5.


 ──もう何を見ても、驚かない。
 据わった目つきでミロは歩いた。見えない何かに挑むかのように、肩をいからせ、ヤケクソで歩いた。両脇の木々が残像となって、光の速さで後ろへ飛んで行く。
 ──まっすぐ行け?行ってやろうじゃないか。もう何が出てきても知ったことか畜生。勝手にしやがれ馬鹿野郎。
 しかしそこまで考えた瞬間、不意に先ほどの人面猫の姿がくっきりとフラッシュバックしてしまい、ミロの鼓動は意に反して跳ね上がる。
 ──お、落ち着け。慌てるな、オレよ。そう、あれは妖怪か何かに決まっている。本物の老師は今頃きっと、五老峰で春麗の淹れた渋茶をすすりながら、鼻歌のひとつでも歌っているに違いないのだ。
 ものすごい早足で風を切りながら、ミロは懸命に自分に言い聞かせる。いつのまにか森の木影は薄くなり、前方には開けた土地が顔を出したのにもかかわらず、気づく余裕はまったくない。
 ──いや、そもそも、二百五十年だか六十年だか生き続けられるような人間のことを、フツーの人だと思っていたオレが間違いだったのかもしれん。人類の限界をはるか彼方まで超越してしまったあの方ならば、ちょっとくらい化けて出たって、何もおかしくないではないか。だからそう、さっきのは、そう、もともと人間ではないのだ、きっと。だからアレを見て不安になる必要など、ないのだ。きっと。
 動揺のあまり論理的にも倫理的にもとんでもない飛躍を繰り返しているミロであったが、もちろん動揺のあまり当人にそのような自覚はまったく無い。ぜいぜいと呼気を乱しながら、歩調をいっそう速めるのみである。
 ──ともかくも、そう、人間を。マトモな人間を探すのだ。無論、さっきのあの家のようなヤツらではない。ちゃんとマトモな人間だ。そう、例えばカミュとかシュラとかどっかあのへんの、人の良識の範疇からそれほど外れてはいないようなやつらを、これからは探し出していくべきなんだ。
 良く考えれば彼らだって相当に強烈なキャラではないのか、という疑念は敢えて意識の奥底に追いやって、ミロは無理やりに結論を出す。
 ──デスマスクもアフロディーテも老師も、もともと人間として、ちょっと危うすぎたんだ。だからああいうことになってしまったんだ。アルデバランは性格と年齢はまともだが、身長と体重がまともではなかったんだ。だからああいうことになってしまったんだ。でもカミュとかシュラとかなら、きっと大丈夫だ。たぶんそうだ、絶対にそうだ。
 そもそも黄金聖闘士だという時点で、そいつらも人間としてはかなり危うい部類ではないのか──という疑念がないわけでもなかったが、ミロはその点についてはあえて無視をした。そうやって今にもプッツンと切れそうな理性の糸を必死で繋ぎとめながら、さっきの妖怪(ということにミロは決めたのだ)の示した方角に、ひたすら爆進して行ったのだった。


 やがて、辺りの様子がにわかに華やいだ。景色が一変したことにようやく気づいてミロは足を止める。どうやら広大な庭園の入口であるらしかった。精密に刈りこまれた巨大な生垣が、ミロを迎え入れるかのように、優しく両腕を伸べている。相当に有力な家柄の者が、丹精こめて作りあげたのだろう。持ち主の財力が一目で分かるほどに、それは立派な大庭園だった。
 少なくともこれを維持できるだけの文化的素養と経営能力があるわけだから、この庭園の主は比較的マトモなやつかもしれんぞ、とミロは思った。 懐かしの聖域に帰れるかもしれないという淡い期待が、再び胸のうちを照らしだす。ミロは正門と思われる場所から注意深く足を踏み入れた。蔓薔薇のゲートの向こうに伸びる瀟洒な小道に誘われて、少しだけ歩みを進めてみると、路肩には見事な薔薇の庭木が、一定の間隔で咲き誇っていた。その花脣は真紅に輝き、高らかに匂いたっている。
「これはまた、随分と立派に咲いているな」
 常日頃から薔薇の世話に余念がない、同僚の顔がふと思い浮かぶ。しかしそこから芋蔓式にロングドレスだの大鍋だの蟹だのの記憶が蘇りかけて、ミロは慌ててかぶりを振った。
「むうう、遠目には普通の薔薇のようではあるが……いちおう、確かめてはおきたいところだな」
 仮に怪しげなモノが見つかったら即刻回れ右をしてここから立ち去ろうと、ミロは心の中で固く決意した。もし薔薇の花がアフロディーテの顔をしていたら大変だ。
「おお、何と良い香りだ。まるで心が洗われるようだ」
 薄目をあけ、顔の前に手を掲げながら、ミロはじりじりと薔薇に近づいた。もはや完全に挙動不審者の動きだが、この所作には彼の心の生死がかかっているのである。どうして責めることなどできようか。花の方へにじり寄っていくその表情には、どこかしら悲壮感さえ漂っている。
 やがて少なからぬ時間をかけて十分な距離まで近づいたミロは、おそるおそる、咲きほこる真紅の花を確かめた。
 ……大丈夫だ。普通の薔薇だ。
 ようやくほっとしたミロは、深々と長い吐息をついた。張りつめていた緊張も緩み、何とはなしに花弁に触れてみる。
 すると。

 べちゃ。

「……何だこれは」
 ミロは眉間に深く皺を寄せた。あろうことかミロの指先にべっとりとくっついてきたのは、つやつやと輝く真っ赤なペンキなのである。そしてさっきまで赤かったはずの薔薇の花を見やれば、ちょうどミロの指が触れた部分だけが、雪のような純白に変わっていた。
「…………」
 ミロは激しく嫌な予感を覚えた。──地に足の着いたマトモな人間が、薔薇にペンキを塗るか、普通?
 そして、案の定。
「そこで何をしている!」
 物凄い圧を放ちながらミロの背後から誰何してきたのは、妖怪じみた気配と小宇宙を身にまとう、目つきの据わったひとりの兵隊だった。
 その兵隊の顔を、ミロは知っていた。
「…………教皇…………」
 呟きながらミロは、奈落の底まで落ちてゆく己のテンションを、はるか遠く、気象衛星ひまわりの視点から虚ろに眺めた。


「そこから離れろ。貴様、その薔薇をどうするつもりだ」
「……いや、どうも、こうも……」
 詰問口調のシオンを茫然と眺めながら、ミロはほとんど意味をなさない単語の切れ端を、申しわけ程度に口にした。眼前のシオンの兵隊服は、この世のものとも思えぬほど奇妙な、トランプ柄のものだった。──いや、違う。柄ではない。良く見るとそれは、紙でできたトランプそのものだった。しかもさらによく見ると、服ですらなかった。平べったい長方形の紙の端から、シオンの手足が直接生えている。つまり、これは。要するに、これは。
 ──これは、シオンの体がトランプなのだ。
 ミロは膝からくずおれるような、激しい脱力感を自覚した。たぶん今、その気になれば幽体離脱ができると思う。口からエクトプラズムも出せるかもしれない。
「もしやお前、この薔薇を傷つけるつもりだったのではあるまいな。誰からの差し金だ。返答次第では生かして帰さんぞ」
「……いや、私は決して、そういう、つもりでは」
 何かを説明する気力さえそぎ落とされたミロの唇からは、言い訳にもならなさそうな定型文が切れぎれに零れおちた。目の前の教皇ことシオンは、視線だけで人を射殺せそうな迫力で、ミロをぎらぎらと睨めつけている。はっきり言って怖い。普通に怖い。尋常じゃなく怖いのだ、この人は──ただでさえ。しかもそれに加えて、この、トランプである。ビジュアルがあまりに異様すぎて、もう恐ろしいどころの騒ぎではない。
「答える気がないのなら──」
 そこまで言いかけたところで、シオンの目がふと何かを捕らえたようだった。しばしの無言。そのまなざしはミロを通り越して、すぐ後ろの薔薇に注がれている。ミロはその場で凍りついた。何がどうなっているのかさっぱりわからないが、シオンの目つきがただ事でなく厳しい。ミロは絶大なる恐怖を覚えた。よもやオレは、何か重大な、取り返しの付かないことをしてしまったのではあるまいか。
 まるで金縛りにでもあったように、全身からは大量の冷や汗が吹き出しはじめる。そして。
 みるみるうちに危険度メーターの振り切れたシオンの小宇宙が、破裂するほどの凄まじい怒気で、総毛立つミロを張り倒した。
「その薔薇に何をした、小僧──!!」
「うわあ──ッ!」
 動転して後ずさりした拍子に何かに蹴つまずいて、ミロは背後の薔薇の庭木に、尻からまともに突っ込んだ。
 その途端。
「何をする──ッ!」
 遥か後方から、成層圏まで震わせるような大音声が響き渡った。
 今度は不意打ちのせいで飛びあがりながら、ミロは声の方を振り返る。そしてそこに現れた新たな人影を見て、彼の心臓は三たび跳ねあがった。
「シュラ……!」
「我々の血の滲むような努力の結晶を……許せん!」
 シュラのセリフと格好は、ミロの混乱にさらなる拍車をかけた。右手には赤ペンキをたっぷり含んだデカい刷毛。左手にはバケツ。胴体はやっぱり、ぺらぺらのトランプ。
 そして普段はめったに声を荒げることのない寡黙な彼の双眸が、今は怒りで阿修羅のように燃えている。
 ──な、何があったというのだ。オレがいったい何をした。というより、いったいシュラに何があったのだ。
 戸惑いながら同僚の変わり果てた(と言っていいだろう)姿を凝視するミロに、今度は斜め後ろからまた別の声が降りかかる。
「何ということだ……全てが水泡に帰してしまったというのか……」
 氷点下よりもひんやりとしたその呟きは、ミロの良く知っている馴染みの声だった。
「カミュ!!」
 呟かれた言葉の内容はよく理解できなかったが、既にあらゆる思考回路がショート済みのミロは、反射的にそちらの方へすがりつく。
「カミュ、おい、助けてくれ!何とかしてくれ!」
 あれを見てくれ、教皇とシュラがよくわからない格好をして、オレの……。
 言いさした表情から未だ輝きも消えぬまま、ミロの高揚は急激にしぼんで萎えた。ミロを見下ろすカミュの視線は、身も凍るような怒りの絶対零度だったのである。しかもよくよく見てみれば、いま縋りついたカミュの脚の、そのすぐ上にある胴体は、またもや薄っぺらい、ぺらぺらの、そう、トランプ──
「…………!!」
 ミロは衝撃のあまり涙目になりながら、カミュから光速で手を離した。な、なぜだ!なぜこんなことばかり……!
 そんなミロにとどめを刺すように、新たな声がもうひとつ響いた。
「バ、バカな!これでは始めからやり直しではないか……」
 その声もまた、ミロがよく知る人物のものだった。ミロは眼前に迫る長方形を、ほとんど無力感といってもいいようなものに打たれながら見上げた。
「サガ……」
 お前もか……。
 声も無く、ミロはへたりこむ。そんなミロの目の前で、他の三人と同じくトランプの格好をしたサガは、ただ立ち尽くし、号泣をした。
「貴様!!我々が一体、何時間かかったと思っているのだ!!」
 トランプ兵のサガの両目からは、血の色をした滂沱の涙が、滝のように流れ落ちていた。


「どうする」
「どうすると言っても、致し方あるまい」
「女王がいらっしゃるまで残り十二時間」
「こうなったらもう一度、死ぬ気で薔薇を塗りなおすのだ」
 トランプの聖闘士たちは、ミロを完全に無視して相談を始めてしまった。だが洩れ聞こえて来る会話の意味は、全くといっていいほどわからない。いや、ギリシア語の表面的な語彙はたどれるのだが、それがつまりどういう意味か理解することを、ミロの脳は完全に拒絶している。
 そのうちに、ミロはだんだんと腹が立ってきた。そりゃオレにだって今まで至らない点はたくさんあっただろう。だが、さすがにこれはあんまりじゃないか。なぜオレがこんな目に遭わなければならないんだ。もう、知らんぞ。何もかも、知らん。
「早くしないと間に合わんぞ」
「もし見つかれば、きっと首を切られてしまう」
「そうなれば私たちの魂は粉々に砕かれて、未来永劫、二度と転生することもないだろう」
 トランプたちの相談は続いている。……わからん。もう、全然、意味がわからん。
 ミロは苛立ち紛れに、傍らの赤薔薇の庭木を睨みつけた。──さっきミロが突っ込んで台無しにしてしまったおかげで、今ではすっかり赤白まだらになってしまっているから、もはや赤薔薇の庭木と呼べるかどうかも定かではなかったが。
 やがてミロの目の前で、滝のような血涙を流しながら、シオンが叫んだ。
「女王のために!」
『女王のために!』
 やはり滂沱の血涙をあふれさせながら、間髪いれずに復唱する三人の黄金聖闘士。ぺらっぺらのトランプの体に、バケツと刷毛を握りしめた彼らの熱情を見ながら、ミロはじりじりと後ずさった。……何がなんだかオレにはわからんが、少なくともこいつら、絶対におかしい。現時点でもう間違いなく、はっきりと、おかしい。
 そうと判断したならば、ミロがなすべきことはただひとつである。さっさとこんなところからは出て行こう。今見たもののことは忘れよう。これ以上ここにいては断じて良くない。何だか自分の命まで危ない気がする。
 そういうわけで、物音を立てないように細心の注意を払いながらミロが立ち上がりかけた、その時である。
 ミロははたと気づいた。少し離れた向こう側の大きな木の陰に、やはり自分と同じように衝撃を受けた顔をして、トランプの黄金聖闘士たちを凝視している人物がいたのである。
「──ムウ!?」
 ミロの声が聞こえているのか、いないのか。ムウはそのまま身を翻すと、音もなく静かに木の陰に消えた。そして数瞬後、庭園の入口から外の森へと駆け去って行くムウの姿を、ミロの両目は確かにとらえた。
「!」
 尋常でない、その様子。いつも冷静なムウがあんなに青ざめた顔をしているのを、ミロはほとんど見たことがなかった。これはまさか、やはり、もしかして。もしかしてヤツも、オレと同じように──
 思い至ったのと、ほぼ同時。ムウの束ねた髪の先が、森の木々の間に溶けるように消えた。

 その姿を見失わないように、ミロは慌てて後を追った。



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Written by T'ika /〜2005.7.29(Rewritten by T'ika/〜2022.4月)