6. 「おい、ムウ!待ってくれ!」 深い深い、森の中。木立の間を器用に抜ける後ろ姿に、必死の思いでミロは追いすがる。ここで見失ったらもうおしまいだ。今まで胃液を吐くような思いを繰り返して、やっとここまでたどり着いたのだ。あとから見返りに何リットルの血を採られることになろうとも、今は絶対にはぐれるものか。 巨木の群れを次々とすり抜けながら、木の根を踏み越え、川を越え、膨れあがったスズメバチの巣から間一髪で身をかわす。行く手に立ちはだかる大岩を衝突寸前で回避すると、不意に目の前に小さめの凹地が開けて、そこでようやく、ムウがひとり佇んでいるところにミロは追いついた。 「よ、よかった……ムウ……ちょっと、話が……」 ぜいぜいと喘息めいた呼吸を肺から押し出しながら、切れ切れにミロは言った。どうやらこれまでの色んなダメージが、地味に蓄積しているらしい。いつもならこの程度で息を切らしたりしないのだが。 「…………」 しかしムウは黙ったまま前を見据えたきりである。聞こえなかったのかもしれないと、ミロは呼気を整えて、再び話しかけた。 「ム、ムウ。会えて良かった。おまえ、ここがいったいどこなのか、わかるか?」 「…………」 「あの不気味な猫っぽい老師には会ったか?オレは今朝からここに迷いこんで、ほとほと困り果てているのだが」 「…………」 「おまえはいつからここにいるんだ?どうやったら聖域に帰れるか知らないか?オレはもう耐えられない!会うヤツはみんな馬鹿みたいな格好をしているし、訳の分からない変なことばかり言うし!」 ピクッ、とムウの肩が動いたような気がしたが、ミロは気にせず話を続けた。 「オレはもはや一刻も早くこの場所から抜け出したい。あいつらは自分を見失っているとしか思えない」 「…………」 「いや、姿こそあいつらに似ているが、あれはきっと別人に違いないとオレは思う。いや、人かどうかもわからない。あれはもう妖怪といっても過言ではない」 「……それで」 ぴしゃり。 ミロの方を振り返りもせずにムウが言った。平手で頬を打つかのような、撥ねつけるような声色のその底冷えに、ミロは思わずたじろいだ。 「いや、それで……って……ムウ?」 「それで私にどうしろと言うんですか」 「い、いや、どうしろとかではなくて、オレはただ」 焦るミロの姿がまったく見えていないかのように、ムウは無言で、すい、と歩き出した。 「お、おい?」 慌てて後を追いかけるミロ。しかしムウの背中から漂っている無言の冷気は、ミロを相手にしようという気配すらなく、まさに取りつく島もない。 「ム、ムウ、おい──」 それでも何とか彼の視界に割りこむために、ミロはムウの正面に回りこみ、そしてあえなく挫折した。ムウは眼前のミロに意識のカケラすら向けることなく、その視線はどこか見えない虚空の一点を凝視していた。押し殺した小さな声で、吐き捨てるように何かを呟きながら。 「……本当に信じられない。あんなことをするなんて」 ミロは背中を冷や汗が伝い落ちるのを感じた。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。 ──こいつ、不機嫌だ。 「それは、私がまだまだ至らないのは認めますよ」 ミロの方を一瞥もせずに、ムウはぶつぶつと文句を言い続けている。 「しかし、だからといってあんまりです」 ミロは一言も口を挟むことができないまま、内心ひるみつつも仕方なく後をついていく。森のなかを細々とつづく小道は、わりあい踏み慣らされてはいたが、それでもところどころでは雑木の枝が行く手をふさいで、無秩序な方向へ伸びていた。先を歩くムウはそのたびに乱雑な所作で、目の前の障害物を左右に薙ぎはらった。 「プライドも何もないんですかあなたには」 ──プライド?オレがか!? あまりにも言われのない中傷に、ミロは思わず反論しようと口火を切りかける。だが切りかけたところで、突然ムウが叫んだ。 「私は悔しいです!」 「はあ!?」 あまりにも突拍子のないムウの言葉に、ミロは素っ頓狂な声を上げた。その途端、ムウによって力一杯なぎ払われた大木の枝が、良くしなる鞭のようにはね返って、ミロの後頭部をまともに直撃した。不意を食らったミロは吹き飛ばされて、イバラの藪に顔面から突っこんだ。 「おい!何をする、ムウ!」 涙目になって、鼻と口に突き刺さったトゲを一本一本抜きながらミロは怒鳴った。ムウはそちらの方には見向きもせずに声を荒げた。 「私というものがありながら!」 「は、はああ!?」 「私に言ってくれればもう少しまともな計画を立てられたんです!誰の弟子だと思っているんですか!」 「い、いや、それはもちろん、」 「それを、あのような馬鹿馬鹿しい策略で!」 「え、ええ!?」 「何なんですかあなたは!」 「お、おい!何のことを言っているんだムウ!」 「それで私にどうしろと言うんですかあなたは!」 「お、おい?誰のことを言っているんだムウ!」 ミロはたじろいで、ムウの背中を見守った。これはどうも、当たり散らしているとしか言いようがない。しかも、目の前にいない誰かに対して。 何かちょっと、いやかなり怖くなってきたミロは、話題を変えようと決意した。 「そ、そう言えばムウ、さっきの薔薇だが、いったい何のために赤ペンキなんかで塗っていたんだろうな。オレが思うに、あの方法はいくらなんでも無理が──」 しかしそれこそが最大最悪の間違いだった。今この瞬間、最も触れてはならないものに、ミロは触れてしまったのである。 「ああ、我が師よ!どうしてあのような馬鹿馬鹿しい小細工を思いつかなきゃならなかったんですか!ペンキなんか塗らなくても、他にやりようがあったでしょうに!しかもあのような奇怪なお姿で……!」 もはや完全にひとりの世界に入り込んで、嘆きモードに突入しはじめたムウの姿に、ミロは言い知れぬ不安を覚えた。いちおう指摘の内容自体にはわりと賛同できるのではあるが、しかし肝心のムウの様子があまりにも異様なため、合いの手を入れる気分になど、とてもじゃないが、なれない。 かくして段々とまばらになって行く木々の中、己の心が音を立ててドン引きしていくのをハッキリと自覚しながら、それでもミロは致し方なく、不機嫌なムウの後を付いていったのだった。 ほどなく開けた場所に出た二人を、凛とした声が出迎えた。 「遅かったじゃないか、さんざん待たせて。もうお茶会は始まっているんだよ」 それは、ミロにも聞き覚えのある声だった。 小道が終わった先に広がっていたのは、こじんまりとしたレンガ造りの家と前庭である。前庭には白いテーブルクロスをかけた長テーブルがいくつも連なって出されており、テーブル上には一面に、大量の茶器と菓子皿が並べられていた。使用済みのものもあれば、未使用のものもある。だがテーブルの広大さに比べて、茶会の客人はわずかに二人。しかもそのうち一人はテーブルに突っ伏して、すっかり居眠りをしているようだ。 そしてその隣の椅子にゆったりと座っている、先ほどの声の持ち主は── 「ま、魔鈴!?」 ミロは凝らした両目をひん剥いた。そう、そこに座っていたのは魔鈴だった。しかし、ただの魔鈴ではなかった。見慣れた栗色の頭髪からは、少し前に氷河の頭に見たのと同じ、巨大なウサギの両耳が、ぴんと突き出て揺れていたのだった。 ミロは己の心臓の凍る音を聞いた。魔鈴が──魔鈴までが、ウサギになっている。しかもテーブルの上で思いっきり足を組んでいる。そして椅子に腰かけた彼女のズボンの隙間からは、まぎれもない、ふわふわのウサギの尻尾が…… 声もなく立ちすくむミロに、ウサギの姿をした魔鈴は、仮面の下から睨むような視線(たぶん)をじろりと寄越した。 「何やら失礼な、五月蝿いのがいるね。私は三月ウサギなんだけど」 彫像と化したミロにはそれ以上見向きもせず、魔鈴──いや自称三月ウサギの魔鈴型生物は、隣の席に突っ伏していた人物の頭を、力いっぱいグーで殴った。 「ほら、起きな!眠りネズミ!いつまで寝てるのさ」 「そんなこと言ったって、オレ、もうさんざん待ったんだぜ?ホントに遅いんだからさあ」 眠りネズミと呼ばれた少年は、そうぼやきながら何度も大きなあくびをした。魔鈴(のような姿をしたウサギ)は何も言わず、少年の首根っこをむんずと掴んで、ゆさゆさと乱暴に揺さぶった。それでやっと正面を向いた少年の寝ぼけ顔を見て、ミロは再び愕然とした。 「星矢……!」 かすれた声でかろうじて叫んだミロではあったが、恐らく誰にも聞こえてはいなかっただろう。眠りネズミと呼ばれた星矢は、左右に三本ずつのヒゲをそよがせ、まだ眠っているような顔つきのまま、もう一度長々と大あくびをした。 「もっともオレたち、もう千日以上も、毎日お茶会してるけどな!」 あまりの事態にミロは口をぱくぱくとさせながら、助けを求めるべく、隣のムウに視線をやった。しかし当のムウは、ミロの動揺にはまったく気づかずに──というか、そもそも興味すら持っていないように見えた。 「お待たせしてすみませんでしたね」 スカした口元にフッ!と笑いを閃かせ、ミロの方を振り返りもせず、ムウはどこからともなくシルクハットを取り出した。 ──なにいぃぃ!? 天地を揺るがす衝撃を受けて瞠目するミロを尻目に、ムウは慣れた手つきでシルクハットを頭にかぶる。 「ム、ムウ、おまえ──」 ショックのあまり切れ切れに言葉を絞り出したミロに対して、ムウはこの時、初めて注意を向けたようだった。そして氷のような目つきで、ピシャリと言った。 「は?私は帽子屋ですが」 何様のつもりですか、あなた。 情緒の欠片もなく言い放つムウに、ミロはがっくりと膝からくずおれた。やっと……やっと、まともなヤツに出会えたと思ったのに。こいつもこっち側の住人か……! へたりこむミロを完全に無視して、自称帽子屋のムウは勝手にテーブルの席に着いた。魔鈴に対しては軽く会釈を投げたものの、先刻からの延長で、未だにひどく不機嫌そうである。彼がティーポットやらティーカップやらを動かすたびに、がたん!がしゃん!と酷い音がする。 ミロはよろめきながらも何とか立ち上がり、重い足取りで茶会の席へと近づいた。 「あー、何度もすまないし、こちらとしても可能な限り手短に済ませたいのだが、ひとつだけどうしても聞きたいことがあるんだ」 「は?お茶の時間に何言ってるんですか。ていうかあなた、いつからいたんですか」 「……ムウ……」 「何度言ったらわかるのです、私は帽子屋です」 「……その、オレはここから聖域に」 「知ったこっちゃありません」 「……あー」 「用がすんだのなら、さっさとあっちへいったらどうですか。それともまさか一緒に座るつもりなんですか」 ムウは、いや自称帽子屋のムウは、あからさまにヤサグレていた。会話にすらならない応酬をさすがに見かねたのか、向かいの席から魔鈴、いや自称三月ウサギの魔鈴が口を出す。 「まあまあ帽子屋、少しくらい相手をしてやってもいいじゃないか。こんなところに客人が来るなんて珍しいことなんだし」 「私は呼んだ覚えはありませんがね」 人を舐めきった言い草に、ミロはムカッとしながらも、考えた。 ……とりあえず、色々と腹立たしいことはあるし、こいつが変人であることも間違いないが、しかし今までの経験から冷静に判断すれば、今回が一番マシなような気もする。ちゃんと普通の服を着て、普通の人間の食習慣を守っているようだし、こっちの言葉にとりあえず反応はしてくれている。それに、帽子屋を自称しているとはいえ、ムウならば聖域までの道順を知っているかもしれない。というか、こいつが知らなければもうさっぱりだ。他に誰を頼ればいいか、皆目見当がつかん。 「……よかったら、しばらく同席させてはもらえんだろうか」 「そうまで言うのなら仕方ありませんね」 ムウ、いや自称帽子屋のムウは、物憂げな視線を空の彼方にやりながら、嫌そうな口調でそう言った。 「それで?何の用なんですか」 気だるそうにミロを見やりながら、やさぐれた表情でムウが聞く。例の薔薇園の「馬鹿馬鹿しい人々」に対する不満と未練が、いまだに抜けきらないらしい。向かいの席からは興味を持ったのか、面白そうに魔鈴が身を乗り出してきた。 「ここから聖域に帰りたいのだが、道を知っていたら教えてくれないか」 相手の名前を呼ばないで済むように、またできるだけ会話が短く終わるように、必要最小限の質問文で直裁にミロは尋ねた。 「いいぜ!何でも聞いてくれ!」 向かいの席から、眠りネズミの星矢が元気よく叫んだ。 「うるさいですね」 そちらを見やりもしないでムウが言った。 「いいから黙りな」 仮面の下から横目で(恐らくは)睨みつけながら魔鈴が言った。 ミロは向かいの席を思わず見やる。星矢(の顔をした眠りネズミ)のことが、さすがに少々気の毒に思えた。 「星──眠りネズミ、おまえ、聖域までの道を知っているのか」 「おう、知ってるぜ!」 「何、本当か!」 目を輝かせたミロに向かって、眠りネズミの星矢は高らかに告げた。 「道は、オレたちの後にできるんだ!」 「やかましい」 ミロ以外の二人の声が、間髪入れずにピシャリと言った。 「いや、何もそこまで冷たく言わなくても」 落胆を覚えつつも、二人のあまりのつれなさに思わずネズミ星矢を擁護してしまうミロであったが、ウサギ魔鈴は軽く肩を竦めただけである。 「そいつのことなら気にする必要はないさ。始終寝言ばかり言っているんだから」 「寝言……なのか、あれは」 「そうさ。聞いてりゃ判るだろ」 「眠りながらしゃべっているんですよ、彼はずっとね」 すると突然、眠りネズミの星矢が、眠りながらヘンな歌を歌い出した。何やら静寂がどうとかオナラがどうとか言っている。 「黙りなさい」 「黙りな!」 テーブルの二人はほとんど同時に眠りネズミの星矢を睨みつけた。そのあまりの迫力に、ミロは反射的に首を竦めた。 やがて帽子屋のムウが首を振り振り、沈痛な表情で溜息をついた。 「まったく今日は最悪ですね。せっかくのお茶まで不味くなるというものだ──どうしてあんな馬鹿馬鹿しい作戦を立てて、ペンキを塗らなければならなかったんでしょうか、あの人は」 セリフの後半部はほとんど独り言のような声色で、低く剣呑に呟かれたので、恐らく隣に座っているミロ以外に、その内容を聞き取れた者はいないだろう。背筋に冷たいものを感じながら、ミロはできるだけ隣の人物の表情を見なくて済むように、己の全神経を卓上のティーポットの花柄に集中させた。眠りネズミの星矢は相も変わらず、調子外れのトーンで歌い続けている。 「オナラは〜、オレじゃ〜、ないぜ〜、ラララ〜」 「……黙れと言ったはずですが」 細くした両目に不穏な気配を光らせて、ムウがゆっくりと立ち上がった。ミロは慌てて自分も席を立つ。すっかりやさぐれているらしいアリエスの黄金聖闘士(たぶん)が、万が一にも何かやらかした時のために備えて、あらかじめ身構えておこうと思ったのである。だが、危機に瀕している当の星矢の変な歌のせいで、場にはまったく緊迫感というものが欠けていた。 「オナラは〜、おまえだろ〜、ラララ〜」 「いい加減にしな!」 ガシャン!と茶器を乱暴にテーブルに叩きつけ、ウサギ耳の魔鈴が怒鳴った。だがやはり緊迫感に欠けることこの上ない。一方、ミロの隣ではフフフフと邪悪な笑みを浮かべたムウが、いつの間にか椅子の上で仁王立ちになっていた。次の瞬間、そこら中の菓子皿と茶器が、勢いよく空中に浮かび上がる。しかし眠りネズミの星矢も負けてはいない。「オレは悪いことなんかしてないぞ!」と叫びながら、宙に浮かんだ陶磁器をひとつずつ割りはじめた。すると今度は、どこからともなく星矢の頭上に砂糖壷が出現し、逆さまにひっくり返って中身をぶちまけた。辺りはすっかりカオスである。 「うわ!何するんだよ、帽子屋!」 「フッ……下手な歌をやめないからです。黙らないと次はコショウを鼻腔に突っこみますよ」 自称帽子屋のやさぐれたムウは、今や明らかにネズミ星矢で鬱憤を晴らしていた。 「ちょっと、何やってるんだい、帽子屋。砂糖がすっかりダメになっちゃったじゃないか」 「大丈夫ですよ、まだ替えがあったでしょう。お望みでしたら今すぐここに出しますよ」 その言葉尻も消えないうちに、テーブルから数歩引いて身構えていたミロの真上に、ハーデスの大甕を彷彿とさせるサイズの、巨大な砂糖壷がいきなり出現した。 「うわあ!」 ズズンン。砂糖壷は、直前までミロが立っていた地面に、重い音を立ててめりこんだ。 「ああ、これはいいね。当分砂糖には困らない」 「おい!何をするんだムウ!魔鈴も感心してないで何か言え!」 間一髪で飛びすさって砂糖壷の直撃を避けたミロは、我を忘れて怒鳴りつけた。しかしその場の誰ひとり、ミロの言葉を聞いている者はいなかった。眠りネズミの星矢の体が軽々と宙を舞い、巨大な砂糖壷のなかに尻から突っこむ。ウサギ耳の魔鈴はいつの間にやらごっつい棍棒を両手にかかげ、星矢の頭上で振りかぶっている。それからムウが高らかに右腕を挙げ、八つ当たりのような楽しげな笑みで宣言した。 「眠りネズミ!安らかに眠りなさい!いいですね!」 「ぼ、帽子屋──!」 「騒ぐんじゃないよ!」 ボコッ。じたばたと抵抗する眠りネズミの星矢ではあったが、帽子屋のムウとウサギの魔鈴は寄ってたかって、星矢を壷の中にねじこもうとしている。ミロはその光景を見やりながら片頬をピクピクと引きつらせた。 「な、何なんだこれは……」 おかしい。狂ってる。意味が分からない。ありえない。もう何もかもすべてが、ありえないったらありえない。 「あー、もう、やってられるかー!」 もはや何に対する憤りなのか自分でもわからない憤激によって、ミロはブチ切れ、絶叫した。そして敢然ときびすを返し、何でもいいから一番近くにあった小道を選ぶと、森の奥へと一目散に走り去っていった。 背後の混沌から、少しでも早く遠ざかりたい一心で。 |