『宝剣小狐丸』と夜の方に

四.小狐の到来01.オイディプスの腫れた足


★「。。。」の続き





 1798年、フランスのアヴェロンの森で11〜12才くらいの謎の少年が捕獲された。少年はキノコ採りにきていた農婦を驚かしたため、彼女の通報により山狩りにあって捕まったのだが、森の中を獣のように両手両足を使ってたいへんすばしこく移動し、非常に巧みに樹に登ることができたので、もしも猟犬の助けがなかったら彼を捕まえることは不可能だったろう。
 捕まったとき、この少年は衣服を身に着けておらず、唸ったり吠えたりするだけで言葉はまったくしゃべれなかった。また、猟犬におそわれた彼が逃げ込んだのは、住居としてこの少年が住まっていた地面の小さな穴だったが、これは他の動物が巣穴にしていてもおかしくないようなしろものだった。すなわちこの少年は、文字通りの野生児だったのである。彼を診察したパリの医師たちは、この謎の少年が3〜4才の頃、森に捨てられ、それ以後、文明社会からまったく孤立して生活してきたと診断した。後に「アヴェロンの野生児事件」として知られるようになり、今でも心理学の教科書などに(名前だけは)よく紹介される事件の発端である。

 フランソワ・トリュフォーは『野生の少年』で、この少年を自宅に引き取り、人間としての教育を授けようとしたイタール博士の実話を映画化している。映画の脚本は1806年に刊行された博士による手記、『アヴェロンの野生児』に基づいているので、この映画に登場する場面は、それとほぼ同じ出来事がじっさいにあったと考えてさしつかえないだろう。


 ヴィクトールと名付けられたこの少年はやがて、博士と家政婦のゲラン婦人による献身的な教育によって次第に文明生活を身に着けてゆく。着衣は博士の家に来てからの彼がもっとも早く受け入れた文明の習慣だが、映画では博士がわざとヴィクトールの部屋を寒くしておくと、彼が自分からズボンを履くというシーンがあった。ところがこのように服を着ることはすんなりと受け入れた彼ではあったが、靴を履くことに対してだけは激しく暴れて抵抗し、あまつさえ靴を履かされて転ぶと、強い不安にかられて助け起こそうとしたゲラン婦人の指に噛みついたりするのである。



 北米大陸最後の野生インディアンであったイシの評伝、クローバーの『イシ』にもまた、彼が文明社会で暮らすようになってから着衣の習俗はすんなりと受け入れたが、靴を履くことにだけは最後まで抵抗したことが触れられている。



 服を着たり脱いだりするのは、これまでふんどしだけをしめ、寒ければ肩掛けをまとうだけであった人間には、窮屈で不快だろうと予想された。しかしイシは、前述のように靴は苦手であったが、服にはすぐ慣れた。靴だけは数ヶ月間拒否していた。外出の際に靴をはいたほうが具合がよくはないかと訊かれると、彼は「ここの地面は石でできている。いつも石の上を歩いていると靴はすぐすり切れてしまうが、わしの足なら絶対にすり切れない。」と答えた。

 ・シオドーラ・クローバー『イシ』岩波現代文庫、p244



 クローバーの『イシ』もトリュフォーの『野生の少年』も、未開の環境で育った人々にとって靴を履くことが、いかに文明生活へ移行するための最初の試練であったかを証言している。あるいはわれわれもまた、生まれて初めて靴を履かされたとき、一度はこうした抵抗をこころみているのかもしれない。
 おもうに野生人が靴を履くことに対して示したこのような抵抗の根底には、たんに靴を履くことが窮屈でしょうがないとかといっただけではない、もっと根元的な理由があったのではないか。しかし、だとすればその根元的な理由とは何か?

 例によって精神分析学は、夢やおとぎ話などに登場する靴に性的なもの≠ニか現実に対する立場≠ニいったような意味を認めている。が、それは市民社会で生活する文明人としてのわれわれには当てはまるものの、ヴィクトールやイシのような野生人たちにはあまり当てはまりそうにない。むしろ彼らにとって深刻なのは、靴はそれを履くことでわれわれと大地とのつながりを断ってしまう、ということではないか。その場合、靴を履くこと≠ヘ両義的になる。というのも、われわれは靴を履くことで大地とのつながりを失うが、そのいっぽうで「文化」を手にするからである。ここで「文化」と対置される「大地」とは、「自然」の謂いと考えてほしい。つまり人類の文化史において靴を履くこととは、火の使用と同じくに、自然の状態と文化の状態を分けるファクターなのである。イシやヴィクトールが最初に靴を履かされるときに示したあの抵抗も、大地/自然とのつながり断たれることに対する野生人ならではの本能的な恐れから生じたようにおもわれる。

 しかしわれわれが靴を履くことで大地とのつながりを失ったとすれば、そのつながりをふたたび取り戻すためにはどうすればよいのだろうか。靴と大地性という主題を変奏しながら、しばらくここで、こうした問題について考えてみたい。






   





 継母と2人の姉からいつもいじめられ、つらい家事労働をさせられながら竈のそばで毎晩、寝て暮らしているシンデレラは、気だてが優しくて美人だがいつも灰まみれの格好をしている。ある日、お城で王子が舞踏会を開く。継母と2人の姉は美しく着飾って出かけてゆくが、着ていくドレスのないシンデレラは家に残って泣いているしかない。するとそんな彼女のところに妖精が現れ、魔法の力で灰まみれの服を、金糸銀糸で織られた見事なドレスに変えてくれる。かぼちゃの馬車に乗ったシンデレラがお城にでかけてゆくと、舞踏会に来ていたどの娘も彼女の美しさにはかなわなかった ──

 シンデレラの物語は、ペローやグリムの童話によって有名だが、9世紀に成立した中国の『酉陽雑俎』には文献に見られる最古のシンデレラ・ストーリーが見られる等、このタイプの物語はヨーロッパだけではなく、中国や中近東をはじめとしたユーラシア大陸全域において異文がみとめられる。ちなみに、スウェーデンのアンナ・ビルギッタ・ルースという民俗学者が書いた『シンデレラ・サイクル』という本には、じつに700ものそれが世界中から集められて紹介されているそうだし、ルース以後も、わが国で前澤謙一氏が新潟を中心に日本のシンデレラ談を100話近く民話採集している。こうしたことは、シンデレラの物語が想像を絶するほど古い時代から行われていたことを示唆するものだ。

 それはともかく、シンデレラのことをここで取り上げるのも、靴がこの物語において特権的な役割をはたしているからである。すなわち、物語の後半、お城の舞踏会で王子と踊っていたシンデレラが十二時の鐘が鳴ったのであわてて家に戻ろうとしたところ、ガラスの靴を片っぽ落としてしまい、王子はその靴を手がかりにシンデレラを探し出し、二人は結ばれるのである。



 中沢新一氏は『人類最古の哲学』で、シンデレラが靴を片方だけ落としたことはギリシア神話におけるオイディプス王の神話群と関係があるのではないか、としたレヴィ・ストロースの見解に注目している。ソポクレスの『オイディプス王』に基づいてこの神話を紹介する。


 オイディプスは、テーバイ王、ライオスと王妃イオカステの間に生まれたが、彼は成人したら父を殺すという神託があったため、これを恐れたライオス王によって生後間もなく野に捨てられてしまう。しかし牧人に拾われたオイディプスはコリントス王の宮廷で皇子として育てられる。やがて成長した彼は、自分の本当の素姓を知ろうとしてデルポイに赴き神託を請う。ところが、神は素姓の代わりに恐ろしい運命を彼に告げる。すなわち、オイディプスが生まれ故郷にいるかぎり、自分の父を殺し、母と交わるというのだ。
 自分はコリントスで生まれたものとばかり思っていたオイディプスは、この不吉な予言を信じてそこを離れるが、旅の途中、たまたまテーバイに近い辺りにさしかかったとき、道の向こうからやってきたライオス王といさかいとなり、父とは知らずに殺害してしまう。

 当時、テーバイに至る街道筋には、頭は人間の女で胴体はライオン、鷲の翼をもつという怪物のスピンクスが現れ、旅人たちに「朝には4本足、昼には2本足、夜には3本足で歩く者は何だ?」というよく知られた謎を出し、答えられないと谷底へ突き落として殺していた。このため、テーバイへの往来は途絶え、街は荒廃して存亡の危機に陥っていたが、オイディプスはスピンクスのところへ行って謎を解き(もちろん答えは人間=B)、怪物を谷底に突き落として退治する。テーバイを救った彼は王として迎えられ、寡婦となっていた王妃イオカステを(実の母とは知らずに)娶って二男二女をもうける。

 やがてテーバイに厄災が訪れる。作物は芽のうちに枯れ、家畜は死滅し、市民たちに間には子供が産まれず、しかも悪疫が流行りだす。神託によれば旅の途中で殺害されたライオス王殺しの犯人を見つけ出して追放しない限り、この事態は打開されないという。
 民衆からライオス王を殺害した犯人の捜査を懇願されたオイディプスは、自分が下手人であることも知らずに犯人さがしに乗り出す。やがて彼はコリントスから来た使者によって自分がコリントス生まれではなくテーバイの生まれであることを知り、さらにはライオス王を殺したのは自分で、妻のイオカステが実母であるという事実に突き当たる。絶望したイオカステは自害し、オイディプスは自ら目をつぶしテーバイから放逐され、全てを失って野をさまよう、──



 この神話は、そこに見られる父殺しやインセスト(近親相姦)によって強烈なインパクトを与える。フロイトがオイディプス・コンプレックス(エディプス・コンブレックス)という術語を、オイディプス王の名から取ったことはあまりに有名だ。



オイディプス・イメージ

 一伝によれば、オイディプスはスピンクスに回答するとき、自分のことを指さしながら次のように言い放ったという。「それはこの自分、すなわち人間である。」 と。じっさい、古代の美術作品でもスピンクスと対面する彼はしばしば自分を指さしたポーズをとっている。

 スピンクスと対決するオイディプスを描いた絵画作品としては、アングルとモローのものが比較的有名だが、画像はアングルの『スフィンクスの謎を解くオイディプス』(部分、ルーブル蔵)である。
 ここでもオイディプスは自分のことを指さしており、アングルが古典古代の作品をよく研究していたことをうかがわせる。これに対し構図からいってこの絵から影響を受けていることが推察されるモローのオイディプスは、超然としていてもはや自分のことを指さしてなどいない。



 それはともかく、古い時代に行われていたオイディプスの神話では、彼は跛者であることになっていたらしい。というのも、オイディプス≠ニいう名前は、「oidi(腫れた)」と「足(pus、pos)」の合成語で、「腫れた足」を意味しているのである(※1)。


 中沢氏は前揚書で、オイディプス王が跛者であることについて論考したカルロ・ギンズブルグの『骨と皮』を大きく取り上げた。


 ギンズブルグはこの長い論文において、長々とオイディプス王の神話群を分析した末に、片足の不自由という重要な主題がそこに潜在していることをしめします。オイディプスは大地に縛られている存在なのです。大地に縛られているために、彼は跛行しなければならない、と考えられました。半分大地に縛られて、彼は自由に動けない存在なのです。

 ・中沢新一氏『人類最古の哲学』講談社選書メチエ、p
166


 ギンズブルグは、神話にみられる跛者とは「半分大地に縛られて、自由に動けない存在」の神話的な表現にほかならないと考えた。これを敷延して中沢氏は次のように話しだす。ちょっと長くなるが引用を続ける。


 ここで言われている「人間の大地性」は、深い実存的意味を持っています。個体の生存を包んでいる大いなるものがあります。これが「大地性」のイメージの根元にあるもので、しばしば母親や女性のイメージと結合して、「大地母神」のような考えを生み出してきました。このような観念には普遍性があります。もはや神話の観念が通用しないように見える現代社会でも、個体の生存はそれを包み込む「種」のためにしか意味を持たず、その永続性を支えているのが遺伝子なのだという考えが受け入れられています。こういう現代の考え方においても、個体の実存を縛っている、なにかとてつもなく深く重たいものの存在が考えられています。個体はその中にあって自由に動くことができません。そういう重力を持った不動性の存在を「大地性」と昔の人は言ったのですから、人間の実存の条件はいまでも変わっていないと言えるのではないでしょうか。
 私たち人間は、もともと大地から生まれた、と考えても間違いではないのです。私たちは大地から生まれ、死ねば大地の中に埋葬されていきます。母親の身体を通じてこの世界に生まれてくる前、私たちは大地性につながれていた。そして個体性を得てからでさえ、そこから完全に切り離されることはありません。

 ・同書p
166〜167


 ここには跛者の問題が大地性のそれと深く関わっていることが鋭く捉えられている。そうしてオイディプスの場合、明らかにそれは(彼自身は知らずにそれをやったとはいえ)父殺しや母とのインセストといった自然(大地)に背反する彼の行為と密接に関係しているのだ。ユングは足について、大地にもっとも近い器官としての足は、夢の中でも地上的現実への関連を示しているとし、しばしば生殖器ないし男根の意味を体していると述べた。種村季弘氏は『畸形の神』でこれをふえんし、跛者とは大地(母性)との接触に失敗した者とした(※2)。
 こうした解釈は、跛者とは半身を大地性につながれ、それを引きずるものとしたギンズブルグのそれのまったく逆である感じもするが、それは表面的なことであって、大地との距離の取り方に失敗した者であるという意味において両者は同じ方向性を示している。すなわち、ギンズブルグにとって跛者とは大地との距離があまりにも近すぎる者であり、逆にユングをふえんした種村氏にとってそれは、大地との距離があまりにも離れている者なのだ。そうして、オイディプス王の神話における父殺しや母とのインセストは、オイディプス王が跛者であること、すなわち大地(母性)との適正な距離を取ることに失敗した者であることからに起きたことなのだ。


 そうじて、この神話には何かしら悪魔的で、暗いものが感じられる。そしてそうした悪魔性や暗さは(後でも触れるが)世界中の神話に登場する鍛治師がしばしば跛者であったことに感じられる悪魔性や、「鬼に喰われた話」の冒頭でも触れた、古い金物に感じられるあの暗さと同じ階調である気がしてならない。ここには、鍛冶の問題に通底する何かが感じられる。
 ただ、それはそれとして、靴を介して大地のイメージを論じようとするここでは、オイディプスの神話はこれくらいにして、シンデレラのことへと話を進めなければならない。




 靴を脱いで歩こう 
 「出エジプト記」の第三章第五節で、神の山ホレブにいたモーゼが燃え尽きることなく炎をあげている不思議な柴に近づこうとすると、ヤーヴェが火の中から警告して「ここに近づいてはならない。足から履き物を脱ぎなさい。あなたの立っている土地は聖なる土地だから。」と言う。聖地では靴を脱いで素足で地面を踏みしめるのが作法なのだ。

 わが国にも、正式には靴を脱いで参拝すると伝わる神社がいくつかある。おそらくこのようなしきたりは、かつては全国のあらゆる古社で行われていたのではないか。だから私も、神気こもれる≠ニいった感じの神社に出会って感動すると、素足になって社殿の周囲を廻ったりする。そしてそんなとき、靴を履くことで人間が失ったものの大きさについて考えてみたりする。
玉前神社
 千葉県長生郡一宮町にある玉前神社には靴を脱ぎ裸足になって社殿の周囲を廻れる「はだしの道」というのがある。ザクザクと玉砂利を踏んで歩めてたいへん気持ちがよい。

 当社は『延喜式』神名帳の上総国に登載のある唯一の明神大社で、同国一宮、旧国幣中社。黒塗りの社殿が美しい恋の社だ。


いいっすよ。



※1  ライオス王が赤子のオイディプスを捨てたとき、彼の足を金のピンあるいは鉄串で刺し貫いてからそうしたという異文もあるらしいが、ケレーニイはこれについて、「腫れた足」という名を説明するために後世のギリシア人が付け加えたものであることを示唆している。

※2  この章のタイトル「オイディプスの腫れた足」は、種村季弘氏の『畸形の神 あるいは魔術的跛者』の第12章のそれを使わせもらっています。








2008.05.30





『人類最古の哲学』 中沢新一氏 講談社選書メチエ
『闇の歴史』から
 「骨と皮」
カルロ・ギンズブルク
竹山博英・訳
せりか書房

『イシ』 シオドーラ・クローバー 岩波現代文庫
『オイディプス王』 ソポクレス 岩波文庫
『シンデレラ』 アラン・ダンダス編 紀伊國屋書店

『野生の少年』(DVD) フランソワ・トリュフォー監督・主演 20世紀フォックス ホーム エンターテイメント
『フランソワ・トリュフォー映画読本』 山田宏一氏 平凡社

『畸形の神 あるいは魔術的跛者』
種村季弘氏
青土社
『ギリシアの神話 ── 英雄の時代』
カール・ケレーニイ
上田兼義氏訳
中公文庫
『ギリシア人の性と幻想』から
 「スピンクスとプラトン『国家』に見る三機能体系」
吉田敦彦氏
青土社

『変容の象徴』
カール・グスタフ・ユング
筑摩書房
『おとぎ話における影』
M-Lフォン・フランツ
氏原寛・訳
人文書院










          











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