただしその独特の歩みは、光から影へ、影から夜の方へ、です。

 なお、私は『宝剣子狐丸』についてすでにこのサイトで、「『宝剣子狐丸』と菅田首」というシリーズ名で2つのエッセイをアップしていますが、今回、全体の構成を改めて新シリーズとして立ち上げることにしました。


も く じ

一. 鬼に喰われた話
二. 忘れられた祭礼
三.
四. 小狐の到来: 1.オイディプスの腫れた足
五.


 






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