『宝剣小狐丸』と夜の方に

一.鬼 に 喰 わ れ た 話







 子供の頃、祖母のところに大きな鉄の鋏がありました。事務机の上でよく文房具として見かけるステンレス製のものではなく、布を裁断するときに使う鋳鉄製の旧式な鋏で、大空襲で焼け出される前から使っていたと聞いたことがありますから、なかなか古いものだったのでしょう。今ではあれがどうなったかわかりませんが、持ったときにズシリと手に重かったことや、やや錆びの浮いた鉄の表面が金気の臭いを発していたことなどは記憶に残っています。

 当時、祖母が「足の上に落としたら穴があく」としきりに心配したので、私がその鋏に触れることは禁止されていたのですが、それでも私は大人たちの目を盗んで、その鋏を取り出してはいじくりまわしていました。古い金物 ── とくに刃物 ── の場合にはよくあることですが、その鋏にはどことなく大昔の血痕のような禍々しさがあり、言いしれぬ暗さが感じられてなりませんでした。子供心にも私はそれが気になって仕方がなかったのです。
 これが私の、金属にまつわる暗さを感知した原体験です。

 「『宝剣小狐丸』と夜の方に」というこのシリーズでは、古代において鍛治に携わった者たちや、彼らによって信仰を受けていた鍛治神のことがいろいろと話題にされます。が、そうした信仰や職掌は宿命的に暗いものです。そしてその暗さとは、祖母の家にあったあの鋏に感じたそれと同じではなかったでしょうか。古代人の鍛冶にまつわる信仰については、いろいろと印象的な書物が書かれていますが、ここでは何よりもこの暗さの起源を求めて話をはじめたいと思います。







  『日本霊異記』中巻 第三十三縁に、「女人の悪鬼に点されて食らはれし」という説話がある。それにしてもこの物語全体を覆っているのもまた、何という「環境としての暗さ」であることか ── 。





 「 女が悪鬼に恥かしめられ、食われてしまった話 第三十三 」



 聖武天皇の御代に、大和の国じゅうにはやった歌は、次のような内容だった。

 あなたをお嫁さんに欲しいという人はだあれ。菴知の村の万家のかわいい、かわいいお嬢さん。あちらこちらと百方さがし、やっと見つけたお嬢さん……。山の仙人が酒一斗飲んで、酒一斗飲んで、仏の教えを説きながら── (お嬢さんをかどわかしてしィーまった)

 大和国十市郡菴知アムチ村の東の方に、非常に裕福な家があった。姓は鏡作造である。その家に一人の娘がいた。名を万(よろず)の子といった。まだ結婚せずに、男との交渉もなかった。顔かたちが整って美しかった。よい家柄の人が結婚を申し込んでも、断り続けて、幾年か過ぎた。
 ところがある男が結婚を申し込み、幾度となく物品を送ってきた。美しい色の絹を車三台に載せてあったりした。娘はそれを見て気に入り、心が引かれ、男に近づき親しんで、男の言葉に従い結婚を許した。二人は寝室の中で交わった。その夜、寝室の中から声がして、
「痛い、痛い」
と三度叫んだ。父母はこれを聞き、
「まだ慣れないので痛いのであろう」
と話し、そのままそっと寝てしまった。
 明くる日、娘夫婦が起きて来ないので、母が寝室の戸をたたいて、呼び起こした。しかし返事がなかった。変だと思って戸を開いて見ると、ただ娘の頭と一本の指だけを残し、他の部分は食べられて跡かたもなかった。父母はこれを見て、恐れ、哀れみ憂え、贈り物としてもらった美しい色の絹を見ると、姿は変わって獣の骨となっており、絹を載せた車も、これまた変わり果て、ぐみの木になっていた。四方八方の人々が伝え聞いて集まって来て、それを不思議がらない人はいなかった。父母は舶来のきれいな箱に、死んだ娘の頭を納め、初七日の朝、仏前において精進の食事をした。
 そこで疑問に思ったことは、災難の知らせがまず現れたことである。あの流行歌はこの凶事を予告したものであったらしい。あの娘の事件を、ある者は神の不思議な仕業といい、ある者は鬼が食ったのだといった。よくよく繰り返し考えてみるに、これはやはり前世の仇敵で、この世で復讐を受けたのであろう。これまた不思議なことである。

・『日本霊異記』中田祝夫全訳注、講談社学術文庫、P234〜236




 『日本霊異記の研究』の守屋俊彦はこの説話について、ほんらいは三輪山型の神婚説話ではなかったか、と述べている。

 三輪山の神が登場する神婚説話群は記紀神話に限定した場合、この神が、a.丹塗矢となってセヤダタラ姫と交接する説話(神武記)、b.イクタマヨリビメのところへ夜ごとに通婚する説話(崇神記)、c.モモソ姫と結ばれるが蛇体である神の正体が知られたので破局し、姫が箸でホトを刺して落命する説話(崇神紀)の三つがある。このうち、aは「丹塗矢型の説話」、cは「箸墓伝説」という名称で特化されることが多いので、いっぱんに「三輪山型の神婚説話」というと、bのような「男神が神嫁のもとに通う」タイプのそれをさすことが多いように思う、── 守屋もだいたいその意味で使っている。ちなみにこの伝承では、男の正体をつきとめようとしたイクタマヨリビメが、朝になって帰ろうとする男の着物に麻糸を針に通して刺しておく。その糸を追跡すると、鍵穴を通って三輪山中にまで及び、神の社の前で終わっていた。これにより男は三輪山の祭神、オオモノヌシ神であることが判明する、というエピソードがある。このように、夜ごとに女のもとを訪れる男の正体をつきとめるため、糸を結んで探索するモチーフは「苧環型モチーフ」と呼ばれるもので、この伝承はその標識となるものである。

 万の子が鬼に喰われる話は、素性のしれない男が女のところにやってくるというシチュエーションはbを思わせるが、女が最後に落命するという点ではcとも似ている。もっとも、万の子が死んだのは相手の男に喰い殺されたためであり、cのモモソ姫のように「男に去られて落胆し、尻餅をついたらたまたまそこにあった箸がホトに刺さって死んだ」、というのとはたいへんな違いだ。
 しかしながら、『肥前国風土記』松浦郡条にある「ヒレ振峰(「ヒレ」は、「?」へんに「習」)」の説話では、弟日姫子のもとに夜な夜な謎の男が通い、朝になると帰ってゆく。不審に思った姫が、男の服に麻糸を付けて追跡すると、男はヒレ振峰にある沼のほとりで、頭は蛇だが身は人間という姿で横たわっており、弟日姫子を見ると、「篠原の 弟姫の子そ さひとゆも 率寝てむしたや 家にくださむ」という不気味な歌を歌う。侍女が急いでこのことを告げに帰り、大勢を連れて戻ってくると、すでに男の姿はなく、姫の死骸だけが沼の底に沈んでいたという。


 この説話は前半に苧環型のモチーフがみられる点ではbと共通し、典型的な三輪山型の神婚譚であるが、最後に女が男から殺された点では、むしろcと万の子の説話との中間にあることを感じさせる。このヒレ振峰の説話は、柳田国男の『人柱と松浦佐用媛』以来、神嫁となる女性が人身御供として捧げられていた土俗を伝えるものではないかと言われてきたが、ひとまずそれは措いて話を進める。






   





 万の子が鬼に喰われた話が、もともと三輪山型の神婚説話であったとした場合、興味深いことがある。この説話の伝承地には、やはりこのタイプの説話を伝える神社が鎮座しているのである。

 この伝承の舞台となった大和国十市郡菴知アムチ村は、現在の奈良県天理市庵治オウジ町であるが、そこには豊日姫命を祀る伊勢降イセフリ神社という神社が鎮座している。当社は庵治町の中でも東方にあるのだが、『日本霊異記』によれば、万の子の家があったのも「菴知の村の東の方カタ」であったというから、彼女の家があったのはだいたいこの神社に近い辺りだったのだろう。
 さて、とうがい庵治町の伊勢降神社から南東に500mほど離れた田原本町八田にも、やはり伊勢降神社という神社が鎮座するのだが、この方は在原業平を祭神とするとか、大穴持命と豊受姫命を祭神にするとかいわれる。『天理市史』によれば、当社の男神は菴知の伊勢降神社の女神のもとに通ったという伝承があるといい(p681)、菴知に住む万の子のもとに鬼が通ったという『日本霊異記』のそれとシチュエーションがよく似ている。そしてこの類似が偶然ではないとすると、万の子の物語はもともと伊勢降神社に伝わっていた伝承ではなかったのか、という疑いが生じる。



伊勢降神社(天理市庵治町)

   
社頭の様子
拝 殿

 【社 名】 いせふり
 【所 在】 天理市庵治町勝楽寺前144
 【祭 神】 豊日姫命
 【例 祭】 10月20日
   ★『天理市史』による。
本 殿

 あまり大きくない神社である。また由緒についても、『天理市史』をはじめ、いくつかの郷土資料等にあたっても不詳としか紹介されない。

 車で奈良を旅行すると、だいたい行きと帰りは24号線を通ることになる。夕方になってこの道路を橿原方面から奈良市の方に戻ると、最初、やたらに混み合っていた道路が、天理市に近くなるとだんだん空いてくる。いつもちょうどそうなってくる頃に、庵治町きんぺんにさしかかるのであるが、信号機に付いた看板の、「庵治町」の文字が目に入ると、寄り道をして伊勢降神社に寄っていきたくなる。と言うわけで、私は奈良に旅行したとき、庵治町の伊勢降神社が神社参拝の打ち止めとなることが少なくない。しかし今、思うと、いつも夕方に行くと言うこともあるのだろうが、秋の参拝では落葉した葉っぱが掃除もされずに散らかっていたり、雨の日の参拝では暗い境内に拝殿の蛍光灯がポツンと灯っていたりする等、何となく忘れ去られたような、寂しいイメージばかりが脳裏に残っている。

 祭神の豊日姫命という女神はどういう神様なのだろうか。よくわからない。ちなみに定評のある『大和国神社神名帳』では、当社の祭神は不詳となっている。

 思いつきを言えば、天理市豊井町に国史見在社の豊日神社という神社が鎮座しているが、あるいはそれと何か関係があるのだろうか。『天理市史』にある乾健治の論考によれば、豊日神社は朝廷で調理のときの忌火をきっていて、のち大膳職として仕えた物部豊日連が祭祀氏族であったという(p656〜658)。『延喜式神名帳』によれば、大膳職に坐す神、三座のうちに「火雷神社」があるので、かの古代氏族は火神である火雷神を祀っていたことになる。こうしてみると、乾による考証が正しく、かつ、豊日姫という神名に、豊日神社とその祭祀氏族へ通じるものがあったとすれば、この女神には火神の神格が感じられることになる。本文で後述するように鍛治神は火神の神格と集合するケースがあるので、このことには気が引かれる。

 当社のふきんにはかつて勝楽寺という寺院があった。石上神宮の神宮寺であったと伝えられる。あるいは、今言ったようなことも含めて、当社には石上神宮とその祭祀氏族であった物部氏との関係があったかもしれない




伊勢降神社(田原本町八田)

   
拝 殿
本 殿

 【社 名】 いせふり
 【所 在】 田原本町八田字宮ノ本424
 【祭 神】 斎宮、在原業平
 【例 祭】 10月10日
   ★『奈良県史5神社』による。
 庵治町の伊勢降神社から南東に500mほど離れた田原本町八田に鎮座する。庵治町の伊勢降神社と同じく、各種の郷土史等を見ても由緒は不詳としか紹介されないのだが、当社の男神は、庵治町の伊勢降神社の女神のもとに通ったとの伝承がある。

 当社の祭神については、主として、「大名持命・豊受姫命」とするものと「斎宮・在原業平」とするものに大別される。明治4年の『式上式下式外神社取調』は、当社の祭神を「大名持命・豊受姫命」としている。いっぽうでその3年後の『郷村社取調』はそれを不明としている。昭和17年の『大和国神社神名帳』は「斎宮・在原業平」、昭和61年の『田原本町史』は「在原業平」、平成元年の『奈良県史5神社』では「斎宮・在原業平」、当社の社頭にある看板によれば「大名持命・豊受姫命」となっている。

 神社はどことなく繊細な感じのする森の中にゆったりと沈み込んでいて、庵治町の伊勢降神社とはずいぶん異なったたたずまいをしている。


 








   





 ここで伊勢降神社の「伊勢降」という社名について考えてみる。この社名はかなり風変わりだが、おそらく「伊勢 」と「降」に分割できると思う。このうち、「伊勢」の方から言うと、これは『伊勢物語』の「伊勢」からとられたものである。というのも、すでに述べた通り、田原本町の伊勢降神社の祭神は、一説に在原業平と言われているからで、業平といえば、『伊勢物語』の主人公であり、したがって、伊勢降神社の「伊勢」はこの歌物語に因むものと考えられるからである。だが、田原本町の伊勢降神社では、どうして神社の祭神としてはあまり一般的とは言えない在原業平が祀られているのか。

 より簡単に答えれば、これは次のようなことであったと思う。

 業平といえば、六歌仙に選ばれるほど歌の才に恵まれるとともにたいへんな美男子であったとされ、『伊勢物語』にある伝承によれば、さまざまな階層・年齢に及ぶ女性たちを相手に恋愛関係を結んでいる。

 田原本町法貴寺に鎮座する斎宮神社(四社神社)境内には、天保十三年に建立された大原碧斎の歌碑があり、その中で業平の伝承が紹介されている。
 
 業平の出身氏族の在原氏は、天理市の櫟井本町市場垣内字在原きんぺんを本貫とし、そこは伊勢降神社の鎮座する地域から北東に5qくらいしか離れていない。また、やはり両・伊勢降神社から2qほど南東には、業平が伊勢の斎宮を伴いこの地を訪れた際、創建したという寺伝をもつ斎宮寺という寺院もあった(この寺院は明治初年の神仏分離により廃寺となり、現在は跡地に斎宮神社という神社を残すだけとなっている)。このように、両・伊勢降神社きんぺんは業平伝説が濃厚に分布する土地柄であり、そうしたところに男神が女神のところに通婚するという信仰の神社があったので、その好色な男神に対して、業平の伝説が附会されたのであろう。


 しかしながら、伊勢降神社の信仰に業平伝説が附会されるにあたっては、さらなる別の契機がはたらいた可能性もある。

 万の子は鬼に喰われた結果、朝になると首と指だという姿になって発見された(※1)。いっぽう、『伊勢物語』にも鬼に喰われた女の話がある。第六段「芥川」を引用する。

 むかし、おとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばいわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこ問いける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓?を負ひて戸口に居り。はや夜も明けなんと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてあり。「あなや」といひけれど、神鳴るさわぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来し女もなし。足ずりをして泣けどかひなし。

・『伊勢物語』大津有一校注、岩波文庫

 この物語は後段で、女をさらったのは本当の鬼ではなく、女の兄の藤原基経と藤原国経であったことを明かしている。彼らは女を天皇に嫁がせ、出世の道具に使う野心があったので、業平から女を奪還したのである。業平はそれを鬼の仕業と思いこんだのだ(※2)

 ところで、『今昔物語集』巻第二十七にはこれと同じ物語が「在原業平中将ノ女、鬼ニ喰ハルル語」として載っており、そこではさらに説話化が進んで、女を喰ったのは本当の鬼であった、という風になっている。




 今は昔、右近中将在原業平という人がおった。評判の、たいそうな色好みで、世間で美人の聞えの高い女は、宮仕え人であろうと、人の娘であろうと、一人残らず、ことごとくわが思い人にしようと考えていたが、ある人の娘が姿かたちこの世にまたとないほどすばらしいと聞いて、熱誠こめて言い寄った。だが、その親たちが、「娘には高貴な婿をとるつもりだ」と言って、掌中の玉と大事にして相手にしないので、業平中将は手も出せないでいたが、どのような手段をとったのであろうか、その女をひそかに盗み出した。
 ところが、とりあえず隠すべき所に困り、どうしようかと思い迷っていたが、たまたま北山科のあたりに荒れ果てて人も住んでいない古い山荘があった。その廷内には大きな校倉があり、片戸は倒れていた。人の住んでいた家の方は板敷きの板もなくなり、入れそうもないので、その倉の中に薄縁一枚を持っていき、その女を連れていって寝たところ、にわかに稲光がして雷鳴が激しくとどろいた。中将は太刀を抜いて女を後ろに押しやり、立ち上がって太刀をひらめかしているうち、雷もやっと鳴りやみ、夜も明けた。
 だが、女の声がしない。中将は不思議に思い振り返って見ると、女の頭と着ていた着物だけが残っていた。中将は言いようもなく恐ろしくなり、自分の着物もとるやとらずに逃げ出した。後になって、この倉は人をとる倉だとわかった。とすると、その夜のことは稲妻や雷ではなく、倉に住む鬼のしわざであったのだろうか。〈後略〉

・小学館日本古典文学全集『今昔物語集』馬淵和夫・国東文麿・稲垣泰一 校注・訳



 この、朝になると鬼に喰い殺された女の頭が倉の中に転がっているというシチュエーションは、同じく朝になると首と指だけという姿になって発見された万の子のそれとよく似ている。そしてそうなると、万の子が鬼に喰われたという『日本霊異記』の説話は、もともと両・伊勢降神社に伝わる伝承ではなかったか、という当初の疑いがますます濃厚になってくるのである。というのも、もともと『日本霊異記』にある万の子が鬼に食い殺される話が両・伊勢降神社に伝わっていたからこそ、朝になると首が転がっている≠ニいう印象的な結末の類似を介して、「芥川」にある鬼の話が連想され、その結果、男神を祀る田原本町の伊勢降神社の祭神として業平が附会されるようになった、と解釈できるからである。

 ちなみに、鬼について書かれた本の定番的存在である馬場あき子の『鬼の研究』には、「鬼を見た人の証言」という章があり、その中でわが国の文献に現れた著名な鬼の話を年代順に紹介してある。『出雲国風土記』の「阿用の郷」から始まり、その次が当該『日本霊異記』の万の子が鬼に喰い殺される語で、その次が『伊勢物語』の「芥川」である(ちなみに、その次が『今昔物語集』や『三代実録』にある「武徳殿松原に喰われた女」、その次が『今昔物語集』の「官の朝庁に参る弁鬼のために喰はるるものがたり」で、この章はそこまでで終わる。)。
 最近の著作では六車由美の『神、人を喰う』でも、「人柱・人身御供・イケニエ」の章で『伊勢物語』の「芥川」の話題が出され、その後でとうがい『日本霊異記』の万の子が鬼に喰われる説話が引用されている。

 こうしたことは我々の文化的記憶の中で、『日本霊異記』にある万の子の物語と「芥川」が、連想による索引を起こしやすいことを示していないか。そうだとすればその場合、こうしたことも、『日本霊異記』にある万の子の伝承がもともとは両・伊勢降神社に伝わるものであったことを支持しているかもしれない。





   





 以下、『日本霊異記』にある万の子が鬼に喰われた伝承は、もともと両・伊勢降神社に伝わっていたとして話を進める。

 ここで2つの伊勢降神社の祭神について考えてみる。

 田原本町の伊勢降神社の祭神は、在原業平であるとする説があることはすでに紹介した。しかしこれは今も言った通り、附会であろう。諸文献は大きく分けて当社の祭神を「在原業平」とするものと「大名持命・豊受姫命」とするものに分かれるが(※上のコラム、「伊勢降神社(田原本町八田)」参照)、いずれにせよ、近世末には当社のほんらいの祭神はよく分からなくなっていたらしい。ただそうしたなかでも、田原本町の伊勢降神社の祭神が男神で庵治町のそれが女神であり、前者は後者のもとに通婚するという伝承だけは保持せられてきたのである。

 ところで、『日本霊異記』にある万の子の伝承がもともと両・伊勢降神社のものであったとすればどうだろう。その場合、女神を祀る庵治町の伊勢降神社の祭神は万の子であり、男神を祀る田原本町の伊勢降神社の祭神は彼女を殺害した鬼であった、と考えることができる。が、その場合、後者の鬼の正体は何か。


 『日本霊異記』によれば万の子は「鏡作造」を姓としていた。鏡作造は鏡の製造を職掌する古代氏族である。となると万の子は、鏡作造の氏神に巫女として仕える神嫁ではなかったか。彼女がよい家柄の人から求婚されても応ぜず、男との交渉がなかったというのも、美人なので気位が高かったせいではなく、神嫁としての彼女にそうした交わりの禁止されていたせいなのである。

鏡作坐天照御魂神社
 庵治町から南に2.5qほど離れたところに、式内明神大社の鏡作坐天照御魂神社が鎮座している。付近にはやはり式内社の、鏡作麻気神社や鏡作伊多神社もある(いずれも小社)。鏡作造はこれら「鏡作」を社名にいただく3社の祭祀氏族であったとみられるが、3社の中心となっている鏡作坐天照御魂神社は、社名に「天照御魂」の語を含んでいて、太陽神を祀っていたことをうかがわす(※3)。こうしたことから守屋俊彦は前掲書で、万の子が巫女として仕え、また彼女のもとへ人の姿となって通って来た鬼の正体は、鏡作坐天照御魂神社で祀られていた太陽神であったとみている。

 その辺のことについて、守屋のテキストの書きっぷりはこうだ、──「万の子が住んでいたところは、霊異記に「大和国十市の郡菴知の村の東の方」とある。鏡作坐天照御魂神社は城下郡にあり、春村が「郡ハタガヘド由緒アリゲ也」と神名帳考証に補注しているように、やや位置が離れているけれども、そこから通っていたということなのであろうか。(『日本霊異記の研究』p169)」──

 自分で言い出しておきながら、「そこから通っていたということなのであろうか。」という言い方はやや頼りない。筆者も本当の確信はもてないのではなかろうか。ついでに言うと、水系でいっても庵治町は大和川(初瀬川)の流域だが、鏡作坐天照御魂神社は寺川の流域に鎮座しており、丹塗矢型の神話に顕著なように、古代における神婚伝承は単一の流水に沿って行われた例が多いという感じをかんあんしても、私は守屋による万の子を喰い殺した鬼 = 鏡作坐天照御魂神社で祀られていた太陽神$烽ノやや不安を感じる。


 私は万の子は庵治町の伊勢降神社で祀られている女神であり、彼女のところに通ってきた鬼はほんらい、田原本町の伊勢降神社の男神であったと考えているため、彼女の姓が「鏡作造」だったというだけで、強いて後者を鏡作坐天照御魂神社の祭神と結びつけようとは思わない。またそれだけではなく、万の子のところに通ってきた鬼が鏡作坐天照御魂神社で祀られていた太陽神であったと考えると、どうして彼女は初夜の相手から喰い殺されなければならなかったかがうまく説明できないと思う。そこら辺りのことについて詳しく述べてみる。

 おそらく、鏡作造を姓とする家に生まれた万の子が、悪鬼に喰い殺されてしまうというこの物語は、彼女が生贄として神への犠牲にされたことを暗示するものではないか。そしてそう考えることから私は、万の子を喰った鬼の正体としては、大和岩雄が『鬼と天皇』で述べた次の説に賛同したくなるのである。
 食われた娘は「鏡作造」の娘である。鏡作氏は、菴知村の近くの鏡作神社三社を祭祀する氏族であり、三社のうち鏡作伊多神社の祭神は天目一箇命である。<中略>鏡作造は天目一箇命を祭祀する氏族の長で(「造」という姓がそれを示している)、天目一箇命に神妻としてオナリを出す家であったため、『霊異記』のような伝承が生まれたのだろう。(p88)
 大和はここで、万の子を喰い殺した悪鬼を天目一箇命とみなし、万の子は鏡作造からこの神への神妻として出されたオナリであったと解釈した(※4)。
 天目一箇命は『日本書紀』天孫降臨条に「天目一箇命を作金者とす」とあり、『古語拾遺』には「天目一箇命をして雑の刀、斧及び鉄の鐸を作らしむ」とあって、著名なる鍛治神である。記紀によれば鏡作造(天武十二年以降は「鏡作連」)の祖は石凝姥命、もしくは天糠戸(石凝姥命はその子ともいう。)であるが、石凝姥神と天目一箇命は対になって活動したり、祀られたりするので、鏡の製作に従事した鏡作氏が、石凝姥命とともにこの鍛治神を氏神として祀っていてもおかしくない。

 万の子を喰った鬼の正体は天目一箇命だった、という考えを強めさせるような伝承が出雲にある。『出雲国風土記』大原郡の「阿用の郷」の記事を引用する。


  阿用の郷。郡の役所の東南十三里八十歩にある。土地の古老が語り伝えて言ったことには、昔、ある人が、この地に山田を耕して守っていた。その時、片目の鬼が来て、田を作る人の息子を食べた。その時、息子の父母は、竹藪の中に隠れて小さくなっていたのだが、その時に、竹の葉がさやさやと揺れ動いた。その時、鬼に食われている息子が「アヨクアヨク(動いている動いている)」と言っ(て教え)た。だから阿欲という。(神亀三年、字を阿用にと改めた)

 ・小学館日本古典文学全集『風土記』上垣節也編p262〜263


 大和によれば、この単眼の鬼が出没した「阿用郷(島根県大原郡大東町東阿用・西阿用・上阿用・下阿用)は鉄産地で、阿用の水鉛(モリブデン)はわが国の生産額の九〇パーセントを占めていた。『出雲国風土記』大原郡の項にみえる阿用社は、現在の剣神社(大東町東阿用字宮内)だが、水鉛鋼は刀剣の硬度を強くするのに欠かせないから、それにちなんで剣神社に社名が変わったのである。剣神社は標高三〇八メートルの磨石山の麓にあるが、この山名も鉄鉱石を出す水鉛鉱と無縁ではないだろう。金成という小字名がある下阿用には、佐世鉱山があった。(『鬼と天皇』p56〜57)」という。



阿用神社(剣神社)

     
社頭の様子
本 殿

 【社 名】 あよう
 【所 在】 島根県大原郡大東町大字東阿用199
 【祭 神】 素盞鳴命、國常立尊
 【例 祭】 11月5日
   ★『神國島根』による
 本文中で引用した大和岩雄の『鬼と天皇』の中で「剣神社」として紹介のある神社で、『出雲国風土記』大原郡の「阿用社」である。


 『神國島根』には以下の由緒の登載がある。

「風土記に「阿用ノ社」と乗せられている式外社である。往時武将の崇敬あつく、天正十六年源朝臣三澤下野入道宗程が延寿武運兵略拡張祈願のため社殿を造営し、神田二十五俵尻をつけている。そしてこの郷の氏神として氏子の崇敬を得今日に至っている。
 往時、滝戸大明神又は剣大明神とも称され明治四年十二月村社に列せられた。(p156)」


磨石山
画像の中央部ふきんに当たる山麓に阿用神社が鎮座している。おそらく、当社の神体山だったのであろう。


 天目一箇命は名前から言って、目が1つしかなかったと考えられるが、その場合、このような鉄産地である阿用の郷に出没した片目の鬼も、製鉄・鍛治神である天目一箇命ではなかったか。詳しい紹介は省くが、じっさい大和は『鬼と天皇』でそのような結論に達している。
 いっぽう、瀧音能之も『古代出雲の社会と信仰』で、『出雲国風土記』大原郡条にある神原郷・屋代郷・屋裏郷・佐世郷・阿用郷の記事は「神宝、すなわち武器類、矢の鏃、スサノオ神、すなわち製鉄神といった金属・製鉄に関連した伝承が並んでいる」とした上で、これらの伝承は個別に存在するのではなく、互いに関係しあって成立しているように把握できるため、「このような視点に立って、とりあげた伝承群を全体的にとらえるならば、阿用郷に登場する「目ひとつの鬼」を製鉄神である天目一箇神に結びつけて考えることはさほど荒唐無稽なことではないだろう。(p91)」と述べている。


 いずれにせよ、阿用の郷の単眼の鬼が天目一箇命だった場合、この神には人を喰う習性があったことになり、万の子を喰った鬼もまた天目一箇命だったという疑いを強めさせる。


  
 ルドンの『キュクロープス』は、この巨人を描いた絵としてもっとも知られているものの1つだろう。ただし、ルドンのキュクロープスには、凶暴さや残忍さはまったく感じられない。オランダのオッテルローにある、クレロー・ミュラー美術館蔵。
 もっとも、単眼の鍛治神が人を喰った事例はギリシア神話にもある。すなわち、ギリシア神話にはキュクロープスという目が額の真中に一つという巨人族が登場し、『オデュッセイア』ではオデュッセウスが乗っていた船の乗員をつかまえて地面に叩きつけ、その死体をバリバリ囓って喰ってしまうのである。ヘシオドスによれば彼らは器用な職人で、ガイアが地の底に匿していた火を加工して雷電と雷鳴を作成し、武器としてゼウスに進呈したといい、また鍛治にも優れていた。したがって、出雲で天目一箇命らしき片目の鬼が人を喰ったからといって直ちに、万の子を喰った鬼もまたこの神だと決めつける訳にはいかないのである。

 ただしそもそも、若尾五雄が『鬼の研究』や『金属・鬼・人柱その他』で示したように、丹後の大江山をはじめ、各地の鬼の伝承で有名な土地には、鉱物の採掘を行った遺跡が見られる例が多く、そこには金属精錬をはじめとした鍛治に携わる人たちの活動がしばしば認められるのである。したがって、こうした各地の伝承で人を喰らった鬼たちは、わが国の金工たちの間で祀られてきた古い鍛治神が、仏教の伝播とその普及により歴史の片隅に追いやられ、零落したものと解せるのだ。

 そうして私は、伊勢降神社の鎮座する奈良盆地中央部いったいは、上代に倭鍛冶系の金工集団が数多く活動していた地域であり(このことについてはいずれ触れる。)、彼らから信仰を受けていた天目一箇命が鬼という零落した形姿でここに登場したとしてもおかしくないと考えられることや、なんと言っても万の子は鏡作氏出身で、氏神であったとおぼしき天目一箇命に仕える巫女であったらしいことを思えば、彼女のもとを訪れた鬼の正体がこの鍛治神だったと考えるのは自然な推論である気がするのである。その場合、庵治町にいる女神のもとへ通ったという田原本町の伊勢降神社の男神もまた、この神であったように思われる。



 ではそのいっぽうで、庵治町の伊勢降神社に祀られている女神の正体は何だったのか。『日本霊異記』にある万の子が鬼に喰われる伝承は、もともと両・伊勢降神社に伝わるものであったとすれば、これもまたその祭神とは万の子であったことになる。万の子は鏡作造の氏神に仕えた巫女であったが、こうした巫女が後世になって神格化され、祀られるようになったのが当社の祭神であったと考える。

 だが、自分の氏神(おそらく天目一箇命)に仕えていた万の子は、何故、その氏神(の零落した姿であると思われる鬼)から喰い殺されなければならなかったのだろうか。この疑問に対し大和はさっき引用した箇所で、鏡作造は「天目一箇命に神妻としてオナリを出す家であった」ためとし、その原因を万の子がオナリであったことに求めている。
 ところで、「オナリ」って何だろう?

 沖縄の方言では妹のことを「オナリ」といい、オナリが主としてその兄弟を守護するという、著名なるオナリ神の信仰がある。が、これとは別に、本土の各地には田植えの日に弁当を運んだり、炊事を行う女をオナリと呼ぶ慣わしが広く認められる(音転で「ボナリ」「ウナリ」となる例もある。)。この方のオナリは昼食を運んでくるので「ヒルマ持ち」と呼ばれたりもするが、おそらくこれはかつてのオナリが、田の神に食膳を奉る巫女であったことを暗示している。それが後世になってそうした信仰が廃れ、たんなる飯炊き役や弁当持ちを指示する語に転落したのである。


 ところで、大正年間に発表された『人身御供の資料としての「おなり女」伝説』という論文の中で中山太郎は、かつてオナリは、田植えの日に田の神への生贄として殺害されていたと論じた。

 中山は、この論文でオオゲツヒメや保食神がスサノオや月読尊によって殺害された後、その身体各所から穀物を生じたという記紀神話に注目し、古代人は、穀物が発芽し、繁茂し、結実し、枯死するのを自分たちの誕生・生育・死とのアナロジーでとらえたため、穀物を刈り取ることは穀物神を殺すことに該当し、このため、オナリは神の代理として殺害され、犠牲に供されたと考えた。

 いっぱんに記紀にあるオオゲツヒメなどの伝承は、ハイヌウェレ型神話の名で知られる。同タイプの神話はオセアニア・アフリカ・アメリカ等で分布が確認されているが、その命名者イェンゼンはこのタイプの神話について、有用植物の栽培の起源をめぐる神話に供犠が重要な役割を果たし、それはこの神話の世界像を確認するため、儀礼的に原古の殺害が模倣されたためと考えた。人身御供との関係でオオゲツヒメなどの神話に着目した中山の発想には、イェンゼンを予感させるものがあるが、『人身御供の資料としての「おなり女」伝説』が発表されたのは大正年間だから、中山は世界的に見ても時代に先駆けた存在だったように思う。

 さらに、悪姑から広大な田の田植えや刈り入れを1日で終えるように言いつけられた嫁が、過酷な労働のため、背負っていた乳飲み子と一緒に弊死した、その後、その呪いでその田は不作になった(あるいは沈んで大きな池になった。)、というような伝承が全国各地に数多く残っているが、中山はこうした「嫁殺し田」の伝承もオナリを人身御供にした土俗から派生したと考えた(下のコラム参照)。





中山太郎と水使神社

  
石段の終点ふきんから撮影した社殿
本 殿

 【社 名】 みづし
 【所 在】 栃木県足利市五十部町中堀1235
 【祭 神】 水波能売命
 【例 祭】 4月22日
   ★『栃木県神社誌』による
 中山太郎は『人身御供の資料としての「おなり女」伝説』の中で当社のことにふれている。以下、引用 ── 、

「下野国足利郡三重村大字五十部の水使神社の縁起に、この祭神は、栃木県の富豪の水仕女であったが、乳飲児を抱えて奉公していた。ある年の田植の折に、早乙女の昼飯を持参して田へ往った留守に、主人がその乳飲児を殺して了ったので、水仕女は気狂いのようになって、付近の池へ投身して死んだ。爾来、その池の側を通る人の影が水に映ると、池の主にとられて死ぬのでその池を影取の池と名づけ、水仕女の祟りを恐れて神に祭ったのが、此の社である。
 神体は、頭上に飯櫃を戴き、右手に飯匙を持っている像で、今にその御影を出している。この社は、私も幼少の折に、二度ほど参詣した。この縁起に、後世の作為が加わっている事は言うまでもないが、とにかくこの水仕女が、田植えに昼飯を持参したこと、乳飲児が殺されたこと、そして自分も死んだという、この三点は、他のオナリ伝説と、全く共通なものであって、しかもこの三点が、オナリとして、穀神の犠牲となったことを語る大切な眼目である。」


 今年の夏、私はこの神社を参拝してみた。神社は山の斜面にあって、社殿の前にたどり着くまでにはわりと長い石段がある。境内はあまり広くなく、社殿もこじんまりとしたものだが、現在でも安産、子さずけ、婦人病等の熱心な信仰を受けているらしく、拝殿のところには奉納された涎掛けがたくさん結びつけられていた(左画像)。




 当社の絵馬。イコン化された祭神が、飯櫃としゃもじを持った姿で印刷されている。絵馬に書かれた願い事は、子授けや子供の無事な成長など、出産や育児関係のものばかり(当たり前か)。ちなみに、拝殿の中にも絵馬と同じイメージの絵が奉納されている(下画像)。




 上の引用文で中山は神体の姿を、「頭上に飯櫃を戴き、右手に飯匙を持っている像」としている。したがって、当社のご神体となっている神像は、絵馬にあるイメージとは飯櫃の持ち方が違っているようだ。それはともかく、こうした頭上に飯櫃などの容器を戴くというポーズは、人身御供と何か深い関係があるのかもしれない。
 六車由美の『神、人を喰う』に紹介のある事例によると、徳島県鳴門市撫養町に鎮座する宇佐八幡神社では、毎年10月13日に「おごく」という祭礼が執行される。そこでは正装した当屋の夫人が、頭上に神饌を入れた曲げ物(「はんぼ」)をいただいたまま本殿に上がって神饌を供えるが、その様子や「おごく」という名称から、地元ではこの祭りの由来が人身御供との関係から説明される場合があるという。また、熊本県阿蘇郡一の宮町の阿蘇神社では、旧暦6月26日に「おんだ祭」が執行される。その祭礼の行列はさまざまな持ち物を持った男女から成っているが、中でも神饌を頭上に戴いた14人の女性は名高い。この祭礼に現在、人身御供にまつわるような伝承はいっさい伝わっていないが、この女性たちが「ウナリ」と呼ばれているのが示唆的である。


 オナリのことを離れても、当社の境内には「宝物殿」という小さなプレハブの倉庫があり、窓から覗くと中には性器崇拝のオブジェが陰陽とりそろえて収蔵してある等、土俗のふんいきを盛り上げる。


 中山は、郷里にあるこの神社の伝承に触発されて、かつてオナリが田の神への犠牲として殺害されていたとする有名な自説を着想したのだろうか。

 そういえば、彼は親友だったニコライ・ネフスキーと一緒に茨城・栃木両県下を旅したことがある。意気投合していた2人は、あるいはその旅次に水使神社にも立ち寄っているかもしれない。『月と不死』の著者も訪れたかも知れないと考えると、当社の社頭に立つ感慨もひとしおだ。



 ということで、かつてわが国ではオナリが殺害されるような農耕儀礼が行われていたのではなかったか、というようなこと中山などによって早くから言われており、しかもそれはたんなるイケニエとか人身御供などと言った話ではなく、文化形態学的に言って、原古の女神殺害が回帰するハイヌヴェレ型の神話を共有する文化圏と連絡があるのではないか、などと感じさせるのである。

 それはともかく、話を本題に戻すと、じつはオナリの信仰はこうした農耕儀礼だけではなく、鍛治のことにも登場してくるのだ。島根県にある菅谷鑪ダタラの、第十四代村下ムラゲだった堀江要四郎の語る金屋子神降臨の伝承を引用する(※5)。




 鑪タタラの神さんは金屋子さんで、おなごの神さん(女神)です。本社は能義郡のに西比田にありますが、そのもとは備中の吉備の中山だということです。天から吉備の中山へ降りさっしゃって、そこから比田へ来られました。そのとき、金屋子さんは白狐に乗って、村下一人と、ヲナリ一人と、お伴を二人つれて来られたということです。ヲナリとは飯炊き女のことで、このへんでは田植えのときにもいうことばです。このとき金屋子さんがつれてこられたヲナリは、お松といって、年は十五だったということです。
 ところが、この金屋子さんが降りてこられたときに、四つ目の犬が吠えかかったので、笹の中にかくれて助かられたという言い伝えがあります。それで鑪では犬を嫌い、笹を大事にします。鑪では笹を焼かぬようにします。〈中略〉
 金屋子さんにはもう一つ言い伝えがあります。そのつれて来られた村下が死んだので、鑪がどうしても吹けぬようになった。そうしたら金屋子さんが、あの村下の骨を掘り出して四本柱にすけかけておけといわれた。それでみんながそうしたら、またよく鑪が吹けるようになったといいます。

 ・『鑪と鍛冶』p193〜194




菅谷鑪



菅谷鑪のシンボルである鑪炉

 フイゴから延びる送風管
 上画像は島根県雲南市吉田町にある菅谷鑪の溶鉱炉。炉の両側に送風のための巨大なフイゴが設置されている特徴的な外観は、宮崎駿のアニメ『もののけ姫』にモデルを提供した。鑪では鉄が吹き上がると、炉を壊して熔けた鉄(ケラ)を取り出すのだが、こうしたことから鑪の施設が完全な形で残っているケースは、国内でも唯一、ここだけである。かつては世界一の玉鋼ができるとまで言われた菅谷鑪だったが、鑪稼業の衰微に伴い操業が見られなくなり、最後の操業の日付は大正10年の5月5日だったという。

 右画像はフイゴから溶鉱炉に幾本も延びる送風管。竹製らしい。鑪操業時は、炉に砂鉄と炭を交互に入れながら、昼夜違わず3日間、これで空気を送り込み続けなければならない。炎熱を浴びながらの想像を絶する重労働である。




高殿外観


内 部

 鑪の施設は、高殿と呼ばれる巨大な家屋の中に納まっている(左画像)。右画像にある通り、現在は屋根が完全に葺かれてしまっているが、操業していた当時は炉の上部にあたる屋根は無かった。

 鑪の事業にはたんなる鉄生産というだけでは片づけられない、高い精神性が感じられてならない。高殿にはかつて、女人禁制などの厳しい禁忌があったが、炉の火が消えてから90年以上経った現在でも、内部に入ると厳粛な気分にさせられる。




菅谷鑪の桂の樹

 高殿の正面左手には樹齢100年という桂の大木がある。桂は金屋子神が出雲に最初に降臨したというゆかりのある樹木で、かつては神木としてどこの鑪でも植えられていた(ずっと下の※5に紹介した、金屋子神の降臨伝承を参照)。

 高殿近くには金屋子神の小祠が祀られている(下左画像)。鑪を操業する際には、村下をはじめとした従事者はもちろん、家族までもがよく鉄が湧くよう祈ったという。菅谷鑪では金屋子神は低い所に祀ることになっていたと言われ、じっさいにこの小祠は、谷川に面した低い土地にある、岩の露頭部に祀られていた。もっとも、こうしたケースは菅谷鑪だけで、他ではあまり聞かない伝承らしい。


金屋子神の小祠


金屋子神像

 鑪の神として信仰されていた金屋子神は、上の堀江要四郎が語る伝承にもある通り、女神とされていた。伝承によれば、金屋子神は器量が悪く、このため、他の女性への嫉妬心が非常に強かった。女性が高殿の中に入ると背中向きになり、特に化粧をし赤子を負ぶってくるのを嫌ったので、そんなことがあると鉄がよく湧かなくなると信じられていた。高殿の裏手にはこうしたこともあって、金屋子神が水鏡として使うように池が作られ、神の心の安定が得られ、鉄作りが順調に進むよう祈願された。

 上右画像は銑鉄製の金屋子神像。神のイメージを醜い老婆の姿で表している。雲南市吉田町の「鉄の歴史博物館」の収蔵品。話は変わるが、この博物館で昭和40年代に製作された『和鋼風土記』という映画を観ることができた。村下の生き残りの方の指導で、鑪製鉄の作業を復元をしたときの記録映画なのだが、これが良いものであった。まだ軟調に流れる前の武満徹が、いい仕事をしていたのも耳に残っている。


高殿の裏手にある、金屋子神の化粧池(かつては湧水があった。)



 菅谷鑪で拾った金くそ。手に持つとズシリと重く、磁石を近づけるとくっつく。このような金くそが、それこそもう、そこら中に落ちている。


 この伝承は口碑で伝わっているものだが、「金屋子さんが降りてこられたときに、四つ目の犬が吠えかかったので、笹の中にかくれて助かられた」という部分などは、『出雲国風土記』阿用の郷で、片目の鬼が来て息子が喰われた時、両親は竹藪に隠れていて助かったエピソードを連想させる。口碑とはいえ、ここには上代に遡るような古い神話が含まれているかもしれない。

 それはともかく、出雲地方の鑪では、飯炊きをする老婆のことをオナリと呼んでいた。

 いっぱんに鑪では血の汚れを非常に嫌う。このため女たちは鑪のある建物(高殿)の中に入れない。あるいは金屋子神はたいへんな醜女であるため他の女性を嫌う、とも言われた。ただそうは言っても、飯を炊くことは必要なので、それらの心配がない老婆がオナリを務めていたのである。

 ところが、この伝承に登場するお松というオナリは15歳であったという。このことは、ほんらい鑪オナリがたんなる炊事役の老婆ではなく、田植えオナリと同様、もともと神に仕える巫女であったことを暗示する。天明四年に下原重仲によって著された『鉄山秘書』には、新しく鑪を築いた時は、まず餅を搗いて鑪の土炉に供えてから、それをオナリに遺す儀礼の記事があるのだが、このことに触れて石塚は、「これは結局オナリというものが、もとは単なる飯炊き役ではなく、実は神への供物の調理を第一とするものであったことを暗示するものではあるまいかと思う(石塚尊俊『金屋子神の信仰について』、『しまねの古代文化』第七号p52)」と述べている。つまりかつての鑪オナリは、田の神への食膳を奉っていた田植えオナリと同じ信仰上の意義をもっていたのである。

 石塚はさらに、中山の「オナリ=神への生贄」説から影響を受けて、次のように論を進める。
 かつて中山太郎氏が、近江の三井寺の梵鐘に二人の子供が鋳込んであるという話、韓国京城の人鐘にも人が鋳込んであるという伝え、あるいは梅ヶ枝の撞いた無言の鐘にも、撞けば人の顔が現れるという伝えのあることなどを、やはりここへ結びつけて考えようとされた(『ひだびと』八の一一)ことにはもう一度注意してみてよいと思う。中山氏はそのことを金工界の巨匠香取秀真氏が、純金や純銀を溶かすときに呪いだといって鰯の頭などを入れる習慣があると語られたことに関連づけていられる。
 ・『鑪と鍛冶』p281
 鐘の中に赤児や少女が鋳込まれた、という伝承は各地でよく耳にする。ちょっと詳しくみると、このタイプの伝承で一番有名なのは、天橋立の近くにある京都府宮津市の成相寺に伝わる「つかずの鐘」だろう。


 昔、成相寺で鐘を鋳ようとしたが、何度やっても赤ん坊の形をした穴があいてしまう。調べてみると、かつて鋳造費用の寄進を募った際、ある富裕な家だけがうちで出せるのは赤子だけだと言って断っていたことが判明する。その家から赤子を盗み出し鋳込んでしまうと、見事に鐘は鋳あがったが、それを撞くといんいんと哀しい音を発し、麓の村では赤子の泣き声が混じって聞こえるという者も多かったので、ついにその鐘は撞かれなくなった(この伝承には異文が多いようだ。)

 これの類話は讃岐にもある。土器川流域のある村で音色の悪い鐘を作り直すことになったが、ある男がうっかり人柱を立てたらどうかと提案してしまう。ところが、人柱は言い出した者の子を差し出す慣わしになっていたため、結局、その男の子供が鐘に鋳込まれてしまった。鐘の音色はよくなったものの、鐘が鳴るたびに村中の子供が泣き出すようになり、これは鋳込まれた子供の祟りだということになって、供養のために鐘を土器川に沈め、その後は「ななずの鐘」と呼ばれるようになったという(池原昭治『日本の民話300』)。

 ちなみに私が子供の頃、読んだ民話にこんなのがあった(と思う)。ある国で鐘を新造することになったため、殿様が領内にあるすべての鏡を供出するようお触れをだす。ところがある娘だけが、亡くなった母の形見である鏡を差し出すのにしのびなく、それを隠してしまう。やがてそのことが露見し、彼女は鏡と一緒に鐘に鋳込まれてしまう。ちなみに子供の頃なので記憶があやふやなのだが、そもそも殿様が領内の鏡をすべて鋳つぶして鐘にしようとしたのも、お姫様が非常に不器量だったためで、彼女から鏡を見る機会を奪うのが目的であったような気がしている。その場合、金屋子神は女神で、しかもたいへんな醜女であったという伝承と通底するものを感じる。


 いっぽう、人の顔が現れる鐘の伝承が島根県にある。「怪異・妖怪伝承データベース」にあったテキストを引用する。「鐘を撞くと女の顔が現れるので撞かない鐘がある。昔、鐘を鋳る時、龍頭が上手くつかなかった。そこでかねてから女性の血をあてがえば必ず成就すると言われていることを思い出し、名主の娘を誘い殺してその肉を入れたら成功した。しかし鐘を撞くと娘の顔が現れるため、今日まで撞かないという。(「女の顔が現れる鐘」から引用)」

 このほか、「純金や純銀を溶かすときに呪いだといって鰯の頭などを入れる習慣」で思い出すのは、出雲の鑪では黒不浄(=死の不浄)があるとよく鉄が湧くと言われていたことである。これについては『鑪と鍛冶』の「鑪における禁忌と呪術」の章に、幾多の事例が載っているので、その一部を紹介する(p252〜253)。

  金屋子さんは死の忌みを少しも嫌われない、四本柱に死体を括りつけてておいてもよかったという。また比田の金屋子神社の本殿の下には瓶がいけてあって、その中には昔の村下の骨が入れてあるということだ(出雲能義郡比田村金屋子鑪、鋼造、影山弥太郎氏)。

 金屋子さんは死の穢は問題ではない。鍛治屋で調子が悪いときには、よくなるようにというので人の死体を括りつけておいたという話があるほどだ。炭焼が炭を焼くときにときに、棺桶の木切れを海岸から拾ってきてくべると具合がよいという。じぶんなどもしてみたことがある。具合がよかったような気がする(出雲簸川郡田儀村、炭焼、栗見重太郎氏)。

 金屋子さんは死を嫌われない。むしろ喜ばれる。それで昔は葬式が出ると、その棺を担いで鑪の廻りを歩いてもらったものだそうだ(備後双三郡布野村、炭焼、長谷川亀市氏)。

 金屋子さんは死んだものが大すきで、人が死ぬと棺桶は鑪の中でつくった。誰それが死んだというと、「なに、死んだ?」といって、根掘り葉掘り聞いたものだ。その反対に生まれたなどというと、どなられよった(安芸、山県郡山廻村、炭坂、室源治氏)。
 また、鑪を吹くとき、その中に生きた人を入れたという伝承もある。中川美津子が報告した鳥取県日野市日野町井原里の伝承によれば、「この地では昔から黒不浄があると鉄がよく湧いた。あるとき、その穢れた火がなくなり、鉄が湧かなくなった。そこへ乞食が現れたので、踏鞴タタラの管理者は乞食を煮えたぎる炉の中へ放りこんだ。すると踏鞴の作業はうまくゆくようになったが、踏鞴の代々の管理者に乞食の霊がつくようになったので、その怨霊を慰めるために法華経をもって供養し、踏鞴場の傍らに碑を建てた。(若尾五雄『金属・鬼・人柱その他』p61)」という。

 こうした炉の中に人が犠牲として捧げられた、という伝承の分布は世界的なもので、例えば『呉越春秋』『烈士伝』などにある干将カンショウと莫耶バクヤの伝説は有名である。干将という刀工がいて、国王の命で剣を作るがなかなか名刀ができない、そこで妻の莫耶が髪を断ち、爪を切って炉の中に投入すると立派な銅剣ができたというのである。この伝承は『捜神記』にも載っているが、そこでは干将と莫耶の夫婦が「干将莫耶」という名の1人の人物であることになっていたりして、かなり原形が損なわれている。また、異伝もあるらしく、莫耶本人が自己犠牲により炉に身を投じたと紹介されることも多い。


 さらに、エリアーデの『鍛治師と錬金術師』には「炉に捧げられる人身供犠」という章があって、インドやアフリカの事例が多数、収録されている。中央インドのムンダ族のものを紹介しておく。
 始め人間は天上でシング=ボンガ(ムンダ族の至高存在)のために働いた。しかし水に映った顔の映像が彼らが神に似ていること、だから彼らは神と平等であることを暴露したので、彼らは神に仕えることを拒絶した。そこでシング=ボンガは彼らを地上に投げおろした。人間たちは鉄鉱石の鉱床を容している地点に降りてきて、七基のの炉を建てつづけた。煙がシング=ボンガを不快にさせ、使者の鳥たちを介して嘆願しても無駄だったので、彼は自分で病気の老人に変装して地上に降った。間もなく炉は崩壊してしまい、鍛治師たちはシング=ボンガとは知らずに彼に助言を求めた。彼の答は、「おまえたちは人間の犠牲を捧げるしかない」というのだった。そして自分で進んで犠牲になるものがすぐにはなかったので、シング=ボンガは自分を差し出した。彼は白熱状態にある炉の内部へもぐり込み、三日のちに金銀と宝石をもって出現した。神の教唆にしたがって鍛治師は真似をした。妻たちは鞴を操作し、鍛治師たちは息ながら焼かれて炉のなかで泣きわめいた。シング=ボンガは女房たちを安心させて、旦那たちが叫んでいるのは現に宝物を分けあっているからなのだといった。妻たちは鍛治師たちがすっかり灰にもどってしまうまで仕事を続けた。そしてそれから彼女たちがどんなことになるのかと尋ねると、シング=ボンガは彼女らを丘と岩の精霊ブフトゥbhutに変えてしまった。
 ・『鍛治師と錬金術師』大室幹雄訳、p76〜77

 ついでに思いつきを言わせてもらうと、『旧約聖書』のダニエル書に、ネブカドネザル王の造った金の像への礼拝を拒否したバビロン州の3人の行政官が、燃えさかる炉の中に放り込まれたが、ヤハヴェの加護によって無事だった、というエピソードがある。ここに登場する炉が溶鉱炉のことであったとすれば、神の威徳を説くこの伝承も、ほんらいは金の像を鋳造するために、人が犠牲として炉の中に捧げられた、というものではなかったか。


 それはともかく、石塚尊俊は上述したように、鑪では血の不浄を忌むのに対し、黒不浄は忌まないばかりか、むしろこれを歓迎する風さえあることを考究する箇所で、次のように述べている。
 ついても、考え合わせられるのは、同じ火の神の信仰である竈神の由来憚である。これに関しても九州と江州では、離縁された女房がその後長者に婚ぎ、そこへ零落した先の夫が来て、恥と悔とに堪えずして死んでしまったので、それを竈の後に埋めて家の守護神としたのがすなわち竈神であるといった伝承がある。〈中略〉この不可解な問題に対する柳田先生の回答は、「何かなほ此方面に人の霊を火の霊として崇拝する昔の理由が隠れて居るやようにも思ふ」(『海南小記』)というおことばに現れている〈中略〉とにかく鑪でも、竈でも、火の神には人の死霊がつきまとっていたということを考えてみたいのである。
 ・『鑪と鍛冶』p279〜280
 
 ちなみに、グリムやペローなどの童話で知られるシンデレラ(灰かぶり)は、いつも竈のそばで寝ていたのでその名前で呼ばれていたのだが、最近になって私は、竈とは死者の世界と現世を仲介する機能をもつものであり、シンデレラの物語は冥界とのつながりをもつ女性を主人公とした、かなり古い神話素に起源をもつことを知った(中沢新一の『人類最古の哲学』「原シンデレラのほうへ」の章)。

   菅谷鑪の愛宕権現と秋葉権現。どの祠がどの神様のものかは分からなかったが、ここには金毘羅権現も祀られていて、この方には鍛治神の神格があったらしい。
 いずれにせよ、鑪では竈と同じく大量の炎熱が必要とされるため、自然な成り行きとして、鍛治神と竈神は火の神格を介して習合を起こしやすい。じっさい石塚によれば、東北地方の中央部と近畿地方の一部、及び北九州の一部では竈神が鍛治・鋳物師の神として祀られており、また、近畿地方いったいから北陸地方にかけて、また東北地方南部や四国地方東寄りの地域では、稲荷神がどうように鍛治・鋳物師の神として祀られるが、この場合、稲荷神が祀られるのは、通常の場合のように商売繁盛などの利益をもたらすそれではなく、火神としての神格によるのであるらしい。また、菅谷鑪では、高殿の裏手にある小高い丘に、愛宕神と秋葉神が祀られていた(言うまでもなく、愛宕神と秋葉神には火神の神格がある。)。そうして石塚が言うように火神が死霊の影を帯びるものであったとすれば、「かつてはこのような、鐘の中に人を鋳込むとか、湧かないときには人の死屍を立てかけるとか、〈中略〉やはり人の霊を火の霊と見、火の神の機嫌をなおすためには進んで人の霊を捧げねばならぬといった信仰が、もとはあるいはあったかもしれぬのである。(『鑪と鍛冶』p281)」。


 だが、その場合、かつて火の神への供犠として捧げられていた者は誰であったか、といういうことが問題になってくる。石塚はこれに答えて、それがオナリだったと結論する。
 さて、そうするとそれではそのような場合に、その火の神への牲として捧げられるものは誰かということが問題になる。さきに見た例では、ムラゲが死んで神になったとあるから、それはムラゲであったということになるが、これはおそらくムラゲが司祭権を掌握するようになってからの話で、実はその前には当然巫女たるヲナリがその役を担当したものではないかということになる。ということになると、かの『宇治拾遺物語』に見える、同じ鍛治神たる作州の中山神社で、祭りの日に女の犠牲を捧げると言った話(巻一〇、婦人止生贄事)がまず考えられる。
 ・『鑪と鍛冶』p281〜282



中山神社



中山造と呼ばれる独特の建築様式をした本殿

 【社 名】 なかやま
 【所 在】 岡山県津山市西一宮長良嶽
 【祭 神】 鏡作命(相殿に天糠戸神・石凝姥神)
 【例 祭】 4月24日
   ★『日本の神々2山陽・四国』による
 本文中の引用文で、石塚が鍛治神に生贄が捧げられた事例としてあげている中山神社は、岡山県津山市に鎮座する美作国一宮であり、産鉄国として知られた当国のそれにふさわしく、産鉄・製鉄の神としての神格があった。この神が生贄を要求した伝承は、『宇治拾遺物語』や『今昔物語集』(巻二十六・第七)に見られ、後者は「今は昔、美作に中参チュウサン・高野コウヤという神がいた。その神の形姿は、中参は猿、高野は蛇であった。」と書き出して、娘を生け贄として奉献させていた中山神が、東国から来た男の計略によって退治せられたということになっている。

 この神社の祭神については所説あるが、社記である『中山神社縁由』には鏡作命とあり、これが有力されている(現祭神にもなっている)。大和は『鬼と天皇』の中で「『中山神社』資料には鏡作命が降臨して地主神の大己貴命から社地を譲られたとある鏡作命は、たぶん天目一箇命と重なる神で、生贄になった娘は鏡作氏の娘であろう。(p88)」と述べており、万の子が人身御供として天目一箇命に捧げられていたと考える上で示唆的である。

 ちなみに相殿神は天糠戸神と石凝姥神であり、これらの神も鍛治神や産鉄神の神格がある。

 


 社殿の脇を通って50mほど進むと、山腹の岩の露頭に猿神社の小祠が祀られている。祭神は猿多彦神であるといい、安産の信仰を集めているが、猿の姿をした中山の神が生娘の生贄を求めたという上述の伝承との関係で語られることが多い。

 猿神社には小さな人形がたくさん奉納されており、遠目で最初に見た時には、妙に生々しい血のような色のポコポコしたものがぎっしりと詰まっているので、いったい何だろう、と驚かされる。どうやら安産を祈願するためのものらしいが、薄気味悪い雰囲気だ。



 石塚はまた、こうした鍛治神にオナリが供犠として捧げられたことを暗示する伝承として、上に続けて石見国鹿足郡日原村の左鎧サブミ部落に伝わるそれを紹介している。
 私はまた石見国鹿足郡日原村において、村の篤学岸田儀平老から注意すべき次の話を聞くを得た。

 それは左鎧サブミ部落の地蔵尊の由来譚として伝えられているもので、いつ頃のことか、このあたりにも鑪があって、そこの名主の娘にみめうるわしい乙女があった。常に鑪の守護神である山神さまの巫女として仕え、毎年霜月八日の山神祭のときなどには、ことに舞の上手を見せたものだというが、その乙女が十七のとき、労咳にかかってついに死んでしまった。そのとき乙女は日夜聞き慣れた円教寺の鐘の音の聞こえるところに埋めてくれといったので、それで今に残るあの地蔵が峠の頂に葬ったのだという。聞けばいかにも哀れな、またまことらしい話である。しかしその円教寺云々という釈教流の潤色と、労咳という納得のゆく理由とをとってみるとしたならば、十七という年、巫女であったということがらなど、いかにも例の類らしいと思うのは僻目か。
 ・『鑪と鍛冶』p282。
 



 エリアーデはこのように炉の中に人が捧げられる儀礼や神話が行われるのは、金属が神の身体ないしは犠牲に供された超自然的存在に由来し、冶金術の仕事が原古の供犠の模倣を必要とするためと考えた。つまり、イェンゼンが有用栽培植物の起源をめぐるハイヌウェレ型の神話について考えたのと、同じ発想である。石塚や柳田は同じことについて、火の神格と死霊とのつながりに説明を求めたが、こうしたエリアーデの議論にも私は魅力を感じている。

 しかしそれはともかく、供犠と鍛冶との関係についての話はきりがないのでこの辺で止めて、話を万の子のことにもどす。総合すると、ようするに、万の子を喰った鬼の正体は天目一箇命であり、万の子が鬼に喰われた物語の背後には、鏡作造が自分の家に生まれた娘を、オナリとしてこの神への人身御供に捧げていた土俗がこだましているのではないか、と考えられるのである。また、万の子が鬼に食われる『日本霊異記』の伝承は、ほんらい田原本町と天理市に鎮座する2つの伊勢降神社に伝わっていたものであり、両社は上代に鏡作氏が祭祀にかかわった神社で、田原本町の方の祭神は天目一箇命、天理市庵治町のそれの方の祭神は神嫁として天目一箇命に仕えたオナリ/万の子であったと考える。


 だがそれにしてもこの万の子の物語は、鬼が登場するわが国の説話類中でも、残忍さや暗い雰囲気の点できわだつものがある。昔話に鬼が登場する例は多いけれども、鬼に喰われる万の子が夜中に「痛い痛い」と3回言うのを聞いて、彼女の両親が破瓜の痛みを訴えたものと誤解する嗜虐的な描写ほど、民話的なおおらかさから遠いものもなかろう。おそらくこうした暗さや悪魔的なふんいきは、祖母の家にあったあの鋏の暗さと通底するものであり、この伝承が鏡作造という鍛治のことに携わった伴造氏族のものであったことと関係でがあるのだ。しかしそのことについてはもっと後で論じることにしたい。





   





 最後に話をもう一度、伊勢降神社の社名にもどす。「伊勢」については『伊勢物語』から取られたものであると説明したが、「降」についてはまだ話が済んでいなかった。「降」とは何だろう?

 庵治町の伊勢降神社の字名は天理市庵治町・字「勝楽寺前」である。現在、当社きんぺんに寺院はないが、かつてはそういう名前の寺院があり、おそらく明治初年の神仏分離によって廃されたのだと思う。この寺院は普通なら伊勢降神社の神宮寺であったと考えられるが、『天理市史』によれば、石上神宮のそれであったという(p680)。石上神宮の神宮寺はとうがい勝楽寺いがいにもいくつかあるが、いずれにせよこのことは、伊勢降神社の祭祀に石上神宮が関係していたことを感じさせるものである。そしてその場合、伊勢降神社の「降」は、布留社(=石上神宮)の「ふる」を当て字した「降」ではなかったかと思う。伊勢降神社は現在、「いせふり」と呼ばれているが、「ふる」のつもりで当て字した「降」が、だんだんと「ふり」と読まれるようになってきたのではないか。






※1  本文中には万の子を喰った男が鬼であったとははっきりと記述されいないものの、題名が「女人の悪鬼に点されて食らはれし」なので、景戒(『日本霊異記』の筆者)がそれを鬼だと意識しているのは間違いない。

※2  ちなみに女は後に清和天皇の「二条の后」となる高子であり、帝との間には陽成天皇がもうけられた。基経はその後、天皇家との縁戚を足がかりに太政大臣にまで出世し、最終的には陽成天皇の摂政の地位にまで登りつめる。
 いっぱんに、業平と高子との間に恋愛関係があったというこの『伊勢物語』の伝承は、史実ではないと否定されている。ただ、高子は後に、50歳をすぎてから皇太后の座を廃されたのだが、その理由は東光寺の善祐法師と通じたからであるらしい。なかなか多情な性格の人だったのだ。こうしたことから、入内する前の高子と業平の間に恋愛関係があったというのも、まったくありえない話ではないと見る向きもある。

※3  現在の当社は3座並列形式で社殿が並び、中央に天照国照日子火明命、向かって右に石凝姥命、同じく向かって左に天児屋根命が祀られている。

※4  なお、大和は「鏡作伊多神社の祭神は天目一箇命である。」と書いているが、鏡作伊多神社の祭神は石凝姥神で、天目一箇命を祀っているのは鏡作麻気神社の方である。
※5  この伝承は天明四年に下原重仲によって著された『鉄山秘書』に「雲州比田の伝」としてある、島根県能義郡広瀬町西比田にある金屋子神社の縁起の別ヴァージョンである。以下はその要録。

 太古のある早天のとき、播磨国宍粟郡岩鍋という所で、民が集まって雨乞いをしていたところ、降雨と共に高天原から金屋子神が天降りした。そして人間生活を豊かにするためあらゆる金器を製作してつかわそうとのたまり、まず岩をもって鍋を作ったが、このためにこの地を岩鍋と言うようになった(兵庫県宍粟郡千種町「岩野部」に比定。)。しかし、そこには住み給う山がなかったので、白鷺に乗って西に向かい、出雲国能義郡比田の黒田の里、桂木の森に降臨された。それを金屋子神社の神主の祖、阿部正重が見つけ社を建てて祀り、また、朝日長者の長田兵部なる者が炭と粉鉄を集めたところ、金屋子神は自ら村下(むらげ、鑪師の長)となり、七十五人の童子に手伝わせて鑪を吹き給うた。これが鱈のはじまりであり、また金屋子神社のはじまりである。



 島根県能義郡広瀬町に鎮座する金屋子神社、金山毘古命と金山毘売命を祭神とする。古来、製鉄の神として崇敬され、その信仰圏は出雲・伯耆・石見・備後の鑪地帯いったいに広まっていた。鑪稼業が衰微するとともに参拝者も少なくなり、現在では近郷の崇敬者によって支えられているにすぎないというが、辺鄙な山村に残された壮大な社殿の前に立てば、今でもかつての栄光が伝わってくる。








2007.10.17





『鑪と鍛治』
石塚尊俊 岩崎美術社
『金屋子神の信仰について』/
 「しまねの古代文化 第七号」所収
石塚尊俊氏 島根県古代文化センター

『鬼と天皇』  大和岩雄氏
白水社
『日本霊異記の研究』 守屋俊彦氏
三弥井書店

『神、人を喰う』
六車由美氏 新曜社
『人身御供の資料としての「おなり女伝説」』
中山太郎氏
『金属・鬼・人柱その他』
若尾五雄氏 堺屋図書

『日本霊異記』
中田祝夫氏全訳注 講談社学術文庫
『伊勢物語』
大津有一氏校注 岩波文庫
『今昔物語集』
馬淵和夫氏・国東文麿氏・稲垣泰一氏校注訳 小学館日本古典文学全集
『風土記』
植垣節也氏・校注訳    〃

『鍛治神と錬金術師』
ミルチャ・エリアーデ/大室幹雄訳 せりか書房
『殺された女神』
アードルフ・E・イェンゼン/石川栄吉氏・大林太良氏・米山俊直氏訳 弘文堂

『古代出雲の社会と信仰』 瀧音能之氏 雄山閣出版

『日本の神々2山陽・四国』
白水社
『式内社調査報告』
皇學館大學出版部

『古代日本の民間祭祀』 大和岩雄氏 白水社

『奈良県史5神社』
『天理市史』
『田原本町史』
『神国島根』
島根県神社庁
『栃木県神社誌』
栃木県神社庁











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