7.


 遠くだ……!
 憤怒の形相で、ミロは思った。ひとまず遠くへ……!
 据わりきった目で前方をねめつけながら、小道をヤケクソで爆走するミロの脳裏には、今や、黄金聖闘士のプライド?何それ?とでも言わんばかりの考えが、廬山の大瀑布のように轟音たてて渦巻いている。
 そうだ、逃げよう。逃げてやる。あんなヤツらからは、逃げてやる。というかもう正直いって、この世界自体から早く逃げたい。もはや行き先がギリシアじゃなくても全然かまわない。
 そうと決まれば、善は急げだ。ミロは地面をひた走っていた己の身体を、空間跳躍のモードに切り替えた。あたりの景色が一瞬のうちにぼんやりとした黒緑の塊となって、猛烈なスピードで背後へと遠ざかっていく。
 飛ばなければ……もっと遠くへ……あの許すまじき変態どもには二度と遭遇することもないほどの距離を……いや、あの史上まれに見る凶悪な生物どもの周辺半径一光年以内には絶対に近寄らずに済むくらいの……完璧な、究極的な、世界新記録的な距離を稼がなければ……億か兆か……いや京の距離を越えて飛べば充分だろうか……
 身をねじこんだ異次元空間のなか、本気のスピードで跳躍しながら、ミロは真剣な面持ちで自問自答する。集中力を高めるあまり、額にはいくつも汗の玉が浮かぶ。十万億土の彼方まで、ただひたすらに駆けつづけ、兆を越え、京を越え──よし、このくらいでいいだろう。
 というか、最初からこうしていれば良かったぜ。
 事ここに至るまでこの方法を思いつかなかった自分に対していささかの呆れを覚えながらも、これで間違いなくあの妖怪の国からは脱出できたはずだ!という達成感に、ミロは心からニヤリと笑った。
 そうして目ぼしい空き地を探ると、完璧な着地体勢を整えながら、ミロはついに異次元空間から離脱して、明るい地上へと降り立った。
 ──そして、眼前の光景に愕然とした。
「な、なにい!これは!」

 仏陀の手の平の上!

 そ、そんなバカな!
 衝撃のあまり思わず膝が笑う。そのまま数歩ほどフラフラとよろめいたミロは、大仏の掌に深く刻まれた、ながーい生命線にうっかり足を取られ、くしゃりとその場にくず折れた。
 ──い、いかん!こんなわけのわからんものの上に無防備にへたりこんでいる場合ではない!
 萎えかけた気力を必死に奮い立たせ、遠のきかけた意識をどうにか取り戻すと、ミロは腹ばいのまま素早く周囲を見回した。そして、再び愕然とする。今しがた仏陀の手の平に見えたもの。……ち、違う。こ、これは。
 ──これは、キノコだ!
 何ということだろう。あたり一面、びっしりと生えた無数のキノコが、まるでひとつの巨大なオブジェを象るように、こんもりと大仏の掌の形を作りあげている。な、なんて気持ちの悪い光景だ……まるで無数の亡者の手が、オレの行く手を塞いで林立しているようだ……
 そして、だいたいこの辺まで思った頃にはもう、ミロの胸中には、これ以上なく嫌な予感が渦巻きはじめていた。
 こ、この符丁が指し示しているのは……もはやアレしかありえない……うう、ま、まさか……そんなバカな……
「キミ!少々行儀が悪いな!」
「うわあああーッ!」
 そうして背後からかかった聞き覚えのある声に、ミロは滝のような涙を流しながら、いやいや振り返ったわけである。

 こういう非常時における聖闘士の眼球反応の、望んでもいない速さときたら、もはや脊髄反射のレベルといっていい。訓練されたミロの鋭い両目は、まったくの不可抗力で、無意識のうちにその被写体をとらえてしまった。にじんだ視界に映ったのは、緑。全身グリーンの色彩をまとった何かが、ひときわ大きな赤キノコの上で、悠然と胸を張って座している。ミロは重度のメニエール症候群のような、酷いめまいを体感した。だめだ。俺の視界がおかしい。何だか後光が差しているような気がする。
 しかしミロが見たその方角には、実際、本当に後光が差していた。そしてその光の中心では著しく巨大な芋虫っぽいモノが、同じく巨大なキノコの上に、ゆったりと鎮座していたのだった。
 そう、その芋虫っぽいモノの顔を、ミロは知っていた──
「バ、バカな……おまえは……」
 へたりこんだ体勢のまま、ミロはじりじりと後ずさる。
 そう、そいつの顔はどう見てもシャカだった。だがしかし、同時にそいつは、明るい緑色の外皮を燦然と全身にまとい、芋虫そっくりの外見をしていた。
 だから、正確にはそれが本当にシャカなのかどうか、ミロにはサッパリわからなかった。それどころか、もはや人類──いや脊椎動物なのかどうかすらもサッパリわかりはしなかったのだが、ともかくもミロは一発で「ヤバい」と思った。このおかしな世界でこの男と鉢合わせしてしまった以上、正気がいくつあっても足りないだろう。うむ、そうだ、仕方がない。ここはもう素直に謝って帰してもらおう。完全に問答無用だ。考慮の余地すら一切ない。
 猛烈な速度で考えるミロの方をひたと見据えて、全身グリーンのその生き物は、閉じていた両目ををゆっくりとひらいた。額にはオレンジ色の触角っぽいモノがゆらゆら揺れている。
 そうして形の良い唇の端にアルカイックな微笑を浮かべ、巨大芋虫の格好をしたシャカは、ズバリと言った。
「このキノコが欲しいかね!ならば土下座をして礼を尽くしたまえ!」
「いらん!!!」
 心の底の底の底の底から、力一杯にミロは怒鳴った。
 せっかくの好意をはねつけられた芋虫……いやシャカは、目に見えてムッとした。
「なんだと?君は少々礼儀を知らんな!この私がわざわざガンジスから出向いてやったというのに」
「……いやオレはこれでもかなり礼を尽くしながらいらんと言っているつもりなのだが」
 本当は今すぐにでも目の前の生物に向けてスカーレットニードルをアンタレスまで一括連続射撃したくてたまらないにもかかわらず、相手が丸腰の芋虫に見えるという理由でいちおう自粛しているミロは、一点の曇りもなき本心からそう言った。もうそのガンジスがどこのガンジスのことなのか、突っこみを入れる気にもならない。
 しかしシャカの顔をしたその芋虫……は、ミロの言葉が聞こえているんだかいないんだか(たぶん聞いていないんだろうとミロは思った)、素敵なキャベツ色をした二本の腕らしきものを円筒形の胴体からにゅーんと突き出して、何やら仏教っぽい印字を切った。その下半身はふっくらと優美な曲線を描いて伸び、絶妙に大仏っぽい姿勢をキープしている。何だか赤いキノコがだんだんと蓮台座に見えてきた。
「ひとつだけ教えてやろう」
 己の左側を指さして、触角をゆらゆらさせながら、芋虫のような大仏のようなシャカは言った。
「いや、構わん。放っておいてくれ」
 尻餅をついた状態のまま、逃げ腰の姿勢で慌ててミロは辞退した。
「このキノコのこちら側を食べると」
「いやもう悪いが、聞いてないから」
「味覚が剥奪される!」
「いらんわ!!!」
 結局のところ人の話を聞かない対決でシャカに勝てるはずもないミロは、マジメに青筋を立て、大声で怒鳴った。
「そしてこのキノコの反対側を食べると」
「だからいらんと言っている!」
「嗅覚が破壊される!」
「誰が食うかー!!」
 食おうが食うまいがいちいち律儀にツッコミを入れている時点で、もはやペースは完全にシャカに握られているのだが、無論ミロ自身はそのことに気づく由もない。その一方で、蓮台……いやキノコの上に座った芋虫シャカは、嬉しそうに身を乗り出してきた。
「そうかね、そんなにこのキノコが欲しいかね!」
「いや!いらん!欲しくなどない!」
 力いっぱい絶叫しながら、ミロは恐怖で目を見開いた。何だかわからない見えない力が、ミロ自身の意思とはまったく無関係に、へたりこんでいた体を無理やり引きずり起こしていく。そして必死の抵抗も空しく、ミロの体は凄まじい勢いで、キノコの方に吸い寄せられていくのである。
「うわあああー!やめろー!」
「フッ、このキノコが欲しいなら欲しいと、素直に言えばよかろうに。まるで死肉に飛びつく餓鬼のようだぞ」
「ち、ちが……!」
 不可抗力で引きずられながら、ミロは必死でそのへんのものにしがみつこうとしたが、何しろそのへんに生えているのは皆キノコなものだから、しがみつく端からボロボロ崩れて、聖闘士カードほどの役にも立ちはしない。見上げれば高みに座った芋虫シャカは、いったいいつの間にもぎとったのか、赤いキノコの切れはしを両手に掲げて、いたく嬉しそうに待ち構えている。
「いくかね、パクリと!」
「うわあああああ!」
 いかん!それだけは避けねばならん!と、白目になりながらミロは思った。このままヤツに捕らえられたが最後、あの怪しさ極まるキノコを無理やり口の中に突っこまれて、オレの五感は破壊され、二度と聖域に帰れなくなるに違いない……!
 全身から冷たい脂汗が滲み出る。
「アテナァァァァ!」
 断末魔の悲鳴よろしく、ミロが叫んだその時だった。
 突然、目の前から赤とグリーンが消滅した。
「な……なんだ?」
 ミロは思わず瞬きをした。目の前に迫っていたはずの芋虫シャカも巨大キノコも、綺麗さっぱりなくなっている。それどころか辺り一面に生えていたはずの無数のキノコの群生も、すっかりどこかへ消えている。
「お、おい?どこへ行ったんだ、シャ……いや、あれは本当にシャカだったのだろうか……うむ……まあいいか……」
 ともかく、ここは、どこなんだ。
 首をひねりながら立ち上がり、あたりを見回したミロは、またもや再び愕然とした。いったい愕然とするのも何度目なんだか、数える気にもなりゃしない。そろそろ愕然とするのにも疲れ果ててきた。
 そう、ミロの目に映ったその光景は、立派に刈りこまれた植えこみの迷路。小道の向こうに並んだ庭木は、ひときわ見事な花盛りの薔薇。……ただし、ペンキ塗りたての。
 何ということだろう。ミロ自身はそれこそ命がけで必死に走りまわっていたつもりが、結局のところはさっきの大庭園と帽子屋宅のあいだを、一往復して戻ってきただけなのである。
「…………」
 ヨロヨロと大地にへたりこみ、ミロはがっくりとこうべを垂れた。心なしか落ち窪んだ両目の下には濃い隈が差し、斜め四十五度に傾いた姿は、もはや完全に抜け殻である。でもまあ、それも仕方ないだろう。なんてったって、これであの語るもおぞましい帽子屋体験と三月ウサギ体験と眠りネズミ体験と芋虫体験が、ぜんぶ無駄な体験ってことになっちゃったんだから。
 と、庭の奥から何やら賑やかな音楽と話し声が近づいてきた。先刻よりもかなり大勢の人間(?)が集まっているようである。ミロは疲れきった頭でぼんやりと考える。これは進むべきか、退くべきか。しかし仮に退いたとしても、またあの森の中であの芋虫に遭遇してしまったら、オレはいったいどうすれば……。
 その時だった。不意にミロのすぐそばを、白くて大きなふわふわの塊が通り過ぎた。妙にゆっくりとした、その足取り。時間がないとか言いながら、急いでいるとはとても思えない、そう、それは──
「氷河……ウサギ!?」
 そう、それはミロがこの不気味の国に迷いこむきっかけとなった、例の氷河似のウサギ──いやウサギ似の氷河──いやこの期に及んでもうそんなことはどっちでもいいが、とにかく、その、氷河だったのである。ミロは光の速度でガバッと跳ね起きた。ついに、とうとう、見つけたぞ。元はといえばあいつを追って、オレはこんなところに迷いこんでしまったのだ。あいつを追って帰るしか、もはや残された道はない(ような気がする)ではないか。
 そんなことを考えている間に、氷河ウサギは植えこみの迷路の奥へと姿を消した。ミロは生唾を飲みこんで、ウサギの後をつけることを決意した。
 小道の角を慎重に曲がり、突き当たった先は、開けた広場。ミロはたっぷり三十秒ほど沈黙した後、眉をしかめて独白した。
「何だ……?この騒ぎは」



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Written by T'ika /〜2007.1.3(Rewritten by T'ika/〜2022.4月)