8.


 あやしの国の不気味なモノなど、とうに見慣れたと思っていたのに。
 まったくそんなことはなかったぜ……。
 眼前に拡がる光景に、ミロは思わず二、三歩よろけた。そこに展開されていたのは、さながらこれまでの恐怖体験の総決算セールといった風情の、凄惨きわまる眺めであった。
 道の両脇にずらりと土下座しているのは、ぺらぺらの胴体から手足を生やしたトランプ兵の大群。庭木の枝にはにやにやと笑う、中華乾物のような猫。その真下にはシルクハットを被ったやさぐれ帽子屋と、爆睡するネズミと、腕組みをしたクールな三月ウサギ。その向かいには魚類・両生類をモチーフにした新作ドレスで派手に着飾った貴族の一団。そこには巨大ガニを小脇に抱えた公爵夫人がしっかりと紛れこんでいる。
 そしてその全員が、騒がしく何かを叫びたてている。
 喧騒の中心にあるのは、一台の馬車だった。
「女王様のおなーりー!」
 盛大な先触れの声とともに、こちらもまた見物人に負けず劣らずド派手な一団が近づいてくる。オープンカーに似た形状の馬車の上には、貫禄と威厳といかにもなセレブ感を漂わせて、若い女が座していた。馬車の周りには、無数の護衛。
「キャー!」
「素敵ィ!」
「まるでどこかよその星のお姫様のようだわ!」
 ミロの周囲の人垣からは、モブ女子たちの黄色い悲鳴があがった。それからカメラのフラッシュが一斉に爆ぜて、新聞記者たちの熱き雄叫びが湧き起こる。
「あ、あの方が!」
「ハートの女王!」
「先王なき後は聖グラード王国の実権をすべて握っているという!」
「し、しかも……」
「気高く美しい!」
 見事なセリフ割りである。ていうか何だよ新聞記者たちって。何でそんなのがいるんだよ、ここに。
 あたり一面の大喧騒に、ミロは眉間を押さえながら呻いた。そもそもどうしてこんなに興奮してるんだ、こいつら。ハートの女王とはいったい、何者なんだ。
 頭痛と眩暈・立ちくらみに苦しむミロを尻目に、次の瞬間、群衆たちは一斉に地面にひれ伏した。気がつけばオープンカーの馬車の一群は、いよいよミロの眼前に差しかかっていたのだった。先導の警備兵の様子からおおかた予測はついていたが、馬車の左右を守る護衛たちも、胴体はやっぱりトランプだった。
 そしてよく見ると、馬車を引く馬は──。
 ピシッ!ピシッ!
「ウフフフー!」
 何だあれは、とドン引き気味にミロは呟いた。ハートの女王とやらの乗った一頭立ての馬車を引いているのは、あろうことか四つん這いになったトランプ人間だったのである。顔にはどことなく見覚えがあったが、なんかもう途方もなく面倒くさくなってきたミロは、思い出そうとする努力を完全に放棄した。
「何をしている、速く走りなさい!」
「う、うう…」
「ほら、もっと速く!おまえたちは孤児院からこのハートの王家へ引き取られた身!いわば奴隷も同然なのよ!」
 馬車上の女はそう叫ぶと、長い鞭をもう一度、ピシッと振るった。顔や表情はミロの角度からは見えないが、なんだか随分とひどいことを言っている気がする。ともあれ、頭にはハートを象った王冠をかぶっているから、やはりあの女がハートの女王ということで間違いないのだろう。
 もっとよく事情を把握するために、周囲のぐるりを見回したミロは、次の瞬間、思わず「むっ」と声を上げた。ハートの女王を取り囲む護衛の行列の中に、見覚えのあるウサギ耳が二本、にゅっと突き出ていたのである。
 それは他でもない、ミロが探し続けていたあの氷河ウサギであった。氷河ウサギはこの混沌とした喧騒の中、冷静な目でめちゃくちゃクールに行進していた。いや、もうちょっと自分の置かれた場所に疑問を持てよ。
 しかしここで会ったが三年目である。そもそもこいつを追いかけたせいで、こっちはこんなにもひどい目に遭ってきたのだ。場合によってはスカーレットニードル拷問バージョンを連続で十四発ほど撃ちこんだってかまわない。元の世界への戻り方を、絶対にヤツから聞き出してやる。
 ミロは沿道の群衆から一歩前に出た。そして氷河ウサギをビシィ!と指差し、大音声で名乗りをあげた。
「おい、氷河!やっと見つけたぞ!オレがどれだけ探したと──」
 その瞬間、ハートの女王が振り向いた。
 あっ。
 …………。
 …………。
 なぜ今まで気が付かなかったのだろう。ハートの女王が鞭とともに手にしているのは他でもない、黄金のニケの聖杖ではないか。ハート型のスワロフスキーでみっちみちにデコられているせいで、かなり判りづらくなっているのは確かだが。
 そして、そのファンシーなニケを握りしめ、こちらをキリッと睨みつけているその顔は──。
 ミロはがっくりとうなだれた。何だってオレばっかりがこんな目に遭うんだ。
 そう、ミロの眼前で仁王立ちになったハートの女王は、他でもない、アテナこと城戸沙織嬢その人だったのである。
 ……しかも、かなり不機嫌そうな顔をしている。
「わたしの行列を邪魔したのはおまえですか」
 アテナ、いやハートの女王は、道端のゴミを見るような目線でミロを見おろしながら言った。
「は……いえ……決して邪魔するつもりなどなかったのですが」
「おい、おまえ、何だその口のききかたは!お嬢様に向かって不敬であるぞ!」
 すかさず女王の後ろからスキンヘッドのトランプ兵が叫んだ。このトランプ兵はどうやら女王の隣の席に置かれたでっかい写真を支えているだけの係らしかった。顔は十二宮の戦いの時にどっかで見たような気もするが、もはやミロとしては心底どうでもいい。
 ミロはスキンヘッドを完全に無視して、そいつが支え持っている写真のほうに視線を移した。そこには紋付き袴の和服を身につけ、白い豊かなヒゲをたくわえた、初老の男の姿があった。額縁には黒いリボンがついているので、どうやら遺影であるらしい。そしてよく見ると和服の家紋が思いっきりハートだ。かぶっている王冠のデザインからしても、こいつがハートの先王であることは間違いないだろう。
 現実逃避気味のミロが投げやりに観察しているうちに、アテナ……いや、ハートの女王は馬車のドアを開けて、優雅に地面に降り立った。女王が歩くたびにあたりには星らしきものがきらきらと散らばり、周囲の女子たちがまたもやキャーキャーと騒いだ。
「あら……?これは」
 ふいに女王が立ち止まった。道の脇にある一本の庭木を、ひどく不審げに見つめている。女王の視線の先には大輪の花を咲かせた薔薇が、かぐわしくも美しく、咲き誇っていた。
 おや、とその時ミロは思った。あの木は確か──。
「誰か!この薔薇を担当した者を呼びなさい」
「はっ、ここに」
 すかさず女王の足元に駆け寄って、スライディング土下座したのは三人のトランプ兵である。
「何ですか、これは」
 女王はニケの杖でビシッと薔薇の庭木を指した。
「な……何かとおっしゃいますと」
 滝のような汗を流しながら返答をした真ん中のトランプ兵を見れば、やはりサガである。
「ちゃんと答えなさい。これは何かと聞いているのです」
「バ……バ……薔薇です」
 サガの右側でガチガチに固まりながら、トランプの胴体を器用に縮こまらせたシュラが言った。
「見ればわかります」
 女王は厳かにピシャリと言った。
「その薔薇の花びらの色が、わたしの気のせいでなければ、なぜか、まだらに見えるのですが」
「いえ、け、決してそのようなことは」
 血の気の引いた顔でサガの左側に控えているのは、カミュである。顔色があまりにも真っ白すぎるせいで、今や胴体以外までもがかなり紙っぽい。
 カミュの返答を聞いた女王は、厳しい目つきをいっそう厳しくして、すぐ傍の花弁をさらりと撫でた。
「わたしは言ったはずですよ。ここにはまだらの薔薇などではなく、必ず赤い薔薇を植えるようにと──」
 べちゃ。
 曰く言い難い、絶望的な音がした。見れば女王の指にはべっとりと、真っ赤なペンキがくっついていた。
「……おまえたち。わたしの目を誤魔化そうとしましたね」
 事態を興味深そうに見守っていた群衆が、急激にシーンと静まりかえった。そしてミロはなるほど、とひとり合点した。先ほどあいつらが血涙を流しながら必死でペンキ塗りしていたのは、このためだったのか。
「この者たちの首をお切りなさい!」
 ざわっ。群衆が大きくどよめいた。土下座したままのサガとシュラとカミュの周りには、武器を構えた他のトランプ兵が一斉に集まってきた。突然の展開にミロは唖然とする。いや、さすがにそれは、どうかと思うぞ。いくらあの三人がわけのわからんトランプだからって、薔薇の色くらいで斬首刑はないだろう。そもそも赤薔薇なんて、あっちの方で巨大ガニを抱えながら俄然目を輝かせているアフロディーテにでも頼んで、テキトーにそのへんに生やさせておけば良いではないか。
「ハートのジャック、あれを!」
「はっ」
 女王は群衆の喧騒に眉ひとつ動かすことなく、傍らに控えていたトランプの騎士へと声をかけた。そしてハートのジャックと呼ばれたその騎士の顔を見て、ミロは再び唖然とした。
 ──なにい!あれは、カノンではないか!
 カノンは捧げ持っていたハート型の黄金の小箱を、うやうやしく開けて差し出した。そのなかから出てきたのはどう見ても、かつて教皇になりすましたサガが幼きアテナを殺害しようとした、例のあの黄金の短剣であった。
 ──だからもういい加減に、誰か捨てとけよ、それ!
 ミロは片手で顔を覆って呻いた。まさかアテナ、いや、ハートの女王は、この短剣でサガたちの首を刎ねるつもりなのだろうか。それか、もしかしたらこの短剣で自刎するように、サガたちに命じるつもりかもしれないぞ。
 サガ・シュラ・カミュの三人は、すっかり覚悟の上と見えて、観念した様子でうなだれている。
 ──このままでは三人が危ない。
 いくら胴体がトランプだとはいえ、さすがに同僚の顔をした者たちが打首になるのを見殺しにするのは気分が悪い。ミロが思いきって助けに入ろうとした、その時だった。
「受け取れ、ハートの3!」
「ハートのジャック……!」
 こんなに立派になって!ぶわぁっ!
 トランプ騎士のカノンを見あげるサガが、いたく感激した様子で、滝のような涙を流しはじめた。完全に二人の世界であった。ミロは一瞬で助けに入る気をなくした。なんかもう、割とどうでもよくなってきた。そっちで勝手にやっててくれ、おまえら。
 しかしその時、踵を返してその場を立ち去ろうとしたミロを、厳しく呼び止める声があった。
「待ちなさい!そこのおまえ、名は何というのです」
「…………」
 ミロは仕方なく立ち止まり、光速の動きを身につけた黄金聖闘士としてはこれ以上ないほどノロノロとした速度で、己の背後を振り返った。
「返事をしないとは無礼ね。もう一度聞きます。おまえの名前は何というのです?」
「あー、スコーピオンのミロです、アテ……いえ、女王様」
 とっさに気を利かせて「女王様」とつけることのできた自分を、誰か今すぐ褒めてくれ、とミロは思った。これまでの凄惨な経験から、ミロも学びを深めつつあるのだった。
「おい、貴様!女王様の前で平伏しないどころか、大声を出して行列を止めるとは不届千万──」
 スキンヘッドがここぞとばかりにイチャモンを付けてきたが、ミロはこちらは華麗に無視した。
「良いのです、首切り役人。お下がりなさい」
 女王が言った。スキンヘッドは不満げな顔で、しぶしぶ退いた。
「せっかくの機会だわ。おまえ、馬にはなれるの?」
「なれません」
 ミロは即答した。女王は、いたく剣呑な目つきでミロを見た。
「いえ、その……わたくしは蠍座ですので……トゲトゲしておりますから、あまり乗り心地は良くないかと存じます」
 女王は便所の床を這いまわるゲジゲジかなにかを見るような目でミロを見た。ミロは顔から玉のような冷や汗が噴き出るのを感じた。
「では、クロケーはできるの?」
 できるもできないもありはしない。ここでもう一度首を横に振れば、おそらく自分の命はない。この魂は粉々に砕かれ、未来永劫、二度と転生することもないだろう。ましてやこの期に及んで「クロケーとはなんですか」などといった絶望的な質問など、まさかできるはずもない。
「…………できます」
 ミロは心中で覚悟を決めた。いいだろう。クロケーが何かはよく知らないが、たぶんスポーツかなんかの名前だったはず。要はその場でルールさえ分かれば良いのだ。ルールさえ分かれば、抜群の運動神経を誇るこの黄金聖闘士・スコーピオンのミロ、そんじょそこらのトランプには負けん!たぶんライバルになりえるとすれば同僚の黄金聖闘士たちぐらいだろうが、これまで出会ったやつらが全員トランプとかカニとか芋虫とかケーキとかになっていた以上、今この世界で身体能力的に最も優れているのは、明らかにオレだ!
 スーパーポジティブシンキングで己の心を無理やり納得させたミロは、「やりましょう」と重々しく頷いた。そうしてクロケー場に向かう女王の後を、覚悟を決めた顔で付いていったのだった。

 クロケー場に到着すると、ハートの女王は厳かなる開会宣言をおこなった。
「皆様、本日はこのグラードクロケー場にようこそいらっしゃいました。本日はお日柄も良く(中略)ここに銀河戦争杯を開始します」
 薔薇園から付いてきた野次馬たちがワーワーと歓声をあげる。なんか気のせいじゃなければ「いよいよ始まるぞ」とか「一週間徹夜したかいがあったな」とかいうセリフが聞こえてきた気もするのだが、きっと幻聴に違いない。新聞記者たちが一斉にカメラのフラッシュを焚くのを尻目に、ミロは素早くあたりを見まわした。ここは見よう見真似でも構わない。一刻も早く、このクロケーとかいう競技のルールを把握しなければならない。
 すると、はやるミロの真ん前の空間がぼやーっと揺れて、何やら妙なものが浮かびあがってきた。思わず二、三歩あとずさりしながら見守っていると、何もない中空に、まずはにやにや笑いの概念だけが現れた。それからドン引きしているミロの目の前で、白いヒゲと、スゲ笠と、シワだらけの顔が、だんだんと表示されてきたわけである。
 それは他でもない、先ほど森の中で遭遇した老師……いや老師顔の猫だった。
「ホッホッホッ、困っておるようじゃの」
「!!」
 ミロは反射的に後ろに飛びすさった。にやにや笑いをする老師。相も変わらず心臓に悪い。
「なんじゃ、わしがせっかくクロケーのルールを教えてやろうというのに」
「ほ、本当ですか、ろ──ろくに知らなかったので助かります!」
 うっかり「老師」と呼びかけそうになってしまい、慌ててミロは誤魔化した。ここでまた機嫌を損ねてはまずい。
「ホッ、では教えてしんぜようかの。まずはそこのクロケー用のバットを持つのじゃ」
 そう言ってチェシャ老師が示す先には、生きたフラミンゴが日向ぼっこをしながら佇んでいた。フラミンゴはミロには一瞥もくれず、ゆったりとした太極拳の動きで、細長い脚を悠々と伸ばした。
「バットを構えて腰を落としたら、次はそっちのボールを打つのじゃ」
 ボールとして指名されたのは、やはり生きたハリネズミだった。堂々と地面に丸まったまま、すっかりくつろいでスヤスヤと寝ている。
「そうやって打ったボールを、あちらのアーチにたくさんくぐらせたほうが勝ちじゃ」
 少し遠くのほうを示されたので、ミロが視線をやってみると、そこでは幾人かのトランプ兵たちが必死でブリッジの姿勢をとっていた。「ふん!」とか「うおお!」とか「いくぞ!」とか、彼らが背中をそらしてブリッジするたびに、気合いの声が響きわたってくる。なかなか見事なブリッジだ、とミロは思った。あの高さならボールも余裕で通るだろう。
 ──フッ。
 ミロは勝ち誇った笑みを口の端に浮かべた。なんだ、クロケーとはこんな競技か。楽勝ではないか。道具はいささか風変わりだが、こんなもの、光速の動きと動体視力を誇る黄金聖闘士からみれば、涼風ほどのハンデににもならん!
 ミロはやる気満々で、早速クロケーのバットならぬフラミンゴの脚をつかもうとした。元々のクロケーを全然知らないせいで、道具のありえなさについてまったく疑問を持てていないのも、ここまでくればご愛嬌というもの。
 ……と。
 するり。
 ミロは、思わず目をしばたたかせた。つかんだと思ったフラミンゴの脚が、すんでのところでミロの手をすり抜けたのだ。
「……どういうことだ?」
 たかがフラミンゴ風情が、黄金聖闘士たるこのオレの手をかわせるはずがないではないか。気を取り直し、再び捕まえなおそうとして、さっきより丁寧にフラミンゴの動きを注視したミロは、次の瞬間、目を剥いた。
 そのフラミンゴは、ただのフラミンゴではなかった。
 太極拳の動きでゆったりと牽制のポーズをとった眼前のフラミンゴは、よく見ると目のうえに眉毛と前髪を生やした、人面フラミンゴなのだった。そしてその顔は──そう、その顔は。
 ミロもよく知る青銅聖闘士、ドラゴン紫龍の顔なのである。
 ……しかも、全身が気合いで満ちている。
「さあどうした!このフラミンゴ、命を捨てる覚悟はとうにできている!迷わずこの俺でボールを打つがいい!」
 もっとも、できるものならな!
 フラミンゴの格好をした紫龍はそう言ってミロを挑発し、上半身に力を入れて不穏な構えをとった。
 そして。
「でいやあ!」
 脱いだ。
 紫龍は、いや紫龍の顔をしたフラミンゴは、すさまじい気合いとともに、全身を覆っていたピンクの羽を脱ぎ捨てた。素肌となった背中には、昇龍のタトゥーが浮かびあがっている。あまりの事態にミロは絶句した。気持ち悪すぎてバットが持てない。
 絶望しながらボールの方を見やると、そこにいたのはさっきのハリネズミ……いや、正確にはハリネズミのトゲトゲを背中につけたミニチュアサイズの人間だった。いつの間にか目を覚ましたらしく、悠然と脚を組んでミロのほうをガンつけている。そしてその素顔は、トゲトゲしい模様つきの仮面に覆われていた。
「何だい、あたしを打とうってのかい?できるもんならやってみな!」
 ミロはたじろいだ。その声にはものすごく聞き覚えがあった。もっといえば、そのトゲトゲしい模様の仮面にも、尋常じゃなく見覚えがあった。
「お……おまえは、シャイナ……」
 シャイナは脚を組んだまま「バカ言ってんじゃないよ」と吐き捨てた。そして仮面の下からミロを睨みつけ、「あたしはハリネズミなんだけど」と不機嫌そうに言って、トゲトゲしい所作で立ちあがった。ミロは顎の下を冷や汗が伝うのを感じた。
「ひとを叩き起こしといて、アンタ、どういう了見だい」
 ザシャア!
 どう見てもサンダークロウを放つ寸前のポーズであった。ミロはたじろいだ。別にこれだけ小さいサイズのシャイナからサンダークロウを撃たれても身体的にはダメージを食らわない自信があるのだが、精神的なダメージのほうはそうでもなかった。
 クロケー場を見回してみれば、あたりにはミロを取り囲むようにして、他のハリネズミボールもたくさん転がっている。まさかこのボール、ぜんぶ知り合いなんじゃなかろうな……
 とてつもなく、どうしようもなく、なすすべもなく嫌な予感がした。これは、いざという時の退路を確保しておくべきかもしれん。危機感を覚えたミロは、少し離れた場所へと素早く視線を走らせた。
 しかしそこには、新たな衝撃シーンが待っていた。
「よいか、弟よ!小宇宙を燃やすのだ!」
 ミロの視線の先にいたのは、相変わらず一所懸命にブリッジをしている、二人のトランプ兵だった。
「女王のクロケーゲームを成立させるためには、私たちの小宇宙を最大限に燃焼させて、この身体を二つに折り曲げ、ボールが通るためのアーチを作らねばならん!」
 だったら別にブリッジじゃなくて、オーソドックスに四つん這いの格好でもよいのでは……?心のなかでついつい突っこんでしまうミロではあったが、いや違う。今はそれどころじゃない。
 先ほどからブリッジしている兵士たちの声が、ミロには非常に聞き覚えがあるのだった。それから二人の顔にも、ものすごーく、見覚えが。
「弟よ、おまえにはどちらのアーチが正義でどちらのアーチが邪か、わかるか!」
「そ、それはもちろん、背中をそらせた方のアーチが正義です!」
「その通りだ!己に妥協せず、常に限界を超えていくのが、この地上の正義を守る女王の兵士なのだ!」
「兄さん……兄さんはアーチ役に選ばれた後も、正義のために常に鍛練してこられたのですね……兄さんの魂は永遠にこのトランプの柄に宿りつづけているのですね!」
 ものすごく気合いの入ったブリッジをしながら、感極まった声で、アイオリアの顔をしたトランプ兵が言った。
 それに対して、もう一人のトランプ兵は「それでこそ我が弟だ」と頷くと、人好きのする温かな笑みを浮かべた。それはまさにミロもよく知っている、射手座の黄金聖闘士アイオロスの笑みであった。
「うおおお!」
「ぐおおお!」
 全身の気合いが漲りまくったらしいアイオリアが、ブリッジの高さをさらに釣り上げた。それに負けじとアイオロスも雄叫びをあげながら、弓なりにした背中をいっそう弓なりにする。なんかもうブリッジの完成度が高すぎて、ハリネズミどころか蠍座の聖衣櫃をボール代わりにぶん投げたとしても、余裕でくぐり抜けられそうだった。
「そして私はここを訪れる少年たちに、女王を託したいと思う!」
「兄さん!」
「弟よ!」
 これ以上なく熱血しながら、黄金の兄弟は滝のような感涙に咽んだ。しかし二人ともずっとブリッジをしつづけているせいで、目から出た滝涙がおでこの方に流れている。
 その一方で、呆然としながらこの光景を見つめていたミロはといえば、何だかだんだん腹が立ってきた。こんな感動的なセリフを口にしながら、いったいどうして二人ともトランプなんだ。しかもなんで託すのがアテナじゃなくてハートの女王なんだ。なんでこの世界の登場人物はみんな妖怪とトランプばっかりなんだ。あとオレだってアイオロスと一緒にブリッジしたい。
「女王のために!」
「女王のために!」
 ぶちっ。
 何度も繰り返される「女王」という単語の響きに、ミロの堪忍袋の緒はとうとう切れた。ついでに、ここ最近の苛酷な体験が走馬燈のように脳裏をめぐり、ミロのハートにとどめをさした。
 諸悪の根源の氷河ウサギ。ケーキと化したアルデバラン。小瓶に入った液状の一輝。公爵夫人を自称するアフロディーテ。メイド服を着た瞬。おくるみに入ったデスマスク顔の赤ちゃん。チェシャ老師。体がトランプのシオンとサガとシュラとカミュ。やさぐれまくった帽子屋のムウ。ウサギ魔鈴とネズミ星矢のカオスなお茶会。乙女座バルゴの芋虫。フラミンゴの紫龍。ハリネズミのシャイナ。やっぱりトランプになっていた、カノンとアイオリアとアイオロス。どう考えてもこの世界はおかしい。暴挙だ。許すべからざる圧政だ。
 そしてこの異常な世界にハートの女王として君臨するアテナは、まるでそのすべての理不尽の象徴にも思えた。いまやミロの理性は完全に消し飛んだ。
「ええーい!やってられるかあー!」
 ミロは叫んだ。拳を握りしめた。その拳は空を裂き、蹴りは大地を割った。何が女王だ!本当のアテナはどこへ行った!聖域はどこなんだ!オレはどうすれば帰れるんだ!
「おい、おまえ!この神聖なるグラードクロケー場に何をす」
「やかましいー!」
 パアアアアン。ミロは駆け寄ってきたスキンヘッドを派手な効果音で瓦礫ごとぶち上げた。そしてズタボロになった会場中を指さし、ヤケクソで叫んだ。
「何がクロケーだ!何がハートの女王だ!オレは聖域に帰るのだ!だいたい偉そうにしているが、おまえら全員、ただのトランプではないかー!」
 ざわっ。
 トランプ兵で埋め尽くされたクロケー場が、一瞬で緊張に包まれた。そうして痛いほどの静寂が支配するなかを。
 ゴゴゴゴゴ……
 空恐ろしく強大な小宇宙が立ちのぼった。
 ミロはハッとした。しまった。やらかしてしまった。あまりにもストレスを溜めすぎたせいで、ついつい思っていることをすべて、おしなべて、洗いざらい、一切合切、腹の底からぶちまけてしまった。ついでにクロケー場も思いっきり廃墟にしてしまった。
 恐る恐る振りかえってみると、ミロのすぐ背後にはアテナ、いやハートの女王が立っていた。しかしいちおうトランプの女王であるはずなのに、立ちのぼっているのは明らかに神の小宇宙である。ついでに目のハイライトも完全に消えている。
 ……すごく、こわい。
「おまえたち!この者の首をお切りなさい!」
 そうしてハートの女王が空いた方の手をさっと振ると、それが合図とばかりに大量の小さなトランプが紙吹雪のように舞いあがり、ミロの顔面をめがけて襲いかかってきた。
「くっ!」
 ミロが撃ち落としても撃ち落としても、トランプの攻撃は止まらない。何てったって、スカーレットニードルを百連発ほどくらわせてみても、ただぷすぷすと紙に穴があくばかりで、何の効果もありはしないのだ。恐らく紙には痛覚がないせいで、スカーレットニードルが効かないのだろう。この妖怪め。
 ふと気がつけば、撃ち落とした大量のトランプはミロの足元を完全に埋めつくして、まるで血の池地獄のようになっていた。ミロは焦った。上空に気を取られているうちに、血の池地獄の水面はすでにミロの腰の高さまで迫っている。こ、これが神、いやトランプの力なのか。何という恐ろしさだ……!
 絶望感に襲われているうちに、腰までを埋めた大量のトランプは、ミロの目の前で次々と聖闘士カードに変わっていった。空から降りそそぐトランプ群も、いつの間にか聖闘士カードになっている。こちらの頸動脈を確実に狙って飛んでくる聖闘士カードを必死に払い除けながら、ミロはいっそう混乱した。なんで今さら聖闘士カードなんだ!もう完全に訳がわからん!
「ウフフフー!さあ、首をお切り!」
「うわあああああ!!!」

 ガバッ。


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Written by T'ika /〜2022.4月