『宝剣小狐丸』と夜の方に

二.忘 れ ら れ た 祭 礼


★「鬼に喰われた話」の続き





 そろそろ『宝剣子狐丸』の話を始めたいとおもう。この伝説に見られる子狐が相槌を打って剣を鍛えるというメーンモチーフは、謡曲『小鍛治』から取られたものである。



 一条院は不思議なお告げがあったために、三条の小鍛冶宗近に剣を打つよう勅命をくだす。適当な相槌がいないので困った三条宗近が、氏神の稲荷明神に参詣して助力を祈願すると、稲荷明神が童子の姿で顕れ、和漢の名剣の故事、なかんずく草薙剣のそれを説いてから、力添えを約束してまた稲荷山に隠れる。
 自宅の宗近がしめ縄を張った壇に登り、神々に祈願するとふたたび童子が顕れて相槌を打ち、一振りの剣を鍛え上げる。打ちあがった剣の面に小鍛治宗近、裏に子狐と銘を入れ、天皇の勅使に捧げると、子狐は稲荷山に帰ってゆく。



伏見稲荷神社
 ここには、主人公が神仏や精霊の相槌によって剣を鍛えるというモチーフが見られるが、これからそれを「小鍛治型モチーフ」、そうしたモチーフをもった伝承を「小鍛治型の伝承」と呼ぶとしよう。

 さて、小鍛治型の伝承、なかんずく大和の菅田地域を舞台とした『宝剣小狐丸』のそれについて考える場合、まず謡曲『小鍛治』の成立について考えてみなければならない。そのことは、これからの説明で分かるとおもう。


 まず、『小鍛治』について、一般的な見解を見ておく。
 この謡曲は作者不明とされ、成立時期も分かっていない。天正六年(1578年)に石山本願寺で金剛大夫が演じたのが、記録に残る『小鍛治』の最初の上演という。

 『謡曲大観』の佐成謙太郎氏はこの曲に見られる伝承について、「著名な技芸伝説として語り伝えられたものであるが、その典拠と見るべきものは見当たらない。」とし、また小狐丸のことは鎌倉初期に成立した『保元物語』にも出てくるが、そこには小鍛治宗近のことが出てこないため、「その頃にはまだこの説話は広く行われていなかったものと思われる。あるいは能作者が名工小鍛治宗近と小狐丸とを結びつけ、小狐から稲荷明神を連想してここに技芸奇譚説話を組み立てたものではなかろうか。」としている。
 また、東京堂出版の『神話伝説辞典』は、この伝承について「当時行われていた伝説によったものであろう。」としている。

 こうしてみると『小鍛治』は出典不明で、当時、そこに見られるような伝説が行われていたのは確かだが、それ以外のことは分かっていないらしい。が、それでは何も分かっていないのと同じである。そこで、以下に引用する石上神宮の古縁起書、『和州布留大明神御縁記』に注目してみる 。
★ 私の引用文では、文字化けを防ぐために古い字体の漢字を適当に当用漢字化している。レ点や返り点のついた正確な本文を知りたい方は、『神道大系 神社編 大神・石上』所収の『和州布留大明神御縁記』を参照されたい。





 
和州布留大明神御縁記

【A】
 龍考神代昔、々素戔嗚尊謫雲州時、□□□中坐少女而泣、少女甚美也、素尊問、何為□□、対曰、我有八児、其七已為蛇、今此一女又□□脱故哭、素尊曰、興少女於我、可解斯□□母喜諾、吾將献、素尊問曰、其蛇其形如何、対曰、八首八尾甚可怖也、素尊乃設八槽、盛以?酒、装少女、奥山頂、其影沈八槽、大蛇見之以為真女、便嬌八頭飲八槽、已而?醉、不寝、素尊抜所佩十握剣、斬蛇、至一尾刀少欠、割而見之有宝剣、素尊奉剣於天照大神、太神曰、我屏天巖時、落此剣于近州伊布貴山、是我神剣也、初太神在天宮也、召其孫瓊杵尊曰、葦原中津国者、吾孫胤統御之地也、宝詐之隆当與天壤無窮、即以草薙剣授之、降下土照臨斯民、累世為国鎮為国宝、人王十代至崇神皇帝、恐剣於霊威、召良治摸打、獻古剣于伊勢太神宮、新剣留王宮、三器其一也、又、人王十二代景行天皇御宇、東夷叛、帝以皇子日本武尊為元帥、征夷、武尊承詔東征、先詣伊勢太神宮、太神賜此剣、赴東、武尊佩剣、至駿州浮島原、諸夷謀曰、皇子雄略勇健、非我等所伺、当設奇計、乃白言、皇子神威夷賊不敢拒命、此地宣遊猟、皇子虞遊可乎、武尊諾、已而夷賊縦火、于時初冬、窮野枯草煙焔迅飛、武尊抜剣揮之、四蒡一里草木芟夷、其火自止、依之名草薙剣、又、初蛇帯此剣、其尾常有雲気、故曰天叢雲剣、忝留当社、現石上大明神給、

【B】
 請尋其御影向来由、自是河上一宝剣横中流浮沈、臨清水上下、恰若巨魚縦大叡、触剣岩石、或擘、或貫、人民奇之、欲執忽裂手、欲揚穿身、為独有貞女、臨河水洗布、此剣留布不得流、因茲、名斯所於布留、寔有所以、乗雲、乗風、浮波、飛行自在人間不測、謂神皆此謂歟、自其、和光於此森、垂跡於斯山、即、被仰布留大明神給者也、其霊験不可勝計、殊降雨止雨、天下無如斯神、六十余国随一之霊社、五十余国第一之宗廟、無貴、無賤、無長、無少、自古至今、誰人不仰之乎、何者不貴之乎、

【C】
 加之、人皇七十二代白河院御宇、山城国長池云所有大蛇、悩上下往還之旅人、絶南北二京之通路、斯言達叡聞、帝大奉驚、遺博士卜之、博士奏曰、詔和州布留大明神、奏加神力必可止斯愁云云、依之詔巫、々承宣旨、捧幣帛。斯周故、数日之後死蛇浮池水、是併、金輪懇祈所致、明神冥慶之令然所也、為以彌致報賽、奉発信心給、即、抂宝輦於此神祠、種々霊宝有御寄付、其内先有小狐太刀、此御剣、三条小鍛治宗近與稲荷大明神打而、奉天子御剣也、長二尺七寸、有藤英、有●字(※「●」は梵字の「マン」)、浦又有狐、依之名小狐、即、奉安置之宝殿矣。

【D】
 自其以来、依詔號一会之祭礼、夏四月卯日、冬十一月卯日、於御旅所、延舞伶人伎楽、両座田楽播所能、四座之猿楽盡秘曲、面々行粧盡善牟盡美牟、此祭礼至澆季、于今其儀式無退転、即、有承保皇帝之印文、隣里郷党之氏子頂載此印文、今任庄司畢、以此故、皇帝御影像奉納于神殿、毎歳七月七日、自御殿奉出、諸人争拝之

                          布留社人  左近
 文安三年丙寅年二月
         大方出羽守殿

・『神道体系 神社編十二 大神・石上』



石上神宮
 この中で、まず引用文中のCのパートが問題となる。それによれば、白河天皇の御宇に山城国の長池というところに大蛇がおり、京都と奈良を往還する旅人を悩ませ、ついにはそれを途絶えさせてしまった。天皇はそのことを耳にして大いに驚き、天文博士に対策を卜させると和州布留大明神、すなわち石上神宮に祈願すればこのような憂いは止まるべしと出た。そこでこれを受けた天皇が神宮に幣帛を捧げさせると、数日して悪蛇の死体が長池に浮かび上がり、天皇は石上神宮を篤く崇敬するようになる。白河天皇は当社に種々の霊宝を寄付するが、その中に「小狐太刀」という太刀があり、三条小鍛治宗近が稲荷神と鍛えて天子に奉じた御剣であった、 ── 大略、このような内容である。
 この最後に出てくる子狐太刀≠フエピソードは原文で言うと「其内先有小狐太刀、此御剣、三条小鍛治宗近與稲荷大明神打而、奉天子御剣也」という短いものだが(下線部分)、まぎれもなく三条宗近が稲荷神の相槌によって太刀を鍛えるという、あの『小鍛治』のそれである。それにしても、どうして石上神宮の縁起書に、『小鍛治』にあるのと同じ伝承が載っているのだろうか?


 現存する『和州布留大明神御縁記』は16世紀末に書写されたものであるが、その原本は、文安三年(1446年)二月に石上神宮の左近という社人が当時あった別のテキストから書写して大方出羽守に送ったものであることが奥書によって分かる(※1)。つまり、このテキストは文安三年以前に成立していたことになるが、この年は能を大成した世阿弥の没年である嘉吉三年(1443年)から3年しか経っていない。『和州布留大明神御縁記』と『小鍛治』はどちらが先に成立したのだろうか?

 『和州布留大明神御縁記』には年紀があるのに対し、『小鍛治』の方にはそれがなく、作者も不明なのでこれについては憶測するしかないのだが、この謡曲は、剣を打つクライマックスに向けて筋が進むキビキビとした構成や、正先ショウサキに注連縄を張った一畳台だけの作り物などに感じられる抽象と洗練によってしばしば評価される。そしてその場合、こうした特質は何となく、この謡曲が後期の文化の産物であった感じを与える。だとすれば、『小鍛治』が成立したのは世阿弥が没ししてからである気がしてくる。

 『日本刀大百科事典』の福永酔剣氏も、足利義政が主催した寛正五年(1464年)の勧進猿楽で能狂言が四十九番も演じられたが、その中に『小鍛治』がないことから、義政のころにはまだこの曲がなかったとしている。してみると、『和州布留大明神御縁記』は『小鍛治』より約20年早く成立していたことになり、小鍛冶型の伝承を載せた文献としては現存するもっとも古いものであったことになる、── ただし、寛正五年の勧進猿楽の演目になかったというだけで、その頃まだ『小鍛治』はなかったとするのは、いささか説得力に欠ける議論である感じがするし、詳しいことはこれから説明するものの、仮にすでに当時『小鍛治』が成立していたとしても、私はある事情からこの勧進猿楽の場でそれが演じられることはなかったと見ている。



春日若宮神社

 いずれにしても、『和州布留大明神御縁記』がこの伝承について触れているのは、「此御剣、三条小鍛治宗近與稲荷大明神打而、奉天子御剣也」という短い部分のみである。そこには『小鍛治』にあるストーリーとの異同は見られないから、仮に前者の成立年代が後者より古かったとしても、そのことじたいはさほど重要とはおもえない。むしろ問題なのはこうした先後関係よりも、どうして石上神宮の縁起書に『小鍛治』と同じ伝承がみられるのか、という問題の方ではなかろうか。そこで私が注目したいのが、その後に出てくるDのパートの記事である。そこには、「自其以来、依詔號一会之祭礼、夏四月卯日、冬十一月卯日、於御旅所、延舞伶人伎楽、両座田楽播所能、四座之猿楽盡秘曲」とある。すなわち、石上神宮を崇敬するようになった白河天皇は、勅により神宮の御旅所で夏は四月卯日、冬は十一月卯日に一会之祭礼≠始めたが、そこでは両座≠ェ田楽の能を演じ、四座の猿楽≠ェ秘曲の限りを尽くしたというのだ。


 ここで田楽の能を演じた「両座」というのは当時、勧進田楽の興行で有名だった本座(京都)と新座(奈良)の二座のことだとおもわれる。
 田楽の能は、農村で田の豊作を祈る行事として行われていたほんらいの田楽に、曲技的な要素とドラマ性を加味して成立したものだが、南北朝の頃にはまだ猿楽能以上に行われていたという。ことに北条高時(在位:1316年 〜 1326年)は、政治をないがしろしてまで田楽を愛好したと言われるが、本座・新座のことは高時の狂態が描かれた『太平記』(巻五)にも出てくる、 ── いづくより来るとも知らぬ、新座・本座の田楽共十余人、忽然として座席につらなってぞ舞ひ歌ひける。その興甚だ尋常に越えたり。


 いっぽう、秘曲を尽くした「猿楽の四座」というのは外山トビ・結崎ユウザキ・坂戸・円満井エンマイの大和猿楽の四座を指すのだろう。

 春日大社から御間道オアイミチを100mほど南下すると、春日若宮神社という神社がある(祭神は天児屋根命と比売神との御子神、天押雲根命)。当社は春日大社の摂社で、保延元年(1135年)の造営と伝えられるが、毎年12月17日に若宮祭という祭礼が行われ、大和の年末を飾る恒例の行事としてにぎわいを見せる。この祭礼は保延二年に興福寺の主催で始められたもので(言うまでもなく興福寺は春日大社の神宮寺)、鎌倉期末になって守護職を兼ねるようになったこの寺院が大和国を支配するようになると、この祭礼もまた大和一円の大祭へと発展し、「おん祭」の名をもって親しまれるようになる。

 春日若宮御旅所。毎年12月17日の春日若宮おん祭の祭礼では、現在でも田楽や猿楽といった芸能がここで奉納される。春日大社へ向かう参道の途中、旧奈良県物産陳列所の隣にある。
 この春日若宮祭には、創建時から猿楽や田楽の供奉グブがあったが、なかんずくそこでは猿楽が重視されていた。
 大和猿楽の四座と言えば、何と言ってもそのうちの一座、結崎座の大夫だった観阿弥が猿楽の改革に着手し、子息の世阿弥が歌舞と幽玄美を加えて能を大成したことで有名である。また、「外山」「結崎」「坂戸」「円満井」は、それぞれ現在の「宝生ホウショウ」「観世」「金剛」「金春コンパル」として能楽五宗家中の四派として今に至っているが、この四座が「大和猿楽の四座」とセットのような呼ばれ方をするのも、もともとは彼らが「樂頭職」という排他的な上演権を獲得して春日若宮祭で興行を行っていたからなのである(ちなみに四座という数は、春日大社の祭神が四座であることと無関係ではないだろう。)。

 この祭礼は現在でも、「鳥居松の下の儀」とか「行宮斎庭の儀」と呼ばれる儀式で猿楽や田楽などの奉納が行われるが、能が胚胎する土壌になったという意味において日本の芸能史上重要な意義をもつことから、昭和50年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 いっぽう、大和猿楽の四座は石上神宮の「一会之祭礼」でも秘曲を尽くしたと『和州布留大明神御縁記』にある。四座がそこで猿楽を演じたのが別々の祭礼時においてであったのか、それとも一堂に会してであったのかははっきりしないが、しかし一会之祭礼≠ニいうからには後者だと考えてよいのだろう。その場合、現在は行われなくなってしまったこの祭礼もまた、春日若宮祭と同じく、日本の芸能史上において重要な意義をもっていたと認めてよいはずである。


 この石上神宮の一会之祭礼で、大和猿楽四座などによるこうした大規模な興行が催されていたのは一体いつの頃であったろうか?

 四座の中では観阿弥の創座した結崎座がもっとも新らしく、彼がこの座を創座したのが二十代の半ばくらいだったとすると、その生年は元弘三年(1333年)なので、こうした興行の行われていた時代の上限は1360年前後となる。いっぽう、『和州布留大明神御縁記』には当時まだこの祭礼は退転なく行われていたとあるが(「于今其儀式無退転」)、さっきも言ったとおりこの縁起書は文安三年(1446年)以前に成立したものなので、その下限はそれ以降となる。したがってそれは、14世紀後半から遅くとも15世紀前半以降にかけてのことなのであろう。

 
観阿弥創座の地

 

 世阿弥の口述を筆記した『申楽談儀』に、「この座(=結崎座)の翁(面)は弥勒打なり。伊賀小波多で座を建てそめられし時云々」という記事がある。ここから観阿弥が結崎座を創座したのは、伊賀にある「小波多」という土地であったことが分かのだが、その比定地である三重県名張市小波多には、福田神社という廃絶してしまった神社の跡地があり、境内に「観阿弥創座之地」の顕彰碑がある。

 当時は石上神宮にとってどういう時代であったか?

興福寺

 鎌倉期末頃の石上神宮は、大和一円に膨張してきた興福寺勢力の支配下に入り、衰退の一途をたどっていたが、その反面、文明十五年(1483年)には当社を中心に団結した約四千名の布留郷の氏人が、興福寺の横暴に反発して社頭に立てこもる等、15世紀後半になるといわゆる布留一揆≠ェ頻発していた。したがって、大和猿楽四座らが一会之祭礼でさかんに興行を行っていた当時においても、石上神宮は興福寺勢力に対抗して古代からの尊厳をある程度、保ち続けていたようにおもわれる。あるいは、一会之祭礼で大和猿楽四座が猿楽を奉納したという『和州布留大明神御縁記』の記事の裏にも、興福寺と春日大社によって主催される春日若宮祭への対抗心が潜んでいるのかもしれない。


 ここで、「白河天皇」というキーワードに注目してみる。
 『和州布留大明神御縁記』によれば、この天皇は長池にいた悪蛇が調伏されたのをきっかけに石上神宮を崇敬するようになり、当社に子狐丸を奉納したのであった(「小狐太刀」のことは、今後、「小狐丸」と標記する。)。

 京都市伏見区にある白河天皇成菩提院御陵
 一般的に白河天皇は平安後期の天皇で在位したのは延久四年から応徳三年まで(1073年 〜 1087年)、藤原氏による摂政政治を廃し、天皇自ら政務を執行したことで評価される。自らが在位した期間は15年間であったが、八歳の堀川天皇に譲位した後も白河院として政務を執り続け、これは孫の鳥羽天皇、ひ孫の崇徳天皇がそれぞれ天皇となった後も変わらなかった。この間、摂関家であった藤原氏とは敵対する立場を貫いた。
 『ウィキペディア』にはこの天皇に関する興味深い伝承が載っている。すなわち、「白河法皇は当初、自身の死後は土葬されることを望み、たびたび周囲の者にその意向を伝えていたが、同様に土葬された藤原師通が、生前に彼と対立していた興福寺の僧兵が報復としてその墓を暴き、遺体を辱めんと計画していたことを知り、自身も後世に同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽火葬にするように命じたという。(『ウィキペディア』「白河天皇」の項)」
 その真偽はともかく、このような伝承が残されているのは、生前の天皇が藤原氏の氏寺であった興福寺の僧兵と対立していたことを示すものであろう。


 社伝によると、国宝指定を受けている石上神宮の拝殿は、白河天皇が永保元年(1081年)に宮中三殿の一つである神嘉殿が寄付したものと伝えられ、現楼門にも同じような伝承があり(※2)、さらに上皇になった寛治六年(1092年)には実際に神宮を参詣したとも伝わっている。こうしたことから見ても、白河天皇が当社を崇敬していたというのは本当だったらしい。

石上神宮の拝殿は山辺の道随一の名建築だ。
 『和州布留大明神御縁記』のDのパートの最後には、当時の石上神宮の神殿にはこの天皇の神像が祀られ、毎年七月七日にそれが公開されると諸人が争ってこれを拝したとある(「皇帝御影像奉納于神殿、毎歳七月七日、自御殿奉出、諸人争拝之」)。この神像は現在も当社の本殿内で祀られているが、こうした記事は当時、かつての石上神宮に黄金時代をもたらしたこの天皇に対し、氏人たちが熱烈な信仰を寄せていたことをうかがわす。また、この頃の当社は興福寺勢力に圧されて逆境にあったが、天皇は政治的にアンチ藤原氏の立場であり、藤原氏の氏寺であった興福寺とも対立していたのだから、こうした信仰はその反動でもあったろう。


 そのいっぽう、『和州布留大明神御縁記』によれば、白河天皇は種々の霊宝を石上神宮に寄付したが、小狐太刀≠ヘその筆頭とされている(「種々霊宝有御寄付、其内先有小狐太刀」)。おそらく、『和州布留大明神御縁記』が成立した当時、小狐丸はたんに白河天皇による当社への崇敬を象徴する品というだけではなく、神体として信仰の対象にもなっていたのではないか。がんらい石上神宮はクニコトムケノタチである神剣フツノミタマを祭神として祀っている等、剣に対するフェティシズム(物神崇拝)の伝統が非常に色濃い神社である。そうした古い時代に盛んだった物神崇拝が、子狐丸を対象に復活していたのは十分に考えられることだからだ。


 さて、ここで重複を恐れずにもう一度、『和州布留大明神御縁記』にある記述に従って石上神宮の一会之祭礼で盛んに芸能が行われるようになるまでを追う。
 まず、長池の悪蛇が当社の霊験によって退治されたことをきっかけに、白河天皇が当社への崇敬を深める。→ 天皇により種々の霊宝が当社に寄進されるが、わけてもその中に、稲荷神の相槌により三条宗近が鍛えたという名剣があった。→ そしてその時以来、詔勅によって神宮の御旅所で「一会之祭礼」が行われるようになり、田楽の二座や大和猿楽の四座による興行が行われる。

 こうしてみると、下線部の小狐丸のエピソードは、白河天皇が当社を崇敬するようになってから、天皇の主催で「一会之祭礼」が始められるまでの流れ挟み込まれた一エピソードにすぎない。だが、このエピソードはどうしてこの場所に置かれているのか?

 この石上神宮の御旅所で行われた一会之祭礼では、大和猿楽の四座が秘曲の限りを尽くしたという(「四座之猿楽盡秘曲」)。そして、今では忘れられたこの祭礼で演じられる秘曲の中に、『小鍛治』があったのではないか。というか、たんにそこで上演されたという以上に、この曲はもともと一会之祭礼で演じるために成立したもので、その上演によって小狐丸を称え、ひいてはそれを通じて白河天皇の事績を顕彰しようとするものではなかったか。一会之祭礼で大和猿楽の四座等が興行を行っていたという記事の直前に、『和州布留大明神御縁記』の筆者が小狐丸のエピソードを出しているのも、こうしたことが念頭にあったためと考えれば納得がゆく。

 
石上神宮の御旅所

 

天理市田町にある厳島神社

   一会之祭礼が行われた石上神宮の御旅所は今でも残っているだろうか?

 石上神宮の御旅所は現在、天理市田町にある厳島神社境内にある。『式内社調査報告』によれば、神宮の例祭日にここの御旅所には次のような渡御がある。

「例祭日は十月十五日(もともと古九月十五日)、白河天皇の永保元年に勅使参向に起源すると云ひ(社記)、田町から古幣を奉り祭儀を行い、午後田町の御旅所に渡御し、夕刻帰御する。」

 現在ではもちろん、『和州布留大明神御縁記』にあったとおりの猿楽や田楽の上演は行われていない。しかし、神宮の社務所で、「かつてこの御旅所で猿楽や田楽の奉納が行われたという伝承が残っていないですか? 」と尋ねたところ、その通りであるような返事が帰ってきた。となると、一会之祭礼が行われたのはやはりこの御旅所だったようだ。

 田町の厳島神社という神社は古く常蓮寺という寺院の鎮守で、ほんらいは一言主神と弁財天女を祀っていたという(現祭神は市杵嶋姫命のみ)。明治初年に厳島神社と改め、同十六年頃、境内の一部が石上神宮の御旅所に指定された。したがって、当社が神宮の御旅所とされたのはそんなに古いことではない。しかし常蓮寺は古くからある石上神宮の神宮寺であり、後冷泉院の時から当社で舎利講式を勤めたというから、やはり特別な由緒のある場所なのだろう。

 もっとも、現在の厳島神社のふきんには常蓮寺という名の寺院はない。もともとこの寺は保元平治の乱で焼失してから勢いが衰えたらしいが、その後、明治初年の神仏分離に遭って廃絶したののではないか。社殿の向かって左手にあった手水石には「石上山」と彫ってあったが、もしかするとこれがその遺品かもしれない。

 なお、この神社はとくだんの地形的な制約がないのに、かなり正確に北面していて珍しい。田町が安康天皇の石上穴穂宮の宮址に比定される土地であることも注意をひく。

 

 私が、『小鍛治』はもともと石上神宮の一会之祭礼で上演されるための曲であった、と考える根拠は、今、述べたことの他にもう一つある。
 『小鍛治』の一場目に、三条宗近の前に現れた童子姿の稲荷神が古今の剣の威徳を説く件りがある。そこではまず、大陸における漢の高祖や隋の煬帝の剣のエピソードが簡単に触れられるが、その後、わが国における草薙剣のことに話が移り、日本武尊が東征の途次、敵の罠にかかったが、この剣の霊威によって窮地を脱し、ついにはそれを逆手にとって賊が平定されるまでの事績が地クセによって延々と謡われる。はっきり言ってこの部分は『小鍛治』全体のストーリーとはまったく関係がなく、この曲の構成を乱している箇所である。『謡曲大観』もこの件りについて、「我々の眼から見れば、無用の挿話の如く感じられるが、その当時にあっては、『平家物語』の剣巻、舞曲の剣讃歎と同様、祝言として多大の興味を興へたものであろうと思ふ。」と、妙に弁解するような意見を述べている。

 だが、本当にこの部分は無用な挿話なのだろうか。
 ここで注目すべきは『和州布留大明神御縁記』のAのパートにも草薙剣の記事が見られることである。しかもこの部分は、内容的には記紀神話の抜粋にすぎないものの、分量的には『和州布留大明神御縁記』全体の三分の一以上を占めており、しかもその後半に見られる日本武尊が駿河国の草原で夷賊による火の罠にはまったが、草薙剣を揮って難を逃れたという伝承は、『小鍛治』の地謡にあるそれと同じなのである。

 石上神宮境内摂社の出雲建雄神社は、山辺郡の式内小社。その祭神は熱田神宮と同体とされ、天叢雲剣、すなわち草薙剣の神気御名とされる。

 どうして石上神宮の縁起書で草薙剣のことがこんなに大きく取り上げられているのだろうか?
 じつは当時、草薙剣は石上大明神≠ニして当社の祭神とされていたのである。そのことは、Aのパートの最後にある、草薙剣が石上神宮に留まり、石上大明神として現れたという記事によって明らかである(「草薙剣〈中略〉忝留当社、現石上大明神給」)(※3)。

 そして当時、草薙剣が「石上大明神」として当社の主祭神とされていた以上、『小鍛治』が当社の祭礼で演じられるために成立した曲だとすれば、どうしてこの人を当惑させる長ったらしい謡いがそこに置かれているのかという疑問も自然に解消するのである。すなわち、この草薙剣の威徳が謡われる一場目の地謡は、神宮の祭神を称える意図でそこに置かれていたのだ。おそらく、注文主であった石上神宮の意向に応じて、『小鍛治』の作者が特にこの謡いを執筆したのだろう。

 その場合、『小鍛治』は、14世紀後半から15世紀前半の間に、石上神宮の祭礼において上演されることに特化して成立した完全なる機会作品であり、それ以外の場所では演じられないという意味で秘曲≠ナあったことになる。機会作品にして秘曲であったから、とうぜん石上神宮の一会之祭礼以外の場では上演されず、したがって古い時代の上演記録も残っていなかったのである(※4)。

 さように見た場合、『小鍛治』という作品に対するわれわれの理解は格段に深まるだろう。
 さっきも見た通り、小狐丸は当時の石上神宮にとって、白河天皇が平安期末に当社を崇敬していた事績を偲ばせる形見の品として信仰の対象になっていたらしい。したがって、稲荷神の加護により三条宗近が小狐丸を打つというストーリーをもったこの謡曲には、当時、興福寺の僧兵たちによる横暴に苦しめられていた神宮とその氏人に、栄光の時代である白河天皇の御宇を想起させることで、神宮の尊厳と郷内の自治を守る抗争を奮起させるねらいがあったのである。ちょうど、スイス独立戦争に取材したシラーの『ウィリアム・テル』上演が、他民族の圧政に苦しんでいる国々で果たした役割に似ている。
 また、『小鍛治』一場目の地謡は、日本武尊がこの剣の霊威で賊を平定した後を次のように謡ってしめくくる。「その後、四海治まりて人家戸ざしを忘れしも、その草薙の故とかや。(その後は天下が泰平で、盗賊の心配もなく、民も安心して夜、戸締まりをすることを忘れるようになったのも、皆この草薙剣のお陰であるということだ。)」と。あるいはここの部分にも、当時の彼らによる平和への願いを聞き取ることができるのかもしれない。



 ついでに、ちょっとだけ『小鍛治』の作者探しもしておこう。

 今、言ったような場合であれば、『小鍛治』の作者は石上神宮の意向を受けた大和猿楽四座の誰かであったことに間違いはない。

 世阿弥には『布留』という曲がある。石上神宮に伝わる伝承を題材にしたもので、世阿弥が手がけた数多い曲の中でも、直筆で伝わる希なものの一つである。彼は『申楽談儀』でもこの曲に触れているので、どうやらお気に入りだったらしいが、直筆が伝わっているのも、あるいはそれだけ彼がこの曲を大事にしていたことを示しているのかもしれない。それはともかく、この伝承は布留川で衣を洗っていた乙女の所に、上流から一降りの剣が流れてきて、乙女の洗う布の中に留まったというもので、同じ伝承は石上神宮の各種縁起書はもちろん、『袖中抄』、『源平盛衰記』、『古今秘註抄』といった諸書にも見られ、『和州布留大明神御縁記』の場合にはBのパートに見られるものである。ここで類推をはたらかせれば『小鍛治』と同じく『布留』もまた、石上神宮の一会之祭礼用に提供せられた機会作品ではなかったか、という疑いが生じる。その場合、『小鍛治』の作者も世阿弥であった可能性が考えられるが、じっさい『小鍛治』には草薙剣の霊験を謡う地謡の一節に『伊勢物語』からの引用があったりして、作者の文学的な教養が高いことをうかがわせるフシがある。そうして、世阿弥が作者だとすれば、彼はこのような条件にも当てはまるのである(※5)。






   





 そういった訳で、『小鍛治』はもともと石上神宮の祭礼で演じられるための機会作品にして秘曲であったとして今後の話を進めるが、その前に長池の悪蛇の伝承と小狐丸という太刀についてざっと触れておく。

 『和州布留大明神御縁記』によれば白河天皇が石上神宮を崇敬するようになったきっかけは、長池というところにいた悪蛇を当社の霊験によって退治できたためであったという。この長池というのは、京都府城陽市のJR長池駅ふきんにあったが、現在では地名だけ残して消滅してしまった池である(※6)。

 正徳元年(1711年)成立というから、『和州布留大明神御縁記』よりも2世紀以上遅れて成った山城国の地誌、『山州名跡志』には、昔、この池に悪蛇があり、これを憂えた近隣の人々が諸仏に祈ったところ、化人が来て悪蛇を伐って退治したが、その際、退治した悪蛇の尾の中に剣があったのでそれを取って石上神宮に奉納したという伝承が載っている(「云伝、昔此池ニ悪蛇アツテ人ヲ害ス、四方ノ男女是ヲ愁テ諸仏ニ祈ル、化人来テ遂ニ此蛇ヲ斬テ泰平ヲナス、蛇ノ尾中ニ剣アリ、之ヲ採テ大和国布留社(★=石上神宮)ニ納ト。」)。

 JR長池駅前のポケットパークには、かつての長池をイメージしたらしき池がある。

 この伝承はJR長池駅前にある看板や京都新聞社が発行した『京都 乙訓・山城の伝説』にも紹介されているので、現地におけるこの伝承の標準型と考えてよいだろう。
 『和州布留大明神御縁記』では、石上神宮に奉納された剣が悪蛇の死体から発見された訳ではなく、悪蛇退治に感謝した白河天皇によって寄付された霊宝中にそれがあったことになっているし、悪蛇が倒されたのも英雄の活躍があった訳ではなく、当社の霊験のおかげという筋立てになっている。しかしそうした相違点はあるものの、『山州名跡志』にある伝承がもともとは『和州布留大明神御縁記』にあるそれと同じであったことはまず間違いない。ついでに言えば、剣が悪蛇の尾部から発見されるというモチーフは、八岐大蛇が素戔嗚尊によって退治されて、その尾から草薙剣が発見されたという記紀神話のエピソードを連想させる。とにかく、後世に成立した『山州名跡志』にある伝承の方が脱落や簡素化をおこしているのだろうが、長池の悪蛇伝説は石上神宮に奉納されたある剣と絡められて伝承されていたのである。


 その剣とは石上神宮に今でも伝わる「小狐丸」と呼ばれる太刀である。この太刀はかつて石上神宮の神庫にあった櫃の中に、神符を張って封じ込められていたもので、さっきも言ったとおり、当社に対する白河帝の崇敬ぶりを偲ぶ遺品として、氏人の間で信仰の対象になっていたらしい。

 ★以下、三条宗近が作刀した本物の小狐丸と区別するために、石上神宮にある小狐丸は「小狐丸」とカッコ書きで表記する。

 弘化四年(1847年)の暮れ、大和の盗賊一味が石上神宮の祠人を抱き込んで「小狐丸」を盗み出す事件が勃発する。盗難後、この太刀は大阪の別の一味の手を通じて準三后の鷹司政通に売り込まれたが、政通はこの剣が尋常のものではないことに気がつき、石上神宮から盗み出されたものであることをつきとめる。大和の盗賊一味は捕らえられて磔刑にされ、「小狐丸」は神宮に返還される。この太刀は今でも石上神宮が所蔵しており、奈良県から重要工芸品の指定を受けている。

 問題はこの「小狐丸」が三条宗近が打った本物の小狐丸であるかどうかであるが、結論を言えば、石上神宮にある「小狐丸」には義憲作≠ニいう銘がきってあり、本物ではない。ちなみに、義憲は元暦の頃(1184〜85年)、備前にいたと思われる刀工で、その遺品はたいへん少なく、他の作としては伊勢神宮にある一口の太刀が知られているだけという人物である。

 なんだかまさに狐につままれたような気分だが、とにかく現在、石上神宮にある「小狐丸」は本物の小狐丸ではないのである。


 ここで本物の小狐丸(たんに「小狐」と呼ばれることも多い)について説明しておく。まず、作刀者は三条小鍛治宗近である。じゃっかんの異説はあるがこのことはほぼ通説でとなっている。信頼できる史料等からこの太刀に関する記事を拾うと、左大臣の藤原頼長は仁平二年(1152年)八月十四日にこの太刀を佩いて石清水八幡宮に参詣し、その嫡子である兼長、次男の師長らも直衣はじめのとき、これを帯びたことが知られている。

 九条兼実は文治四年(1162年)正月二十七日、春日大社へ小狐≠ニいう太刀を佩いて参詣しているが、兼実は頼長の甥に当たるので頼長家伝来の小狐丸を譲り受けたものとみられる。有名な神社へ参詣するときに佩くとか、直衣はじめのときに帯びるとかの記事が多いことは、ハレの機会にだけに使用される宝刀であったことをうかがわすが、じっさい小狐丸は、「藤原鎌足の影像」「恵亮和尚直筆の法華経」と並んで近衛家の三宝とされていた。
 鎌倉後期になると小狐丸は鷹司家にあったようだが、いつの頃にか京都・建仁寺の大統庵所蔵となり、その後、紛失してしまったらしい。その行方は杳として知れないが、もしも残っていたならおそらく国宝になっていただろう。


石上神宮楼門 春日大社楼門

 現存しないこの太刀が有名になったのは謡曲『小鍛治』によるところが大きい。しかし、そのいっぽうで、鎌倉期以前の文献中には、稲荷神が三条宗近の相槌を打ってこの太刀を鍛えたという伝承がまったく見られず、それどころか三条宗近が作刀者であったという記事すら見うけられないのである。したがって小鍛治型の伝承はほんらい、本物の小狐丸とはまったく関係なく行われていたのだが、相槌を打つ稲荷神の神使が狐であることから、たまたま名前に「小狐」の名がつくこの太刀に附会されてこの伝説が生じた、という憶測も可能だろう。


 そのいっぽうで、『和州布留大明神御縁記』によれば、「小狐丸」は長さが二尺七寸あって、表には梵字のマン、裏には狐の銘がきってあったという。いったい、たんなる創作でここまで具大的な記事が書けるのだろうか。かつての「小狐丸」は神符で封じら込められた櫃に封じられていたというから、大和の盗賊一味による盗難があった頃、石上神宮の社人にはこの太刀を見た者がいなくなっていたかもしれない。となると、もしも盗難に遭ってから石上神宮へ返還されるまでの間に、何者かによってこの太刀がすり替えられるようなことがあったとしても、神宮側としてはそれに気づくことができなかったのではないか、── とか何とか、仮定に仮定を重ねてつじつまを合わせてゆくことができるかもしれないが、それにも限度があろう。ということで、太刀のことからこの伝承にアプローチしてゆくと、小狐丸≠「小狐丸」というところで追求の手が阻まれるように私は感じる。


 だが、いずれにしても「『宝剣小狐丸』と夜の方へ」というこのシリーズを進める上で、「小狐丸」が本物であるかどうかはそれほど重要ではない。というのも、ここで問題にしたいのは太刀のことではなく、稲荷神が三条宗近の相槌を打って太刀を鍛えたという伝承の由来と、それと同じ小狐丸型のモチーフが大和の菅田地域を舞台にした『宝剣小狐丸』にもみられるのはどうしてなのか、ということだからである。したがってここは石上神宮に伝わる「小狐丸」はカッコから出さないままにして判断のらち外に置き、話を前に進めるものとする。






※1  大方家は、十五世紀には斑鳩いったいで相当な勢力を有していた郷士で、明治以来、醤油醸造業を営む旧家であるという。

※2  国の重要文化財に指定されている石上神宮の楼門は、棟木に「文保二年(1328年)の墨書が見られ、社記に白河天皇永保元年(1081年)に神門を改めたとあるそれとの関係はよく分かっていない。

※3  石上神宮の現祭神は、布都御魂神・布留御魂神・布都斯御魂神の三柱だが、これについては古来、所説あった。

 史書を見る限り、草薙剣が石上神宮にあったという事実はないものの、当社の古い縁起書には、その祭祀が草薙剣に関わっていたことを窺わすような記事が散見される。このことはもっと注目されてもよいとおもう。

※4  とうがい四座にとって、石上神宮と敵対していた興福寺・春日大社もまた、彼らが独占的に猿楽を奉納する春日若宮祭の主催者であったからきわめて重要なパトロンであったはずである。『小鍛治』が秘曲として隠匿されていた裏には、そうした興福寺・春日大社の機嫌を損ねないための政治的配慮もあったかもしれない。

※5  『申楽談儀』で世阿弥が、『素盞鳴』という失われた曲について次のように語っている。

「文章を書き進めてゆくうちに、美辞麗句を連ねて言葉を飾ろうとする意識にとらわれて、文章が冗長に流れる傾向がある。しかし、そういう意識を取り除いて書かなくてはならない。その点、『素盞鳴』の謡はよく書けた曲であろう。「神代には天照大神のせうとの神とあらはれ、人の代には日本武の尊、異国を攻め」などと書き、それから、物語の順序にしたがえば、東国遠征のことを書くべきであろうが、そうはせずに、曲舞の終末部分に「八剣の宮と申す」と、事の順序を入れ替え前後させて、曲舞のなかに観客の喝采を博すべき眼目の文句を書き入れたのである。つまり、典拠とした説話や物語のままに順序を追って書いたのでは、文章が長大になるだけでまとまりがつかなくなる。この点をよく心得ておかねばならない。(西野春雄氏現代語訳)」

 不思議なことに、ここで言われていることは『小鍛治』の地謡に実によく当てはまる。この曲の作者が世阿弥だったとすれば、彼は『小鍛治』を自分が執筆した経験をふまえた上で、『素盞鳴』なる曲の巧みさを褒めているのだろうか。

※6  『山州名跡志』によると、長池は長池村の東北二町くらい隔たった山麓に東西二町ばかり、南北三町余にわたって拡がっていたという。が、埋め立てによって江戸中期にはほとんど田に転用されていたらしい。昭和40年代頃までは、この池の最後の痕跡であった小池が長池駅の東側にあったというがそれも消滅し、池を埋め立ててできた田圃も現在では住宅地に変貌している。








2008.03.03





『神道体系 神社編十二 大神・石上』
から
『和州布留大明神御縁記』
佐伯秀夫氏校注・解説 神道体系編纂会

『謡曲大観』第二巻から
 『小鍛治』
佐成謙太郎氏校訂・現代語訳・解説 人文書院

『日本芸能史』第2巻・第3巻
芸能史研究会編
法政大学出版局

『能楽ハンドブック』
戸井田道三氏監修
小林保治氏編
三省堂

『風姿花伝』
世阿弥著
野上豊一郎氏/西尾 実氏校訂
岩波文庫
『日本の名著/世阿弥』から
 『風姿花伝』
観世寿夫氏現代語訳
中央公論社
 〃『申楽談儀』
西野春雄氏現代語訳
  〃

『日本刀大百科事典』
福永酔剣氏
雄山閣

『式内社調査報告』第三巻から
「石上坐布都御魂神社」の項
石崎正雄氏
皇學館大學出版部
『日本の神々4大和』から
「石上神宮」の項
小田基彦氏
白水社
 〃「春日若宮神社」の項
土井 実氏
  〃
『天理市史』
『奈良県史5神社』
『奈良県史15美術工芸』
『乙訓・山城の伝説』
京都新聞社編
京都新聞社










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